第158話 ~アルボル① 魔界~
「ちょ、ちょっと……マジで殺す気で来てる……!?」
慌てふためくベラドンナに対し、森を焼きながらお構いなしにベラドンナを追うマグニス。彼の飛行はベラドンナの滑空より速く、逃げ惑うベラドンナの前に木々をすり抜けて回りこみ、正面から逃げ道を塞ぐ瞬間もある。三次元空中を機敏に飛びまわり、マグニスから逃れようとするベラドンナだが、逃げ足は遅められ、シリカやクロムもじきにそこへ追いついてくる。
「マグニス! 手を貸してやるから森の炎は消していけ! 揉め事の種だ!」
跳躍したクロムが、マグニスからの逃亡で手一杯のベラドンナに飛来する。長槍のスイングを無数の木々ひしめく中でも間隙を縫うようにベラドンナに迫らせるクロムと、一瞬早くそれに気付いて身を低くすることで回避するベラドンナ。肝が冷えて仕方ない。
クロムの声に応じて、指を鳴らして今しがた火を放ってきた森を包む炎、それらを消し飛ばすマグニス。ぎりぎりの理性だ。マグニスの御しがたい怒りは留まることを知らず、惑うベラドンナに向けて再び無数の火球が放たれる。
「こ、こんな所で……! もう少し、もう少しなんだから……!」
ある一方へと全力で滑空して逃れるベラドンナの姿が、シリカ達後方から追いかけてきたユースやアルミナにも目に見えた。追うマグニス、シリカとクロム、その背中を追いかけて駆けるユース達も、ベラドンナが逃げる先へと導かれるように進んでいく。
木々が増えてきた。密度が高い。地に明るいベラドンナはすいすいと最速のルートを滑空するが、マグニスは狭い木々と枝の間を複雑に飛翔し追いかける。追撃の炎も、この複雑な滑空軌道を描くために一時抑えねばならぬほどだ。長い密林。地上を走るシリカ達ですら、上空のマグニスとベラドンナを見失わないよう上を見て、前に木を配るのに骨が折れる。
やがてその木々の密集地帯から、ベラドンナが最速で飛び出した。先ほどまで、両手を広げれば二本の木に触れられそうな場所ばかりだった密林とは一変、何一つ邪魔者のない開けた空中だ。そこに後続のマグニスも飛び出した瞬間、クリアな視界中心にあるベラドンナめがけて、マグニスは両掌を向けた。
「火蛇砲」
砲撃のような炎が、後方からベラドンナに襲いかかる。殺意に背筋を凍らせたベラドンナは、襲い来る炎から身をよじって回避するが、太い炎はベラドンナの下半身を包む花の一部を炎で飲み込み、その際生じた衝撃か気流の流れか、表情を歪めてベラドンナは地上に落ちていく。
地上に落ちるベラドンナに、とどめの一撃を放とうとしたマグニスも、地上の光景には一瞬その思考が止まったほどだ。マグニスに遅れて、この場にようやく到達したシリカとクロムも、思わず足を止めてしまう光景。後続のユースやアルミナ、チータも同じリアクションだった。
密林を抜けた先にあったのは、無数のひまわりが延々と続くような光景。背の高いひまわりが、天蓋なき空の下で無数にひしめき、月の光に照らされて無数の影を作っている。いつか子供の頃、童話の中で読み知った、ひまわり畑の楽園を思わせるような光景だ。
ただそれだけではない。お日様を見上げるひまわりの数々が、この夜闇の中、空を向いたままなのだ。その異質は一瞬目にした時点では言い知れぬ違和感でしかなく、そのすべてが空を向いていることが、道理に合わぬ不可解であるとわかるのは数秒遅れてのこと。
ひまわり畑の中に落ちていったベラドンナが、頭を打ったのか耳の上をさすりながら、その身を浮かせて現れた。もう片方の、優しく握られた拳からは、指の間から淡い光が漏れている。
「お願い、話を聞いて……この子が望んだことなのよ」
哀願するような瞳で訴えかけるベラドンナに、まったくの敵意は感じられない。怒りの収まっていないマグニスだが、無数のひまわりが夜の下、自分を見上げている異常な光景が、思索に介入して攻撃の手が止まってしまう。計らずして攻め手が収まったことに、ベラドンナは上空のマグニス、地上のシリカ達を交互に見て懇願する。
