第153話 ~大森林アルボル② 妖精との再会~
「ユース、悪いが預かっておいてくれ」
巨大な狼の姿をした魔物、マナガルムと少々の距離を保ちつつ睨み合うクロムが、その長い槍を後ろ手でユースに差し出してきた。対峙するマナガルムから意識を逸らせないままだが、ユースも言われるままに、クロムの意図読めずして槍を受け取る。
普段こんなに重いものをこの人は振り回しているのか、というのが、受け取った瞬間に腕を沈めてくる槍から抱く印象だ。一瞬よろめきかけたユースだが、クロムの長い槍を受け取ると、彼の手が示すままにユースも後方に二歩下がる。
「どうしたもんかね……敵対するつもりは無いんだが」
状況が難しい。キャルが抱える狼の子は、向き合うマナガルムの子か、そうでないにせよ少なくとも仲間だろう。キャルは道端にうろついていた狼の子を受け入れ、抱いているだけだが、マナガルムの目線から見て、これは敵対行為と捉えられるだろうか。
大森林アルボルの魔物達は、自分達から人間に手を出すことはしない。ただし、危害を加えられれば話は別で、容赦なく反撃の態度を取ることも許されている。その基準がどこからなのか、わからない。たとえば魔物達も、傷を負わされてから反撃を許す、と精霊に定められているのなら、向こうからすればその第一撃で命を奪われれば理不尽な話である。武器を向けられただけでも、反撃してよしとされているかもしれない。だからシリカも仲間を制止したし、クロムもこうして武器を手放して見せた。
問題は、キャルがマナガルムと繋がりありと思しき、狼の子供を抱えている点だ。マナガルムの目線には、これをどう捉えられるか。危害など加えてもいないし、保護したかっただけのキャルの意向に反し、同胞を捕われた様であると、マナガルムは解釈するかもしれない。
マナガルムが第14小隊を敵と見なし、攻撃に移るなら応戦しなくてはならない。武器を持たずして、クロムは体内に身体能力強化用の魔力を練り上げ、相手の出方次第で広く選択肢を取れる形を取る。両手を騎士剣から放して力を抜いているシリカも、流れによってはいつでも抜剣できる心構えだ。マナガルムは魔法を扱うため、遠隔攻撃に備えてチータやマグニスも魔力を整えている。
「キャル!?」
それらすべての思慮を超え、マナガルムの方へと駆け出した者がいた。少女の名を驚いて呼ぶアルミナと、その肩を握って制止するマグニス。狼の子を抱えたキャルは、間もなくしてマナガルムの、目と鼻の先まで接近する。
近くで見れば見るほど、巨大な狼の眼差しは鋭く少女の胸を刺す。口を引き絞り、僅か震える体を抑えてキャルが取った行動とは、胸に抱いた狼の子をマナガルムの方へと差し出すもの。さりげなく数歩キャルの後ろを追ったクロムは、マナガルムの出方によっては最悪を回避するため、反射神経と脚力を向上させる魔力を偏って練り上げていた。
しばし動かないキャルとマナガルムに、見守る後ろも気が気でない。自分の身も顧みず、考え無しにキャルに駆け寄ろうとしそうなアルミナを抑えるマグニスも、後ろから両手で彼女の肩をぐっと握っている。これ以上話をややこしくするなと。
やがて、閉じられていたマナガルムの口が、ゆらりと開く。ひっ、と悲鳴を上げて体を跳ねさせたのはキャルではなくアルミナ。真っ直ぐにマナガルムの瞳を正面に見据え、まばたき一つしないキャルは、狼の子を差し出したまま動かない。クロムもまだ動かない。まだ間に合う。
やがてマナガルムが、鼻をキャルの差し出した狼の子にすり寄せた。キャルから目線を逸らし、幼い狼へと視線を注がせるマナガルムの目には、戦意とはかけ離れた色が浮かんでいる。我が子の無事をまるで心から喜ぶような、優しい母の眼差しのようなものだ。
