第152話 ~大森林アルボル① 聖樹ユグドラシルとの再会~
ゼリオーニの町から馬車を借り、大森林アルボルに第14小隊が到着したのは、昼前のことだった。昨夜の長話が響いて、朝起きがそれぞれやや遅くなってしまったのも原因の一つである。任務放棄の末で気楽な旅ではないが、ここまでくればもう開き直ってマイペースでいた方が、心も健やかに済みそうだ。
御者に礼を述べ、帰る馬車を見送ったシリカは、右足でとんとんと地面を叩いて、傷のある脚の調子を確かめていた。治癒魔法を扱う魔導士でもあるゼリオーニの町医者は、当人の腕も確かだったようで、戦えるけれど少し具合が悪い、という状態だったはずの脚も、今日はすこぶる快調のようだ。
「治癒魔法を乗せてのマッサージでもしてもらったか?」
「死ぬほどくすぐったかったよ。おかげ様で、今日は不測の事態にも対応出来そうだ」
「シリカの生脚を揉んだ町医者かぁ。羨ましいよなぁ、ユース」
「何で俺に振ってくるんですかっ」
人の体はひとりでに傷を癒す仕組みになっているが、その治癒本能を促進させる魔法をかけた後、痛めた筋肉をほぐす。傷ひとつに悩む戦士を癒す、治癒魔法を扱う医者の手法はこれが主であり、腕の確かな医者がこれを行使すれば、傷はやがて殆ど跡形もない形で消え、その傷によってはたらきが万全でなかった周囲の筋肉も回復する。町医者の残した残留魔力も手伝って、今のシリカの脚は、健康体と何ら変わらない。残留魔力が身から尽きれば、また少し違和感が残ってしまうため、魔力による治療とは言っても一時しのぎ、本来ならば安静推奨なのだが、そこはまあ患者の都合任せである。
ちなみに何だっていい問題だが、シリカの脚を癒した医者の魔導士は女性である。いくら治療とは言っても、見知らぬ男に自分の太ももを触らせるのは、シリカもやっぱり避けたかった。騎士として体を酷使する毎日の割に、こういうところでは自分の体を大切にしていたりするものである。
「さあ、みんな準備はいいか。何が起こるかわからない以上、気を抜くんじゃないぞ」
耳にたこが出来るほどの口癖を、ここでも復唱するシリカ。任務前には必ず聞かされる、気を抜くなの忠告を、こんな時にまで律儀に聞かされて、マグニスも思わず飽きた顔である。
「大丈夫っしょ~。大森林アルボルの魔物は精霊様に手なずけられてるそうだし」
「それでも何が起こるかなんてわからないだろ。あまり浮かれるなよ」
チータも事前に説明してくれたことだが、大森林アルボルに住まう大精霊は、人間との関係を快く考えてくれているようで、森に生きる魔物達に、人間を襲わないように話をつけてくれているらしい。事実、以前ルオスの魔法剣士ジャービルとこの森に立ち入った時も、魔物はちらちら視界に入ったものの、こちらに攻撃的な目を向けてくる魔物はいなかった。勿論こちらから手を出そうものなら、魔物も怒って襲い掛かってくるだろうが、基本的に大森林アルボルの魔物達は、手を出さない限りは人間に対して無害である。
何十年もそれは立証されてきたことで、そんな危惧などしなくていいのに、こうして念を押してくるシリカの性分には、マグニスも呆れそうになる。確かに武装はしてきているが、口を酸っぱくして真剣な顔で推してくるようなものではあるまいと。
シリカを先頭に、森に立ち入る第14小隊。木漏れ日の差し込む森林内の情景は、人に愛された大いなる森の喜びを今日も表すかのごとく、爽やかな緑と風を携えて第14小隊を歓迎した。
シリカ達が目指すのは、"アルボルの樹"と呼ばれる聖樹の朝露である。広大なこの森にただ一つそびえるその樹は、実のところ人類史にも正確な位置が残されていない。逸話によると、森の精霊の住まう庭にあるその樹に辿り着こうとしても、道に迷うばかりで到達できないとされている。
