表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第10章  深き緑の鎮魂歌~レクイエム~
173/300

第163話  ~魂の旅③ 忘れられない人だから~



「……アルミナ」


 闇の中、水の満ちた大きな泡の中でうずくまっていたキャル――その魂が目線を上げ、自らの霊魂世界に訪れた客人を目に入れた。たった一人、自分しかいないはずの世界に突然現れた人物の姿に、その目は驚きに満ちている。


「帰ろう、キャル。一人でどこかに行かなくたっていいんだよ」


 今の生を捨てようとしていたキャルに憤りさえ感じていたアルミナだったが、キャルの姿に再びこうして相見えた途端、激情もかすれて消えてしまった。穏やかな語り口は意図して作ったものではなく、再会した最愛の友人に対する、普段どおりの接し方そのままだ。


 キャルは膝を抱えたまま、もう一度顔を伏せ、ふるふると首を振って応えた。近付こうとしたアルミナは、キャルの周囲を包む大きな泡に手を触れるが、それ以上先に手を入れることが出来ない。一枚の泡が、もう一度会うことの出来た二人を隔てる、薄く厚い溝としてそこにある。


「どうして……? 私のこと、嫌いになっちゃったの?」


 泡に両の掌を押し付けて、不安いっぱいの声を放つアルミナ。裏表のない付き合いを常に心がけてきたアルミナの言葉には一切の駆け引きがなく、それがわかるから尚更、素直な言葉がキャルの胸にちくりと突き刺さる。


 何も返事を返さないキャルの態度は、イエスの言葉を憚られて言えないだけないのか、それともノーの言葉を敢えて言わないだけなのか。人を傷つける言葉を使うことを嫌うキャルのことだから、前者だとしてもおかしくない。踏み込む怖さを乗り越えて、沈黙に対して言葉を紡ぐのはアルミナだ。


「私はキャルと、ずっと一緒にいたい。帰ってきてよ。今までと一緒で、いいじゃない」


 ここに来た目的を、希望を、真っ直ぐに口にしただけの言葉。自らを魂だけの姿にしてまでだ。それだけのためにここまで来た親友の言葉は、今のキャルの胸をどう打っただろう。


「……嫌」


「どうして?」


 拒絶のキャルに、間も挟まずに問うアルミナ。そう簡単には引き下がれない。理由も知らずに去っていくキャルから手を離せるわけがない。知ったとしても、それはそれからの話だ。


「……私、もう嫌なの。私のせいで、みんなが傷つくのは……」


 ここに辿り着くまでにアルミナの魂が受け取ってきた、無力な自分を悔やむキャルの痛みが、その言葉で一度にアルミナの脳裏にフラッシュバックする。自分が魔物に歯牙をかけられそうになった瞬間、自分を庇った誰かがあわや死に瀕することになった記憶の数々は、今もキャルの心の奥に刃を突き立てている。


「私だって、みんなにいっぱい迷惑かけてきてるよ」


「……アルミナは強いだけ」


「強くないよ。見てきたでしょ、ずっと私のこと」


「……心が強いよ。私は、アルミナみたいにはなれない……」


 サーブル遺跡で自分を獄獣から守ったアルミナは、獄獣の手の中に捕えられた。魔物の気まぐれ次第では、ひと握りで親友が肉塊に変えられていたであろうあの光景を思い返すたび、次に同じことが訪れた時どうなるかを想像したくもない。己に自信が持てないキャルは、今後再び同じことが起こるであろう未来を否定することも、そこから目を逸らすことも出来ない。


「お願い、もう帰って……もう私、みんなと一緒にいたくない……」


 心変わりはしない。戦場に立つたび、自分のせいで誰かが傷つくのが怖くて仕方ない。目の前に現れたアルミナを拒絶し遠ざける言葉を放つキャルの前、アルミナは目も伏せず、真っ直ぐにキャルを見据えたままだ。


「戦うことが嫌だったら、戦わなくてもいいじゃない。私達を家で迎えてくれるキャルがいてくれるだけでも、私にとってはそれだけで充分だよ」


 キャルが何を思っているかも全部汲み取って、想いの丈を吐き出すアルミナ。兵力としてキャルを求めてなんて最初からしていない。親友に、ずっとそばにいて欲しいだけなのだから。


