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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第10章  深き緑の鎮魂歌~レクイエム~
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第159話  ~アルボル② 恩を返すために敵対する~



 ベラドンナの滑空速度は速い。だが、マグニスはさらに速い。地に明るいベラドンナの、要領の良い飛行ルートの選択力を差し引いてなお、ベラドンナへの距離を詰めるマグニスは、すぐそばに迫った一時に腰元のナイフを抜く。後方すぐで、鞘からナイフが抜かれるかすれ音がした瞬間のベラドンナの恐怖は言いようのないものだ。


 マグニスが己に迫ったその瞬間、ほぼ直角に進行方向を折って追っ手を振り切ろうとしたベラドンナであったが、的確に自らを追うマグニスからは逃れられない。炎熱を纏う凶刃をマグニスがベラドンナの首元に後方上から振りかぶったその瞬間、ベラドンナは大きく前かがみに頭を下げてなんとか回避。しかしそんなベラドンナを、後方地上から銃弾で狙い撃つ銃士がいる。


 背中から胸元まで貫く弾丸を受けたベラドンナは、声にならない悲鳴をあげて空中で体勢を崩す。きりもみ回転するように体全体の動きを狂わせたベラドンナは重力に引き寄せられ、地表近くでぎりぎり体勢を整えた。だが、上空から迫ったマグニスがベラドンナの後頭部を掴むと、落下速度も伴って、ベラドンナの顔面を勢いよく地面に叩きつける。


 妖精に性別などなかろうが、少女のような風貌相手にあまりに無慈悲な一撃だ。いかにマグニスが、現状のベラドンナに怒りを抱いているかを体現するような光景である。


「今すぐキャルを元に戻せ。さもねえとてめえをこの場で炭にしてやる」


 ぐいっと髪を掴んで妖精の顔を地面から引き剥がすマグニスと、咳き込みながら左手で顔についた土を拭うベラドンナ。地面に汚された以外はまったく傷がない顔のままで、アルミナに撃ち抜かれた体の傷跡からも血が流れていない。妖精は体のつくりも本質も、人間のそれとは全く違うものだ。


「むっ、無理よぉ……! この子が望んでな……」


 ベラドンナの言葉が途中で途切れ、代わりに裏返った短い悲鳴に変わったのは、腰を踏みつけ髪を引き逸らしたベラドンナの背中に、マグニスが掌を当てたからだ。炎術士の掌に集められた炎の魔力は、常人ならばすでに火傷するような熱で、ベラドンナの肌を焼く。


「マグニスさん、それ以上は……!」


「黙ってろチータ。何も喋るな」


 マグニスにはベラドンナを殺せない。魂だけの形とされたキャルを、再びもとに戻す方法がわからないからだ。その答えをベラドンナから、命奪わず拷問にかけてでも聞き出したいマグニスだが、それを口にするわけにはいかない。命を奪われることはない、と思われたら、ベラドンナの口が固くなるかもしれない。


「……もう、キャルを元の姿には戻せないのか?」


 マグニスの背中に追いついたシリカは、彼女の体力には似合わず息を切らしている。想定していた最悪の一つを、まるで示唆するようなベラドンナの言葉に、記憶の中に残ったキャルの姿が遠ざかっていく。強情で気の強い法騎士が、少し震えたような声を放ったことを後ろに感じたベラドンナは、背中の熱に苦しむ片目を開き、シリカの表情を片目の端に映す。


 怒りよりも失意に染まりかけたシリカの表情は、ベラドンナの胸を突き刺した。そもそもベラドンナの目的は、人間を苦しめることではない。人間好きを公言する妖精にとって、打ちひしがれた人間の姿は胸を痛めるものである。


「も……っ、元に戻せないわけじゃない、けど……! この子はそれを望んでない……!」


 絶望に光を返しつつ、頑とした自らの意志を言い放つベラドンナ。キャルの魂を捕まえていると思しき右手は、力を込めて強張りつつも、手の中にある彼女の魂を握り潰さない空洞が指の隙間から伺える。その指の隙間から溢れるキャルの魂の淡い光が、シリカ達の希望そのものだ。


