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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第10章  深き緑の鎮魂歌~レクイエム~
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第161話  ~魂の旅① なのにどうしていなくなる~



 目で追えない獲物との戦いなんて、グレイマーダーには初めての経験だ。それでも、瞬時瞬時の感覚のみを武器として、後方より迫る何者かに振り向きざま、爪を振るって応戦する。これは絶妙。


 嵐に吹き飛ばされた柱が突っ込んでくるような、その右腕による攻撃を交差させた両腕で防ぎ止め、地に足踏みしめて吹き飛ばされもせずにこらえるクロムの肉体は、もはや魔物達が知る人間の強度を遥かに凌駕している。直後、邪魔なその大腕を下から蹴飛ばし跳ね上げるその威力だけで、グレイマーダーは肩がはずれるかと思った。蹴られた手首も非常警報を痛みに変えて訴えてくる。


 明らかに上ずったグレイマーダーの顔面目がけて飛来するクロムに対し、顎をあの破壊力で蹴飛ばされる恐れから、グレイマーダーは自ら思いっきりのけ反って後方回転。両手で地面を着き、すぐさま立ち上がり敵を見据える瞳を動かすが、木の幹を蹴って別角度へと跳んだクロムの位置を確認するのが僅か遅れる。流星のように正面を横切った影が目に見えたかと思った瞬間、視界左端から地を蹴ったクロムが弾丸のような速度でこちらに向かってくるのがようやく把握できた。


 真正面から爪を突き出す迎撃に乗り出すグレイマーダーも咄嗟の行動に過ぎない。一気に頭を下げてその爪の下に潜りこんだクロムは、必殺の一撃と交差した末、グレイマーダーの懐に侵入する。体格差のある魔物の懐すぐそば、クロムが片足を軸にした回し蹴りをグレイマーダーの腹に叩き込んだ瞬間、重厚な質量と規格外の筋力を持つ魔物が後方へと一気に吹き飛ばされる。


 肋骨が砕けた実感を抱きつつ、背中から大樹の幹に叩きつけられるなど、屈強かつ獲物の反撃を受けた過去すら少ないグレイマーダーにとって、前代未聞の経験である。視界がちかつく初めての経験を前にしてなお、正面から迫る敵に目の焦点を合わせる心構えを失わなかったのは、捕食者の最上段に立つ怪物の本能という、最強の武器によるものでしかない。


 確実に痛手を負ったはずのグレイマーダーが、急接近した自分へ的確な爪の一振りを放ってきたことに、クロムの闘志も燃え上がる。木の幹を背にした化け物が長い腕を振り上げるに即して、その射程範囲の数センチ外で一瞬の急停止。ストップ&ダッシュの緩急も自由自在のクロムが、即座に地を蹴ってとどめの一撃を向かわせようとした瞬間、グレイマーダーが放つのは、腕より長いリーチを持つ巨大な足による突き蹴りである。前へのベクトルを前方上方に即座切り替えて回避したクロムは、グレイマーダーが背負う巨木の真上から生える枝へと直進だ。


 枝を両手で握ったクロムは、枝を軸にして半回転。手を放した瞬間には、回転した末の直進ベクトルがグレイマーダーに向いている。真上から隕石のように飛来するクロムに対し、グレイマーダーも両腕を交差させて防御の一手を取るしかない。


 その腕と衝突する瞬間、縮めた足を一気に伸ばして蹴りを放ったクロムの脚力は、砲弾にも勝る破壊力を一瞬にして生み出した。その衝撃は前腕である右の腕の骨を粉砕し、接した左腕の芯まで崩すほど。表情を歪めずにいられないグレイマーダーの一方、その腕を蹴って跳ぶような形で遠方へと離れるクロムだが、地に足を着けた瞬間に名狙撃手が迷いなく放った銃弾のように、再びグレイマーダーへ突っ込んでくる。