「疲れて帰ってきて、キャルの作ってくれるご飯を食べると、すっごく元気が出るんだ。キャルに櫛をかけてもらったり、プロンちゃんやルザニアちゃんと一緒にお喋りしたり……そんな形で、私達と一緒にいてくれるだけでいいんだよ。だから……」


「嫌……そんなの嫌……! みんな必死で戦ってるのに、私だけ……!」


 ずっと、ずっと、キャルは第14小隊の仲間達を追いかけ続けてきた。シリカがベルセリウスやナトーム、ダイアンの背中を追いかけてきたように。そのシリカを追い続けてきたユースのように。7人の仲間達と肩を並べたくて、キャルだって駆け続けてきたのだ。自分だけが立ち止まって、その輪の中に居座ることなんて、今さらしたくないのも当たり前。


 誰もが命を懸けて、守りたい誰かのために戦い続けている中で、自分だけが安全な場所であぐらをかいてどうして仲間だと自認できるだろう。置いていかないで欲しい。走り続けるその背中に追いすがりたい。


 追えば戦いの日々、闇の未来。立ち止まればただ一人の安息、それはやがて孤独。自己矛盾した苦しみは、叶わぬ夢を追っていると己を見限った者を、最も苦しめるパラドックスだ。


「私、自分の居場所がわからない……! 強くあれない、逃げたくない……! みんなのそばにいても、迷惑かけるばかりで役にも立てなくて……!」


 繋がらない言葉の数々が、すべて真意で本音なのだ。惑いと苦しみが彼女の心を現世から切り離し、今ここに彼女の魂を捕えている。それほど絶望しなければ、あれだけ自分のことを大切にしてくれた人達に恩も返しきれた自覚もないまま、今の命を捨ててしまうような暴挙になど出るはずがない。


 その末に今の人生から逃げ出すことは正しいことなのか。アルミナは絶対に認めない。だが、苦しむ家族の迷いを打ち消すために今必要なのは、叱責でも罵倒でもなく腕を引くために差し伸べる手なのだ。立ち上がれない者に鞭を打つことがいかに無意味なことであるかぐらい、向き合う人物を知れば知るほどわかって然るべき。そんな仕打ちは戦闘訓練だけで充分だ。


「迷惑だなんて思ったこと、一度もないよ。キャルが勝手にそう思ってるだけ。私はキャルと出会った日から、あなたのそばにいて嫌だったことなんてない」


 詭弁も方便も使わない。真実だから胸を張って言えること。感情直球のアルミナは、己の胸の内を語りだしたら嘘なんてつけない性格だ。キャルだって、それは知っているはずのことである。


「嘘……! アルミナ、私のせいで死にかけたことだって……」


「生きてる。死ななかったよ」


「どうして……!? あんな目にあったのに……! 私のせいで……」


「私が自分で考えてやったことだよ。それで私がどうなったって、キャルのことを嫌いになったりしない」


 嘘がないから何を言われても、アルミナは迷わない言葉を返すことが出来る。そういう彼女だと知っているはずなのに、嘘だと足掻くキャル自身、自分が間違っていることを理解しているはず。


「わかってよ、キャル……私はキャルのこと、そんな……」


「……それが嫌なの! わかってる、わかってるよ……! アルミナが、そういう人なのは……!」


 誰にでも優しくて、自分に対しては特に優しくて。怒らせても翌日には笑って許してくれて。いつだって周りに気を遣っていて、ずっとそんなアルミナのことが好きだった。尊敬していた。妹のようだって言われた時、こんなお姉ちゃんがそばにいてくれることが何よりも嬉しかった。


「どうして来たの……! 勝手にいなくなった私のこと、どうして引き止めようとするの!? 優しすぎるよ、アルミナは! あなたのそばにいると、自分がすごく嫌になるの!」


 今を離れて、もう二度と迷惑なんてかけないつもりだったのに。それを気遣い、自分の体を捨ててまで、魂ひとつで追いかけてくれた親友。胸が張り裂けそうなほど苦しくなる。そんなあなたにこそ一番迷惑をかけたくなかったっていうのに、どこまでもアルミナはキャルを包み込んで苦しめる。