精霊住まう秘境への到達には、精霊の助力が必要であるというのが通説だ。シリカ達が訪れたのは、森林の奥深くにひっそりと居座る、小さな泉である。かつてルオスの皇帝に依頼され、ジャービルと共に訪れたこの場所へ、シリカとユース、アルミナとチータは、人生2度目の来訪という形になる。他の3人は、来るのも初めてだ。
「ここで精霊様を呼び出すってわけだな」
「お呼びするために必要なものも、エルアーティ様が貸して下さったよ」
記憶の限りでは、かつてジャービルは、美しい女性をかたどった木彫り人形を泉の前に差し出し、精霊を呼び出す詠唱を唱えていた。その木彫り人形と同じものを、エルアーティも持ち合わせており、シリカが彼女から貸して貰ったものがそれである。
大森林アルボルを崇める宗教団体、緑の教団とは犬猿の仲と言われるエルアーティだから、ルオスからこれを授かったとは考えにくい。推測の域を逸しないが、恐らくエルアーティは帝国の力を借りず、自力でこれを手中に収めたのだろう。元より謎の多いお方ではあるものの、考えれば考えるほど、過去の読めない人物である。
「シリカ、頼むぜ。噂じゃ精霊様は美人のようだし、俺も一度お会いしてみてえんだよ」
「マグニスさんはそのスケベ根性を精霊様の前でも晒すんですか?」
「自分を偽らない誠実な姿勢は、人としては美点だって言えるだろ」
マグニスとアルミナが軽いキャッチボールをする前、木彫り人形を泉の前に差し出し、小声で詠唱を口にするシリカ。精霊を呼び出す時の詠唱は概ね定められているらしく、その言葉もシリカはエルアーティに聞き及んでいる。
シリカが詠唱を終えて間もなく、泉を取り巻く空気が渦巻き始める。精霊の、大森林の、大いなる魔力の流れを表すこの気流は、魔法使いでない者の目にも、その流れを映すほどのもの。やがて泉の上に数多くの葉が舞ったと思えば、それが人の形を包むように集まっていく。
直後、それらの葉が一斉に上空に飛散したかと思えば、葉の陰に隠れていた場所に、艶めかしい女性の姿をした精霊が姿を現す。目を閉じたまま現れた精霊が、すうっとその瞳を開く仕草ひとつとっても、人の姿では誤魔化せない神秘性がありありと表れている。
「うっはー! こりゃすげえ! 眼福だわ!」
手を叩いて大声の喝采を送るマグニスのテンションが、かつてないレベルである。長身かつ、張りのある胸を萌黄色のチューブトップで覆い、下半身の大事な所を、花や葉を編んだような装飾で隠しただけの着飾り。裸足の指先まで目ざとく見てもことごとく整っており、脚や腕、肩や鎖骨、へその周りも惜しげなく全て晒してくれる女性の姿をした精霊は、女好きのマグニスにとって最高の目の保養になる。宙に浮く精霊のふくらはぎまで届く、翡翠色の絹糸のような長髪は、今日も羽毛のようにふんわりと漂い、女としてアルミナもあの髪は羨ましく感じたりするほどだ。
「やっほー、人間さん。何名かはお久しぶりね」
健康的な肌の色とよく似て、明るく陽気な声を形にする大精霊。自身の名をバーダントと名乗るアルボルの精霊は、出会い頭に自身の風体を褒められたことに、さっそく機嫌上々のようだ。
再会にご挨拶するシリカに続き、アルミナやチータもそれに続いてバーダントにご挨拶。ユースだけが目を泳がせ、しどろもどろのご挨拶をしていたが、相変わらずバーダントの風貌はユースにとって刺激が強すぎるらしい。変な話、二十歳を迎えて色気のある体に育ってきたアルミナと比べても、バーダントの肉体の曲線美は遥か高次元の美しさである。これに対抗できるほどのフェロモンを放つものがあるとしたら、水着姿で全身の肌を晒したあの時のシリカぐらいのものではないだろうか。
