第162話 ~魂の旅② 残された者達の叫び~
「待てば何か変わるのか」
どすの利いた恫喝に近い声色で、バーダントに声を浴びせるマグニス。バーダントの眼差しは真剣そのものであり、マグニスの眼力においてはそれが上っ面だけのものでないことが伝わるものだ。だからぎりぎり、頭が冷えかけたマグニスはまだ会話できる精神状態にある。
「……この子、キャルというのね。この子の魂は、再び元の生へと舞い戻ることを、望まぬどころか強く拒絶している。いかに私の力を以ってしても、現世に立ち返ることを受け入れない魂までもを、元の形にして蘇らせることは出来ないわ」
手の出かけたマグニスがそう出来なかったのは、バーダントとマグニスの間にチータがいるからだ。背中だけで冷静を促す意図を語るチータに、マグニスも握り締めた拳に怒りをすべて封じ込めて耐える。
エルアーティの蘇生魔法を目にしたチータは、その不完全な結果からも、霊魂は生前のカタチを記憶している仮説の示唆を見知っている。かつて大森林を蘇らせるほどの奇跡を為した大精霊ならば、キャルの魂から彼女の生きた姿を蘇らせるほどの奇跡も期待したいチータ。バーダントの言葉に大いなる失意を抱きそうな想いを抑え、精霊の言葉の続きを黙って待つ。
「この子の魂が再び生を望むならば、私の力で蘇らせることも出来るでしょう。だけど、私の力は魂の望む願いを叶えるものでしかないから……」
「だったらそうしろよ。そうしなきゃキャルを生き返らせられねえんだろ」
「そんなこと、私にも出来ないわよ……今の生を捨てることを選んだのは彼女の意志であり、それが刻まれた彼女の魂が抱く願いは、私の魔力で以っても決して書き換えられない」
ベラドンナの余計な手出しによって、死への願望を囃し立てられたキャルが、この有り様に変えられた認識のマグニスにとって、ベラドンナの主張には頬を殴りつけてやろうと思うほどに許しがたい言。後方からそれだけの殺気を感じたチータが、背中をマグニスにぶつけて制止していなかったら、本当にマグニスが大精霊をその拳で殴り飛ばしていただろう。
「……チータ、お前あんまり調子に乗ってんじゃねえぞ」
ことごとく自分の邪魔をする後輩に矛先を変えたマグニスは、チータの黒髪をわしづかみにして顔を自分の方に向けさせる。至近距離で瞳孔の開いたマグニスと向き合わされるチータは、髪を握り潰される痛みも気にならないほど、マグニスの殺気に対する危機感を強く感じる。
チータの髪を握り締めたマグニスの手首を、バーダントはその両手で握って、制止の想いを訴える。睨みつける目線をバーダントに切り替えるマグニスの目の前にあるのは、混迷の状況に後から駆けつけてすべてを把握できない中、それでもアルボルの中にある紛争を鎮めたい大精霊の、必死な思索を巡らせる表情だ。決して敵意や反発心を抱いたものではない。
「今、もう一つの魂がこの子の魂にその想いを届け、魂に刻まれた意志を覆すために動いているの。彼女がそうした結果を導き出せるなら、私が必ずなんとかしてみせるから……どうか、少しだけ……」
待って欲しいという想いを強く訴える目を浮かべたバーダントを睨みつけたまま、マグニスはチータを解放して突き飛ばす。空中でバーダントと正面きって向き合うマグニスは、目線の高さを大精霊と同じものにして、人差し指でバーダントの鎖骨上をがつがつと突く。
「アルミナがキャルの魂を心変わりさせることが出来るなら、必ずお前はキャルを返してくれるんだな? お前は今、そう言ってるんだよな?」
「ええ、必ず。約束する」