空中で、掌の上に大火球を抱えるマグニスは、行動次第では周囲の植物ごとお前を焼き払ってやると言わん態度である。片手に握った光り輝く何かを両手で優しく包み、祈るような手の形を作ってマグニスを見上げるベラドンナは、そのマグニスに一切の反意を示さない。
「あの子は"ここ"にいるわ……この子がそうありたいと……」
「意味わかんねえな。わかりやすく説明しろや」
ベラドンナの手に握られた、光り輝く何か。それがキャルそのものだと言い述べるベラドンナの真意は、それだけではマグニスに伝わらない。シリカ達も同じことだ。
「……この子の魂が訴えかけるの。もう、あなた達のそばにはいられないと。あなた達、人間のそばを離れ、森に抱かれて消えることを、この子の魂が選んだのよ」
「キャルが? 俺達のそばにはいられない? 自分で?」
「本当! 本当なのよ! 嘘なんかつかないわ!!」
マグニスが眉をひくつかせながら火球を巨大化させる光景に、ベラドンナは切実な叫びで訴える。いつ、マグニスが切れてもおかしくない。緊迫した空気がひまわり畑を取り巻く。
「……その手の中にあるのが、キャルの魂なのか」
地上から重い声で言い放つチータの指摘が、沈痛な空気に僅かな風をもたらした。マグニスから目を切ることを恐れつつ、ベラドンナはチータをちらりと見て、確かに小さくうなずいた。
「アルボルの地は元より、未練をこの世に残した魂の収束体。救いを求めた魂をその緑によって包み、大いなる森によって受け入れる大地なのよ」
「それがキャルとどう関係あるんだよ」
「彼女がそうなることを望んだから……だから森は彼女の想いを受け止め、この子をこうして魂へと変えた。アルボルに息づく一つの命として、この子を受け入れるために……」
「マグニス、話を聞いてやれ。事情を聞いてからでもお話は出来るはずだ」
とうとう煙草を口にくわえ、火をつけたクロム。落ち着き払った表面上に対し、キャルを見失った現状への苛立ちがよく現れている行動だ。仲間を失い、恐らくはそれが他者の手中に握られてしまったというこの状況、クロムだって感情を抑えるのに必死である。シリカだって、ここに来て煙草の一本ぐらい止めやしない。
敬愛する年上の友人の顔を立て、マグニスも掌の上の火球を僅かに小さくする。だが消さない。ベラドンナの話を聞いて納得がいかなければ、実力行使の"お話"に移るだけの話である。表向きにはベラドンナに譲歩するような発言を交換する年長の男たちの言葉の裏には、交渉が決裂するならば相手を殴り飛ばしてやるという、荒々しい感情が渦巻いている。
「さあ、始めからよく話してみろ。返答次第では理解を示してやる」
極めて冷静、無感情な声と表情でクロムがベラドンナに語りかける。人と触れ合ったことの少ないベラドンナは、その裏にある激情に気付くことなく、アルボルの本質をゆっくりと語り始めた。
かつて大きな森として名高かったアルボルの地は、人類と魔物の激戦の末に焼き払われ、焦土と化して地図から一度姿を消した。その時に失われた命の数々、森の動物、魔物、植物達の、もっと生きていたかったという現世の未練。肉体を失った命の数々は、その未練を抱えたまま霊魂となり、長く荒廃したアルボルの地にさまよっていた。
やがて現世に未練を残した霊魂の数々は、それらのみで集まって一つの存在を作り上げる。幾千幾万幾億の霊魂が、生への未練を形にして集まったそれは、一つの種子として焦土アルボルに舞い降りた。その種子はやがて芽吹き、人類の知る限りの知識を遥か超えた速度で育ち、僅か半年にして巨木を作り上げる形となる。
後に聖樹ユグドラシルと呼ばれる大木はこうして生まれた。それは同時に、それと同一の存在である、大精霊バーダントがこの世に顕現した瞬間でもあった。
