第160話 ~アルボル③ 悪夢の連鎖~
体躯を縮めたベラドンナは、先ほどまでほどの速度を出せない自分に焦っていた。この世に顕現していた肉体の多く、自分自身を構成していた魔力の殆どは、マグニスの炎に焼き尽くされ、残されたあの片手ひとつぶんの魔力しか残らなかった。それで何とか、キャルの魂を捕まえて飛翔できるだけの肉体を維持しているが、速度を上げるために注ぐ魔力が頭打ちだ。健常の自分に後方から差し迫ってきていた追っ手の速度を思い返すたび、マナガルムが稼いでくれた時間によって作った距離も、じきに詰まってくるであることが想定できてしまう。
風を咲く音とともに、小さな何かが自分に向かってくる気配を感じ取った瞬間の、ベラドンナの胸を貫いた悪寒は計り知れない。人の掌に乗れるほどの大きさの今のベラドンナにとっては、自分に直撃すれば致命傷となる、高速衝突目指して突っ込んでくる銃弾を、旋回飛行するベラドンナがあわやのところで回避する。
極小の的を、駆けながらにして実に正確に狙い撃つアルミナの足が自分すぐ近くまで迫ってきている。振り返る余裕もない。おそらく火術の使い手である赤毛の人間もじきに追いついてくるだろう。地上から離れるべく、高度を上げるために注ぐ魔力も今は惜しい。高度の維持と、前方へのベクトルに全魔力をつぎ込んで、振り返らず後方からの気配に全神経を傾けたベラドンナが加速する。
ロートスの樹はすぐそばだ。逃げ切る。それしかない。
「火蛇砲」
振り返らずとも背筋を凍らせる膨大な魔力が後方に集い、それによって放たれる巨大なる炎の砲撃に、ベラドンナは顔面を蒼白にして急下降する。人間をそのまま呑み込める程の太い砲撃を描く炎は、今の小さなベラドンナにとってはあまりにも巨大であり、襲い掛かる速度も相まって回避は不可能だ。自らまるまる焼き払う炎の直撃を覚悟したベラドンナは、胸元のキャルの魂を両腕で強く抱きしめ、小さな背中を壁にするように抱え込んだ。
巨大な炎が今のベラドンナを包み込めば、キャルの魂も炎の中だ。マグニスもわかっている。巨大な炎の砲撃はベラドンナ背後まで到達し、妖精を呑み込む寸前にして突然の凝縮。そして直後に起こった火炎の大爆発により生じた熱風が、ベラドンナを激熱とともに吹き飛ばす。炎が持つ熱のエネルギーは周囲に爆散し、暗い夜の森も一瞬で眩しくなるほど、周囲の木々を焼き払う。
「チータ! キャルの魂はどこだ! 探せるか!?」
「すぐにでも……!」
見失ったキャルの霊魂を探査すべく、一時目を閉じ立ち止まるチータ。アルボルの樹齢高き木々の数々が醸し出す魔力はノイズだが、一度記憶した、キャルの霊魂から漂う魔力だけは忘れない。唯一無二の揺らめき。魔導士としての第6感を研ぎ澄ましたチータのセンサーは、ほどなくして一つの気配を見つけた。
だが、遠い。そして速い。宙を漂うキャルの魂の気配は、ベラドンナが向かっていた方角と同じ向きへ突き進んでいる。今のマグニスの爆撃でも、ベラドンナはキャルの霊魂を落とさなかったのか。急ぐ想いを無言のままに足に込めたチータがそれを追う。アルミナもすぐに後を追う。
思わずアルミナが足を止めたのは、暗い森の中で木の幹にぶつかり、ぽとりと地面に落ちた何かが視界の端に入ったからだ。普通なら羽虫かとでも思って見過ごすはずのところだったが、木々の隙間から差し込む月明かりによって照らされた蒼い花弁は、先ほどまで自分が必死に追い求めていたものに酷似している。
這いつくばるようにして、ふるふると体を震わせながら体を起こそうとするベラドンナ。その目の前にふっと落ちてきた大きな影には彼女もぞっとしたが、目の前にいたのは怖い火術士ではない。ひざまずいて自分の横に二つの手を置き、息を荒げたアルミナだ。