「言い換えればそれは、アルミナがそれを叶えられなかったら諦めろっつってんのか。その時は、キャルの望んだことだから俺達は黙って、あいつが帰ってこないのを見過ごせって言ってんのか」
無言しか返せず目を逸らすバーダントの髪を掴み、自分の方へ向き合わせるマグニス。もう片方の手に込められた炎の魔力は、いつ爆裂してもおかしくないほど目に見えて渦巻いている。もう、チータにも止められない。チータだって、マグニスの怒りにまったく共感できないわけではないのだ。
たとえキャルが何を望んでいたとしても、キャルをこの有り様に変えたのは森の魔力に相違ない。キャルが今の生を悲観して自らの命を自らの手で断ったなら、マグニスもキャルを責めて他を誰も責めない。根本にキャルの意志が噛んでいたにしたって、現状を招いたのはアルボルに違いないのだ。ろくに手を尽くす機会も与えられず、一方的にキャルを奪われたマグニスは、自身の言葉の理不尽を理解しつつも、それを相手に押し付けることも厭わない。先に理不尽を投げつけてきたのはアルボルで、その主たるバーダントが鎮まれと言っても、聞ける心地であれるはずがない。
「……変わるかもしれないの。今は待って……お願いだから……」
哀願する美しい女性の顔立ちは、男の怒りも冷めさせるだけの力を本来持ち得るものだ。女好きで遊び好きのマグニスが、それも意に介さずバーダントの髪を離さぬほど、家族を奪われた怒りは底知れず色濃いものだった。
額からどくどくと流れる血が目に入っても、真っ赤に染まったその目を濁らせることもなく獲物へと牙を伸ばすマナガルムの速度は恐ろしい。怒りか、あるいは恩人への義心が加速させるのか。マナガルムの動きは先ほどよりも速く、機敏になっている。
噛みつこうとしたシリカが後方に下がったのを身受け、即座に前足を薙ぐようにして人間の細い体を殴り飛ばす攻撃。また後ろに下がらざるを得ないシリカに対し、彼女の背中が木の幹にとんとぶつかったことを見受けたマナガルムは、顔を横にして噛み付きにかかるように首を伸ばしてくる。
すんでのところで跳躍して回避したシリカ。木の幹に牙を突き立てたマナガルムは、まるで甘菓子にでも歯を通すようにあっさりと木の一部を噛み砕き、後方から自分へと駆けてくるユースに振り返った瞬間、口に含んだ大きな木片を吹き出してくる始末。あまりにも型破りな反撃に、ユースも思わず盾を構えてそれを受けきる。質量は鉄ほどもないが、大きいゆえに重みはあり、英雄の双腕をなしにして弾き飛ばした木片は、盾を介して腕の信まで響く重さを伝えてくる。
一瞬それに気をとられたユース目がけ、真正面から2,3の風の刃を飛ばすマナガルム。思わずユースも横っ跳びして大きく回避してしまったのは、普段と違って上に着るものを失ったせいもあるのかもしれない。あれは防具でもなんでもないが、日頃身に纏っているものが無くなっただけでも、身に迫る危険がいやに色濃く感じたりするものである。魔力を纏った盾で充分いなせるはずの攻撃に、回避の一手を費やしたユースの前進がこれで滞ってしまう。
マナガルムがユースへの攻撃を薄く済ませたのは、空中に逃れたシリカの反撃に意識を舞い戻すためだ。樹上から騎士剣を振り下ろしながら迫る人間の姿を視野に入れた瞬間、マナガルムも空中で自由に身動き出来ぬ人間を、風の刃で以って切り落とす一手が脳裏を横切る。そう出来なかったのは、曲がりなりにも魔力を扱う者として、シリカから感ぜられる魔力に嫌な予感を感じたからだ。
地を蹴りシリカの断撃を回避したマナガルムは即座にシリカの方に正面向き合うが、着地すぐにマナガルムへと突き進むシリカに恐れがない。自身よりも巨大なる魔物に、迷い無く真っ直ぐに向かうその足取りには、歴戦の怪物の直感にもはたらきかける不穏がある。遥かに勝る体躯を持つはずのマナガルムがとった行動とは、大きく跳躍して小さき人間を跳び越え、背後へと舞い降りる動きだ。