 同じことの繰り返しでは勝機が無い。グレイマーダーも真正面からクロムへと地を蹴って迫り、獲物を攻撃範囲円の中に含んだその瞬間に左腕を振るってくる。空中に身をおくままにして、身をひねったクロムの左脚は、丸太のように自らを薙ぎ殺そうとするグレイマーダーの巨腕を真下から叩き上げる結果を生み出す。互いに前進し合う中、敵の腕を叩き上げた反作用で滑空高度が下がったクロムだが、お構いなしにグレイマーダーの太ももに背を向けてぶつかりに行く。接する直前、振るった右肘で魔物の内股に一撃入れた細かさも、銃弾で体を支える柱を撃ち抜かれたようなダメージを魔物に残していく。


 前のめりに崩れ落ちるグレイマーダーの脚に潰されそうになりながら、地面に手がつくその瞬間に、脚でやるように地面を押して我が身を逃がすクロム。地を転がった末にすぐさま立ち上がるクロムは、グレイマーダーの上に向けて低い跳躍だ。倒れてもすぐに立ち上がろうとするその機敏さを加味すれば、高く跳んでは追撃が間に合わない。


 それでも前腕で地面を引っかき、巨脚で地面を蹴り、前方へと勢い良く転がるグレイマーダーの機敏さは体格に不似合いだ。グレイマーダーの延髄に向け、上空から振り下ろしていたクロムの踵は、対象を失い地面に突き刺さる。完全にとどめの一撃となるはずだったそれを、敵を見もせず気配と殺気だけを察し、最短最速で致命傷を回避するグレイマーダーは、やはり一筋縄ではいかない怪物だ。


 しかも前方に逃れるに際し、腰を180度振るって我が身の向く方向を転換。地面に脚をくらわせたばかりのクロムはいかにも隙だらけで、その最大の好機をグレイマーダーは見逃さない。クロムが両手で地を押して、立ち上がって正しい形で立ち上がる頃には、すでに猛進してくるグレイマーダーの姿が真正面にある。


 グレイマーダーが爪を前に、正拳の突きを放ってきたことに対し、クロムは両の握り締めた拳によって、グレイマーダーの熊手を両サイドから挟み殴った。まるで白刃取りのように自分の熊手が、人間の腕力によって完全に食い止められたことに、グレイマーダーも死の予感で脳裏をいっぱいにする。


 完全に停止した敵の手をすぐさま掴み、自分の方へと凄まじいパワーで引っ張るクロム。規格外の力で腕を引かれ、前につんのめるグレイマーダーの眼前で、クロムは既に低く地を蹴っている。


 体ごと引き寄せられたグレイマーダーの側頭部に、クロムの回し蹴りが直撃したのがすぐ後のこと。同時に手を放したクロムから解放されたグレイマーダーの肉体は、頭を蹴り飛ばされた方向に我が身を吹っ飛ばし、重い巨体が地面ではずむかのように、遠方の地面まで力なく転がった。


「俺もまだまだ、か」


 勝負あった。うつ伏せに倒れたグレイマーダーは、それでもまだ気を失わず、地面に手をかけて立ち上がろうとする。首を回して後方のクロムを睨みつける怪物だが、目の焦点は明らかに定まっておらず、ぼやけた視界の中にクロムを収めているだけだと、向き合うクロムにもよくわかる。


 グレイマーダーは膝立ちの状態から、背筋を丸めつつも立ち上がる。クロムが構えを取らないのは、その目に宿る戦意のなさを見受けてのことだ。目は口ほどにものを語ると言うが、グレイマーダーほどの知性を持つ怪物なら、たとえ人外でも同じ言葉は当てはめられるとクロムは感じた。


「……俺を殺さないのか」


「俺の目的は、皮を剥ぐことや肉を屠ることじゃねえ」


 クロムは、グレイマーダーが自分達の障害にならぬなら、殺すことそのものが目的ではないのだ。敵が退くならそれで結構。まだ襲いかかってくるのなら、今度こそとどめを刺してやるだけの話である。


 グレイマーダーが地に伏せたあの瞬間、俊足にてグレイマーダーを絶命させられるであろうクロムが、それを敢えて為さなかった時点で、その意図は言葉ではなく行動で示されている。本気でクロムが自分の命を奪おうとしていたら、今のように地面に脚を着けて立っていられなかったことは、グレイマーダー自身が一番よくわかっているのだ。