「この子の魂が心変わらない限り、魂は元の姿を望まない……! たとえバーダント様の力を借りても、望まぬ魂を再びもとの姿に戻すことは出来ないの……!」


「この野郎……」


「待て! マグニス、やめ……」


「いやあああっ!? 熱いっ、熱いいいいいいっ!!」


 マグニスの掌から放たれる高熱が、ベラドンナの肉体の真まで焼けるような痛みを突き刺す。左手でばたばたと地面を叩いてもがくベラドンナ、抑えきれぬ激情で憎き妖精を苦しめるマグニス、悲痛な叫びにマグニスの手首を握るシリカ。手首を掴んだだけでも伝わるその高熱は、握った瞬間にシリカも片目をつぶらずにはいられないほど凄まじい。


 自身がどんな高熱を顕現させているかを把握するマグニスは、手首を離さないシリカの手を守るため掌の熱を鎮める。背中から我が身を苦しめていた地獄の高温から開放されたベラドンナは、ぐったりと左手を地面にだらけさせて息を荒くする。見開いた目は数秒前の苦しみが魂の記憶にまで刻まれた表れで、マグニスが彼女の髪を掴んでいなかったら、ベラドンナは上半身ごと力なく地面に倒れ伏せていただろう。


「どうしてキャルが私達と一緒を拒むのよおっ! 教えてよ! そこまで言うんならわかるでしょ!?」


 ベラドンナの眼前に立ったアルミナが、静かな森に響き渡る絶叫に近い声で訴える。顔を引き上げられたベラドンナの瞳に映るのは、シリカ以上に息を荒げて目に涙を浮かべるアルミナだ。いかに彼女がキャルを目の前から失った事に取り乱しているのかなんて、世間知らずの妖精にだってよく伝わる。


 キャルの魂を握るベラドンナは答えを知っている。魂の願いを聞き取り、その願いを叶えようとするロートスの樹、その木が生んだ妖精のベラドンナは、キャルの魂に(じか)に触れる今、人であった頃の彼女の望みをはっきりと脳裏に答えを聞くことができる。そしてその答えのひとつ、キャルに最も近しかった彼女も引き金であったことを知っている。


「あ……っ、あなたが、一番の理由なのよ……」


 アルミナの瞳を真っ直ぐ見据えて言い放つベラドンナの言葉に、第14小隊全員が言葉を失った。最も頭が真っ白になったのは、勿論アルミナだ。


「こ、この子は……ずっと自分が、あなた達の枷になっていると……あなた達に救われ、守られ、その度に何も返せない自分が嫌で……ずっと苦しんで……」


 マグニスに体を逸らされ、苦しい声ながらもはっきりとそう語るベラドンナ。耳を疑うようなキャルの代弁者の言葉に、誰もが硬直したように動けない。


「あなたが、アルミナなのね……この子はあなたのことが、一番好きで……ずうっとあなたに守られ、あなたが傷つくたび、自分なんてここにいてはいけないと……何度も、何度も……」


 よろりと後ろにふらついたアルミナを、そばにいたユースが肩を握って支える。その手が無ければ、本当にその場で腰から崩れ落ちていたかもしれない。頭が追いついていないのに、自分がキャルをそうさせた原因だという追及だけが、アルミナの胸の奥を抉り取る。


「っ、この子はもう、あなた達のそばに戻ることを望んでないの……! だからもう――」


 瞬時、ぶち切れたマグニスが掌から放つ炎を燃え上がらせた。思わずシリカも手放してしまうほどの熱炎は、悲鳴さえ上げさせないままにベラドンナの全身を炎に包みこむ。後ずさるシリカとチータ、茫然自失のアルミナを燃え盛るベラドンナから引き離すユース。捕えたままの妖精とともに炎の中に身を置き、殺意しかない眼光を見開いたマグニス。赤毛の優男だった彼の姿は今どこにもなく、身内を脅かす敵に対する憎しみのみに染まったその姿には、マグニスと親しかったチータも身震いするほどだ。


 いかに怒りに身を任せようと、最後の理性でマグニスの絞った炎は、ベラドンナの右手だけをその身に包まない。妖精の全身が消し炭となって崩れ落ちる一方で、キャルの魂を握る手だけがその場所に残る結果になる。切り落とされた手首だけが地面に転がるような、嫌な光景だ。