空を斬る斬撃ののち振り返った瞬間、後ろ足で地面の土を勢い良くはね上げたマナガルムの追撃がある。土と小石の小さな津波を全身で受けたシリカは、片腕で顔を守るとともに一瞬動きを止められる。そんなシリカの見据える先で、ユースの方へとその身を駆けさせるマナガルムの姿には危機感を抑えられない。
つい数秒前まで少し離れた位置でシリカと交錯していたマナガルムが、凄まじいスピードで突き進んでくる光景は、その巨体も相まってとんでもないプレッシャーである。まるでユースの頭を真っ直ぐに噛み抜こうとする殺意は、誰もが向き合えば逃げ出してしまうような威圧感を放っている。そうして回避した獲物を、直後前足ないし魔法で葬り去る青写真が、すでにマナガルムの深層心理の中では出来上がっている。
敵の想定外を。それがシリカとの修練の末にユースが積み重ねてきた教訓だ。浮いた体で自らの頭に食らいつこうとしてくるマナガルムに対し、一気に頭を下げて前方に飛び込むユース。強く蹴りだしたその肉体はマナガルムの顎下へ一気に潜り込み、双方の進行方向の交錯に相まってユースはマナガルムの胸元よりもさらに前に転がっていく。前足を沈み込ませるように着地したマナガルムの尻が下がるのは僅かに遅れ、そのタイムラグも、ユースがマナガルムの後方まで転がっていくためには重要な要素となった。
獲物が突然前方から消え失せたことに戸惑いかけたマナガルムと、裸体のまま地面を転がった痛みに歯を食いしばって立ち上がるユース。後方の闘志を瞬時に感知したマナガルムが、後ろ足を切り落とそうと前進するユースから離れる方向に地を蹴るのが直後のこと。振るわれた騎士剣は、マナガルムの後ろ足の残像には充分に届いていた。
「よくやった……!」
咄嗟の動きでシリカへの注視が散漫であったマナガルムに、泥まみれの法騎士が飛来した。マナガルムの真横から迫る人間に対し、即座首を向けて咆哮を放つマナガルムの魔法は、迫る敵を吹き飛ばして遠方に排除するための攻撃だ。
そう、それを待っていた。咄嗟でそれを放たねばならないほどの動きを、マナガルムに強いてくれたユースのはたらきこそ、シリカの最大の狙いを現実のものとする。万物を切り裂く魔力を携えた、シリカの騎士剣が断ち切れるものは、風とて例外ではないのだから。
自らを吹き飛ばそうとする突風を振り上げた騎士剣で両断したシリカの前、無風の道が一気に開いた。減速しない法騎士はマナガルムの想像を遥かに超える速度で迫り、それでも逃れようとした俊敏なる巨獣の前足の付け根に、追うように振るわれたシリカの剣が深い傷を負わせた。
着地の瞬間に右脚にかかる体重を支えきれず、マナガルムの肉体が崩れ落ちたことからも、勝負ははっきりついたと言えるだろう。五体満足同士で互角の戦いだったのに、右脚一つ使えないハンデが生じてしまったらもう、マナガルムに戦況をひっくり返すすべはない。仮にここから巻き返せるんだったら、この傷を負う前からそれだけの力で、もっとシリカ達を攻め込めていたはずなんだから。
敗北の二文字を脳裏に深く自覚しながらも、マナガルムは震える右前足に力を込めようとする。何がかの魔物をそこまでさせるのか、答えは初めから知っているのだ。シリカだってユースだって、守りたい何かがあるからこそ、限界超えてでも戦える気力を振り絞ってこれた過去を持っている。マナガルムの意志の力が、傷ついた体躯を引きずってなお戦おうとするその姿には、騎士二人先刻以上の覚悟をさらに固めるのみ。油断もなければ慢心の逆を行く心の動き。だからこそ、勝負のついた現実はさらに色濃くなる。
