第155話 ~大森林アルボル④ 河との再会~
数時間前、河を飛び越えるという強攻策に踏み切ったことを、シリカはああしてよかったと心の底から思っていた。あの時ああせず、河を下るか登るかして、河幅の狭いところを探し、そこを渡ってからもとの目印まで戻ってくる、という選択肢も考えていたからだ。そうすると、そのぶん時間がかかるが。
河を渡ってから、どれだけ歩いただろう。夕焼け色の光が森を染め始め、もう数分もすれば森が夜闇に包まれる時間となる。あの時河を飛び越える道を選ばず、回り道に時間を割いていたら、そのぶんだけまだ後ろの方にいたはずだ。精霊バーダントの庭は思ったよりも遠く、河越えに時間をかけていたら、今ここに辿り着く時点で真っ暗闇だったはず。明るいうちに前進しておけてよかった。
「流石に限界だなー。シリカ、ちょっと休もうぜ」
「そうだな。ここからはマグニスが頼りになる」
暗くなれば、光源が必要になる。マグニスはそうした火術も扱えるため、日が落ちればマグニスの力が何よりも頼もしくなる。となれば、まだ少し視界がいいうちに一休みして、マグニスにも鋭気を養って貰わなければならない。それに、河を渡ってからも魔物やイブルートの襲撃は何度かあったし、隊全体で見てもそろそろ休息ひとつ挟んでもいい頃合いである。
森の一角、小さく開けた場所に腰を降ろすユース達。体力的に余裕のあるシリカとクロムは、木にもたれかかるようにして休みつつ、周囲への警戒を欠かさない。日頃から発言力を持つ二人だけに、こうした状況下で一番責任感を持った行動をしてくれるから、日々の先輩後輩関係は強固なものである。
「……キャル、大丈夫なの? あんまり顔色よくないよ」
「大丈夫……そんなに疲れてないし……」
元よりキャルに対しては過保護の目立つアルミナだが、その範疇を超えて今は心配だ。当人の言動とは裏腹に、キャルの顔色は明らかに良くない。いくら小隊内でも体力面で不安のある子とはいえ、傭兵の一人として戦場を駆け抜ける彼女が、人並み以下の体力であるはずがない。確かにここまでいくつか魔物との交戦は経てきたものの、長距離歩いてきただけに過ぎないこの道中、ここまでキャルが顔に疲れを表すのは、かえって不自然だ。
「なあ、やっぱりあのベラドンナって奴、キャルに呪いでもかけてったんじゃねえの」
「そうでしょうか……? 私は特に、そんな感じの自覚はないですけど」
徹底的にベラドンナのことを敵視するマグニスは、今ここに来てまでそれを蒸し返す。ベラドンナがアルミナとキャルに、お呪いだと称しておでこにキスした出来事が、未だにひっかかっているようだ。
「……特に私も、変な感じはありませんよ?」
「そうかぁ……? お前、絶対いつもより顔色悪いぞ」
マグニスがキャルの額に掌を当てるが、熱がある様子もない。呼吸も整っているし、過度に汗をかくなどの兆候も現れていないから、もしかしたら毒虫にこっそり噛まれでもしたか、というマグニスの仮説も、どうやら違うと言い切れそうである。
異変に薄々気付いていたシリカやクロムも、原因がわからない以上はどうしようもない。大事を取ってキャルを戦線離脱させられれば一番いいが、この森林奥地でそんな手段は取れないからだ。万一のことが起こらないように、元気な6人でカバーするように動くしかない。元々キャルは後衛、そう難しいことではないはずだ。
「ユースもチータも、日頃以上に後ろに気を配ってくれよ。何かあってからでは遅いからな」
はい、と返事する二人も、今改めてキャルを見れば、言われなくてもそうしていただろう。決して虚弱ではないキャルでも、やっぱり体の小さな女の子。戦人として形成されつつある二人としては、守るべき対象であると無意識下で感じられるものだ。