「マグニス……」


「信じるな! アルミナもしっかりしろ! キャルの魂は取り返したんだぞ!!」


 空虚な想いを胸に抱えるのはシリカも同じ。ずっと家族同然のように暮らしてきて、そばにいてくれるだけで温かかった彼女なのに。ベラドンナの言葉が真実ならば、共に過ごせさえ出来ればそれだけでよかったという、シリカの真意は彼女に届いていなかったのか。ベラドンナの語ったことが本当ならば、たとえ届いていたとしてもキャルはそれを拒絶したということなのか。


 銃を握り締めてうつむき、かたかたと全身を震わせるアルミナに駆け寄るマグニス。今の精神状態が最も危ういのはそこだ。ベラドンナは、口付けの(まじな)いをアルミナにもかけていた。何かの間違いでアルミナまでが、キャルと同じ道を辿ってしまうという最悪を、マグニスは危惧してやまない。




「っ……!」




 だが、マグニスがアルミナに駆け寄ったその瞬間。彼が地面に残されたベラドンナの手に背を向けた瞬間のことだった。キャルの魂を捕まえていたベラドンナの手が、突如宙に高く上がったのだ。それを目で追うチータだが、魔法で食い止めようとした矢先、その手の中にあるキャルの魂を傷つける恐れから魔法を放てない。


 ユースの目線が急に動いたことに、マグニスは振り返る。その時にはすでに、その手に無数の蒼い花弁が集まり、キャルの魂を握った手が花弁に包まれていた。次の瞬間、花弁がパンとはじけて散ったその中にあったのは、手首より下の手の変わりに、光り輝く小さなキャルの魂を抱きかかえた、小さな小さな妖精の姿。


 姿形はベラドンナと何も変わらない。ただ、人の手と同じほどの小ささになってまっただけだ。体躯を縮めたベラドンナは、手中にキャルの魂を収めることが出来ず、両腕で抱きしめるようにしてキャルの魂を抱えている。


「救ってあげなきゃいけないの……! あなた達には出来ない! 私達にしか出来ない!」


 羽虫のように自らを飛翔させ、シリカ達から離れていくベラドンナ。キャルの魂を持ち去る盗人の小さな後ろ姿に、沸点超えたマグニスは靴裏に火球を生じさせる。次に捕まえた時は、もしかしたらベラドンナの握る魂ごと焼き払うほど、抑えが利かないかもしれない。


 その時だ。そのマグニスを、真横から貫く凄まじい風。咆哮のような凄まじい遠吠えと共に、第14小隊の右方から吹きぬけた突風が、まるで台風のように赤毛の大人を吹き飛ばす。一瞬早くそれに気付いていたマグニスは、吹き飛ばされた末に樹の幹に叩きつけられそうだったところ、その幹に足裏を向けて着樹する。痺れるような痛みが脚全体を貫く。


 突風の吹いた先から現れた存在には、思わずシリカもユースも剣を構えずにはいられなかった。獅子のような巨大な体躯を持つ狼の姿をした魔物、マナガルムは現代においてその名しか語られぬ存在であり、いかなる凶暴性を秘めているか誰も知り得なかったからだ。


(……我が恩人の宿願を妨げるのは貴様らか)


 前に出て、マナガルムに近しい位置で向き合ったシリカとユースの脳裏、突然響き渡る声。高い魔力と知性を併せ持ちながら、人の言葉を語る口を持たない魔物には、その魔力によって自らの意志を対象に語りかけることが出来るものもある。神話の中でしか語られないような存在であるが、もしや目の前のマナガルムが今、それを為しているのかと思うには、あまりに充分な出来事だ。


「……お前は、大森林アルボルで私達と出会ったマナガルムなのか」


(そうだ。森ではぐれた我が子を保護してくれたあの少女……貴様らも、そのそばにいたな)


 我が子を救われ、キャルに恩義を想うマナガルム。それとの再会そのものは、こんな状況でなければ劇的であったと言えたかもしれない。だが、明らかに第14小隊の障害となるべく現れたこの存在を前にして、この再会は好況を招くものとは思えない。


「私達はキャルを取り戻したいんだ……! 邪魔をしな……」


(身勝手だな)


 シリカの言葉を聞き受けず、その言葉半ばにしてシリカに襲い掛かるマナガルム。大口を開き、凄まじい加速度を得て突っ込んでくるその迫力には一瞬シリカも心を呑まれかけ、反撃の刃を向けることも出来ないまま後方に跳躍して逃れる。シリカがいた場所でがちんと牙を空打った直後、マナガルムの巨大な体躯が、彼女の横にいたユースに向かって、馬の後ろ蹴りのように足を突き出す。ユースもこれを後方に跳んで逃れるが、一瞬でも地を蹴るのが遅れていたら、絶大な脚力を持つであろうあの脚に顔面を打ち抜かれ、命はなかった局面だ。