「キャルは……!? キャルはどうしたの!?」
怒りと憎しみいっぱいで自分を追いかけてきたマグニスとは異なり、救いを請うような目で自らに訴えかけてくるアルミナの姿を前にして、ベラドンナも返す言葉を失ってしまう。敵愾心いっぱいの目を注がれればまだ反発も出来よう。そんな眼差しで震える声を放たれたら、誰であっても暗い答えを返すことは憚られてしまうだろう。
ねえ、ねえ、と徐々に大きくなる声を、まくしたてるように何度も叫んだ末、地面に両手を置いたままうつむいてしまうアルミナ。もう、その喉の奥からかすれた声も溢れない。荒げた息声も途絶え、地面を握り締めて大粒の涙を落とし始める姿は、きっと小隊の仲間達にも見せたことの無い、絶望を隠しきれない表情だ。
「あ、あの子はもう、行っちゃったわよ……ロートスの樹へ……」
「やだ……やだよ……止めてよお、っ……! 私、キャルとさよならしたくない……!」
子供心僅か残れども、独り立ちする年頃の者が、駄々をこねる子供のように想いの真を、単調な言葉で唱えることしか出来ない。そんなことが長い人生の中でどれだけあるだろう。キャルの魂に直接触れて、彼女の苦しみを最も強い形で知ったベラドンナでさえ、今のアルミナの魂の苦しみが、触れずして伝わってくる切実さがそこにある。
アルボルに迷い込みし、苦しむ魂への救いを己の生きる道。ロートスの樹とはそのためにあり、そこに咲いた妖精たるベラドンナの心に天秤が現れる。キャルの魂の救済を我が正義として駆け抜けてきた、ベラドンナの目の前にある魂もまた、キャルを求めて壊れそうな傷を負った繊細なるもの。
救うべきは何か。答えは出せない。自らの手で紡ぎ出すしかない。意を決して顔を上げたベラドンナは、涙でくしゃくしゃになったアルミナと向き合い、その口を開いた。
攻撃性をあらわにしたマナガルムという魔物がいかに恐ろしいか。一瞬たりとも息つく暇もないマナガルムの猛攻を前にして、シリカもユースも短い時間で体力を使い果たしそうだ。
マナガルムの牙がシリカに襲い掛かり、後方に跳んで逃れたシリカの横から、前足を軸にしたマナガルムの回転する巨体が迫り来る。獅子のような巨体を回転させて生じる円弧は突風さえも起こしそうな勢いでシリカに迫り、その横っ腹での体当たりで人間を轢き飛ばそうとする攻撃は型破りだ。シリカには咄嗟の跳躍による回避しか道が無い。
回転する体が向かいくるユースと向き合った瞬間に後ろ足で踏ん張り、動きを止めたマナガルムは咆哮を放つ。それに伴いマナガルムの魔力が生み出す突風は、果敢に魔物へ突き進んでいたユースの勢いすら食い止める凄まじいもので、浮きそうな体を踏ん張ってこらえたユースが、その場にかろうじて留まる形になる。前進も後退もなくなったその一瞬。
大口を開いたマナガルムの猛進に、肝も凍る想いで後方に地を蹴るユースの判断は勇断だ。一瞬前に後方に吹き飛ばされそうな風を受けた直後、この決断はなかなか出来ない。それを含んでのマナガルムの牙を回避しただけでも上出来だが、ユース眼前で牙を打ち鳴らしたマナガルムの鼻先が、振り上げる棍棒のようにユースへとすぐさま突き上げられる。
間髪入れないその攻撃に盾を構えたユースだが、ここ最近怪物どもとの戦いばかりで癖になりかけていた、英雄の双腕の魔力を咄嗟に盾に纏わせたのが正解だった。ただの鼻先での突き上げが、まるで巨人の鉄拳のような重みを持つものであると、緩衝の魔力が腕にまで伝えてきたからだ。それを証明するかのように、後方上空に吹き飛ばされるユースの目線がマナガルムから離れないのもまた、向き合う獲物からマナガルムの視線を奪うための重要なファクターだ。