「……フン」


 グレイマーダーは無防備にクロムに背を向け、腹を押さえて歩いていく。見送るクロムはふぅと息をついて、地面に突き刺した自分の槍へと歩いていく。木々をかいくぐって長い槍を扱う器用さには事足りていないが、その意識を捨てて素手の戦いが良しとして、最大の相棒を一度捨てていた。再びそれを手に握り、長い森の旅路へと再び脚を戻す。


 一瞬振り返ったグレイマーダーと目を合わせたクロムの胸中に浮かぶのは、少なからずの感謝の念。自分は、まだまだ強くなれる。今までに搾り出したことのない自分の力を引き出すことが出来たのは、グレイマーダーというかつてない難敵との戦いがあったから。それを糧とし、次の次元へと駆けていく自分への可能性を感じられたのは、高みを目指したい一人の男として何にも代えがたい実感だ。


「……しかし、キツいな。もう今日は、仕事に殉じるとするか」


 グレイマーダーの攻撃を一身に浴び続けた腕は、身体能力強化の魔法を解けば、今すぐにでも砕けて動かなくなるだろう。魔力の消費を途絶えさせることが出来ない。霊魂を常にはたらかせ続けねばならないなど茨の道だ。素の肉体では耐えられぬほどの反動を伴う打撃を繰り返した全身は、戦いが終わってもなお、身体能力強化の魔法で支え続けていかなければならない。過酷な魔法である。


 シリカ達が駆けて行った方向にその脚を向かわせるクロム。仲間を案じる想いが胸に渦巻く中、同時に混在するのはキャルとの再会を望むものであり、それに伴いグレイマーダーを連結させて思い出す。己が命を優先するため、捕食本能より生存本能ゆえに牙を引いたグレイマーダーを。


 今の生を望むあの心根と同じものが、あと少しでもキャルにあったなら。そう思わずにはいられなかった。











「邪魔すんな」


 既にたがの外れているマグニスは、宙に舞うバーダント目がけて火球を投げつけた。かわそうものなら火球はバーダント後方のロートスの樹を焼き払うだろう。


 バーダントが開いた掌を振るうと、その手が一枚の大きな絹を引くように、光り輝く幕をたなびかせる。大精霊の魔力は瞬時に極薄の一枚の葉を作り上げ、それがマントのようにバーダントの前方を遮り、マグニスの火球を受け止める。


 バーダントの一枚葉に包まれた火球は燃え盛り、焼き払う葉とともに地面に落ちていくが、マグニスが燃やそうとした対象には届かない結果を残した。遠いバーダントの耳にも聞こえるような舌打ちとともに、マグニスが両手に魔力を集めた瞬間、彼の前に立ちはだかった一人の後輩がいる。


「どけ」


「……ここは冷静に」


「どけよ」


「どきません」


 肝の座ったチータでも、これだけの怒気を孕むマグニスの正面を我が身で遮るのは、尋常ではない緊張感を禁じ得ない。ミノタウロスやヒルギガースの行く手を阻むより、遥かに我が身の危険を感じるこの空気など、よく笑う身内を相手に対して抱くなど夢にも思わなかったことだ。


 チータの肩に、凄まじい熱を帯びた手をマグニスがかけ、ぐいっと後輩を横に押しのけようとする。その熱にはさしものチータも強い痛みを感じたが、大精霊が現れたこの状況でマグニスにこれ以上暴れて欲しくないチータは、こらえて道を譲らない。あくまで冷静だ。


 魔法学において、本来木術の魔力は、火術の魔力に抗える力を持っていない。木術の魔力を火術の魔力にぶつけても、火の魔力を膨れ上がらせる要素たるからだ。木属性魔法を扱うバーダントの魔力が、マグニスの火の魔力に抗えたということは、絶大すぎるバーダントの魔力がマグニスの魔力を膨れ上がらせ、マグニスの支配力を超えるほどの魔力量となった火の魔力が、術者の意志を離れて落ちたということ。そうとしか仮説を立てられない。