「もう、私のことは放っておいてよ……! 私もう決めたの! 帰らない! 帰りたくない!」


「……一度好きになった友達のこと、諦められないよ。私だって、一人で帰りたくない」


 膝をぎゅっと握り締めるキャルの魂、破れぬ泡に爪が突き立てられそうなほど両手に力を込めるアルミナ。二人の距離は縮まらない。遠ざかりもしない。離れようとするキャルの心に、追いすがる意志をアルミナが決して捨てないからだ。


「私はキャルと一緒にいたいだけ。嘘なんかじゃない。キャルは、そんな私のことが嫌なの?」


「アルミナには私の気持ちなんてわかんないよ……!」


 自分で自分のことが嫌いになりそうな言葉で、強くアルミナを突き放し続けるキャル。己を捨てている。嫌われても、自分で自分の胸を刺してでも、行くと決めた末に向かって自暴自棄に突き進むキャルの態度には、アルミナだって唇を噛み締めずにはいられない。


「……わかってないよ、私は。キャルのこと、全部知ってるわけじゃない」


 自覚がある。悔いでも反省でもないが、一つだけ確実に誤解していたことがあったから。


「私が初めて、キャルのことを妹のようだって言った時のこと、憶えてる? 私あの時からずっと、キャルにはそのことで嫌われたと思ってたもの」


 アルミナは故郷を魔物に襲われた時に両親を失っている。その僅か数日前、お腹の大きくなった母親に、アルミナももうすぐお姉ちゃんになるんだね、と言われた時の高揚感は、今でも忘れられない。母の命とともに奪われた、年の離れた弟か妹とは、顔も見ないままに永遠に別れることになってしまった。


 妹が出来たみたいで嬉しかった、とキャルに話したあの日、アルミナは浅慮を悔やんで仕方なかった。だって、捉えようによっては、昔失った妹の"代わり"をキャルに求めたということともなり得るのだから。そんな立場に勝手に置かれて、私はあなたの思い出の置き換えなんかじゃない、とキャルに思われたのではないか、ひいては白い目で見られたのではないかと、長くアルミナは気にしてきた。誤解が晴れたのも、その日のことを金色の思い出として胸に抱えるキャルの記憶に、少し前に触れてきてそれが誤りだと知れた、偶然によってでしかない。


「キャルのことを妹だって呼んだ私のことを、お姉ちゃんのようだって受け入れてくれたキャルの素直な言葉も、私は信じきれずにいた。何もわかってなかったよ。でも、それを改めてもう一度私はキャルと一緒にいたいんだ。昔よりも、ずっとキャルのことが好きになってる」


 訴えかけるアルミナの言葉は、瞳の先に通じてキャルに真っ直ぐ届いているはず。キャルは動かない。目を上げずに、じっとしている。その胸中の想いを聞くためには、魂が触れ合うか言葉を交わすしかない。隔たる泡があまりにも煩わしい存在であるはずだが、アルミナが求めているのはキャルが自らを開いて放つ言葉だけだ。こじ開けて彼女の口をその手で開くのではなく、キャルが自分の意志で紡ぎ出した返事を待ち続ける。


「……私、アルミナのそばにはもういたくない」


「私のこと、嫌い?」


「……どうして、そんなに素直に言葉が出てくるの? 私、誰かのことが好きだって言うのなんて、怖くて怖くて仕方ないくらいなのに……」


 誰かに好意を表す言葉を手向けた時、それを拒絶されることは気弱な少女にとって怖いことだ。ましてや、自分に自信がなければ尚更である。アルミナはいつだって、好きな人にはそれがわかる態度で接するし、相手と面を向かって好きだと言える人だった。キャルにとってはまぶしいぐらいに、素直で明るく前向きだった。


「好きだっていう言葉は、言いたい時にちゃんと言えないと大事な時に言えなくなっちゃう」


「私には、そんな強さが持てなかった……アルミナのそばにいると、自分の弱さが嫌になるの……!」


 自分が欲しかった強さをたくさん持っているアルミナ。自身の未熟を自覚しながら、それでも前に進み、自分の後ろで迷っている人に手を伸ばすことを絶対に忘れない。何度そんなアルミナに助けられてきたか、キャルにはすべてが思い出しきれないほどだ。永遠の憧れとも言える存在でありながら、その光のそばに立つ自分自身が、何者をも照らさない闇に思えて仕方がなかった。コンプレックスという言葉では足りないほどに強すぎる劣等感は、今もキャルの胸の真ん中に確かにある。