「キャル、食っとけ。俺は身体能力強化の魔法があるから、ちっとぐらいメシ抜いても大丈夫だ」
「あ……ありがとう、ございます……」
クロムに差し出された携帯食を、もそもそ口に入れるキャル。気遣われているのはよくわかるだけに、彼女としても心苦しいというのが目に見える。独り立ちしていない自覚のあるユースあたりは特に共感してしまうのだが、先輩ないし同僚に気を遣われるというのは、自分の不甲斐なさを実感するようで、決して手放しに喜べる心地ではない。
「私のぶんも食べる? お腹すいてちゃ、元気にもならないよ」
「ええと……」
「あ、もしかして太る心配でもしてるの?」
冗談を混ぜながら、優しい笑顔で自分の携帯食を差し出してくれるアルミナ。時に考え無しの行動をキャルがサポートしなければならないお転婆お姉ちゃんだが、日頃においてはやはりキャルにとって、一番自分を気にかけてくれる人だ。太ってなんかないよ、と頬を膨らませる対応で、気にしかけていた自分の力及ばなさも忘れさせてくれるアルミナとの会話は、心を軽くしてくれる。
「太るうんぬん気にするのはお前こそだろ。へそを見せるスタイルだしな」
「普段から結構気を遣ってますよーだ。気まぐれ意識で体作りなんて出来ませんもん」
「日頃あんだけ大飯食らいのくせによくそんなこと言えるな。案外もう、兆候出てんじゃね?」
「んな……っ!?」
くにっ、とアルミナのお腹をつねるマグニス。締まりのあるウエストだが、セクハラ行為に対してはアルミナの制裁がセットである。頭から煙を吹き出すアルミナが、銃口でマグニスの頭頂部をがつんと突き殴ったのがその直後。
「いってぇ~っ! アホかお前、暴発したらどうすんだ!」
「二重ロックかけてますから暴発なんかしませんよ! 何すんですかいきなり!」
不平を垂れるマグニスに、顔を真っ赤にして怒鳴り声を返すアルミナ。決して安全でもなんでもない森の中、マイペースに仲のいい喧嘩を繰り広げる二人には、ユースやチータも肩の力が抜けていい。しばらく不安な大森林の中を歩いてきた末にだが、短時間でも家に帰ったような安らかな気分になれる。
ま、まあまあ……と二人を止めようとするキャルの心境も、無意識下ではそうだろう。苦しい時にこそ焦らず、本来の自分たちを見失うべきではない、という教訓があるが、シリカもクロムもそれは日頃から体に染み付いていることだ。多少演出じみてはいるが、普段の調子をこうして表してくれるアルミナとマグニスが、周りを巻き込んで力を抜けさせる様には、シリカとクロムも目を合わせて小さく笑う。やっぱりこの二人は、第14小隊に欠かせないムードメーカーなんだなと。
「そろそろ行くぞ。マグニスも充分休んだだろ」
「アルミナにやられた傷がうずくんですけど~! マジやる気出ねえ!」
「やる気出るまでお尻蹴っ飛ばしますよ……早く立ちなさい……」
振り返ったマグニスもぞわっとするぐらい、静かな口調からくるアルミナの怒気が凄い。普段から男の子顔負けの元気いっぱいのアルミナだが、根底やはり女の子である。許しもしない形で体をみだりに触られると、それなりに怒る。ましてセクハラ常習犯のマグニスに対しては、戒めの意味も込めて。
「わかったわかった! 構えるな銃を!」
立ち上がって体を伸ばすマグニスの動きに伴い、ユースやチータも立ち上がる。充分に休めたし、直後いきなり戦闘になっても、心機一転全力で戦えるコンディションだ。まったく、と頬を膨らませて立ち上がるアルミナの後ろ、一番最後に腰を上げる立場になりたくないキャルが、アルミナより僅かに早く立つ形になる。