 バーダントは火術を本職とする魔導士の魔法を、不利な木術で退けてしまうほどの魔力を放つのだ。実力差は明確であり、これ以上マグニスを暴れさせ、この存在に敵視される未来を実現させてはいけない。それがチータの判断だ。


 マグニスのすぐそばまで飛来したバーダントの動きを前に、マグニスは警戒心からさらなる力を込め、チータを勢い良く突き飛ばした。敵視するバーダントから、チータを遠ざけるためだ。いかに怒れようと、マグニスの根底にある身内を守るための判断力は死んでいない。


「……何があったの? 私も、この森で起こったことのすべてを知っているわけではないのよ」


「やかましいっ!!」


 勢い良くその手をバーダントの首にかけ、みしみしと握力を全開にして精霊の首を絞めるマグニス。瞬時表情を歪ませたバーダントにも、間違いなくそれによる苦しみは伝わっている。それでも抗わず、甘んじてその手を受け入れるバーダントの胸中には、どんな想いが渦巻いているのだろう。


「てめえの森のガキがキャルを殺しやがったんだ! 寝ぼけた口利いてんじゃねえっ!」


 大精霊の至近距離で怒鳴りつけるマグニスは、首を握った大精霊の体をその手で揺さぶって、罵倒に近い言葉を投げ続ける。今さら何しに来た、偉ぶるな、何が大精霊だ。憤慨収まらぬ絶叫を耳に叩きつけられるバーダントの目には、初めて出会った時には陽気に笑っていた男が変わり果てた姿が映っている。


 苦しみに片目閉じていても、人間と接するのが毎日でないバーダントにもわかる。マグニスの怒りは、それだけ許し難い何かが目の前に起こったからこそのものだ。草木も火を放ちかねない熱を持つマグニスの手首を握りつつ、真なる抵抗が出来ないバーダントは、そんなマグニスの想いに嘘がないとわかるからこそである。


 両手に収めたキャルとアルミナの魂を手放せないチータは、マグニスに肩を押し付けて制することしか出来ない。魔導士たる彼の行動としてはあまりにも無骨で、体いっぱいで訴えかけるチータの行動が、マグニスの止まらない激情に割って入る。長く怒鳴り続けたマグニスが、ようやく吐き出す言葉を失い、荒げた息と共に沈黙するまで、どれだけかかっただろう。


 チータがその手に握る魂の存在は、バーダントも初めから気付いている。それがマグニスの怒りの根源であるとするならば、自分はどんな言葉を彼に手向ければいい。マグニスにその首を握り潰されそうな中、バーダントはようやくその手首を握る手に力を込め、その手をふりほどこうとする。


 精霊の手は細腕で、決して強い力を生み出すものではなかった。少しだけ、ほんの少しだけ頭の冷えたマグニスが握力を緩めたからバーダントは解放されただけだ。マグニスの怒りは、眼差しを通して未だにバーダントに注がれている。


「……あの子の魂ね。今は、二つ」


 憂いを隠さぬ瞳をマグニスに向けてすぐ、チータに近付くバーダント。その手に覆われたキャルの魂、アルミナの魂に目線を送り、見下ろすバーダントの目は、決して明るいものではない。


「彼女らを、元の姿に戻すことは出来ますか」


 先ほどまでマグニスを静止していたチータが、大精霊という対象に最も尋ねたかったことを問う。強い声だ。冷静な立ち回りを意識づけていただけで、現状にはチータとて思うところは山ほどある。仮にこの大精霊にさえも、それは不可能とでも返されそうものなら、チータだってどんな心地で動き出してしまうか自分でもわからない。


「……出来るわ。だけど……」


「だけど、何だ!!」


 怒鳴りたてるマグニスのことも、バーダントは煩わしく思わない。ベラドンナとは異なり、バーダントは残された者の気持ちを汲む価値観を持っている。目の前にある、キャルとアルミナの魂が混在する姿、そしてその霊魂が抱く魂の真意を読み取るバーダントは、現状を指し示す言葉を的確に選び出す。