困ったことに、胸と腰周りだけを隠したバーダントの服装は、あの日の水着姿のシリカを彷彿とさせるのだ。二次災害であの日のシリカを思い出してしまったユースは、不慣れな性衝動に胸の高鳴りを抑えきれず、バーダントのことを全く直視できていない。
「あら、それって私がエルアーティにあげたものじゃない。今度はあなた達、あの子の招待で来たの?」
シリカの握る木彫り人形を指差してそう言うバーダントの言うとおり、やはり精霊とエルアーティには個人的な繋がりがあるようだ。バーダントもバーダントで、ジャービルの持っていたものと見分けがつかないこの木彫り人形を見て、持ち主を言い当ててしまうのだから、その眼力たるや不思議なものだ。
「ということは、私に何か大事な用事があるのね?」
「はい。実は――」
エルアーティが、精霊バーダントに誰かを会いに行かせることには、それなりの理由があるということ。それを示唆するバーダントの言葉もひとまず隅にどけ、ここに来た経緯をシリカは説明し始めた。
「まあ、事情はわかったわ」
宙に浮かばせる美麗な体をゆらめかせ、腕を組んで考え込む精霊バーダント。どの角度から見ても妖艶さの死なないその肉体美には、終始ユースが目のやり場に困っている。肌を晒すことに強い羞恥心を抱きやすいキャルなんて、目の前の精霊様のお姿には、見ているだけで恥ずかしくなってくる。
「となれば、それをあなた達に手渡すためには、私の庭まで取りに来て貰わなきゃいけないわね。ここでは私も、あるがままのものを出すことが出来ないわ」
「どういうことですか?」
「あなた達の言う"アルボルの樹"というのは、恐らく私自身のことを指しているのでしょう? ここじゃあなた達の望むものを生み出せなくて……私の庭まで来て貰わないと」
精霊側も、どこからどう説明したものかという表情。双方の主張が一本の線に、まだなっていない。
「……あなたが"アルボルの樹"そのものということは、あなたが聖樹の化身ということですか?」
「ああ、きっとそんな感じよ。エルアーティにも昔、そんなふうに形容されたわ」
チータの補足に、精霊バーダントはうんうんと頷く。面識のあるエルアーティの顔を、懐かしむように思い出す表情もふと浮かべるあたり、感情豊かさが表に出やすい精霊だとわかる。
「アルボルの中心に行かなければ、私はあなた達の言う"聖樹"としての姿に戻ることが出来ない。望まれた雫をあなた達に渡すには、樹としての姿から受け取って貰わなきゃいけないのよ」
「なるほど、よくわかりました」
「今ひとつ概念的な話だな。チータ、解説してくれ」
その実、概ね把握していながらも、クロムはチータにそう促した。自分がわかっていても、周囲の何人かはわかっていない顔をしていると見れば、こうして情報共有の機会を設けるのがクロムの配慮。
チータが言うには、バーダントの主張から察するに、聖樹ユグドラシルはその本来の姿のみならず、精霊の姿となって森を舞うことが出来るということだ。そして聖樹ユグドラシルが人の姿となり、精霊と呼ばれているのがバーダントのことである、という話。そのバーダントは、アルボルの奥地でしか聖樹としての姿に戻ることが出来ないから、そこまで行って聖樹ユグドラシルの姿となったバーダントから、望む朝露を受け取らねばならないということだ。
「精霊様って、樹が人の姿になった神様みたいなものってこと?」
「まあ、概ねそんなところだな」
「神様! そんな言い方されると私すっごい偉い人みたい!」