現世への未練強き魂の集合体としてこの世に生まれた聖樹ユグドラシルは、その魂の叫びに基づいて大いなる魔法を実現させる存在となる。すなわち、未練ある魂を輪廻くぐらずして、新たにこの世に生きる命として転生させる神秘の力。自らの存在を構成する、未練ありし魂を周囲にふりまいた聖樹ユグドラシルは、それらの魂と自らが生み出す魔力により、新たな命として木々を生み出していく。天へ飛び立ち、長い時を経て生まれ変わるはずであった霊魂を、植物として近道の転生を叶えるのだ。
魔力とは、霊魂と精神の掛け合わせによって生じるもの。聖樹ユグドラシル、精霊バーダントを構成する、生への未練が生み出した命への執着は、聖樹に確たる意志、精神をもたらし、無数の霊魂を我が身そのものとして持つ聖樹ユグドラシルが生み出す魔力は、人智を超えて絶大なるもの。奇跡の魔法を実現させる力を得た聖樹ユグドラシルは、失われた大森林を再びこの世に顕現させることに成功した。
かつての姿を取り戻したアルボル。自らの生み出された目的、使命を終えたはずの聖樹ユグドラシルだったが、奇跡の大森林は新たな形を持つこととなる。大森林の外で命を落とした魂の中でも、殊更強い生への未練を持つ魂は、現世をさまよう末、このアルボルに引き寄せられて集まってくる。生への未練の集合体であった聖樹ユグドラシルは、これらを受け入れ、新たな生として大森林アルボルの緑へと生まれ変わる道を築いた。生まれた理由そのものが、生への未練ありし魂の救済であった聖樹ユグドラシルにとって、未練に苦しむ命を見放すことは出来なかったのだ。
森は肥大化する。かつて以上に大きくなる。古き滅んだ"アルボル"の魂が生み出した緑と、世界各地から集まる魂を木々に変えた"大森林アルボル"の二つを、区別して分けられるほどまでに。限りある大地において、森の過剰な拡大は周囲の環境を蝕み、新たな軋轢を生み出すだろう。太古アルボルの千年来の経験よりそれを知る聖樹ユグドラシルは、さらなる力をこの世に顕現する。それはすなわち、聖樹ユグドラシルの根付く大地を、世界とは切り離す新たなる力。無尽蔵の魔力を生み出す聖樹ユグドラシルの力は、千年先のアルボルの平穏を目指し、人類の想像を超えた魔法をこの世に顕現した。
現代においては、森が人類に危害を加えぬ地域と大精霊が定めし"大森林アルボル"。森の命が己の本能のまま駆けることが許される、太古アルボルの霊魂が生み出した過去の産物"アルボル"。その後者は今、現世より隔絶された空間に居を移し、ただ森を歩くだけでは決して辿り着けない場所となった。
聖樹ユグドラシルは"アルボル"にある。いくら広大なる大森林とはいえ、空から舞えば大森林への道は必ず容易に作れるはずなのだ。現代において、"アルボル"に存在する聖樹ユグドラシルへの道を、人類が地図に表せない所以はここにある。
アルボルとはすなわち"魔界"なのだ。同じ大地の上にあるようで、歩いて辿り着いたようでいて、実際にはこの世界とは隔絶された空間にある世界。現代においては姿の見られないマナガルム、プレシオ、あるいは巨大なるスペルパピー。すべて過去のアルボルには存在していた命であり、太古を知る聖樹ユグドラシルが転生を許した魂を生まれ変わらせた姿である。"大森林アルボル"とは一線を画す"アルボル"は、古来よりの姿をこの世に現した、時間軸の違う光景を表したもの。
季節に合わぬ梅の花、太陽も無いのに空を向くひまわりの群れ。滅ぼされた時の姿をそのままにしてアルボルの象徴として咲き誇る命は、魔界アルボルの現世離れし本質を語る象徴として、今もこの世界に居座る形で残っている。
「ここ"アルボル"には、魂を受け入れるための木があるの。ロートスの樹とバーダント様は名付けて下さったのだけど、その樹には、森で安息を求めし魂を救おうとする力がある。そして私は、そのロートスの樹に咲いた花なのよ」
その手に握ったキャルの魂を見やり、ベラドンナは説明を続ける。まるでその目は、キャルの魂がそうした救いを求めるものであったと言わんばかりのものだ。
「アルボル全体には、各地にそびえるロートスの樹が放つ魔力が蔓延している。たとえるならば、今の生涯に強き悔いを感じ、新たな生を求める意志、魂にはたらきかける力。そう、この子のような魂にね」