「……少しだけ待って。今を憂い、次なる命を目指していた魂を、もう一つの魂が現世に帰るよう引き止めようとしている」


 自らを捨てたキャルの魂に向かって飛び立った、彼女の親友の魂。アルミナの魂が持つ確かなる意志をその目に見届けたバーダントは、それを示唆する言葉を連ねていく。


「もしも、それが叶うなら……私があるべき姿をもう一度取り戻す。少しだけ、時間を頂戴」











 ここはどこだろう。真っ暗闇の光景が目の前に広がり、光なき世界。愛用の銃も、肌身離さず身につけていたマントもどこかに消え去り、何も身につけない自分の姿だけが、重力も感じられないようなこの世界でふわりと漂っている。首を回しても、どこまでも真っ暗で、暑さも寒さも感じられない世界。戸惑う想いは拭えない。


 だけど、はっきりとわかっていることがある。自分は、霊魂と化したキャルを連れ戻すためにここへ来たのだ。人の言葉で語りかけられぬ、霊魂だけの存在となってしまったキャルに想いを伝えるため、自らも霊魂のみの存在となって。ベラドンナの口付けによって我が身に受けた、この世を離れたい想いをロートスの樹の魔力を借りることで、実現させる魔力。あの時、森を駆け巡るロートスの樹の魔力により、魂だけの存在となった自分が、キャルの魂の在り処に向かって空を駆けたことは、光景としての記憶ではなく、自らの魂に刻まれた想いが記憶している。


 毎日のように自分が歩いていた世界。それらとは違う、今ここ。素肌だけになった手を漕ぎ出すと、泳ぐように確かに自分の体が進んでいく、不思議な空間だ。きっとここが、キャルの魂の中の世界なんだとアルミナは、自然とその心で受け入れ確信できていた。


 何もなく、真っ暗で、指し示す光もない暗黒の空間。それでもアルミナは、迷いなくある方向へと向かい、その体を泳がせていく。そうしようと強く意識したわけでもないのに、キャルを求めれば体が、厳密には魂だけになった自分がひとりでに動いてくれる。きっと、この先にキャルはいる。何もわからないこの真っ暗な世界で、アルミナは不安ひとつ抱くことなく無音の世界を泳ぎ続ける。


 やがて見えてきた。暗黒世界の中に一つ浮かぶ、大きなシャボン玉のような何か。キャルの霊魂世界たるここにあるそれは、いったい何なのか。本来その向こうにあるものを透かすだけのシャボン玉の中に、暗黒の世界の真っ暗闇とは違う光景が浮かんでいることに、アルミナは、アルミナの魂は引き寄せられるように、近付いていく。


「……懐かしいな」


 シャボン玉に映る、ヤエザクラの髪飾りを身につけた自分自身の顔。昔の自分は今以上にがさつなもので、マグニスあたりにもっとおしとやかにしろよと言われ、大いにへこんだことがある。そんな自分がちょっと嫌になって、"おしとやか"、"教養のある"という花言葉を持つヤエザクラの髪飾りを、なんとなく身に着けていた時期があった。今はもうそんなこともあまり気にしなくなり、はずしてしまったが、ヤエザクラの髪飾りは今でも自室に置いてある。


 そう、キャルと出会ったあの頃に身に着けていたものだ。目線を下げて、誰かに語りかけるようにするアルミナの姿を、真正面から見たような光景がシャボン玉に描かれている。この自分自身を、この目線で見た人物が誰であるかなど、一つしか答えはない。


 アルミナと初めて出会った時の、キャルの目から見た記憶。すぐにわかったアルミナは、思わずシャボン玉にその手を伸ばしていた。掌がシャボン玉に触れたその瞬間、シャボン玉から伝わってくるのは、不思議と胸が温かくなるような心地。