アルミナの言ったささやかな言葉尻を捕まえ、ふふんと鼻を鳴らして胸を張るバーダント。大きい。何が大きいかはこの際どうでもいいが、その大きな果実二つにはマグニスが鼻の下を伸ばしている。ユースは困っているが。
「そうね……あなた達エルアーティに、アルボル中心地への道のりは聞いてる?」
「言葉で説明するのは不可能だから、精霊様に案内して貰うようにと言われましたが……」
「まあ、そうね。地図があっても人間には、易々と辿り着けるような場所じゃないみたいだし」
森林は、四方八方がほぼ同じ風景だ。ここ、精霊と出会うための泉への道は、恐らく精霊の許可のもと概ね道がわかりやすく拓かれていたが、大森林最奥の聖地までの道なんて、自然そのままの密林の集合体だろう。よほどの体内指針を持っていないと、まっすぐ正しい方向に歩けるような地相ではないし、精密な地図があったとしても何の役にも立たない。
「では、こうしましょう。私がアルボルの中心までの道中に、目印を置いていくわ。今は夏だから――ヒナギクの花を咲かせていくとしましょうか。それを目印に追って貰えれば、やがてアルボルの中心地に辿り着けるようにね」
「えー、精霊の姐さんが直接案内してくれるんじゃないんすか?」
バーダントの尻を追いかけたいマグニスが、まあまあ冗談混じりの声で不平を垂れる。混じり、ということで半分は本音でもあり、精霊様にも失敬上等のマグニスの口には、シリカも頭を抱えたい。
「露を現すには時間がかかるからねぇ。私が先に行って作ってる方がいいと思うわよ。アルボル奥地の動物達は人間も襲うから、あまり長居しない方がいいでしょうし」
アルボルの森林浅い部分に住まう魔物達は、人間達と友好的なバーダントの配慮により、人間達を襲わないように言いつけられている。だが、森林最奥地となると事情が違うようで、そうした場所で人間が長居しない方法をバーダントは提案している。バーダントが今言った"動物"というのも、恐らく精霊の価値観でそう言っているだけで、魔物と形容できるような存在であるとも予想できる。
「そこを何とか! せっかく……」
「しつこいぞ、マグニス」
前に乗り出して精霊様のご同行を主張するマグニスの頭を、ぐいっと横によけてシリカが制する。帝国ルオスの敬う精霊様の気遣いを、性欲のみの主張によって無下にするわけにもいくまい。
「すみません、精霊バーダント様……お話は、先ほどのとおりで……」
「あはは、あなたも苦労人なのね。私も、言うことをなかなか聞いてくれない子達が多いから、その苦労はわからなくもないわ」
屈託無く笑ったのち、バーダントは掌を上に向け、ぽうと光る魔力を集める。それを泉のそばの地面に落としたかと思うと、落ちた場所から一輪の花が咲く。今は夏真っ盛り、この季節には咲かないはずのヒナギクの花は、精霊バーダントの作り出したわかりやすい道しるべだ。
「人間の手に触れると、その花は赤くなるわ。一度通った道の花に触れれば、そうして区別することも出来るんじゃないかしら」
「お心遣い、ありがとうございます」
ヒナギクの花言葉の一つである"お人よし"の言葉を体現するかのように、白いヒナギクに込められたバーダントの魔力には、道に迷わぬようさらなる配慮が重ねられている。緑溢れるこの森の中で、大きな花を開いたヒナギクは、それだけでも充分に目印となるだろう。
「あと、一つだけ注意しておくわ。大森林アルボルの広い地域の魔物達には、人間を襲わないように言ってある。だけどアルボル中心地に近付くと、魔物達も獲物を狙って牙を剥いてくるわ」
そう言ってバーダントは、もう一つの花を今のヒナギクの隣に咲かせる。白いヒナギクとは違い、こちらは花弁の多い、桃色のヒナギクだ。