「もう嫌なの……あなたのそばで生きていくのがつらいの……! アルミナは私のことを、解放してくれない! 私がこうしてここまで来ても、どこまでも追いかけてくるじゃない!」


「私は離れたくないよ……」


「それが迷惑なの! アルミナのそばにいるだけで私はつらいのに、どうして手放してくれないの! アルミナのそういう所が、私を苦しめているのに!」


 キャルが顔を上げない前で、アルミナはどんな顔をしているのだろう。魂だけになってまで追いかけてくるほど愛おしい妹に拒絶される苦しみとは、失意で体ごとぐらついてもおかしくないほどのものだ。確かに、少し前にキャルの言ったことは真実である。誰かのことが好きだと言うことが怖いのは、こうしたことが起こることに繋がり得るからだ。


「アルミナのことなんか大嫌い……! だから私は、あなたの前から消えたいの! だから、もう……もう、私のことは放っておいて……!」


「嘘」


 叫び続けるキャルの悲鳴に、たった一言返したアルミナ。震えかけた唇もぎっしりと引き止め、泡に立てていた爪も柔らかな指に変わったアルミナの胸には、絶対の確信がある。


「嘘なんかじゃない……! 嫌いなの! 私に話しかけないで!」


「嘘でしょう」


「しつこい! 私の気持ちなんかあなたにはわからない!」


「わかるよ、嘘だよ。自分から嫌われようとし過ぎだよ」


 ついに顔を上げて立ち上がり、相手を見据えて叫び始めたキャル。ようやく向き合ったアルミナの表情は、笑顔の奥、すでに泣きはらしたように憔悴しきった傷ついた魂を描く目の色だ。


「キャルは嘘をつくのが本当に下手だもん。私、わかっちゃう」


「いい加減にして! あなたの見方で勝手に私を決めるのはやめて!」


「嫌われていなくなった人は、その人の心から忘れられていくんだよ。キャルはそれでいいと思うの?」


 どれだけキャルが寂しがりやであるのか、何年も見てきてわかっていなければ、お姉ちゃんを自称する資格なんて無い。出会った時からキャルが身につけていた髪飾り、スイートピーの花言葉。"私を忘れないで"。それが彼女の性格をよく表したものであると知っているからこそ、アルミナは自分の数年間に自信が持てる。


「い、いなくなった人のことなんて忘れちゃえばいい……! 私だってそれでいい!」


「私はキャルのこと、死ぬまで絶対に忘れない。一人しかいない妹なの。大好きなあなたのことなんて、何年経っても絶対に忘れない自信がある」


「余計なお世話だよ! 私のことなんか嫌いになって、いなくなれば忘れちゃえばいいのに!」


「一度好きになった人を嫌いになるのは、普通に人を嫌うことより難しいんだよ」


 魂と魂が、叶えたい想いをぶつけ合う。誰の迷惑にもならずに消えていきたい少女と、そんな彼女とこれからも歩んでいける日々を切望する姉。表面上の言葉すべてが真実でないとしたって、そこには確実に一つの真実がある。真意と言う名の心の叫び、それが目的を叶えるために言葉として現れるという真実だ。ぶつけられる言葉からキャルの真意を受け止め、それを変えるためにここへ来たアルミナの魂は決してくじけない。


「キャルは私の心に永遠に生き続ける。たとえあなたが心変わりせず、このままどこかに消えてしまうことになったとしても、絶対に私はあなたを忘れない。もしも本当にキャルが死ん……っ、いなくなっちゃうとしたら、私の心はもう立ち直れないかもしれない」


 毅然としてキャルを説得し続けるアルミナの精神だって、泣かない強いお姉ちゃんでい続けることには限度がある。死という、永遠の別れを明確に表す言葉を口にしようとしただけで、言葉を断ち切ってでもその単語を避けずにいられない。それが嫌で、元の姿に戻れる保証もない魂の旅に踏み出したのに。