「ほら、行くよキャル。よーく見張ってないと、あの人またサボるから」
マグニスに対する憤慨がまだ残ってるのか、少々ふくれっ面のままキャルに振り返り、開いた手を伸ばしてくるアルミナ。感情がよく顔に出るお姉ちゃんだとつくづく感じるが、だからこそ一番頼もしい彼女のいつもどおりの姿が、キャルにとっては何より心強い。
「……ん」
別に手を引いてもらわなくても歩ける。それでもアルミナの手を、はにかむように後ろから握ったキャルは、彼女なりの想いを行動に表したものであった。
一番前を歩くマグニスの周囲には、強い光を放つ火の玉の数々がふよふよと浮かんでいる。拳ほどの大きさの火の玉の数々は、まるで蝋燭の火のように、第14小隊の周囲を照らしてくれるのだ。遠方を強く照らすことは出来ていないため、離れた敵の存在は気配を頼りに警戒するしかないが、それでも真っ暗闇を歩くよりはましだ。近くに仲間がいることをわかりやすく視認できるだけでも、随分違う。
「そろそろ触れてきた花の数も千を超えてきた気がするんだが、まだ着かねえのかな」
「歩いてばかりだからな。遠く感じるだけだよ」
遠征などで遠出する際には、長い距離を馬に乗って駆ける。そういう時は相当な距離があっても、速い足によって時間をかけずに到着できるから、完全に歩いてばかりのこの森は、かけた時間に対して普段のイメージほど進んでいない、とシリカは形容する。乗り物に慣れていると、時々起こる錯覚だ。
地図もない旅のため、目的地までどれほどの距離があるのかわからないのも、長い道のりに感じる遠因だろう。シリカやクロムは近道思想より、目の前の確かな道しるべを追っていけば、いつかは必ず目的地に辿り着ける、という考え方をしている。だから迷わないこの道のりは、さして苦ではない。ちょっとそれは一般的な感性より達観気味であり、マグニスにしてみれば、あとどれぐらい歩けば着くんだよ、というげんなりの想いが先立ってしまう。こちらの方が普通の考え方ではないだろうか。
暗い森で狩りをする、夜行性の魔物達は、闇に乗じて獲物を狙うのが日常だ。この暗がりで、明確な明かりを持って進む第14小隊は、夜行性の魔物達にとって、かえって攻めるのを躊躇する相手である。空はもう月が昇り、マグニスの炎がなければ真っ暗闇の時間帯だが、この時間帯になってからは、日中よりも魔物達の襲撃がなかった。比較的、楽の出来た道中だったと言えるだろう。
樹上から落ちてくるエブルートや、空中を漂う綿への警戒も決して怠っていないが、あれらが発生する地域ではないのか、それらもなりを潜めている。脅威が少ないのは結構なことだが、これはこれでそれ以外の対象にも警戒心を割く余裕が生じ、シリカやクロムの注意深さは磨きがかかる一方だ。気を抜く暇のない二人だが、これが平常運転なので両者特に心労の種にはならない模様。
やがて、目の前にみっしりと詰まっていた木々の数が減ってくる。歩きやすいのは結構なことだが、それがなぜかを考えた時、答えがすぐ横に見えてきて、クロムはむぅ、と小さな声を漏らした。
「あまり河に近付くなよ。何が出てくるかわからないからな」
シリカ達の進行方向に沿って、すぐ右を流れる太い河。数時間前に越えた河よりも遥かに幅があり、船が横行するエレム河といい勝負の大河である。月の形を明確に映した水面は、波ひとつ打っていない静かなものだが、その底には無数の水棲生物が泳ぎ回っていることは容易に想像できる。
ヒナギクの花を追うシリカ達だが、やや河を離れて歩く形だ。河岸に近付くと、水面下から飛び出した肉食魔物の急襲を受ける恐れがある。鰐の姿をした魔物もいれば、泳げる蛇の魔物だっているのだから、ふと意識を逸らした隙に、そんな奴らに食いつかれてはたまらない。