マナガルムが頭を下げる動きに倣うように、狼の子を地面に置いて手放すキャル。うぅ、と小さく声を漏らした狼の子は、マナガルムの足元に飛びついて、マナガルムも恭しい目でそれを見守っている。体躯の大きさは全く異なるが、マナガルムの親子であると見受けるには充分な光景だ。
鼻先をキャルに向けたマナガルムは、狼の子を手放して、両手を胸元に抱きしめるようなキャルの頬へ鼻をすり寄せた。目をぎゅっとつぶって震えるキャルだが、首筋に大きな鼻をすり寄せてくるマナガルムの表情は、もう敵意を抱いたものとは思えぬものだった。
「クロム」
「もう大丈夫だろ。安心していいぞ」
やや表情を緩め、確かめる一言を問うたシリカに対し、振り返って応えるクロム。キャルとマナガルムから目を逸らしても大丈夫であると、確信できたからこその行動だ。
我が子の首の皮をくわえ、ひょいと自分の背中に乗せるマナガルム。キャルに尻を向けるよう身を翻したマナガルムだが、そのまま大きな首を回し、キャルの方を一度見る。目を合わせたキャルと通じ合わせた眼差しには、どんな意図が込められていたのか。それはきっと、わかってもキャルだけの答えだろう。
森を駆けだし、去っていくマナガルム。その背に乗ったマナガルムの子は、まるで別れを惜しむかのように、ずっと後ろのキャルから目を離さなかった。
その場にへたり込んだキャルに、堪えきれない想いと共に駆け寄るアルミナ。腰を抜かしたような座り方のキャルに、自分も座り込んでキャルの両肩を握って揺さぶる。
「キャル、大丈夫!? どこかケガとかしてない!?」
がっくんがっくん揺さぶられて、キャルの首が痛みそうだ。別に噛まれてもいなかったし、どう見ても無事だったというのにこの取り乱しようは、落ち着いたマナガルムの親とは違って、過保護全開の姉の姿そのもの。
アホ、と一言叩き込んで、アルミナの首根っこを掴んで引っ張るクロムにより、アルミナがキャルから引き剥がされる。振り返ったキャルは、汗だくの顔を笑顔に満たし、大丈夫だよ、と一言返す。それと同時に安堵の想いから、自分もへたり込んでしまうのだから、アルミナも世話ないものである。
「こら、立て、アルミナ。いつまでそうしてるんだ」
キャルが立ち上がったのに、はあ~っと安心の息をついて立ち上がらないアルミナを、シリカが手を引っ張って立たせる。だ、大丈夫です立てます……と返し、ふにゃふにゃの笑顔を返すアルミナ。お前が一番大丈夫じゃない、と、キャル以外の全員が口を揃えて突っ込んだ。チータですら。
「ちなみにチータ、どうやって親狼を探そうとしてた?」
「あの子からは、魔力を感じましたからね。親ないし、同属の狼を探すのであれば、そうした魔力の気配を辿ればいいと思いました」
森を歩く中、マグニスとチータは気軽に世間話のように言葉を交換する。夏の昼間でもそんなに明るくない密林は、足元も明瞭ではないが、こうしてお喋りしながらでもつまづかないのは、野戦慣れして足元への配慮が意識せずとも出来るからだ。
「魔力を持つ狼の魔物と言えば、ヘルハウンドかサイコウルフですからね。とはいえ、ヘルハウンドのような、炎の魔力を扱う魔物が、こんな森に棲み付くとは考えにくいですし」
「あれはラハブ火山の魔物だからな。となると、サイコウルフの魔力――風や水の魔力の気配を探せばよかったってわけか」
「おい」
胸元から煙草を取り出そうとしたマグニスの手首を、シリカがぺしんと叩く。森林でそれは良くない。
「まさかマナガルムが出てくるとは思いませんでしたけどね。希少種ですし、推測の外でしたよ」
「マナガルムは、大森林アルボル奥地にしか棲み付かない、と聞き及んでいたんだがね。こんな場所に顔を出すこともあるとはな」
「こら」