だが、そんな細やかな戦場の駆け引きもマナガルムには通じない。ユースが信じていたとおり、自分を突き飛ばしたマナガルムへと、樹上の枝を蹴って後方から騎士剣を構えたシリカは飛来することは現実のものとなった。はっきりとユースと目を合わせたまま、後方上空から迫るシリカへと的確な後ろ蹴りを放つマナガルムの察知能力さえなければ、その強襲で勝負がついていたかもしれないのに。
真っ直ぐに自らへと突き出されるマナガルムの後ろ足に対し、剣を横に構えて守る動きに切り替えるシリカ。正面衝突の瞬間、絶妙に身をよじることで、真っ向から全身を貫いていたであろう衝撃から逃れたシリカは、きゅるきゅるとその身を回しながら地面へ落ちていく。着地の瞬間のシリカへと、素早く身を翻したマナガルムが大口を開いて飛びかかるが、滅茶苦茶な空中姿勢から地面に辿り着いた瞬間に地に足を着け、シリカはマナガルムの牙を跳躍して回避。さらにはその際振り上げた剣で、あわよくばマナガルムの鼻先を真っ二つにせん一撃を放っている。
至近距離の騎士剣のスイングを見受けたマナガルムは口を閉じきる閉じきらぬかのタイミングで、即座首ごと大きく外に逃がし、シリカの騎士剣を回避する。自らの真上を通過し、後方に跳び行くシリカへとそのまま顔を向け、視野に入れた法騎士目がけて風の刃を無数放つマナガルム。サイコウルフのように、自らの肩口に集めた魔力を、あらゆるものを切り裂く風の刃として撃ち出すその魔法が、着地の瞬間のシリカに差し向けられるのだ。地を駆けて回避するシリカを追うように、撃ち出す風の刃の発射方向を自在操作するマナガルムだが、これはまだ怪物の猛攻の序の口に過ぎない。
シリカを狙い撃つのに傾倒すると見えたマナガルムに、死角方向から駆け迫るユースが、マナガルムの胴体目がけて剣を振りかぶる。気配からそれを察したマナガルムは素早く前方に踏み出して回避、着地までの短い間、すでにユースに向き直る機敏さを持つマナガルムは、ユース目がけて無数の真空の刃を撃ち放つ。
真正面から散弾銃のように襲い掛かる真空の刃は恐ろしい迫力だが、果敢に前進するユースの動きはマナガルムの想定やや外。頬をかすめそうな真空の刃にも怯まず、喉を狙う刃をかがんでかわし、腕の筋を断つ風を最小のぶれる動きで回避して、全速力に近い速度で自らに迫り来る人間の姿。マナガルムにとっては脅威たる存在の攻撃としてはっきり映る。
それにびびって逃げの一手を打たないマナガルムも、それを迎え撃つだけの地力がある。自身において最強の攻撃力を持つ牙の一撃をユースに向かわせ、口の中に納まるのではないかという瞬間にユースは身を横に逃がす。ほぼ同時に振り上げた騎士剣が、マナガルムの頬に向かって襲い掛かるが、大きく首を振るったマナガルムがそのスイングを回避。直後見定めた瞳に映るユースに向かって、大きな前足で踏みつけるように蹴りを放ってくる。相手がケルベロスほどの魔物でも決まっていたはずの一撃をかわし、さらには最短の反撃を放ってくるマナガルムに、ユースの反応が追いつききらない。
構えた盾にユースが込めた、緩衝のための魔力は不充分だ。それでも馬のような脚力で蹴り出される一撃を防げたのだから、戦いの日々から魂に沁みついたものは活きただろう。だが、上方から突き出されたあまりにも重い一撃に腕をみしつかせながら、地面に向かって押し飛ばされるユースは腰から砕け、地面に背中を打ち付ける流れに沿って後頭部を地面まで持っていかれる形だ。