さりげなくマグニスも、河寄りの方向に光源の火の玉をいくつか増やし、そちらへの視界をより明朗にする。河から離れて歩くため、目印のヒナギクにもわざわざ触れずに次を追うことが多い。ただ、花の示す道が真っ直ぐに伸びる一方で、河がゆるやかにこちらに曲がってくる光景は嫌なものだ。これ以上河を拒絶しようとすると、花そのものから離れすぎてしまう。
「精霊様の道筋は容赦ねえなぁ~」
「……まあ、そろそろ私もそう思うようになってきたよ」
何をするにも試練はつきものだが、こうも目の前に明らかな障害が見えていれば、少々弱音の一つでも吐きたくなる。シリカだって人間だ。河のそば、自分達の頭上に木々が少なくなって空の見える中、河の上を飛ぶ大きな影を見た瞬間、ユースも騎士剣を握らずにはいられない。アルミナなんて、それが視界に入った瞬間、びくついて反射的に銃を構えたほどだ。
「ちょ、ちょっとデカすぎません? あれ……」
「未踏の地の生態系ってのは、つくづく俺達の想像を超えるな」
気楽な言葉を言い述べるクロムだが、守るべき仲間も多いこの状況下、決して目の色は楽観的ではない。アルボルを横切る大河の上を舞う巨大な蝶らしき影は、羽を含まない体の大きさだけで、大人の人間ほどの全長を持っているように見える。そこに巨大な羽が生えているシルエットはあまりに大きく、光なきその場所を舞っている姿なのに簡単に視認できるほどだ。
それが3匹か4匹飛んでいて、うち一匹がこちらへとゆっくり滑空してくる。有害な存在かどうかはわからないが、身構える第14小隊の態度は、未知の存在に対する本能的な行動と見ていいはずだ。
答えはすぐに出た。有害どころか、危険な存在だと。
「開門! 封魔障壁!」
巨大な蝶の、触覚の先端が光った瞬間、そこから放たれる稲妻のような一撃を、瞬時に詠唱したチータの開いた亀裂が飲み込む。舌打ちしたチータの上空を滑空して通過した巨大な蝶は、空中で進行方向を翻し、再び上空からシリカ達を見下ろしてくる。
「おいおい、冗談だろ。スペルパピーかよ」
「あんな巨大な魔物じゃないはずなんだがな……!」
河の上空の3匹と、シリカ達を挟んで反対側に1匹飛ぶ巨大な蝶の姿をした魔物は、魔法を攻撃手段に持つ、スペルパピーと呼ばれる存在の特徴に一致する。ただ、一般に知られるスペルパピーはあんなに大きなものでなく、せいぜい人の腕ほどの体長を持つ巨大蝶という認識だ。その数倍の体躯を持ち、人里に知られるスペルパピーとは比較にならない強力な電撃を放つあれは、同じ名前で呼んでいいものか悩ましいほどである。
「エレムに帰ったら報告して、違う名前をつけて貰った方がいいんじゃないっすかね!」
こちらに飛来してくる、仮称スペルパピーに向かって火球を放って応戦するマグニス。大きな体と翼にして器用に空を飛ぶスペルパピーは、マグニスの火球を回避しつつ接近してくる始末。再び触覚が光り、電撃を放ってくるであろう仕草に向けて、真正面から跳躍して立ち向かうのがシリカだ。応戦するための魔力は、既に騎士剣に集めている。
正面から放たれるスペルパピーの電撃を、万物を切り裂く魔力纏わし剣で断ち切るシリカ。シリカを岐路にYの字に割られた電撃は地上へと分散し、地に落ちた瞬間に草葉を焼き払う。地上のユース達がスペルパピーの電撃の威力に慄く中、空中にてスペルパピー近くに迫ったシリカが、頭のすぐ下、首とも言える場所を一太刀に斬り落としていた。
