第164話 ~おかえりなさい~
「ごめんなさい……アルボルの主として、皆様に深くお詫び致します……」
「ひぐっ、えぐ、っ……ごめんっ、なさい……」
大精霊様が、人間を前にしてまさかの土下座である。精霊バーダントに、自らが人の形を取るための魔力を分け与えて貰ったベラドンナも、その横で地面に額をこすりつけている。べそをかいているのは、げんこつ数発を伴うバーダントのきついお叱りを受け、頭にたんこぶが山積みになっているからだ。
「いや、まあ、わかって頂けるのであれば……私達も、何も失うことにならないならば、気には……」
「甘いぞ~、シリカ。こういう時はガツンと責任追及してやらなきゃよ。向こうが悪いんだから」
「筋は通して貰うべきだとは思うが、あまりタカり過ぎても良くねえと思うがねぇ」
大精霊様に土下座されて困るシリカ。事情を総括した結果、バーダント側に猛烈な非があると客観的に見たことで、収まりきっていない腹の虫を沸かそうとするマグニス。バーダント側の非をそう簡単に容認しない想いとはよそに、話を最も平穏に収めようとするクロム。年長組のやり取りを傍から見るだけのユースとチータだが、三者三様スタンスが全く違うのがよくわかる光景だ。
大精霊バーダントに案内され、聖樹ユグドラシルのそびえる精霊の庭に辿り着いた第14小隊。ここに辿り着いた時に感じた神秘的な空気も特筆点ではあったが、ひとまず現在の争点となっているのは、精霊と人間の間で交わされたやりとりである。アルボルの支配者であるバーダントではあるもの、第14小隊に降りかかった一連の災いやそれに至るまでの経緯まで、細かい部分には知りきれていない部分が多かった。というわけで、アルミナとキャルを元の姿に戻すという約束だけは確たるものとし、まずは事情の詳細をシリカ達が説明することに話は始まった。
基本的に、古の姿をこの世に顕現させた魔界"アルボル"内においての出来事に、大精霊は不干渉だ。大精霊が人類との和を重んずるため、"大森林アルボル"は森が人類に危害を加えないように約束が為されているが、アルボルは違う。森は人間のためだけに存在しているのではない。
獲物を狩るため人間を襲撃したグレイマーダーやスペルパピー、恩人の意志に報いようとしたマナガルム、森に火を放つ人間を排斥しようとしたプレシオやギガントス。どの意志もバーダントは尊重する。さんざんそれらに命を危ぶめさせられた第14小隊、その事にマグニスは色々文句を言いたげであったが、この辺りに関しては人類の味方ばかりは出来ないバーダントも、特に詫びるつもりは無いようであった。それは正しい。はっきり言って、ロートスの樹がキャルの願いを叶えようとして、その魂を自らのもとへ招こうとしたことさえ、アルボルに生きる命の自由な意志として、バーダントは咎めない。
問題はベラドンナである。彼女がキャルやアルミナに、"迷える魂の惑いを打ち消す"おまじないの口付けをした場所は、魔界アルボルの中ではなく、森が人間に危害を加えてはいけない地域、"大森林アルボル"だった。これが一気に話をややこしくさせた。
キャルの精神が自らの意志で、次なる生への転生を望んだのは確かに事実。だが、それを促すきっかけを作ったのがベラドンナであるとなれば、ベラドンナの行動というのはキャルを死へと招き入れる行為に他ならない。それによって仲間を失うかもしれないという状況に追い込まれた、キャルの仲間達からすればたまったものではないだろう。しかも、それによってキャルの意思を汲もうとしたマナガルムが、シリカ達を襲撃するという事態まで誘発させている。マナガルムは悪くないが。
ベラドンナの行為を本質的な言葉で形容するならば、一人の人間を死に向かって背中を押した行動。それにより、マナガルムと人間の交戦を焚きつけることになる行為。そして何より、森が人類に危害を加えてはいけないという約束がある地域内で、それをやっているのが最大の問題なのだ。人類との関係を重視する精霊バーダントにとって、人間との約束破りが為された事実には、彼女自身が最も胸を痛めている。