(……行くぞ、人間)
命を捨てることになろうとも。生存本能より義心を選んで戦うことを選ぶ魔物など、今まで二人は見たことがない。頼もしき騎士団の仲間達がすぐ横でそうしているところを見てきただけだ。死を覚悟したマナガルムの一方、自分達こそ決死の魔物に心臓を握られた形を、シリカ達は疑似体験する。
構えた剣を振りかぶって、シリカが地を蹴ろうとした瞬間のことだ。意を決してその行動に踏み込もうとしたはずの法騎士が、遠方より近付くノイズに意識を奪われ、攻撃への一手を完全に捨てたのだ。
「クロム……!」
「おう、無事だったか!」
マナガルムと二人の仲間が対峙する戦場に、真横から現れたクロムが豪気な声を放つ。シリカ達にとっては何にも勝る救援であり、マナガルムにとっては最悪の逆風と言えるものだろう。
睨みを利かせていた眼差しをふっと細め、マナガルムは戦いの構えを解き、右前脚で支えきれなくなった前身を傾かせる。流石に気が折れた。なまじ実力があるだけに、見ただけでわかるのだ。さっきまで戦っていた人間二人だけでも相当な手練だというのに、槍を握ったあの人間もまた、細身の法騎士よりもさらに上をいく実力者であるということが。
「もう終わってるのか?」
「……だとしたら、ありがたいよ」
クロムが戦いの構えをとらないから、それを通じてマナガルムが戦意を失っていることをようやく感じ取るシリカ。それでも構えた剣を下ろせないのは彼女の性分ゆえだ。自分の命だけでなく、少し後ろに常に立つあいつを守ってやらねばならないという戦い方が、もはや習慣として染み付いている。絶対に大丈夫だと言えるようになるまで、剣を鞘に収めることが出来ない。
「やめてやれ。もう勝負ついてるみてえだしな」
シリカに歩み寄り、また、マナガルムに背を向けながら。ぽんとクロムが肩を叩いてくれたことで、ようやくシリカも騎士剣を鞘に収める行動に移れた。その姿を見たユースも、いいのかという不安を胸に抱きつつ、先人の動きに倣って騎士剣を鞘に収めた。
少し迷ったのち、シリカはマナガルムへとゆっくり歩み寄っていく。武器も握らず、自分のような獰猛な怪物に近付いてくる人間の度胸には、マナガルムも苦笑いを浮かべるように口の端から息を漏らす。舐められているようで、少し面白くなくも感じるが。
「……あの子がどう思っていたとしても、私達はあの子と一緒にいたいんだ。せめてもう一度……もう一度だけでも話ができないと、私達だって諦めたくなんてない」
いなくなったキャルに対する想いを、マナガルムに吐露しても仕方ないことぐらい、シリカだって頭ではわかっている。だけどこの言葉を向けるだけの価値が、キャルの望む次なる道を拓くために死力を尽くした、この勇ましき超獣にだけはある。心の片隅、そんな思いがあったのも口をついた遠因だろう。
「あなたの想いには反するかもしれない。だが、行かせてくれ。私達にも譲れないものがある」
戦いの場において、叶えたいことは相手をねじ伏せて叶えるものでかない。言葉など不要である。それでも言葉が通じるなら、出来る限り双方納得できる形で意志を交錯させたいと思うのもまた人情。ましてマナガルムは、自分達の命を欲することを目的としているわけではなく、自分達が案じてやまない彼女のために戦おうとした存在だ。己の心に素直な上で向き合いたいシリカの想いは、人外なる者に対して初めて人並みの二人称を使ったことからも、無意識に現れている。