ベラドンナの主張を噛み砕けば、キャルは自らの生に悲観し、それがアルボルに蔓延するロートスの樹が放つ魔力にあてられ、次なる人生へと生まれ変わるため、その身を魂のみの存在に変えてしまったということになる。それはつまり言い換えれば、キャルはもうキャルとして生きていくことを、自らの意志で拒絶したということ。自殺に近いその思想を、キャルが抱えていただなんて、アルミナには耳を疑うようなことである。
「つまりお前さんが言いたいことはこうか。キャルは死にたかったと」
「厳密には違うわ。今の生を拒絶しただけ。そして新たな生への道を、彼女が望んだ」
ベラドンナの話を黙って聞いていたクロムが、胸の奥に渦巻く想いを押さえつけ、冷静な口調を表に演じる。ふざけるな、とぶち切れる寸前のマグニスは、クロムの一言で間をはずされていなければ、とうに爆発していたことだろう。
「……なあ、ベラドンナさんよ。キャルの魂を、これからどうするつもりだ?」
「私の生まれたロートスの樹に宿し、次なる命への道を辿らせるわ。バーダント様による、新たな命を生み出す力と同じものを与えられたあの樹へ宿ったこの子の魂は、間違いもなく新しい命へと必ず生まれ変わる。約束するわ」
今の生を離れ、新たな生を望んだキャルを"救い"たいと主張するベラドンナは、クロムに対して毅然としてそう言い放つ。自らの行動は決して間違っていないという信念が、見ただけでわかる目だ。なぜならベラドンナは、そのためにロートスの樹から生まれてきたのだから。
「そうか……それならもう一つだけ、聞かせてくれや」
地上のクロムとベラドンナの語り口を黙って聞いていたマグニスが、逆に怖いほど穏やかな声でベラドンナに問いかける。抑えたその声からマグニスの内なる憤慨を読み取れないベラドンナは、警戒心も低く何気なしにマグニスの方を向く。話をわかって貰えたつもりでいそうなその顔に、マグニスの怒りは噴火寸前だというのに。
「お前がお礼と称して、アルミナとキャルに口付けしたのには、どんな意味合いがあった?」
親指で自分の額をこつこつ叩いて問いかけるマグニスが、ベラドンナの口付けの真意を問う。恐らくこれが、最後のコミュニケーションだ。
「あれは素直になれる魔法よ。向き合った瞬間から、あの子には今の生涯を嘆きつつ、次の生への道を歩むことへの躊躇いが感じられたからね。私の口付けには、迷える魂の惑いを打ち消し、新たなる命への道を開かせる力があるのよ」
ベラドンナは、今の生に悲観したものに今の人生を捨てさせ、新たなる命への道を歩むことこそが、その魂に対する救いであると信じて疑っていない。口付けを介してキャルに届けられたその魔法は、今の自分に対する強い悔いを持つキャルの迷いを取り払い、新たな生を思い描く少女の想いを、前面に引き出しロートスの樹の魔力にあてさせるためのもの。
人の世界では、それを洗脳とも呼ぶのだ。マグニスは確信した。自分はやはり、間違っていなかったと。
「わかった、話は終わりにしよう。旦那もそれでいいっすよね?」
「おう」
携帯灰皿に吸殻を捨てることが習慣づいているクロムも、ぷっとその煙草を地面に吐き捨てたほどだ。もう抑えきれない。
理解を示して貰えたと一瞬思ったベラドンナの目の前には、瞬時にして大火球を掌の上に膨れ上がらせたマグニスの姿がある。離れたその位置から、自らの顔を赤く照らさんその炎の光は、我慢の限界を超えたマグニスの精神と霊魂が生み出す魔力を、これ以上なく現したものに他ならない。
「死ね」
自分達の意向など無視してキャルの魂を持ち去り、別の命として生まれ変わらせるというベラドンナに、マグニスはその手の大火球を振り投げた。ぞっとして回避したベラドンナのすぐ横を通過した火球は、地上に咲くひまわりの数々を一瞬にして飲み込み焼き払う。
「どうして邪魔をするの……!? この子が望ん……」
地上から放たれる銃弾が、ベラドンナの額めがけて飛来する。語り口半ばにして身をよじらせたベラドンナが地上を見やった先には、炎にも勝る熱情を目に宿したアルミナがいる。