ベラドンナの"おまじない"の口付けが、魔界アルボルの中において為された行動なら問題はなかった。そうでなかったためこの一件は、妖精ベラドンナが人類と森の約束を破った行動に端を発し、一連の騒動を作り上げた結果として総括されるのである。そしてアルボルの主たる精霊バーダントが、責任をその身に被って頭を下げるという形で今に至っていた。
「んで、結局どうするよ? 俺はアルミナやキャルをそのまま返して貰って、求めていた朝露とやらを受け取って帰れればそれでいいんだが」
「私も同じなんだがな」
「いーや、何か賠償貰わなきゃ気が済まねえっすわ。一歩間違えばキャルが死んでたんすから、ここに関しては俺も譲る気ねえっすよ」
地面にこすりつけた額は上げたものの、ひざまずいたままうなだれるバーダントの姿を見ていると、クロムはともかくシリカはもういいですよという心持ちである。シリカも昔、破天荒なマグニスの行動にさんざん振り回された挙句、彼の代わりに上官として頭を下げてきたことがあったから。下の者の不始末で頭を下げる責任者の気苦労には、共感できて仕方がない。
そんなわけでシリカ個人としては、表面上つけ上がって見えるマグニスのことは、ちょっとぐらい諌めてやりたい気分でもある。ただ、危うくキャルの命を奪われそうであったことに、未だマグニスが憤慨を収めていない気持ちは否定したくない。禊を強要する姿勢はさして褒められたものでないにせよ、曲がりなりにも仲間を愛する気持ちから引かない姿勢というのは、やはり咎められない。
「まあ、落とし前つけて話が落ち着くならそれが一番ではあるけどなぁ」
クロムも下の者の尻拭いをしてきた経験は、第14小隊に入ってからも、それ以前の半生でも多かった身だ。シリカと同じでバーダントの気苦労には気の毒さを感じもするが、話が揉めた時は何らかの形でけじめをつけるのがベストであるという観点も併せ持っている。今のマグニスのように、謝罪だけでは満足できない者がいる上に、何の落とし前もなしというのでは、被害を被った立場の一人、マグニスだけが我慢を押し付けられる形になってしまう。事が大きくなければマグニスを説得してやってもいいのだが、人一人の命が懸かっていただけに、この状況でマグニスだけに我慢を強いるのはあんまりというものである。
「……あなた達に報いられる最善を尽くしたく思う。私は人間の事情には考え至らない部分も多いから、差し出がましいのだけど……そちらからの要求を受け止める形を取るのが一番だと考えているわ」
けじめとは本来、詫びる側が具体的に何をするのかを提示するのが望ましいものだ。ただ、当人が語るとおり、人類の事情に明るくないバーダントとしては、自分から何をして詫びるかを提示することが難しい。最善の形で落とし前をつけたいのなら、むしろ理に叶った表明だと言えるだろう。
「マグニス、どうする? 脱いで貰ったらお前満足すんじゃね?」
「そりゃまー魅力的ではありますけどねー。流石に今回ばかりは冗談では済ませられねーっすわ」
からかわないで下さいよ、と、女に目がないはずのマグニスも、クロムの冗談を一蹴した。それだけ腹に据えかねているということだ。波を立てずに収めたいクロムとしても、気難しい後輩を持ってしまったものだと悩ましい局面である。
「バーダント様……わ、私も……」
「あんたは黙ってなさい。何もしなくていい」
「ぇぅ……」
そしてこちらもご立腹である。流石に反省したらしく、自分も何か出来ることがあればと表明しようとしたベラドンナだったが、お怒りのバーダントは冷たく切り捨てるだけ。どこかこう、本気で怒った時のシリカと、それを怒らせたアルミナの姿を彷彿とさせる光景だな、とユースも感じたり。
「だったらマグニス、お前はどうして欲しいと思うんだ?」
「今考えてるところだよ。俺はこの大精霊様が、どんなことまで出来るのかも全部は知らねえからな。出来る限りの最大限で、アルミナやキャルへの侘びを形にして貰えるのがベストなんだが」