クロムも懐から煙草を出そうとしたので、背中をげんこつで小突くシリカ。こっちは明らかに、今のマグニスとシリカの行動を見て、悪乗りしてシリカを振り回そうとしている。
「……ありゃ? 次の花はどこだ?」
「こっちですってば。雑談し過ぎて見逃すとかダメですよ」
精霊バーダントの残した道しるべ、白いヒナギクを指差すアルミナの目は白けている。お喋りも結構ですが、ちゃんと前見て歩きなさいと。おお悪いな、と返すマグニスに、反省の色がないのがわかりやす過ぎる。
クロムが触れるとヒナギクの花は赤くなり、ここはもう通った場所だとすぐわかる。その頃には次の花も見える場所にあり、道に迷う心配もない道程だ。2時間近く歩いてきたが、ここまででシリカ達が足を止めなくてはならないような場面なんて無かった。
「結構遠いですね、まだ花が桃色になる気配ありませんよ」
アルボル奥地に近付けば、魔物達が人間を襲い得る区画の意味合いとして、ヒナギクの道しるべが白ではなく桃色に変わるそうだ。それが見えれば目的地は近付いているという目印でもあるのだが、それが見えてくるのはいつだろうか。ユースの言うとおり、ここまでずっと白いヒナギク続きで、もう100以上のヒナギクに触れてきたものだが。
「まあ地道に行くしかないんじゃない? ちょっと疲れてきたな~とは思わなくもな……」
ユースの方を振り返って、アジサイのような花が多数咲く、もっさりした草葉の塊の表面上に一輪咲くヒナギクに触れるアルミナ。花が赤く染まるのはここまでで何度も見てきたため、タッチしてすぐに周囲に目を配る。次の目印はどこだろう。
その瞬間、何者かがアルミナの手首をがしっと掴んだ。声もなくびくりとしたアルミナが、ぎょっとして花に触れた手に視線を返すと、無数の花が茂る中に一輪の赤いヒナギク、その脇から人間の手がにょきっと生えて、アルミナの手首を掴んでいる。
「あははは! 驚いた? びっくりした?」
何者かの手がアルミナの手を離すと、慌ててアルミナは後ずさる。心臓ばくばくのアルミナを高い声で笑う声の主は、どうやら目の前の草葉の塊の中に潜んでいるようだ。確かに人一人ぶんぐらいは潜り込めそうなぐらい、大きな草葉の塊だが。
そこからにょきっと顔を出したのは、アルミナと同じ年頃に見える少女だった。そしてそれは、第14小隊の一部にとっては一度見た顔である。
「お前は……」
「やっほー。人間様、お久しぶり♪」
シリカとユース、チータそれぞれに顔を向け、花の集まりの中からもう一本の腕を出し、敬礼のように手で頭を撫でて挨拶する。かつてエルアーティと共に、綿の雨に滅ぼされたピルツの村へシリカ達が赴いた時、この顔とは一度見合わせている。
「えぇと……ベラドンナ、といったかな」
「わ、嬉しい! 覚えててくれたんだ!」
花の集まりからぐいっと体を出し、シリカに向けて両手を伸ばして差し出すベラドンナ。握手でも求めているのかと、シリカが右手を差し出すと、ベラドンナは両手でシリカの手を握ってきた。
人の姿をしたベラドンナは、鎖骨と肩口、顔と腕だけを草葉から飛び出させた形だ。見えている部分が丸裸であり、ユースも思わず直視できない方向に首を逸らす。お風呂から、胸より上だけ出した同い年の裸体を見るような光景は、急に目の前にすると刺激がきつい。
「シリカ、こいつのこと知ってるのか?」
「ああ、クロム達には説明しておこうか。こいつは……」
クロムに目線を送り、ベラドンナの手を離そうとするシリカ。だが、離れない。ベラドンナの両手が、シリカの手を握ったまま放さないのだ。
「……あの、ごめんなさい。ちょっといいですか」
ベラドンナの方を二度見したシリカの目の前にあるのは、気まずそうなベラドンナの顔。どことなく、うちの小隊のお転婆娘によく似た顔で、失敗を謝る前のアルミナを彷彿とさせる目の色だ。