 離れたくない、そばにいて欲しい。今が最後のターニングポイントなのだ。自分にキャルの言うような強さがあるのなら、それにすがってでも背筋を伸ばし、折れない魂をここに保たなくてはならない。二度と会えなくなる悲しみは、血の繋がった両親と死別したあの時で、嫌というほど痛感したことだ。


 どうすればキャルを引き止められるのか。模索したってわからない。だから、想いの丈のすべてを吐き出すしかないのだ。真実を、本当の気持ちを、揺るがない想いを。それが今のキャルを苦しめていたとしたって構うものか。永遠の別れの末に悔いても遅すぎる。


「キャル、帰ってきて。私のことを嫌いでいたって構わない。幸せだったって言ってたじゃない、第14小隊に出会えたことが」


 己を偽れる強さがキャルにあるなら、とっくにキャルの魂はアルミナの繊細な心を崩壊させるだけの言葉を、ここまでで作り出していただろう。アルミナの言葉に首を振って我を通しきる、それが出来ないキャルの姿は、ついに嘘をつき続けることに心が折れた魂の象徴だ。


「捨てないで、今の幸せを。わがまま言ってもいいんだよ。みんな絶対、キャルともう一度顔を合わせて、一緒に笑い合えることを望んでる」


 アルミナと向き合い、彼女と戦うことで頭の隅から追い出していた、家族達との記憶が蘇る。第14小隊に入ったばかりの自分に、これから住む王都なんだからと、何週間もかけて広い王都を案内してくれたシリカ。未熟な自分を乗り越えて前に歩いていく強い背中をずっと見せてくれていた、キャルにとっては憧れそのものだったユース。小隊の仲間達の好物を全部覚えていて、買い物の時には必ず自分の大好きな蜜柑や桃を買ってきてくれるクロム。仲間の輪に入れずたじろいでいた自分に、積極的に話しかけてくれたマグニス。足元が不安定な山道を歩く時、自分がつまづいたりした時にはいつでも手を貸せるよう、常にそばにいてくれたガンマ。二人きりになると、語り上手でもないのに何か必ず話しかけてきて、退屈させないように気を遣ってくれていたチータ。


 忘れたかったのに。今を捨てるために一番の障害となるのは、捨てがたいほどに満たされていた幸せへの未練だというのに。みんなとまた会いたいと心が願ってしまったら、旅立つ翼も折れてしまうのに。


 本当に、余計なことをしてくれるお姉ちゃんだ。愛と憎しみは裏表、大好きだったアルミナに、心からそう言ってやりたいと思ったのも、身勝手ながら本音である。


「わ、私……わたし……」


「行こうよ。みんな、待ってるんだからさ」


 ずっと触れていた泡の奥に、つぷりと優しくその手が沈んでいく。アルミナの魂を拒絶し続けていたキャルの世界が、その斥力を失い、水に満たされたキャルの霊魂世界の中心へ、アルミナの侵入を許していく。離れ離れになりそうだった二つの魂が触れ合うまで、もう時間はかからない。


 水の満ちた中をゆっくりと進むアルミナから、キャルは目を離せない。やがて近付いたアルミナの両腕が、キャルの顔を自らの胸にうずめ、ぎゅっと優しく抱きしめる。触れ合ったアルミナの魂からキャルに伝わる温かさは、彼女を想い続けたアルミナの心を、魂の接点を介して妨げるものなく純粋に伝えるもの。


 初めからわかっていたことだった。この人のことを嫌いじゃない自分のことなんて。我を通すために重ね続けた、アルミナを傷つける嘘の数々を悔やむキャル。同時に溢れ出す離れたくない想いを、ようやくその胸に蘇らせたキャルは、アルミナの胸の中で唇を噛み締めていた。


「帰ろう、キャル」


 これだけの温かさから、自分は離れて去ろうとしていたのだ。己の過ちに人が気付く要因が後悔だとすれば、それはその裏にある最善であった道の存在に気付いた時に生まれる。捨てようとしていた幸せと再会できたこともまた幸福であり、幸せとはいつの日も、後から気付くものでしかない。