マグニスの意地悪な性分が悪くはたらかないか危惧していたシリカだが、充分な真剣さがうかがえるマグニスの返答には少しほっとした。怒る気持ちはわかるとはいっても、無意味に相手を虐げることを求めるようなら、それは流石に咎めなくてはならなかったから。まあ、杞憂だったようだ。
「ふむ、それならアレに相談してみるとしようか」
「ん? 旦那、アレとは?」
「大精霊様に詳しく、人類の味方である魔女様がいただろ。あれに聞けば、ベストな答えが頂けるんじゃないか?」
思わぬ角度から意外な人物像が表れる。第14小隊の脳裏に描き出された、胡散臭い魔法使いの顔に対し、それぞれが抱く感情は様々だ。提案者のクロムは名案だろという顔、冷静なチータはなるほどという顔、マグニスはそれもよしとしつつ少し癪だなという顔。シリカとユースは無性に不安。
元々思い返してみたら、第14小隊がここに来たきっかけも賢者エルアーティの箴言だった。過去に大森林の奥地、つまりアルボルに足を踏み入れたとされる人物であり、バーダントとの面識も示唆される彼女なら、確かにいい知恵を貸してくれるかもしれない。信用していいのかが最大の争点である。
それを良しとすべきか否か、少々のやりとりはあったものの、他に良い案もなかったことからも、ひとまずこの場はその結論に落ち着いた。今日明日のところはひとまずこの森で過ごし、大精霊によってアルミナとキャルを元の姿に戻して貰う。その後、当初の目的であった、聖樹ユグドラシルの朝露を受け取って帰り、エルアーティに今回の件について説明し、知恵を貸してもらう。そういう方針だ。精霊バーダントも、面識あるエルアーティのことはよく覚えているようで、彼女を信頼しているらしく、この話をあっさりと受け入れてくれた。
「森の魔物達、あるいは命に関わる植物達も今宵は払いましょう。一夜、安全に過ごした上で明日を迎えられることを約束するわ」
宿題は残ったものの、一件落着である。もうこのアルボルで、誰かが傷ついたり命を危ぶまれることもないだろう。長い一日が終わりを迎えようとしていることに、シリカもようやく息をつき、肩の力を抜くことが出来そうだ。
大精霊バーダントは、聖樹ユグドラシルと同一の存在だ。聖樹そのものが本来のバーダントの姿であり、その魔力を集わせ、人の形をとった精霊としての姿を作り上げることで、根を張る地面から離れて好きな所へ赴いたり、口を使って人と会話することが可能となる。要するに、精霊の姿として人前に現れるあの存在とは、意識と五感から受け取る情報を本体の聖樹と共有する、ユグドラシルの魔力の一部の凝縮体に過ぎない。
聖樹ユグドラシルにとっては、ごく一部の魔力を使って、精霊バーダントという名の手足、もっと言えば傀儡を作っているだけなのだ。そうして生まれたバーダントが、聖樹の魔力の一部を行使しただけで、相性の悪いマグニスの炎の魔力さえも封殺するほどの力を持っている。聖樹ユグドラシル本体が持つ魔力の膨大さは、その一事からも容易に想像できる、あるいは、逆に想像もつかないスケールのものだとわかる。
絶対に間違いを起こしたくない聖樹ユグドラシル、つまりバーダントは、夜明けまでの数時間、預かったアルミナとキャルの魂を観察したいと言ってきた。完全に、寸分の違いもなく、元の姿に戻す。もっと言えば、都合悪き記憶だけを消したりもせず、中身まで同じように完全再生させることとなれば、さしもの大精霊も神経を遣うのだろう。出来る出来ないの容易か難解かはさておいて、人類との約束を破ってしまった償いも兼ねた蘇生魔法の行使には、バーダントも絶対に間違いを起こしたくないのだ。堅実になる。
朝までの間に、樹から露が自然と生まれるように聖樹の周りの環境も整えていたらしく、朝が来る頃には求められていた朝露も採取できるというそうだ。聖樹の枝にはいくつか瓢箪のようなものが吊り下げられていたが、第14小隊をここで待っていた時間の間に、そうした準備を済ませていてくれていたのだろう。