マナガルムは言葉を返さなかった。うなずくことも、首を振ることもせず、ただシリカに背を向けて去っていく。同胞に預けた我が子を迎えにいくその後ろ姿を見送るシリカの胸には、下手な人間よりも気高き心を持つ人外への、初めての感情が不思議な心地と共に居座っていた。
「それにしてもお前、なんちゅうカッコしてんだよ」
「え? ……あっ」
停止した時を解き放つクロムの言葉に、ユースは自分の有り様を見返して言葉を失ってしまった。まあ、男だし人前に上半身を晒すことぐらいどうっていうこともないが、さすがに女性のいる空間内において頭が冷えてくると、この格好は少し気まずい心地になる。
「お前も随分きったねえザマだな。せっかくの美人も台無しじゃねえか」
「うるさいっ。後ろ足で砂をかけられるなんて私も初めてだっ」
目を潰されると困るから、顔に泥がはねることは庇い腕で避けていたものの、シリカの全身は土まみれである。胸当てや腕についた土をぱんぱんはたくシリカだが、残った土色のせいで、ゲリラ慣れした野戦兵のような彩りのなさである。高潔なる騎士像が似合う人なのに、実に勿体ないものだ。
「あー、その……ユースは大丈夫だったか?」
近付いてきたはいいものの、あらぬ方向に顔を逸らして気まずそうに問いかけてくるシリカに、ユースも無性に申し訳なさげに、はいと返す。この程度も直視できないのかと、クロムも隠れて苦笑せずにはいられない思いだ。とび職の集まる現場は、男たちが上着も着ずに汗だくで働いているものだが、シリカをそこに連れて行ったら目も開けられないんじゃないかと思えてならない。
「おい、行くぞ。急ぐんだろ」
「あ、ああ……勿論だ。行こう」
自分の頬を両手でぱちんと叩き、今の現状から意識を奪われていた自分を正すシリカ。逆に言えば、そうでもしないと集中力を取り戻せないのかと。ユースの裸ひとつでそこまで平静心を乱すなんて、まだまだ春は遠いなとクロムも心中諦めムードである。
マグニス達が駆けていった方角へ走り出すシリカと、遅れずしっかりついていくユース。お似合いだと思うんだがな、という言葉を、今まで何度感じても黙っていたとおり、今日もクロムは口にしなかった。
遥か昔、故郷を捨てて逃げ出した少女がいた。
カルルクスの里に生まれた幼き彼女は、あの日里のはずれに一人で遊びに行っていた。アマゾネス族の少女たる彼女は、誰にも見られていない所でこっそりと、弓に構えた矢を放つ練習をしていたのだ。いつの間にか射手として上達した自分を見せ、両親を驚かせたかったから。里の域内よりも少し外、誰もいないその場所で、一人木に結びつけた的に矢を放っていた。
毎日のようにそこで射手としての練習を積んでいた彼女の目の前に、いつもと違う光景が現れたのがその日のことだった。北方の空から風に乗って、カルルクスの里へと降り注ごうとする、タンポポの種のような綿の雨を目にした時、少女の脳裏に嫌な記憶が蘇る。昔々に両親に聞かされた、大森林アルボルの精霊様の怒りの象徴たる、人里をも滅ぼす綿の雨、"アルボルの火"を彷彿とさせる光景だったから。
そんな、まさかという少女の想いを裏切るかのように、彼女のそばに舞い降りた小さな綿は、突然にして芽吹いて急成長する。数秒のちには、少女の背丈も容易に越える植物に育ち、思わず離れる彼女の目の前、あっという間に一本の常緑樹が出来上がる。
噂にだけ聞いていた悪夢の光景の実現は、臆病な子供の想像力を最悪な方向に駆り立てた。思わず勢い良く振り向いた少女の目線の先、育った里に向かう無数の綿がある。やがて数分ののちに、家族が、友達が、よく見知った優しい大人達が、滅びの予感に瀕した戦慄は、子供の心に錯乱と恐怖を描き出す。