とどめとばかりにユースへと無数の刃を放つマナガルムだが、度重なる死闘の日々の中、こんな形で地面に叩き飛ばされることの多かったユースは、地面に後頭部を転がす形で後転するようにマナガルムから離れる。距離を稼いだのちに最速で立ち上がり、追撃の刃を視界に入れた瞬間にユースは盾を構えた。今度こそ英雄の双腕の魔力を全力で展開し、盾を中心に傘のように発生する防御の魔力が、無数の風の刃をはじき返す。自分の身は自分で守る、昔からユースが目指してきたことだ。
一人じゃない、敵を討つのは自分でなくても構わない。誰よりも信頼する、剣を形にしたようなあの人が必ず勝利をもぎ取ってくれるはず。ユースへの攻撃に傾倒しかけたマナガルムの側面から迫るその人物は、ユースより速く鋭く魔物に差し迫る。前足の付け根めがけて振るった騎士剣を横っ飛びに回避したマナガルムの動きも読んでいたかのごとく、減速ひとつせず追撃の刃を振るうシリカの猛襲だ。
続きシリカの振りかぶる2閃の剣を、各々短いバックステップで回避した末、マナガルムは向き合ったシリカめがけて咆哮を、突風を放つ。来ると感じた瞬間に勢いよく地面を蹴ったシリカの動きがマナガルムの大口の前で押し戻されそうになるが、届けと振り降ろした剣はマナガルムの下顎の歯茎に差し掛かった。直後にシリカがマナガルムの起こした突風によって後方に吹き飛ばされるが、敏感な口内の神経ともども、下顎先端をわずかに両断された痛みには、流石のマナガルムも口を閉じて顔を下げてしまう。
この一瞬の隙があまりにも大きい。あの人ならやってくれると信じていた想いが、迷わずマナガルムへとユースを直進させていた。難敵が僅かに垣間見せた怯みへと闇をくぐるユースの騎士剣は、一手遅れて自らへの刃に気付いたマナガルムの左頬へと真っ直ぐ突き向かう。それでも巨大な頭を振り上げ回避、ユースへ前足を振り下ろして反撃してくるだけでも、マナガルムという怪物の反応高さは賞賛に値する。
何が来たって一撃防ぐ。ユースの構えた英雄の双腕の魔力を凝縮させた盾は、襲い来るマナガルムの大足の重みを確かに食い止めた。さらにその右足を、内股目がけて盾を振るうことで大きくぶらし、前足1本をあらぬ方向に曲げられたマナガルムは大きくその身を傾かせる。倒れる。
マナガルムの眼差しがはっきりとユースに向き、鋭い眼光は卑小な命ならそれだけで足止めを成功させる威圧感を放つ。ユースは怯まない。傾いて地面に倒れていくマナガルムの顔面めがけて地を蹴ったユース、それに対して閉じた歯の隙間から真空の刃を放つマナガルム。捨て身の人間、決死の怪物、一歩違えばどちらにも勝利ありし交錯が、この一瞬にある。
マナガルムの刃はユースの左肩と右脇腹をかすめた。痛みも意識しないユースの剣は勢い良く振り下ろされ、マナガルムの額へと勢い良く突き立てられた。倒れかけて地面に吸い寄せられるマナガルム、飛翔真っ只中のユース、ベクトルばらばらの中でも力を込めて剣を振るうユースの力が、マナガルムの顔面を額から縦に裂く深い傷を残す。
剣がマナガルムから抜けて、自らはマナガルムから離れた方向へと着地に向かう一方、先に重々しい音を立てて地面に辿り着いたのはマナガルムの頭だ。同時に胴体も草木をかきわけ地面にずしんと倒れた音は、巨人の討伐を思わせるほどのものであり、無意識下ではユースも今ので勝負ありと考えてしまっていたのかもしれない。
「ユース!! 構え……」
それでもすぐに敵に向き直っていたから、まだ最悪の事態は避けられた。地面に頬をこすりつけたまま吠えたマナガルムは、突風によってユースの肉体を吹き飛ばし、その中に紛れて放たれる真空の刃が、突風の風速を超えてユースへと襲い掛かっている。