 ちらりとアルミナを視界に入れたマナガルムだが、その目先の狙いが彼女に向くより早く、シリカがマナガルムに直進して騎士剣を振るう。鼻先をかすめるその騎士剣は早く、マナガルムもあわやの所で後方に跳ねてそれを回避する形だ。


(我が恩人の願いを妨げる貴様らを見過ごすわけにはいかぬ……伏して成り行きを見届けぬならば、この牙の餌食となって貰おうぞ)


 マナガルムは恩を返しに来た。我が子を守ってくれたキャル、その彼女の魂が望む道を開くため。それを邪魔立てする人間がいるのならば、それらを滅ぼし彼女の願いに報いるため。


 今の生を拒んだキャルを、現世に引き戻そうとするシリカ達は、マナガルムにとって排斥すべき敵なのだ。大森林アルボルにて生まれた縁は、最悪の形でシリカ達の障害となって再来した。


「……チータ、キャルの魂を追えるか」


「勿論です」


 ベラドンナは行ってしまった。先ほどよりも、目で追いづらい大きさとなり、今はもうシリカ達とも距離のある場所にいるだろう。見失ったと言っても過言ではない。追うすべがあるならば、魔導士であるチータの魔力でキャルの魂を追い、ベラドンナを再び見つけること。祈るような想いで可不可を問うたシリカに対し、チータは闇を割く言葉を返した。


「アルミナ、行くぞ。キャルを取り戻す……!」


 言い残し、ある一方へと漕ぎ出すチータ。その言葉に彼女が動くかは一種の賭けにすら近いものであったが、数刻前には真っ白な頭だったアルミナも、キャルの名を耳にして唇を噛み締め、無心でチータの後ろを追うように駆けだした。たった一つ、目指すしるべ一つあるだけで彼女の心を前進へと促す魔法の言葉は、惑うアルミナの足を導き果たす。


 ベラドンナを追う二人の人間、そして遠方で自らを憎らしく一瞥しつつも、靴裏を回転させて同じ方向へと進み出す赤毛の人間を見受け、それらを追う道へ地を蹴ろうとするマナガルム。それがそう出来なかったのは、その矢先にマナガルムの前方から切りかかる一人の騎士がいたからだ。鼻先を縦に切り落とそうとしてくるユースの攻撃を、半歩下がって回避、直後大口を開いて敵を噛み潰そうとしたマナガルムを跳躍してかわすユース。そしてそのマナガルムの真横、視界の端から素早く接近したシリカの騎士剣が、跳んで離れるマナガルムの頬をかすめそうなほど鋭く薙がれる。


 チータ達への追っ手の足を引き止めるシリカとユース。無視して道を追おうとしても危機に直結するだけだとわかったマナガルムは、二人の人間を真正面から見据えた。同時に湧き上がるのは、恩人であるキャルへの大儀とは別に、獲物を狩るマナガルム本来としての本能だ。


(邪魔立てするならば、容赦はせんぞ……!)


 来る。シリカとユースがその戦慄に鳥肌を立てたその瞬間、マナガルムの巨体が二人の人間に向かって猛烈な勢いで突進した。











 グレイマーダーの鋭い突き。爪を突き出すようにして放つ熊手は、その速度と殺気によって凄まじい迫力を醸し出し、ただでさえ巨大な熊手が正面から見てさらに大きく見えるほど。一撃一撃が、突進してくる猛牛の頭のようだ。


 前進しながらそれを連続で放ってくる、グレイマーダーの4発目の爪。3発目の殴り上げるようなスイングに対し、槍による突き返しを隙にぶち込む仕草を見せたクロム目がけ、4発目の爪が死角たる横から襲い掛かる。すんでのところで回避したクロムだが、後方に身を急速に引いたことによって重心が後ろにもっていかれる。ぐらついたクロムの顔面目がけて放たれるグレイマーダーの爪が、とどめの殺意を以っての猛襲だ。