 最後の最後、失うことを目の前にして幸せを取り戻すことが出来たのだ。抱きしめたキャルの頭の上、ずっと堪えていた涙をぼろぼろとこぼし始めたアルミナは、強いお姉ちゃんとしてそれだけはキャルの目の前に見せなかった。











「……その子達の魂を貸して頂戴」


 不意の瞬間にその表情を安堵に満たしたバーダントが、チータにそう語りかけてくる姿は、まさかという想いを駆り立ててくれる。そんなチータの想いに呼応するかの如く、バーダントはキャルとアルミナの魂を収めたチータの手を、細い指で優しく包むように握り締める。


「生への希望を感じるわ。この子は、再び元の姿に戻ることを望み始めた」


「それじゃあ……」


「ええ、生を望む魂であれば、私の力で元の姿に戻すことが出来る。生への未練ありし者の魂を救うアルボルの名にかけて、私が二人を再びこの世に連れ戻しましょう」


 陽気に人間達の前で腰を振っていた精霊様と同じとは思えぬほど、気高き優しさをその表情に映すバーダントの表情には、チータも偽りの気配を一切感じられなかった。その指の添えられた我が手の力が自然と抜け、バーダントの手中にアルミナとキャルの魂が移ったのもすぐのことだ。


「……お前を信じていいのか」


「彼女らの魂が現世への復活を願う心は、もう覆らないでしょう。必ず成功させてみせるわ」


 魂が生への帰還を望むなら、森を蘇らせたほどの高純度の魔力で以ってバーダントは奇跡を起こせる自信がある。希望に満ちたバーダントの表情には、マグニスも冷え切らぬ頭から昇る怒りを鎮め、両手に集めていた赤い魔力を小さくする。


「――マグニス! チータ!」


 そして、ちょうどその時だ。死地を切り抜け、先駆けた仲間達に追いついてきた三人の戦士達。地上から上空の二人の仲間の名を呼ぶシリカの姿に、チータは親指と人差し指で輪を作って見せ示す。もう、大丈夫だと。


 チータ達の目の前に大精霊の姿があることは、シリカ達にとっても予想外のことだった。バーダントがふわりとシリカ達の方へ飛来し、並ぶようにチータも降りてくる。マグニスだけはどうしてもバーダントを100%信用出来ないのか、大精霊とロートスの樹の中間点上空にその身を移している。まあ、彼らしい仕草である。


「大精霊様……」


「詳しい話を色々聞かせて貰いたいわ。ただ、この子達は再びもとの姿へと立ち返らせてみせる。それは今はっきりと約束させて貰うわよ」


 俗世から離れた大精霊様だという話だが、こうして開口一番にシリカの求めていた言葉を最短で言い述べてくれる態度は、人間にとって何よりもありがたい。人と触れる機会は年間さほど多くない精霊であろうが、さすが長い年月、人間達と付き合い続けていただけのことはある。


「ひとまず、ついてきて頂戴。私が住まう庭まで案内するわ。少し距離はあるけれど、そこで何があったか教えて貰いたいから」


 そう言ってバーダントは、ロートスの樹の根元に視線を送る。掌サイズの小さな妖精が、そこでマグニスを怯えるように草陰に隠れている気配にも、バーダントにはお見通しだ。



「ベラドンナ、あなたも来なさい。無関係ではないのでしょう?」


 森に生きる命のひとつに向け、バーダントが向ける顔は聖母のように優しいもの。アルボルすべてを統治する偉大なる精霊に呼ばれたベラドンナは、地表近くをゆっくりと滑空し、バーダントの肩にその身を落ち着かせた。


 ベラドンナは大精霊の頭に抱きつくようにしながら、恐る恐る上空のマグニスを見やる。すべての発端だと認識した対象に向けるマグニスの視線は非常に鋭いもので、ベラドンナはマグニスと目を合わせたその瞬間、バーダントの大きな胸の谷間に頭から潜り込んでしまった。


「……それにしてもあなた、なんて格好してるのよ」


「いや、あの……すいません……」


 また言われた。苦笑するバーダントの目の前、服を失ったユースが気まずそうに目を伏せる姿を見て、クロムは小さく笑っていた。同時に一服しようとして、シリカに脇腹を肘で小突かれながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