キャルを返せ、その一念。ロートスの樹とやらにキャルの魂を持ち寄り、人ならぬ姿へとキャルを生まれ変わらせるというベラドンナの主張を、アルミナは絶対に受け入れることが出来ない。そんな事は他の誰もが同じくして抱く想いである。
「っ……!」
話が通じなかったことを哀しむような目を浮かべ、マグニスに背を向けて空を舞うベラドンナ。泣きたいのはこっちだという想いもすべてその足に込め、ベラドンナを追って地上を走るアルミナ。そして彼女の前をすでに走る法騎士は、この場にいる誰よりも先に、ベラドンナを追う足を駆けさせていた人物だ。
「奴を止めろ……! キャルを取り戻せ!!」
冷静さは欠いていたかもしれない。第14小隊の意志を語るシリカが唱えた声は、6人の意志を統合し、全力であの妖精を追うことを促す。それが指揮官として正しいことであるのか、今一度吟味する時間も今は惜しかった。
キャルの魂を手にしたベラドンナがロートスの樹に辿り着けば、今までのキャルは永遠に失われる。その現実を前にした第14小隊にもはや迷いはない。空を駆けながらベラドンナに無数の火球を放つマグニスは、瞳孔の開いた目で感情の赴くまま、ひまわり畑を焼き払う。
火球の数々を回避した末、ひまわり畑の端まで辿り着いたベラドンナは、高度を低くして木々のひしめく中をくぐり抜けていく。身体能力強化の魔法を顕現させ、一気に加速したクロムが、最後尾から仲間達をごぼう抜きにしてベラドンナへと差し迫る。
ベラドンナが殺気に気付いて振り返ったその瞬間には、その額めがけて槍の一刺しが差し向けられていた。回避など間に合うはずもないその一撃がベラドンナに届かなかったのは、突如クロムの視界の端から割って入ってきた何かが、横からクロムに巨大な腕を殴りぬいてきたからだ。
急停止、後方へのバックステップでそれを回避したクロムの前にいたのは、ほんの少し前に退けたと思ったグレイマーダーだ。ねずみ色の体毛を持つ大熊の魔物が、対峙したクロムを前にして、爪先をべろりと舐めて殺気を放ってくる。
「行け。お前を助けるわけではないが、こいつは俺の獲物だ」
「ごめん、助かる……!」
同じ目的ではないが、結果的に救援を得たことに、ベラドンナはクロムから離れて宙を駆け始める。逃がしてなるかというクロムの意志に反し、その前に立ちはだかるのは、巨大なグレイマーダーのシルエット。
「お前らは奴を追え! こいつは俺が仕留める!」
後続の仲間達へと声のみ届け、グレイマーダーに猛進するクロム。その槍を豪速で振るい、グレイマーダーに回避を強いる攻撃は、敵の自由を奪うためのものだ。ほどなくして、グレイマーダーと交戦するクロムの背後を、シリカ達が素通りしてベラドンナを追っていく。
「任せたぞ……!」
「おう!」
そばを通ったシリカとの一言同士のやりとり直後、グレイマーダーの爪先がクロムの顔面めがけて振り抜かれる。後方に跳んで回避したクロムが、槍を敵の胸めがけて突き出せば、グレイマーダーも後方に大きく逃れて回避する。
シリカの後ろを追う最後尾、チータが走り去るのを確認し、クロムはグレイマーダーを改めて見据える。道を開く役目を預かったのは事実だが、単なる囮を買って出ただけで済む相手ではない。一度受けたこの怪物の蹴りは凄まじい破壊力を持つもので、身体能力強化の魔法を以ってしても、今もあの蹴りを受けた左腕は、傷ついた痛みに叫びを上げている。魔法で無理に働き続けられるよう、鞭を打っている現在でなければ、恐らくこの腕は上げることすら出来ないだろう。
化け物退治だ。魔王マーディスの遺産が率いる、幹部格の魔物と一騎打ちをするに等しき死闘の幕開けを、クロムは生き死にの戦いに慣れた頭で容易に覚悟する。
「人間様に狩られるのは初めてか?」
「獲物は貴様だ!」
槍を握った豪傑が、グレイマーダーに直進する。ギガントスとの殴り合いでも怯まない剛腕の怪物は、殺意に満ちた赤い眼を浮かべ、爪先をぎらつかせるように構えた。