 この思い出をキャルが、かけがえなき温かきものとして抱きしめていることが、魂に刻まれた記憶の温かみとしてアルミナの魂に伝わるのだ。アルミナにとっても、可愛らしい妹のような後輩が初めて出来た、忘れ得ぬ思い出だった。離れるのが惜しいほど、じわりと胸を暖めてくれるシャボン玉の記憶。アルミナは目を閉じてシャボン玉から手を離すと、キャルを追う闇の旅を再開する。


 いくつものシャボン玉、キャルの記憶が目の前に現れては消えていく。どれも、キャルから見た目線での光景なのだろう。台所でそばに立つシリカ、汗を流して鍛錬に打ち込むユース、頭を撫でてくれるクロム、買い物袋を一緒に持ってくれるガンマ、陽気に笑うマグニス、自分の杖と一緒に弓を磨いてくれるチータ。キャルの思い出をその中に映し出すシャボン玉は、触れなくてもそれらがキャルにとって大事な思い出の数々であるとわかるほど、そばにいるだけで温かい。


 どうして捨ててしまうのか。こんな思い出が、いくらだってこれからも積み重ねていけたはずなのに。金色の思い出の数々に触れてしまうたび、アルミナの胸が言いようのない傷を負っていく。次第にアルミナは、点在する無数の柔らかな記憶のシャボン玉を、避けるように闇の中を進んでいくようになっていく。




 やがて、見えてしまった。どうしても、目を逸らせなかった思い出の光景だ。自室でたった二人、キャルと二人で話した時の"あの光景"が目の前に現れた時、思わずアルミナも闇の中で止まってしまう。キャルの目の前で気まずそうな顔をした自分の姿。申し訳なさを隠せないこの顔で、キャルに話したことなんて、一つしか心当たりがない。この時の自分が何を話し、こんな顔を浮かべているかなんて、無音の世界の中でも光景だけでわかってしまう。


 白状した時のことだ。キャルを、妹のように思っていると、初めて明かした日。


 このキャルの記憶に触れることは怖かった。これを聞いた時、キャルがどんな気持ちでいたかなんて、アルミナにとっては知る方が怖いのだ。だけどもしかしたら、これがキャルを傷つけた遠因であるのかもしれないと思ってしまうアルミナは、恐る恐るながらもシャボン玉に手を伸ばす。彼女がこの時の記憶を、どんな想いで受け止めていたのかに、アルミナは真正面から向き合うことを選んだ。


「……こんなのって」


 触れた瞬間、伝わってきた。妹のようだと言われた時の、キャルの胸を満たした幸せが。家族を失い、一人ぼっちになってしまった自分のことを、家族を意味する言葉で呼んでくれたアルミナに対する、言葉にできなかった感謝の念。本当に嬉しかった、幸せだった、ずっとこの日のことは忘れない。そうしたキャルの真意を、魂で真っ直ぐに受け止めたアルミナは、魂だけになった姿のその瞳に、涙さえも流れそうな痛みを感じずにいられなかった。


 てっきり、自分には失望されたと思っていたのに。だから尚更、キャルのことだけは何があっても裏切らないようにしようと決意していたのに。キャルは、何も恨んでいなかった。ただ自分の言葉を真っ直ぐに受け止めて、喜んでくれただけだったのだ。その時のキャルの幸せを魂の記憶から我が身に流し込まれるにつれ、アルミナはもう片方の手で胸元を握らずにはいられない。こんなにも胸を締め付けられることなんて、今までの人生で一度も経験したことがない。


 愛おしさが止まらなくなる。思い出を飛び立ち、アルミナの魂は闇の中を急加速して突き進む。無垢に自分の想いを受け入れてくれた彼女の魂に、今すぐにでも会いたい。そして出来ることならば、いや、必ずかつてと同じ形で向き合いたい。そんな想いが、キャルの霊魂世界の中をさまようアルミナの魂を、前へ前へと押し出すのだ。


 周囲に漂う無数のシャボン玉。その中に浮かぶ金色の思い出の数々に、アルミナは振り返らない。光を求めて真っ直ぐに駆ける彼女の魂こそ、闇の中に浮かぶ一筋の光のように尾を引いた。

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