「ぬ、抜けなくなっちゃって……引っ張り出してくれないかな……」
そもそもどんな目的で、この草葉に全身を突っ込んだのか。顔を真っ赤にして、シリカと向き合えずに情けない声を出すベラドンナは、こういう所までアルミナにそっくりだ。
「へえ、ピルツの村跡地でね」
「そういえばあの日マグニスは、アジダハーカへの牽制で途中からいなくなっていたな。ベラドンナとは顔も合わせていなかったっけ?」
「シリカ達がこいつと会う前にはもう、単独行動してたからな」
ピルツの村跡地でベラドンナと初めて会った時のことを、クロムやアルミナに向けて話すシリカ。時々マグニスにも話を振ったりして確かめるが、どうやらマグニスもベラドンナに会うのは今日が初めてのようだ。
「あの時は楽しかったわ。人間を見るのは久しぶりだったから――あ、ここ左に曲がるわよ」
そして歩く第14小隊の前を、案内役を買って出たベラドンナがふよふよと浮遊して進んでいる。以前に顔を合わせた時と同じで、ベラドンナの風貌は花の妖精のような出で立ちだ。胸だけを花を編んだように隠し、他は一切丸裸。へその下を、地表から僅かに浮いた大きな蒼い花にうずめた風貌だが、この花で隠れた下半身を想像してしまうと、いやに扇情的である。若い騎士の誰かさんも困っている。
「それにしても、なんであんな所に隠れてたの? 私、死ぬほどびっくりしたんだけど……」
「いやー、ちょっと驚かしてやりたくなって……バーダント様に、人間がアルボルまで来るって聞いて、ちょっとテンション上がっちゃってさ。その、ごめんね……?」
アルミナの問いに対するベラドンナの回答たるや、実にシンプルなこと。それで隠れたはいいが、この下半身を覆う大きな蒼い花が抜けなくなってしまうのでは、世話のない。後先考えず、お楽しみに突っ込むその思考回路には、実のところアルミナも共感しなくない。彼女もそういうタイプだ。
「……くすっ、それだけのために?」
「……怒ってない?」
「怒ってないわよ。確かにちょっとチャンスだって思ったら、そういうの楽しいもんね」
ちょっと不安げな顔をアルミナに向けられず、おそるおそるという声で話しかけるベラドンナだが、ちらりと後ろを振り向けば、そこには屈託ない笑顔を浮かべたアルミナがいる。もう気にしてないよ、というこの顔を見せるため、ベラドンナが振り返りやすいよう、わかりやすい笑い声を敢えて漏らしたアルミナ。怒らせたかな、という元気のない顔を一新し、ベラドンナもほっとしたように笑う。
「あんたはこの森の妖精か何かかい? 以前は森の外に顔を出したそうだが」
「まあ、そんな所。アルボルには、バーダント様以外にも高い魔力を持つ聖樹がいくつかあって、私はその樹に咲いた花から生まれたの」
マグニスが話しかければ体をこちらに向け、シリカ達の進行方向へ、背中を向けたまま進んでいくベラドンナ。後ろから見ると全裸の上半身が見られて、それはそれで綺麗な肌が見えたものだが、正面から見ても色気が漂い出した小顔と膨らんだ胸元が見えて、マグニスとしては表裏どちらから見ても美味しいものだ。
「この森にはあんたみたいな可愛らしい妖精がいっぱい住んでんのか? だったら俺にとっちゃあ、楽園のような場所かもしれねえなぁ」
「やーだー、口が上手いんだから。褒めてくれたって何も……はぎゅっ!?」
まんざらでもない顔で喜んでいたベラドンナが、低い位置に飛び出した太い木の枝に後頭部をぶつけて思いっきりつんのめった。ベラドンナの頭の位置はユースの頭より少し高い程度の位置にあったが、そんな低さに枝を生やす樹もあるようだ。流石は多種多様な植物の群生するアルボルである。