朝まで待つことになったシリカ達は、巨大なる聖樹ユグドラシルにバーダントがぽっかりと開けてくれた大穴の中で、一夜を過ごすよう勧められた。幹の太さだけで城の本丸を思わせるような、あまりにも巨大な聖樹ユグドラシルは、流石に案内された末に初めて見た時、シリカ達も驚愕したものである。そこに人が数人もぐれるだけの大きな穴を作ってもらったところで、聖樹の巨大さと比較すればたいした大きさではない。おまけに闇を人類が恐れるかもしれないということに気遣って、ユグドラシルの魔力がその穴の中を淡く照らしてくれるので、非常に居心地もよい。
「旨えな、こりゃ。数多くの酒を呑んできたが、これはそのどれにも劣らねえ味わいだ」
「もっと飲んでね? いくらでも作ってくるから」
「こっちにも頼むわ。いくら飲んでも飽きねえしよ」
充分に広いその空間の中で、精霊バーダントがクロムとマグニスに、瓢箪に詰めた酒らしきものを振るまって接待である。天然のボトルとも言える瓢箪の中には、聖樹ユグドラシルに生る実の一つを急成長、発酵させ、醸造した神秘のワインとも言えるものが詰まっているらしい。歳月を無視して、魔力によって即席で作った非天然の名酒だが、それでもクロムとマグニスの舌と喉を満足させるものであるようだ。
酒を望まないシリカやユース、チータに渡された瓢箪の方には、樹に咲く花の蜜を水で薄めたものが入っている。こちらも甘くて非常に美味しい。同時に体の疲れが取れていくような心地になるのは、その液の中に込められた聖樹の魔力が、飲んだ命の霊魂および精神にはたらきかけ、疲れた体の回復を望む本能に応え、肉体の疲れを癒してくれるからだという。そんなバーダントの説明もまた、精神と霊魂、肉体の相互関係を主軸とする魔法学に興味の深いチータにとっては、非常に面白いものだった。
激情家のマグニスも、当面の問題が片付いて、解決が後に約束された今となってはようやく機嫌を直し、クロムやバーダントと共に談笑している。ベラドンナに対しては恐らく未だに許していないだろうが、バーダントの方には、気苦労を背負う立場であると、冷静になればマグニスも理解を示すことが出来る。お偉いさんも大変だな、とバーダントを労うようなことを言ってくれる程度には、関係も修復できたと言っていいだろう。
シリカは溜め息が出そうになったが。責任者も大変だな、とか抜かしてるお前が、今まで何回私を困らせてきたか思い出せと。機嫌がいいようなので今日のところは見過ごすけれど。
「寒くない? はい、これ貸してあげる」
「あ……すみません」
深夜帯に入り、夕暮れ時や日暮れ過ぎよりも気温が下がってきたことで、上に着るものがないユースが一瞬ふるると体を揺らす。敏感にそれを察知したバーダントがユースに近付き、魔力を集めて一枚の大きな葉を作り出し、それを羽織らせるようにユースの背中にかけてくれた。人を案じる魔力を携えた、不思議な一枚の大きな葉は、包み込んだユースの体をほんのりと温かくしてくれたものだ。
「シリカもなー、お前もユースの裸ぐらいでいちいち動揺すんなよ。いくつだよお前」
「何だよ。私がいつ動揺したっていうんだ」
「ずーっとユースのこと直視できてなかったじゃねえか」
マグニスがわかりやすい指摘を直球で投げるので、クロムも傍から見ていて笑えてくる。拗ねたように上目遣いでマグニスを睨みつけるシリカだが、こんなに怖くない眼力も珍しいものだ。
「俺や旦那が脱いでもシリカは全然平気なんだけどなー。ユースみたいな細身で引き締まった体が、シリカにとっちゃあツボってことなんかね」
「……殿方の半裸なんて、直視できてたまるかっ」
「男の裸なんてお前今まで何度も見てきたじゃねえか。何今さら気恥ずかしがってんだよ」
シリカとクロム、マグニスの三人が現役当時の法騎士ダイアンの中隊に属していた頃なんて特に、シリカを除いて男しかいない部隊であったため、ものの見事に男社会であった。そりゃあ引き締まった男の上半身を目にすることも多かったし、シリカもそういう光景には慣れているはずなのである。クロムとマグニスは知っている。