 誘い出した。体勢を崩したふりを見せたクロムは身をかがめ、グレイマーダーの伸ばした腕の下に潜り込み、前にのめるグレイマーダーの懐へと一直線だ。初めから狙っていたとおり、顎元の下に潜り込む寸前から槍を短く握り直していたクロムは、的を捕えた瞬間魔物の顎元目がけ、槍の凶刃を最速の突きで放つ。


 巨大なるグレイマーダーがそれをかわすためにとった行動とは、なんと跳躍だ。跳び上がりざまに足先の爪でクロムの槍を蹴り、その攻撃の名残が腰元を刺すことを免れると、上空の太い枝に捕まり、すぐに手を放して自らの空中進行方向を変える。グレイマーダーが飛来するのは別の木の幹であり、そこに足が着いた瞬間、勢い良くそれを蹴って、クロムの方向へと空中から飛びかかる。


 隕石のように自らへと向かってくるグレイマーダーの殺意と向き合っても、クロムは冷徹な瞳で槍を真っ直ぐに突き出して返す。それが自らの右胸を狙ったものであるとすぐに確信したグレイマーダーは、空中にあるまま左手の爪で槍先をはじき上げ、敵の攻撃をいなした末に直進軌道をそのままだ。直後クロムの位置を射程距離に入れた瞬間、グレイマーダーの剛腕が振りかぶられ、巨木をもなぎ倒す怪物の殴り飛ばしがクロムに襲い掛かる。


 バックステップで回避したクロムの眼前、腕を振るった勢いで体の回ったグレイマーダーは、クロムに背中を向けた状態で膝を引いて着地。急遽の回避に距離を作れなかったクロムへと、巨大金棒のような後ろ蹴りを振り上げる決断までがあまりにも早い。さらに一歩後ろに退がってかわすとほぼ同時、移動に際して手元で操っていた槍を素早く構え直し、グレイマーダーを背後から突き刺す刃を突き出すクロムの攻撃もまた速い。足を振り上げた形のグレイマーダーは、地面を捕えた両腕の力のみで自らを前方に押し出し、その突きを離れることで回避する。


 着地の瞬間には既に体を回してクロムに向き直したグレイマーダーは、真正面から再びクロムへと襲い掛かる。1秒たりともこの魔物には迷いがない。巨体に似合わない速度で爪先の攻撃を、連続して振り回し獲物を追い詰める狩猟者は、その高いポテンシャルも併せて恐ろしい。


 3発目のグレイマーダーの攻撃が顎元からクロムを殴り上げるものであり、それを身を大きく沈めて回避した矢先にクロムが突き出す槍さえも、振り上げた足先で横に蹴飛ばす反射神経。槍を手元から持っていかれそうなほど強くはじかれてもクロムは槍を手放さなかったが、そのせいで体が持っていかれるように回転し、一瞬クロムがグレイマーダーに背中を向ける形になる瞬間が生じる。


 たった一瞬目を切る形になっても敵の位置、動きを見逃さないクロムにとって、その状況は隙ではない。振り上げた腕をそのまま振り下ろす形で、クロムを圧殺してこようとするグレイマーダーの攻撃も見えている。グレイマーダーに背を向けたクロムがとった行動とは、そこからバックステップの動きを踏み、背中を向けたままグレイマーダーの懐へと急速接近する動きだ。


 敵の攻撃よりも素早い瞬発力でグレイマーダーに接近したクロムは、巨腕の攻撃をかいくぐり、背中からグレイマーダーの胸元に勢い良くぶつかる。屈強なグレイマーダーの肉体は、その程度では全く動じない。その怪物が激突の瞬間に呻いたのは、激突の瞬間にクロムが振るった右肘の一撃が、グレイマーダーの胸骨まで響く凄まじい重さを響かせたからだ。


 一瞬止まったグレイマーダーに背中合わせのまま至近距離で着地したクロムは、自身真上にあるグレイマーダーの顎元目がけ、真下から槍の突きを放つのだ。超人的なパワーを身体能力強化の魔法で得たクロムの一撃で、肺まで響くような重いダメージを受けつつも、グレイマーダーはその一撃を見逃さない。大きくその身をのけ反らせ、さらには少しクロムから肉体が離れた瞬間に、右膝を横から振りかぶって、クロムを背後横から蹴り飛ばす攻撃を返してくる。