「桃色のヒナギクが見えたら、そこからは注意なさい。そこ以降の魔物達は、人間を襲うこともあるという意味だから」
「今日ぐらいはその魔物達にも、人間を襲わないようにして貰えるとかムリっすかねえ?」
わがまま千万、厚かましいような言葉を平然と言うマグニスには、シリカも頭痛がする想いだ。ただ、アルボル奥地に現れる魔物がどんな怪物であってもおかしくないため、安全性を確保したいのならば、マグニスの提案は間違っていない。命に関わることなのだから。
「うーん、基本的にアルボルの魔物達に、そうした強要を敷くのは自然の理念に反するのよね。この森は人間のためだけのものではないし、私の命令で縛られるのが嫌だという子達が、アルボル中心部近くに棲み着いている形だから。そう棲み分けているだけでも妥協してるつもりよ?」
残念ながらこれは却下。折れないところはしっかり筋道立てて説明し、マグニスも納得できるよう回答してくれるあたり、精霊様も良心的であると言えよう。
「アルボルの中心で待ってるわ。森林奥地の魔物達には、ちょっと人間には荷が重いと思えるような子もいるから、あまり無理はしないようにね」
「はい。あるがとうございます」
一礼したシリカの前、バーダントの周囲に発生する無数の木の葉。それが渦巻き、バーダントの周囲を包み込んで姿を隠したかと思うと、直後木の葉が吹き飛んだ瞬間には、精霊バーダントの姿はそこにはなかった。
バーダントの残したヒナギクは、数歩歩けば次の花が見えてくる。花同士の間隔も広くなく、道しるべとしては非常にわかりやすい。手がかりなく歩けば道に迷いそうな密林であっても、シリカ達の足取りが気楽なのはそのおかげだ。
「触ると本当に赤くなりますねぇ。チェック、っと」
「人の手で触れないと色が変わらないのも面白いな」
「こらこらマグニス、あんまり遊ぶなよ」
アルミナが触れた途端、白い花弁を赤くするヒナギクの花。一方、マグニスがナイフの先でつんつんと白いヒナギクに触れても、花は色を変えたりしない。大精霊が作り出した仮初めの花の不思議には、こんな機会でなければチータも興味津々で色々調べているだろう。
「所々に魔物の影は見えるな。まったく襲ってくる気配はないが」
「新鮮ですね……襲い掛かってこない魔物達の真ん中を歩くなんて」
精霊様のお膝元、森の中で煙草を吸うわけにもいかず、クロムが右手をぷらぷら振りながら言うとおり、周囲に散見する魔物達から殺気はない。それだけで安心してしまえる肝を持つ彼とは違い、普通の神経であるユースはこのシチュエーションに落ち着けない。巨大なキングコブラや、背中にも乗れそうな大蜘蛛の魔物ヒュージスパイダーが、自分達のすぐそばを素通りしていくのだから。ちらりとこちらをそれらが見た瞬間には、思わず盾を構えたくなってしまう。
「こちらから手を出すんじゃないぞ。そうなると、魔物達も怒って攻撃してくるからな」
シリカが念押しするとおり、魔物達にこちらから手を出せば、精霊の定めた決まり事を破ってでも魔物は襲い掛かってくる。そりゃあ本音では、人間でも何でも捕食したい魔物達が、それを抑えて危害を加えないようにしているのに、こちらからは虐め放題だなんて馬鹿な話はあるまい。そんなことをしようものなら、恐らくバーダントもそんな人間を保護なんてしてくれないだろう。彼女にとっては、森に住まう命の方が身内なのだから。
大森林アルボルを語るにあたって本来避けて通れないのが、人類を人里ごと壊滅させる綿雨である。"アルボルの火"と呼ばれる、無限の植物で人里を壊滅させる精霊の裁きとは、そうして森の命を奪う人間達へ向けられるものだ。要するに森で下手なことをすれば、当人だけでなくその者が住む里さえも奪われるということである。