「……私だって女なんだぞ」
「ほほう。それはつまり今までと違って、ユースを男として意識したということかね、シリカさんや」
「うるさいなっ! お前、妙に含みのある言い方ばかりで嫌らしいぞっ!」
ユース当人そっちのけで、マグニスにずいずい詰め寄って怒るシリカに、マグニスもへらへら笑いながらたじろいでいる。すすっと動いてユースの隣に腰を降ろしたクロムは、煙草に火をつけ、どうにも複雑な顔のユースを高い座高で見下ろしてくる。
「お前も男だもんな。多少はあいつに、男として見られりゃ嬉しいところじゃねえか?」
「男とか女とか、別に……」
そういう言葉を使われると、どうしても恋愛うんぬんに思考が広がって困る。正直あの人をそういう目線で見てしまうのは邪まな気がして、ユースとしては雑念に感じるその想いは振り払いたい。そんなことにうつつを抜かしている暇はあまり……とか考えてしまう生真面目さには本人が一番無自覚だが、周囲から見るとそういうのが残念で仕方ない。
「ま、頑張れ。お前も一生童貞なんて嫌だろ」
「それは関係なくないですか?」
「あるようなないような」
煙草を片手に含み笑いを浮かべるクロムの真意は、なかなかユースに伝わらない。クロムも、今はそれでいいと思っている。色んな意味で個人的には面白く感じ始めていた最近だが、結局のところ周りが囃し立ててもたいして意味がないのだ。ユース自身がいつか正解に辿り着ければ、そのうち何もしなくても面白い状況になってくれるはずだから。
だよな? とチータに目配せするクロムの眼差しが意味するところは、概ねチータもわからぬではない。両者のアイコンタクトにすら気付かず、飲み物を持ってきてくれるバーダントの胸元から、顔を赤くして目を逸らすユースには、相変わらず春も遠そうだとクロムも苦笑いである。
アルボルの夜は、第14小隊に精霊バーダントを加えた輪の中でゆっくりと更けていく。肩の重荷が降りた戦士達は、明日の笑顔に向けて準備体操でもするかのように談笑し、お詫びも兼ねてそれらをもてなすバーダントがその笑いを促してくれる。明るい未来は目の前に見えているだけに、話し疲れて眠りにつくまでのしばらく、第14小隊は心を安らげ時を過ごすことが出来た。
でも、やっぱり足りないのだ。恋愛事に近しい話をすれば乗ってくる元気な姉や、談笑の輪になると周囲みんなの飲み物の量に目を配って気を遣ってくれる妹。あの二人がいないだけで、やはり第14小隊は月が欠けたように寂しくなる。明日になればまた会えるということがわかっているからまだその寂しさは表面化しにくかったが、あわや二人を失っていたところであったという現実が無意識の底に記憶されている今、アルミナとキャルがここにいないことは、第14小隊の心にぽっかりと足りない穴を刻みつけている。
8人揃ってこその第14小隊。ガンマも、アルミナも、キャルも、誰一人欠けてはいけないのだ。失う疑似体験をした上で、やがての再会を約束された今というのは、間違いなく稀有で貴重な経験だと言えるものだろう。もう二度と会えない別れを瀬戸際まで経験しかけ、仲間を失う喪失感を経た上で、再会が約束されている。これほどの幸福はそうそう見つけられるものではない。
当たり前のようにそばにいた仲間の大切さは、日々の中で風化しがちである。忘れてはいけないその事実を再び強く思い返せたのは、たとえようもなく大きな財産だ。
「みなさーん! 朝ですよー!」
疲れ果てたシリカ達が眠る、ユグドラシルの穴の中に響いた声。深い眠りに陥っていたシリカ達は、その大声でようやく目を覚ます。性分ないし行使する魔法の特性上か、何者かの接近に敏感であるクロムは一足先に目を覚ましていたようで、声に目覚めた仲間達4人を無言で見守っている。