父に、母に、里を襲う恐怖の存在が近付いていることを知らせようと地を蹴った瞬間のことだ。少女の目の前に落ちたひとつの綿は、先ほどの綿と同じくして、巨木を生み出していく。急成長する巨木に慄き、慌てて後ずさって尻餅をついた痛みは、幼い少女にはそれだけでつらい痛みだ。
その痛みも忘れるほど恐ろしい光景が、ふっと上向きの視界にあった。綿のひとつが、ふんわりと、ゆっくりと自分目がけて落ちてくる目の前に、背筋に氷を詰められたような恐怖を抱いた少女は、地面を引っかいてでも我が身を逃がす。そして少女が一瞬前にいた地面に綿が舞い降りた瞬間、少女の体なんて容易に踏み潰してしまうような巨木が出来上がるのだ。
恐怖でいっぱいになった少女には二つの道がある。家族の住む里へ逃げ帰ること、無数の綿が飛来する里から離れた方向に逃げ去ること。死の恐怖を一番そばで経験した少女は、なかなか立ち上がれず這うように数歩走ったのち、ようやく二本の脚で地面を踏む。そして一瞬振り返った里を視野に入れた直後、震える唇を噛み締めて走り出したのだ。
里を見捨てて。家族も友達も放り捨てて。何もない広大な草原をがむしゃらに駆ける少女は、幼い体力で吐きそうなぐらい必死で走った。やがて北のルオスより南へと馬車を進めていた商人に巡り会えた幸運が、彼女を帝国ルオス領土内の町へと導くきっかけとなっていく。
アマゾネスの住まう地、カルルクスの里の崩壊が報じられたのが、その翌日のこと。生存者を一人も残さぬ"アルボルの火"の恐怖が、明確な実例を以って人々を震え上がらせたのも、それと同じ時である。
キャルの魂がそばまで近付いた時、目の前に壁のようにそびえた巨大なシャボン玉。行く手を阻む、キャルの胸の奥にしまいこんでいたその思い出のそばを通っただけで伝わる、計り知れぬ悔恨。彼女の心に救いを求めるアルミナが手を伸ばし、シャボン玉に手を触れた瞬間伝わってきたのは、魂を合わせただけで自らの心さえも壊しにかかってくるほどの、重く、つらい、キャルの苦しみだ。一瞬早く覚悟をはっきり固めていなかったら、心臓を撃ち抜くような胸の痛みに、アルミナの心の方こそバラバラにされていたかもしれない。
もしも自分が綿の襲来にいち早く気付き、里の大人達に一秒でも早く伝えていたら。あの時逃げ出さず、勇気を振り絞って里に帰る道を選べていたら。ゼロと伝えられた生存者の数を、せめて1以上に変えられたかもしれないという今の彼女の悔いは、現在もなお時々見る悪夢とともに蘇る。己の心が生み出す逃げ場のない呪縛は、永遠に近い時の中彼女の心を縛り続けてきた。
アルム廃坑で彼女の前に現れた魔物。"対象の心の奥底にある、自らに恨みを抱いているであろう存在を想起させ、この世に敵として蘇らせる"魔法を使う魔物アズネオン。その呪術の歯牙にかかった彼女が見た人型の敵影は、今でも見捨てた里の人々の怨念を背負い続けていると忘れ得ぬ、彼女の心が生み出した自責の顕現だ。許されぬと己の理性が叫び続ける中、どうか許してと心が悲鳴をあげるあの日、戦う力も失って泣きだした彼女の痛みは、誰にも話せず、吐き出せず、逃げ場のない有刺鉄線のように彼女の胸に絡みついたままだったのだ。
連動して伝わる、その日役立たずになった自分への強き悔い。今は亡きはずの亡霊を、錯乱の末に庇おうとして、アルミナを危険に晒したこと。自分を守るため、タブーの片腕放銃によって肩を痛めたアルミナへの顔向け出来ない想い。動けなくなってしまった自分を守るため、ただでさえ苦しい戦いの中、要らぬ重荷を背負わせた自分自身に対する嫌気。