後頭部を押さえて前かがみになるベラドンナ。案内役が止まってしまった。苦笑いするマグニスをよそに、キャルが心配そうな顔で駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか……?」
「だ、だいじょぶだいじょぶ……こ、こういうことがあるから……」
森では気をつけてね、と、涙目の笑顔でキャルに語りかけるベラドンナ。なるほど、説得力がある。足元も明瞭でない森の中を、後ろ向きに歩くような奴もいないとも思うが。
頭をさすって、至近距離でキャルの顔をまじまじと見るベラドンナ。心配してくれる少女の目と向き合ったベラドンナは、指先で目尻の涙を拭うと、一度目を閉じて柔らかい笑顔を作り直す。
「心配してくれてありがと。これはほんのお礼よ」
キャルの頭に手を伸ばし、戸惑うキャルの手前、ベラドンナはちゅっとキャルのおでこにキスをする。突然の行動に、本質うぶなシリカが軽く硬直し、ヒュウ、とクロムが適当に煽り文句を口にした。
「俺にも! 俺にもやってくれ!!」
キャルに口づけしたベラドンナへと、ハイテンションで駆け寄ろうとするマグニスに、チータが横から彼の足元に杖を突き出す。つまづかされてすっ転んだマグニスは、ベラドンナを遠くしてずざーっと地面にヘッドスライディングである。この人はこうでもして止めておかないと、そろそろうるさい。
額を押さえて戸惑うキャルの目の前には、にっこりと笑ったベラドンナ。その両者の間に横から割って入り、キャルの視界を自分の背中でいっぱいにしたのがアルミナだ。
「だめー! キャルにはまだそういうの早いの!」
ベラドンナの胸の上をぐいぐいと押して、キャルから遠ざけようとするアルミナ。わたわたと後ろに後ずさらされるベラドンナだが、数歩分後ろに下がったところでアルミナの両手首を握り、体重を前にかける。
「んふふ、その反応可愛い♪ あなたにもお詫びしなきゃだし、ね」
そう言って頭を乗り出すと、アルミナのおでこにもちゅっとキスするベラドンナ。うひゃっ、と裏返った声を出して、進行方向真逆の後ろにたじろぐアルミナも、戸惑って額を押さえている。
「俺も! 俺にも……」
地面にずべしゃしたまま、がばっと顔だけあげてベラドンナの唇をマグニスが求める。とりあえず、シリカの騎士剣の鞘がその後頭部にがつんと当てられ、再び顔面から地面に沈むマグニス。シリカの言いたいことを要訳すると、うるさいぞと。
「うふふ、そんな顔しないで。今のは本当にお礼よ。願い事が叶いますように、ってね」
目をぱちくりさせるアルミナの前で、くすりと笑ってベラドンナはそう言う。二人のおでこにキスをしたことをお礼と形容したのは、ただのご挨拶ではないようだ。
「妖精さんは、口づけでおまじないをかける習慣でもあんのか?」
「んーまあそんな感じ。人間は唇を他人の肌に合わせることに特別な意味を持つそうだけど、私の場合はこうして魔力を注いであげるの。まあ、他にも手段は無いでもないんだけどね」
ベラドンナの腰元、蒼い鼻の花弁の隙間から、ツタのようなものがにょろっと生えてくる。それはうねうねと触手のように踊り、先端はトゲのように尖っている。
「これをブスッと刺して魔力注入! でもいいんだけど。痛いのはイヤでしょ?」
苦い顔でこくこくうなずくアルミナに、後ろのキャルも同意である。二人の顔を交互に見て、ベラドンナは小さく笑うが、それは今日の彼女において、最も柔和で優しいものだった。
「私、人間が好きなの。大森林アルボルは、人間に愛され、信仰され、かつて一度滅んだ姿からこの世に再び生を受けたと、バーダント様はお話してくれた。私はアルボルが好き。それを愛してくれた人間のことも、等しく愛せるつもりよ」