頭を失ったスペルパピーの胴体は、羽を携えたまま地面にどさりと落ちる。その際生じた重々しい音は、巨大スペルパピーの質量を物語るものであり、やや離れた所に落ちたスペルパピーの頭を見たアルミナは息を呑む。なぜならあまりにも大きなその複眼が、どこを向いているのかわからず、視界にそれを入れた瞬間にこちらを睨んでいるように見えたからだ。
「動物園じゃねえんだからよー。あっちにしっかり目を配れや狙撃手さんよ」
河の上空に舞っていた3匹のスペルパピーもこちらに向かってくる。3匹纏まって来るのではなく、ばらけて別の方向から攻めてくる連携が、魔物達の知性を物語っていると言えよう。知性には知性、槍を持った手を地面近い位置まで持っていくクロムは、数秒後にスペルパピーを討つ算段を密かに組み立てている。
魔力を多く使わず、正面から来るスペルパピーに、小さな火球を連続して投げるマグニス。牽制の意味しかない攻撃だが、スペルパピーはそれらを器用に回避する。そしてこちらに頭を向け、触角の先から電撃を放とうとスペルパピーの意識が集中した瞬間、とどめの銃弾を刺すのがアルミナだ。大森林アルボルで人間などに出会わず、野生の暮らしを貫いてきたスペルパピーにとって、超高速で頭を狙い撃つ鉛弾は回避しきれない。その脆い頭が銃弾によって吹っ飛んだ光景は、アルミナも少し表情を歪めずにはいられなかった。
河に向かって右上空から迫るスペルパピーの電撃を、チータが展開した封魔障壁が防ぎとおす。先ほどのスペルパピーと同じようにチータの上空高くを滑空して通過しようとするスペルパピーだが、充分な高度ではない。槍を地面近くにたたんでいたクロムの射程距離はスペルパピーの把握の外。槍の尻近くを握って最長のリーチで刃の振るったクロムの一閃が、上空スペルパピーの胴体をばっさりと切り裂いた。
河に向かって左上空から飛来するスペルパピーに対し、電撃を放ってくるなら
英雄の双腕による防御を準備していたユース。だが、3匹の同胞が瞬殺されたことに警戒心を強めたか、最後のスペルパピーは飛来してこない。空中に留まり、羽をはためかせている。雷撃を放とうとしていた触角の先が、ちかちかと点滅して攻撃をとりやめたような仕草だ。
まずい、と感じたキャルが矢を放つのがその直後のことだった。一本目の矢を左にかわしたスペルパピーに、間髪入れずに超高速で迫る第二の矢。一投目の矢を放った時点で、スペルパピーが左に回避する動きを誘い、魔力の凝縮隊である神秘の矢を即時放ったキャルの攻撃は、的確にスペルパピーの額を打ち抜いた。貫通力はほぼなく、対象に激烈な殴りを加えるだけの攻撃だが、ダメージにゆらめくスペルパピーを撃ち抜くことは、銃士アルミナには容易いこと。意識の飛びかけたスペルパピーの頭が鉛弾によって粉砕されるまで、さして時間はかからなかった。
「こりゃあマズいな。シリカ、走るぞ」
「勿論だ……!」
元々さして大柄でもなく、攻撃用の魔力に乏しいスペルパピーは、本来群れを成して獲物を狩る魔物である。小さなスペルパピー一匹が放つ電撃は、人体に小さな火傷を残す程度の威力で、一発一発が致命的なものではない。それらに群れを成された時にこそいよいよ危ない、そういう魔物なのだ。
だから、スペルパピーは獲物を見つけた時、仲間を呼ぶ。この森に住む、仮称スペルパピーはあまりに大きいため、小さな人間を狩るために最初4匹だけで襲ってきたが、3匹まとめて仲間が返り討ちにされれば侮りも捨てるだろう。スペルパピーが、触覚の先を点滅させていたのは何のためか。あれは攻撃用魔力の残り火ではない。