伝わるたびに胸を裂く苦しみに、とうとう耐え切れずにキャルの記憶から手を離したアルミナは、今すぐにでも会いたい想いを蘇らせ、闇を進んでいく。金色の思い出が数多く舞っていた先ほどまでとは大きく異なり、そばを通るだけで彼女の悔いが伝わってくる空間。家族の苦しみを我が事のように胸を痛めるアルミナにとって、身を泳がせるだけで魂がずたずたにされそうな空間だ。救いたいキャルの心の苦しみを、丸裸の魂で直接共有する痛みはもはや、生きた世界の言葉で言い表せるものではない。
キャルの目線で見た、傷ついた仲間達の姿を情景に描くシャボン玉が、いくつもいくつも周りを過ぎ去っていく。サーブル遺跡で獄獣からキャルを助けたアルミナが、彼女の身代わりとして獄獣の手の中に捕えられた光景。ここアルボルにてマンイーターに襲われかけた自分を庇い、その腕に魔物の牙を突き立てられたユースの傷。デビルフライヤーからの襲撃を受けそうになった自分を助けるため、地面を転がり体を痛めたアルミナ。アルミナの脈近くの首筋に今日つけられた傷もまた、夜闇の狩人からキャルを庇った末に負ったものだった。
ただでさえ自身の力及ばなさを憂いやすい性分のキャルゆえに、仲間達が、アルミナが自分を守るためにその身に傷を負った記憶は、何よりも強く心に刻み付けられるのだ。そうした日々の繰り返しが、徐々に彼女の心を蝕み、自分自身がいなくなってしまえばという想いに駆られることは想像がつく。ベラドンナの口付けが無くても、それはきっと常に心の奥底にあったものだろう。そういう子だとも、確かに知っている。
「大馬鹿……!」
そんなこと、苦境の中に身を置けばいくらでも繰り返されることじゃないか。アルミナよりもずっと戦えるユースだって、シリカの後ろから前に出られない日々に悩みながら、前へ走り続けてるじゃないか。クロムが誰にも守られず、初めからあれだけの強さだったはずがないじゃないか。今でもシリカは、あれだけの強さを持っていながら、周りに支えられていることを見落とさず、それでも誰かを導いていける自分を目指して日々を歩いているじゃないか。
あなたを守ってくれていた人の強さ、その背中から、今の自分を変えていける強さを学んでいくことは出来なかったのか。少なくとも未熟だと自認してやまない自分だって、それと向き合った上で前を向いて歩いていく行き方を見せてきたつもりでいたのに。伝わっていなかったにしたって、今の人生を悲観して捨ててしまうような生き方が、すべてを丸く収め得る道だなんて勘違いをするような子であって欲しくなかった。アルミナの心を包み込む、どうしようもなく後ろ向きな妹を叱り飛ばしたい想いは、一刻も早く彼女にこの叫びをぶつけたい意志の力として、アルミナの魂を加速させる。
もう、振り返らない。周りを見ることもない。たとえ彼女の苦しみと共有する痛みが、この魂を粉々に砕いたとしても、欠片ひとつでもこの想いをキャルに伝えるまで、アルミナは止まらない。長い悔恨の歴史を刻むシャボン玉の群れをかいくぐり、キャルを目指すアルミナの魂が闇を駆け抜ける。
暗黒の果て、一糸纏わぬ姿で膝を抱えて丸くなった少女。うつむいて顔を上げない彼女の姿が見えた瞬間、もうアルミナは叫びたい衝動を抑えきれずにいた。
「――キャル!!」
透明な水の満ちた泡の中、彼女の霊魂世界の中で唯一幻想でもなんでもなく、実体に近いものとして認識できる存在。何よりもその小さな体躯、柔らかな髪、何度も握った細い腕。いつも一緒にいた彼女の姿形は顔を見ずとも明らかで、捜し求めていた彼女の魂に辿り着いたアルミナは、闇の中にエコーを残すほどの声で、彼女の名を叫んだ。