強風によって途切れたシリカの叫び声のまま、盾を構えて魔力を展開していなかったら、喉元めがけて飛んでくる真空の刃によって致命傷を負っていただろう。唐突すぎた突風に空中姿勢を保ちきれないユースの体は、その真空の刃を盾で受け止めた瞬間にベクトルを得、本人の望まぬ形で空中で転がされる形になる。首と頭、体だけはなんとか守ろうと必死で縦の位置を維持したユースの意志をかいくぐり、右肩を、膝上を、肘先を真空の刃が切り裂いてくる。思うようにいかない時に傷つけられた痛みは、極限勝負の状況下とは異なり痛烈なものだ。
浅い傷でも全身を傷つけられた怯みから、ユースは後方の樹の幹に背中から叩きつけられる形で落ち着けるのが精一杯だった。頭から突っ込むよりはまだましだ。それでも肺を貫くこの衝撃に耐えて、敵を見定め直さなくてはならない地獄は、何度経験しても慣れない。
案じる眼差しを一瞬ユースに注ぎながらも、すぐに遠方のマナガルムに視線を戻すシリカ。怪物は怒りを目に宿してにじり寄ってくる。額から縦にばっさりと切り裂かれた深い傷から溢れる血で、その鼻先までを真っ赤に染めたマナガルムは、その生命力も形相も、まさに神話で描かれるような超獣の姿そのものだ。それも語られる神話性とは遥かかけ離れた、悪魔的な殺意伴う形相に抱く感情は、戦慄以上に似合う言葉が無い。
頭を振って眼差しをマナガルムに向け直したユースへのノイズ。黒のウェア一枚来ただけの上半身に対し、両肩を傷つけられた勢いで、鎖骨にかかっていた2本の衣服が切り裂かれている。肩にしがみつく支えを失った衣服は、ユースの胸より上をはだけさせるようにぐったりと落ち、森を駆け抜ける風になびいてはためいている。
邪魔になる。脇腹を傷つけられた衣服の裂け目に指をかけ、ユースは上半身を纏う唯一の衣服を破り捨てた。激戦の中でそれを踏んで足を滑らさないよう、そばにあった木の根元にそれを投げ捨てると、改めてマナガルムに剣を向けて対峙する。完全に露出した上半身、随所に浴びせられた風の刃による血の流れにも意識を向けず、今日まで培ってきた力を信じて勝負を決めにかかる時だ。
(貴様らを進ませはせぬ……! かの少女に報いるためだ……!)
意志をあえて口にするのは、不退転の覚悟をこの世に顕現させるための、マナガルムの闘志の魔法の詠唱のようなもの。地を蹴り騎士二人に飛びかかるマナガルムの鋭い牙は、口元から、額から溢れる血に濡れて、月明かりの下鈍く輝いた。
キャルの魂の動きに柔軟性がない。真っ直ぐに、ある方向に向けて直進している。ベラドンナが抱えて生物的な飛翔を為していた時のように、風に乗るような滑空軌道がない。木々などの最低限の障害物だけを避ける愚直な動きには、地を駆けながらチータも嫌な胸騒ぎが収まらない。
その予感を的中させるかの如く、木々の間を駆け抜けたチータの目の前にそびえる大樹。そしてその大樹を中心に大きく開けたその空間、見上げる先には小さな蛍のような淡い光を放つもの。キャルの魂が、あの大樹に向かってひとりでに向かっていることから、これがまさか、という推測が一瞬で先立つ。
「っ、開門! 強風術!!」
考えている暇などなかった。あれがもしも、ロートスの樹と呼ばれるものなら。それに引き寄せられるように近付くキャルの魂があれに触れてしまったら。取り返しのつかない未来への回避を願うチータの魔力は、キャルの魂の向かう先に緑色の亀裂を開き、真正面からキャルの魂を押し返す風を吹き出す。
物理的な概念でその存在に干渉できない霊魂も、魔力を伴う、それもかの魂を引き止めたいという意志が強く込められた魔力、それによって生じた風なら無視できない。目指す大樹を前にして、行く手を遮る風に押し返されたキャルの霊魂に、飛翔の魔力を靴先に集めたチータがすぐ迫る。