先ほどまで進んでいた方向に首を向け、遠きシリカ達の目的地を見据えるベラドンナ。その道中に何があるのかも全て知っているベラドンナだからこそ、今のうちに言っておきたいこともある。
「私達の愛するこの地を訪れてくれたあなた達に、望むべき生が与えられることを私は願っている。間違いが起こるようなことは、あって欲しくないからね」
大森林アルボルは、精霊の加護により人間には無害な地だ。魔物と触れ合うことさえ出来るし、羽虫に噛まれる心配すらせず、緑と親しむこの森は、遠足気分で訪れてもいい場所だ。この地を守る魔物達をも大森林は退けるし、理想郷とはもしかしたらこういう場所のことを言うのかもしれない。
だが、それはあくまで浅い地のみ。アルボルに住まう、人を狩ることが許された存在の潜む大森林の奥地は、もはやコズニック山脈にも比肩する危険地域。シリカ達が足を踏み入れようとしている場所はまさにそれであり、運が無ければ命を落とすことだって充分に考えられること。
「そろそろ花の色が変わるわ。森は決して人間のためだけにあるものではないということを、今一度思い出して頂戴ね」
ゆったりと歩いている中でも、森を包む変化は意識の底に不思議と語りかけてくる。ベラドンナの念押しなくとも、誰もが心の奥底では感じ取っていたことだ。森の入り口、大森林の浅き地よりも、今ここにいる場所に漂う風の色は、言いようもなく代わり映えていることは。
語りかけられた言葉はきっかけに過ぎない。大森林奥地に向けて歩き出す、ベラドンナの背を追うシリカ達は、仲間がそばにいることを頼もしく感じられる心地を、妙に如実に思い出していた。
周囲に飛び交う光る何かは蛍だろうか。神秘性溢れる大森林アルボルでは、ベラドンナのような妖精が、虫のような大きさで飛び交っていても不思議ではない気がする。想像力がかき立てられる。
木々の形が徐々にいびつになってきた。人里近くのアルボルの森は真っ直ぐに生えるものが多く、ぐにゃりと幹を曲げた木も多くなってきたことは、森林深くまで来たことを意識せざるを得ない。幹の模様も綺麗な流線を描いていないものが多く、きつつきにほじくられたにしては大きすぎる穴をぼっかりと空けた穴も多い。
奇声とも言える、森林奥地の魔物達の、きいきいと鳴きわめく音が近付いてきた。こんな鳴き声でわめく鳥は一度も見たことがないし、犬のうなり声よりも大きな羽音を響かせながら、脇をすり抜けていくトンボには、ユースもどきりとしたものだ。人の指先から肘までほどの全長を持つ巨大なトンボを見た時に人が感じるのは、ここは自分が知る生態系で成り立つ地域ではないということ。
白いヒナギクの花が散見する今のうちは大丈夫だろうが、やや離れた場所をのっそりと歩いていたワーウルフを見た時は、シリカも目に浮かぶ難色を隠せなかった。もしも魔物が人を狩ることが許された森の奥地で、あれと同じものに出会ったら、戦わなくてはならないかもしれない。それを恐ろしく感じるほどにはワーウルフは強く、その生息を意味する光景は先行きの不安を駆り立てる。
風ひとつ吹いて木々がざわめく音さえも、僅か違って聞こえ始めるのは、自分達が危険な地に足を踏み入れる意識からくる聞き違いだろうか。さわさわと心地よい緑色の音ばかりが耳をくすぐっていたはじめとは異なり、ざわざわと未知の接近を予感させるような葉音が、四方八方から鳴り響く今、アルミナも銃を持つ手に力が入って仕方ない。
大森林アルボルの地図を知らぬ第14小隊ですら、感じ取れずにいられない予感。その胸騒ぎが目の前に現れるまで、意識してからさほど時間はかからなかった。
「ここからよ」
ベラドンナがくるりと振り返ったその脇に咲くのは、桃色のヒナギクの花。真夏の今に咲くのは不自然で、大森林の精霊の魔力が生み出したものだとすぐにわかるそれが示す色は、ここより先は精霊の庇護なき、森の住人達の郷であるということ。