 ほぼカウンターの一撃にも、クロムは右腕を横に構えて防御の構えを取った。膝の動きは小さな弧を描くもので、グレイマーダーの強烈な蹴りの100%の威力ではない。それでも怪物が持つパワーはクロムの肉体をみしみしとうならせる。左腕に受けた蹴りほどのパワーは搾り出されなかったものの、地を蹴って衝撃を逃がしていなければ、強化してなおその腕がへし折れていたかもしれない。


 自身による跳びと、グレイマーダーの膝の一撃によって左方に勢い良く吹き飛ばされたクロムは、かの方向にある木の幹に足をつける形でなんとか体勢を崩さない。着地してすぐに敵を見据えるクロムに、突進せずじりじり距離を詰めてくるグレイマーダーは、受けた一撃から敵の身体能力高さを冷徹に見直す、知恵を体現していると言えよう。


 強い。我が身を貫いているであろう痛みに怒るでもなく、自分よりも卑小たる人間を侮るでもなく、あれだけの身体能力を以ってなお、己を抑えて的確な立ち回り。高い能力にかまけて足を掬いやすい連中を、これまで山ほど叩きのめしてきたクロムにとって、これだけの能力を持ちながら知性を武器に戦える手練との対峙は、忘れかけていた喧嘩屋の血を沸騰させてくれる。


「……限界超えてみるか」


 左手に握る槍を地面に突き刺し、まるで細い一本のような柱にするクロム。深い意図はない。捨てただけだ。空いた両腕を軽く振り、伴う痛みとともに両腕の状態を確かめると、クロムは全身を巡っていた身体能力強化の魔力の色を、血より濃く風より早く巡らせた。


 その瞬間、グレイマーダーも肌で感じ取れた。安直に攻め込まなかったのは正解だったと。先ほどまでは爪と槍を打ち鳴らし、確かに自分が力では押していた一方で、敵の奥底に潜んでいた何かに言い知れぬ予感を感じていた数秒前の直感は、これに対する警鐘だったのだ。


「……シリカ達には悪いが、私闘にさせて貰おう」


 守りたいものがある。いかなる命も蹂躙する、最強の怪物達が押し寄せたって、大切な仲間達を守れる自分を常に目指してきた。戦場を知るクロムが揺るがず握るのは、そのためには、力なくては何一つ守れやしないという一つの現実。


 獄獣ディルエラ、魔将軍エルドル。クロムが過去に戦った、己一人では到底敵わなかった怪物達。そんな化け物が仲間達を歯牙にかけようとした時、今の自分に仲間達を守れるだろうか。出来ないだろう。遥か高みにある究極の壁をも越えられる新しい自分を作っていかなければ、戦場で我を通せない現実が残酷に在る。


 殻を破るのだ。グレイマーダーは強い。今の自分が単身破るには、力及べる敵ではないかもしれない。だが、ディルエラやエルドルには確かに劣る敵なのだ。この壁一枚越えられぬようでは、やがて訪れるかもしれない窮地から仲間達を救える自分ではない。ましてシリカやユースは、獄獣に飼い騎士とされ、やがてあの牙に狙い定められる立ち位置なのだから。


「……貴様、本当に人間か?」


「そうである自分に誇りを持っている」


 たとえ仮に今の自分がグレイマーダーよりも劣っていたとしても。その上で両腕に傷を負った極めてまずい状況下であったとしても。殻を破り、新たな強さを得た自分を世界に顕す道はここにしかない。次は無い。死に瀕する戦いをいくつも乗り越えた末、今の力を勝ち得てきたシリカとユースの姿を思い返すたび、天は自らを助く者を助く真理を肯定できる。苦境こそ、挑み己を高めるための最大の好機である。


 寒空の下で身を震わすかのように、ぶるりと肩を揺るがすクロムの全身を貫いたのは、高め上げきった魔力が全神経を刺激する痛み。だが、大魔法使いルーネの身体能力強化はこんなものではない。知っている。もっとだ。巨人にも勝る力、光より速い速度を生み出す自らを作り上げろと、己の精神を介して霊魂にはたらきかける。限界を超えると口にしたのは、その決意を胸に刻む詠唱に近い。


 開いた掌をゆっくりと握っただけで鳴る、ごきりという鈍い音。それが一人と一匹の怪物が激突する数瞬後に向けた、開戦の鐘の音を意味している。


「来い、人間……! 見せてみろ!」


「楽しませてやるさ……!」


 地を蹴ったクロムが、一瞬でグレイマーダーの視界から消えたのがその直後のことだった。

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