精霊の残したヒナギクを追う方向へと駆け出したシリカ、それに続く第14小隊、さらにその四方八方から聞こえてくる羽音が、焦燥感を煽ってくる。例えば耳元を蜂や蝿が飛べば、ぶんぶんと嫌な音が耳を貫くものだが、それに似たような音が遠い空から近付いてくる。思わず後ろを振り返ったアルミナは、目の前の光景にぞっとした挙句、キャルの手を握ってさらに加速せずにいられなかった。手を引かれたキャルも、後ろから聞こえる音に鳥肌立てて、全力疾走でアルミナについていく。
「キモ、すぎ、るぅ!!」
走りながら靴の裏に回転する火球を携えたマグニスはそのまま飛翔、振り返って地上のシリカ達と同じベクトルで後退しながら、第14小隊を追いかける虫の大群に火球を放つ。胸の前で交差させた腕を解き放つように前方に振り、同時に握り拳を開けば、無数の火球が散弾銃のように前方の空を駆ける。
第14小隊を後方から追尾する、巨大なスペルパピーの大群は、うち数匹が火球によって焼かれ、うち数匹は旋回や上空への飛翔を経て回避。他方向から、目に付いたマグニスへと発射される、スペルパピーの電撃は、アルボルの夜闇をまぶしいほどに照らしたものだ。空中での動きが自由自在のマグニスは回避するが、はずれた電撃の数々が木々を焼いていく。
「山火事になっても知らねえぞ……! 俺達のせいじゃねえからな!」
自らに群がるように飛んでくるスペルパピーの大群をおびき寄せるマグニスと、地上で駆けながら上空のマグニスへ向かうスペルパピーの頭を下から撃ち抜くアルミナ。火球魔法を地上から放つチータのサポートもあり、数匹で群がるスペルパピーのうち2匹が落ちただけでも、マグニスとしては相当気が楽になる。
「おいマグニス! 後ろ!」
クロムの大声が森に響いたのとほぼ同時、マグニスは後方から迫る殺意に気が付いた。それは気付いたその瞬間に背筋が凍るようなもので、大慌てで地上へと高さを下げたマグニスの後方、マグニスに向かって群がっていた3匹のスペルパピーが、その殺意によって一度に斬り捨てられた。
「こえーっ! シャレにならん!」
宙のスペルパピーを仕留めたのは、河の水面から放たれた水の刃だ。シリカ達が思わず立ち止まって出所に目線を送ると、その先には水面から立ちそびえる何かがある。水面に浮かぶ、小さな島のような背中の影から、蛇のように伸びる首は麒麟のように長く、周囲に見える木々にも勝るような高さで水上にそびえている。まるで首長竜を思わせる影だが、今この状況であれを見ると、神秘性より危機感の方が先立つ。
ルオスに伝わる、大森林アルボルを語る神話上でしか、チータもその名を知らない。アルボルを荒らす乱暴な魔物達を制裁する森の番人として名高い、河の魔物プレシオ。長い首の先でその頭が、スペルパピーが火を放った木々の根元へ口を向け、その喉奥から巨大な水の球体を放つ。
木々を焼く炎が、その水によって鎮められ、炎に蝕まれていた木々は焦げ目を残して救われる。同時に、炎が照らしていた森が再び闇を取り戻し、シリカ達の周囲にマグニスが固定していた明かりの火球だけが、アルボルに侵入した人間の立ち位置を明らかにする。
「おい、こっち見てるぞ」
「――行くぞ!」
河の上で長い首を伸ばし、シリカ達を見下ろすプレシオの表情までは見えないが、それでもこちらに殺意を抱いていることは感じられてしまう。それだけあの存在にとって、森の平穏を荒らす存在に対する怒りは凄まじいということだ。花を追う方向に駆け出した第14小隊に向け、水面上から喉の奥から水を放つプレシオ。それもその水は、まるで刃のように鋭い形を為し、側面から自分を狙う水の刃を咄嗟に頭をかがめたアルミナの遠方、木の幹に傷をつける切れ味だ。人体にあれが当たれば、間違いなく鋭利な斧のように人肌を切断するだろう。
「ちくしょー! こっちは正当防衛なんだぞ!」