キャルの弓、髪飾りを地面に置いて空いた左手でキャルの魂をキャッチし、杖を握る手にも魔力を込めて優しく包むチータ。傷つけてはいけないこれを手中に取り戻したことに感じた一瞬の安堵もさておき、チータはこの開けた空間にそびえ立つ大樹を睨みつける。
「……この樹がそうなのか」
空中に身を置くチータの横に並ぶのは、靴先に火車を携えたマグニスだ。とてつもなく太い幹と、それにも勝って大きく生い茂る緑の葉を、無限に頭に抱えること以外、周囲と何ら変わらぬ風貌の大樹。魔力の揺らめきに敏感な二人の肌を刺激する、大樹から放たれる特濃の魔力だけで、これがただならぬ存在であることを物語ってくる。だからマグニスも一瞬で、これがロートスの樹と呼ばれる大樹であるとは確信できた。
「キャルは?」
「……ここにいます」
ある、ではなく、いる。再びかつての彼女を取り戻すことを、チータは今でも諦めていない。何か手段が必ずあるはずだ。エルアーティは、魂から元の人間の姿を取り戻すすべを、不完全ながらも実践してくれていたではないか。奇跡はこの世に存在する。すべてを諦めるのは、これを手元から失ってからでいい。
「……チータ。キャルはそこにいるの?」
地上を駆けてきたもう一つの影。聞き慣れた声に目線を落としたチータの前には、息を切らしたアルミナの姿があった。体力自慢の彼女がこれだけ汗びっしょりで肩を上下させる姿だけで、どれだけ必死でここまで駆けてきたかが見てとれる。
「ああ、キャルの魂は取り戻した。後は元の姿に戻す手段を探すだけだ」
両手の指を僅かに開き、中に収めたキャルの魂が放つ光をアルミナの前に見せるチータ。絶対にこの手から放さない。そうした意志を敢えて眼差しに込めるのは、気が気でないあろうアルミナを少しでも安心させるためのものだ。
「……ありがとう、チータ。まだ、間に合うかもしれない」
血色の悪くなった顔色で、僅かに小さく笑ったアルミナを見たマグニスが、背筋が凍りつきそうなほど身の毛をよだたせた。銃を握るアルミナの右手はまだいい。左手の指の隙間から、上空のチータの手中に収められたキャルの魂を見上げる、ベラドンナの姿が目に入ったからだ。
「おいアルミナ、何してやがる!! そんな奴連れて……」
「マグニスさん!!」
怒号に近い声を放つマグニスを一喝して止めたのが、他ならぬアルミナという不可解。思わず言葉を途中で無くしたマグニスだが、直後アルミナの足元から突然生い茂り始めた植物の姿には、別の意味で言葉を失ってしまう。
「……絶対、なんとかしてみせます。少しだけ……少しだけ、待ってて下さいね」
キャルの魂は現世を捨て去り、新たな命として生まれ変わることを望んでいる。里を失い、家族を失い、何もなかった自分を受け入れ、幸せで満たしてくれた家族達に、何も報いることが出来ない自分を悲観して。あまつさえ自分を守るため、大好きなアルミナが傷つくことも多い現実に絶望して。
魂が持つ転生への意志は誰にも止められない。たとえどのような奇跡的な魔力がこの世に存在しても、再びキャルとしてこの世に舞い戻る意志を魂が持たぬ限り、かの魂は元の姿に帰りたがらない。それこそ、大精霊バーダントほどの絶大なる魔力を以ってしてもだ。
魂に声は届かない。いくら叫んでも、訴えても、肉体と魂には決して接せない隔たりがある。キャルの魂を元のあるべき姿に戻したいというアルミナ達の主張は、絶対に叶わない。次なる転生へと望む、キャルの魂が持つ意志を変える要因。それは現世にある命の声では届かない。
霊魂が持つ意志にはたらきかけられるのは霊魂だけ。それが、キャルを元の姿に戻したいと訴え続けたアルミナに、ベラドンナの返した答えだった。