「つまりここからは、こっちから手を出そうが敵は増えねえってことだよな」
不意にそう口走ったマグニスの方をふと見た瞬間、ユースはぎょっとした。掌を上に向け、人の頭ほどの大きさの火球をそこから僅か上に浮かせる、火術マグニスの姿がそこにあったからだ。
「ちょっとやめてよ、木に燃え移ったりしたら……」
「喋んな。そこから動くなよ」
当然の不平を口にするベラドンナを、マグニスの恫喝が問答無用で制する。先ほどまでの、女の尻を追いかけていた浮かれ顔がすっかり色を消し、まるで外敵を睨みつける獣のような眼差しを、マグニスがベラドンナに突き刺している。
「おい、マグニ……」
不可解を感じ取ったシリカがマグニスに歩み寄ろうとすると、二人の間にクロムが太い腕を差し込み、壁を作る。何も言わずに様子を見てみよう、と無言で訴えるクロムに、シリカも足を止め、マグニスの横顔に注視する。
元々騒ぎを起こしやすい奴なのは知っているし、血の気が多い奴なのは知っている。ただ、こうして手段を選ばぬと見える行動に出る時のマグニスというのは、必ず何かしらの意図あってのものだとも、シリカは知っている。喧嘩っ早いのと、無為に喧嘩をふっかける暴れ好きは違うもので、あくまでマグニスは前者のはず。
「……何なの?」
マグニスに敵意の眼差しを向けられていることに、ベラドンナの目にも僅かな不機嫌が宿る。だが、怯んでいない。ユースだってアルミナだって、凄んだ時のマグニスの表情というのは、横から見てもたじろいでしまうものだ。それと正面向き合って、動揺の色ひとつ見せないベラドンナの肝は間違いなく特筆点だ。
「てめぇ何企んでやがる。それだけ答えろ」
大精霊バーダントが残したヒナギクの道、そしてその花の色が桃色に変わるまでは魔物も襲ってこない、大森林アルボル。ここまでの道のりは、始めから保証されている安全と、見逃しようのない道しるべを辿ってここまで来ただけだ。すなわち、案内人など全く必要のない道のりだったはず。その道のりを敷いた、大精霊の偉大なる力を誰よりもよく知るであろうベラドンナこそ、そのことを一番よくわかっているはずだ。
そんなベラドンナがわざわざ人間に目をつけて、案内役を買って出たのは何故なのか。単なるお節介だと、マグニスには思えなかった。元より始めは人を疑うことから入るマグニスの性分ではあるが、こうして炎を片手に恫喝に至ってよしと思えるほどには、彼の勘がベラドンナの二面性を訴えかけてやまないのだ。
ベラドンナは、アルミナとキャルに"おまじないをかけた"と言っていた。思い返せばあれが、マグニスの直感を刺激した最初の一瞬だったかもしれない。おまじないとは、人の世では呪いと表記されるのだから。
「人間は疑り深いのね」
問いと違う答えが帰ってきたことに、マグニスが火球をベラドンナに直球で投げつけた。直後、蒼い花の中に下半身を隠していたベラドンナが、上空へと光のような速度で飛び、彼女の腰から下を隠していた蒼い花に火球がぶつかる。ベラドンナが長く纏っていた蒼い花は、一気に炎に包まれる。
ベラドンナはというと、空中高くで身を翻し、太い木の枝の横でマグニスを見下ろす。先ほどまで隠れていた下半身がどんなものであったかを動体視力が捉える寸前、突然ベラドンナの下半身を包む花が出現し、数秒前と変わらず腰より下を、大きな蒼い花で包んだベラドンナの姿が形成される。
攻撃を向けられたはずのベラドンナは、不機嫌の色を増すどころか、上機嫌いっぱいの笑顔でマグニス達を見下ろしている。屈託ないはずのその笑顔が、まるで贄を見つけて喜ぶ魔女のように不気味なものであるとユース達が気付いたのも、その時になってようやくのことだった。