マグニスがスペルパピーへの迎撃のために放った炎は、森の地上に落ちて大小の炎を残している。指をパチンと鳴らした拍子に、自分が生み出した残り火の魔力を強制的に遮断し、後始末だけは済ませるマグニス。これで人間を敵視したプレシオが怒りを鎮めてくれればありがたいが、世の中なかなかそう上手くは回ってくれない。
空中のマグニスに向けて水の刃を放つプレシオ。回避したマグニスは攻撃されたことにいらついたが、あくまでこちらが侵入者で火を放った立場であり、向こうの怒りを汲んだマグニスはぎりぎり仕返しに踏み出さない。それよりも、靴の裏の火球を全力で回転させ、地上を走るシリカ達のそばに立ち返ることが先決だ。
走るシリカ達を追うように、河の水面近くを泳ぐプレシオ。その速さは全力疾走する戦人達の速度にぴったりついてくるものであり、花を見逃せないシリカ達は、河から、プレシオから大きく離れることが出来ない。首をこちらに向け、水の刃を飛ばしてくるプレシオに対し、クロムがアルミナとキャルを両脇に抱え、加速することで回避する。
「致し方ない……!」
河沿いの道を表すヒナギクから一度離れ、右手の河と直角方向に離れる方向に走るシリカ。後に続くユース達を、後方から水の刃で狙撃するプレシオに、チータが封魔障壁を展開して防御する。同時に、プレシオの放つ水の刃に込められた魔力は、相当に強いものであるとチータが実感するはめになる。水上の怪物プレシオから、ほとぼりが冷めるまで一度距離を取るための動きだ。
しばらく駆けた末に、後方からプレシオの水の刃が飛んでこなくなる。ひとまずは、プレシオの射程距離から離れられたと考えていいだろう。マグニスも一度、シリカ達が立ち止まったことを確かめ、小隊周囲の明かりの火球を消す。これを目印にプレシオの怒りが鎮まらぬでは、意味がない。
「……なんとかなったんでしょうか」
「いやー、どうだろうな。あの首長竜、吠えてるぞ」
後方でいなないている、プレシオの高い声が聞こえる。その行動に何の意図があるのかは知らないが、想像で補うことは出来る。許しがたい対象が自分の射程距離から逃げていった末に、森の番人と呼ばれる存在がすることと言えば何だろう。
その答えをすぐに導き出すかのように、前方から重い足音が響き寄ってくる。自分の手で侵入者に手を下せなくなったプレシオが、森の仲間に裁きを委ねる声を吠えた結果がそこにある。
「待て待て待て、この森もしかして、コズニック山脈よりヤベぇんじゃねえか?」
「ちょっとー! シャレになってねえっしょコレ!」
シリカ達の前方から駆けてくる巨人は、夜闇遠くにしてその影を視認できるほど大きい。一般的な家屋に入れば、天井の高さよりも頭一つぶん高い背丈に対し、異常なほど筋骨隆々ながら全体の均整を整えた全身は、愚鈍さを感じさせず脅威だけを強調して見せてくる。
ぼろぼろの腰巻きのみを身につけた巨人の魔物が、何と呼ばれる存在かはシリカ達も知っている。トロル種の上位種であるスプリガン、そのさらに上である、トロル種の最上位種にあたるその存在は、魔王マーディス軍の中にあっても幹部格を務められる怪物だ。獄獣ディルエラの率いる軍勢で、長年幹部格を務めたゼルザールという名の魔物がいたが、今シリカ達に向かいくる魔物は、それと同種の存在である。だから、ゼルザールの脅威をよく聞かされた騎士団員で、この魔物を知らない者はいない。
後方には河とプレシオ。前方からは、トロル種の大親分ギガントス。不退転の第14小隊のそばまで迫った怪物は、両腕を振り上げ、魔力を込めた拳を地面に叩きつけた。
地を大きく揺らすギガントスの魔力が、シリカ達の足元を揺らす。体勢を崩したユースに向かって、ギガントスの巨体が矢のように素早く接近した。