アルミナの全身を、地表から生い茂った無数の植物が包み込み、やがてそれが力なく地面へとしなびたその先に、アルミナの姿はなかった。チータは一度、同じような光景を目にしている。だからこそ今、目の前で起こった光景の意味がはっきりとわかり、彼女が愛用していた銃だけが落ちたその場所から飛び立つ、淡い光を放つものが何かもすぐわかる。
あまりの光景に、アルミナが消えた位置から地表近くへ滑空し、ロートスの樹へと飛んでいく怨敵ベラドンナの姿も、マグニスは目で追えていない。頭が真っ白になる。キャルだけでなく、アルミナまで。次々と家族のように愛した仲間が目の前から消えていく光景は、言葉では言い表せぬ失意を胸に落とし込む。
アルミナがいなくなった場所から飛び立つ彼女の魂は、勢いよくチータへと飛来し、彼の指の間を突っ切ってキャルの魂へと肌を合わせた。その動きによって我を取り戻したチータだが、ふっと隣に立つマグニスはそれをも目で追っていない。その目が今、何を見据えているのかもわからない、虚ろな目。
ふっと顔を上げたマグニスの、長髪の赤毛がばさりと踊り、月明かりの下でマグニスの目の色がチータの眼前に晒される。一瞬でわかった、これはまずい。
「マグニスさ……」
呼びかけたチータも一瞬で言葉を呑み込んでしまうほど、直後マグニスの全身から溢れ出る絶大な魔力。彼の周囲に何が現れたわけでもないのに、危ない、と思って距離をとってしまうほど。魔力だけで肌が焼かれるかと思ったその一瞬から、キャルの魂を守るように手を引かずにはいられない。
元から底知れない魔力を潜在していると感じていた人だ。それが怒りに我を忘れた結果、魔力を抑える精神の蓋を失えばどれほどの魔力がこの世に現れるのか。平穏時には興味深かったマグニスの本気だが、現実として目の当たりにしそうになったここに来て、チータの好奇心も吹き飛んだ。
「……全部、あの樹のせいだよなぁ」
災害の予感。マグニスの全身を包み込むように発生する業火は、据わった眼差しでロートスの樹を見やるマグニスの首の動きに合わせ、まるで竜を象るかのように形を変える。距離をとったこの場所でも、火傷しそうな激熱を放つマグニスの炎は、その中心で摂氏何百度の熱を放っているのだろう。
「消え失せろ……!」
炎竜を象るマグニスの業火が、ロートスの樹へと飛来する。雄牛をも呑み込めるほどの大口を開いた竜を描く炎は、マグニスの憎むロートスの樹を、一瞬で炭に変えん意志と共に宙を駆け抜けた。
まさにその時だ。ロートスの樹とマグニスの炎竜の間に、突如集いし無数の木の葉。それは一瞬で葉を編んだような巨大な壁へと姿を飼え、植物など意にも介さず貫き焼き払うマグニスの炎を、なんとその身で受け止めた。さらには、それでもなお障害物を突き抜けて、対象を焼き払おうとする炎竜を、まるで包み込むように葉で編まれた巨大な壁が飲み込み、空中で巨大な火の玉となって燃え上がる。
ロートスの樹の前にてたたずみ、樹に届かず燃え盛る火の玉。それを背中に背負うように現れた一つの影。人間的なシルエットは業火の放つ逆行によって際立ち、その顔色がうかがえぬ姿にマグニスが鋭い視線を向ける。その怒りは収まらない。
火球が葉の壁を焼き尽くして消えたその時、月明かりに照らされた精霊の表情が人類の前にようやく晒された。怪訝な瞳でマグニスとチータを見比べ、地面に落ちた弓と銃、スイートピーの髪飾りを見やった精霊は、再び空中の人間に視線を戻す。
「……何があったの?」
アルボルの主、バーダント。陽気あるいは気さくな表情しか人前に晒したことのなかった大精霊は、森に火を放つほどの怒りを胸に抱く人間を視界の中心に捉え、穏やかでない眼差しでそう言った。