悪夢のような昨日から目が覚めたシリカ達の前にあったのは、毎日のように顔を合わせていた彼女。昨夜自分達の目の前から肉体を捨てて飛び立ち、霊魂だけの存在となってしまった彼女はそこにいた。本当に、いつもと変わらない、朝一番の明るい笑顔とともにである。
「エレム王国第14小隊傭兵、アルミナ=マイスダートです! 生まれ変わりましたっ! これからも改めてよろしくお願いします!」
あまりにも普段どおりすぎる、元気いっぱいのアルミナの姿には、昨日魂だけの存在となってしまったアルミナに起こったことは、夢か何かだったのではないかという心地にさえなる。もっとも、シリカやユース、クロムは、アルミナが一度人の形を失った現場にいなかったので、彼女が世を離れていたというのには、いまひとつ実感不足な部分もあるが。
「……変わんねえなぁ、お前は」
「ええ、これが私ですから♪」
アルミナが森の魔力に捕われ、魂だけを飛び立たせた瞬間に立ち会ったマグニスやチータこそ、彼女が生還した事実を殊更強く感じられる。そして、これでいいと思える。目が覚めた朝にはいつもそこにいたように、当たり前のように顔を見せてくれたアルミナの姿こそ、彼女の帰還を何よりもありありと現実に刻み付けてくれる光景だ。心なしかチータも、アルミナらしさにふっと笑ってくれたような気がして、アルミナもにひっと快活な笑顔を返した。
「……キャルもいるんだな」
「勿論です! でなきゃ私、こんなに笑ってませんよねっ!」
振り返ってぱたぱたと走っていくアルミナが、すぐにとある人物の背中を押してくる。気まずそうに、小隊の仲間達の誰の顔も見れず、うつむいた小さな少女の姿がそこにある。
帰ってきた。みんなの目の前で姿を消し、その姿を渇望する第14小隊の目の前に訪れたのは、待ち焦がれた最年少の心弱き少女との再会だ。
迷惑をかけたと自認してやまない少女が、言葉を紡ぎきれず顔を伏せたままだ。彼女に前から歩み寄れる人物、最も歩み寄るべき人物は一人しかいない。伏せた目では自らに歩み寄る法騎士の表情がうかがえず、目の前にその人物が立ち止まったことに、少女は肩を震わせて縮こまる。
「ご……ごめん、なさ……」
叱られることを恐れる子供のように震える声が途中で途絶えたのは、我慢しきれなくなったシリカが少女を抱きしめたからだ。言葉半ばにして目をぱちくりさせる少女から、強張っていた全身の力が一気に抜けていく。少女の背中に手を回し、再会の喜びを優しく抱きしめる力に込めた法騎士の温かさは、それを捨てて世を去ろうとしていた少女の心を滲ませる。
「おかえり」
背の低い少女の頭の上、母のような穏やかな声を静かに溢れさせるシリカ。他に言葉が見つからなかった。日頃当たり前のように使っている言葉を、これほどまでに実感込めて口にしたことなんて、今の今まで一度もなかったことだ。目の前から一度いなくなった愛する人と、永遠の別れを避けた末に再会できた幸せは、言葉を選ぶことさえ出来なくなるほど胸をいっぱいにする。
あれだけの自棄をして、この第14小隊に帰ってきていいのだろうかと自己嫌悪していた少女が、その手をシリカの背中に回して抱きつかずにはいられなかった。身勝手だと思われるかもしれない。だけど、もう離れたくない。一度離れたからこそわかる、こんなにも自分を大切にしてくれる人を尊ぶ心は、もう抑えられない。
「ごめん……っ、なさい……」
一言口にする余裕しかなく、少女はその言葉を最後に嗚咽を漏らし始めた。泣き虫で、引っ込み思案で、かと思えば勝手に己を苛んで、命を捨ててまで出て行こうとする。本当に手のかかる、一番幼い子供だと思う。それでも愛せる、心優しく寂しがりやな彼女だと知っているから、シリカだって、アルミナだって、ユース達だって、こうして再び巡り会えたことに胸を撫で下ろせる。得られたものはあまりに大きく、失うものは何一つなかった。間違いなく、最善だ。
大森林アルボルの長い24時間が終わった。求めた聖樹の朝露の獲得とともに。そして何より、一度確かに失われたキャルの帰還とともに。