「それを利用して人里ひとつ滅ぼそうとする人間とかもいるのかねぇ」
「精霊様はそうした悪意も、森で害意為す人間の魂から読み取れると仰ってました。裁きの対象は、精霊様が柔軟に選び分けているそうですよ」
性悪説全開のマグニスの疑問にチータが応えるとおり、ルオスの歴史が語る精霊の裁きは的確だ。人間の都合や悪意で踊らされるほど、大森林の精霊は簡単な存在ではない。
たいしたもんだねぇ、とマグニスが嘆息漏らして歩く傍ら、ふと足を止めた少女が一人。彼女の横を歩いていたアルミナも、その動きを見て立ち止まる。
「キャル? どうしたの?」
「あれ……」
キャルの目線の先にあったのは、小さな狼だった。ジャッカルか、あるいはサイコウルフか、そうした魔物の子供であると思しきそれは、親を見失って探すかの如く、きょろきょろと周囲を見回している。
向こうもこちらに気付いたか、見慣れぬ人間の姿にたじろいでいる様子だ。うなりはするものの、怯えた目を浮かべるだけであり、精霊の定めたとおり、こちらに危害を加えようという様子は無い。
近くにあったヒナギクの花は白。まだ、魔物達が襲い掛かってくる区画ではない。小さな狼に歩み寄ろうとするキャルだが、とんとその肩をクロムが叩く。
「俺も行こう。万一のことが無いとは限らんからな」
魔物が襲い掛かってくることは無いと断言していいシチュエーション。それでも何かの間違いがあっては困ると言いつつ、キャルのさせたいようにさせるクロムは、もしものことありそうなら事前にそれを阻止するつもりだ。小さく会釈したキャルが、ぱたぱたと狼の子供に駆け寄る姿に、その背中を見送るアルミナは心配そうである。
「……怖くないよ。ほら、おいで……」
狼の子供の前で腰を下げたキャルが、手を広げて迎え入れる形を整える。キャルの少し後ろに立つクロムに対し、狼の子供も少し警戒心を強めるが、彼の方もたいして殺気は放っていない。どんな事が起こっても、双方無傷で片付ける自信のあるクロムは、その余裕から尖った気質も放たない。
狼の子供はゆっくりとキャルに歩み寄り、キャルの手に触れようとする。もしも噛まれたら、なんて想いすら一切感じさせないキャルの優しい笑顔は、ここの両者だけが交換できる特別な言葉である。それを正しく受け取った狼の子供は、キャルの胸元にぴょんと飛びつき、抱きかかえるようにしてキャルがそれを受け止める。
「あっ、ちょ……く、くすぐったい……」
甘えるようにキャルの首元を舐める狼の子供の姿には、キャルに対して敵意のかけらも無いことがよくわかるというものだ。避けるように顔を逃がすキャルを、しつこく頭を寄せて頬ずりしようとする狼の子供には、後方で見守るクロムも微笑ましいばかりである。
「キャルって動物によく好かれるけど、魔物まで手なずけちゃうもんなのか」
「いやぁ、向こうの気持ちわかりますよ……あの子可愛いもん……」
キャルになつく狼の子を、どういう神経なのか羨ましそうな目で眺めるアルミナ。彼女の理屈はまあさておいて、確かにキャルは日頃から動物に好かれるタイプだ。野良猫や野良犬の頭を撫でに行って、それらが怖がって逃げていった試しがない。
狼の子供を抱えて帰ってきたキャルだが、その目はあまり明るくない。親とはぐれた狼の子に対する気の毒さで心いっぱいなのも、その表情からよくわかる。
「この子、親とはぐれちゃったみたいで……探してあげても、いいですか……?」
哀願するようにシリカに訴えかけるキャルは、今は忙しいこともわかって尋ねている。シリカが駄目だと言うならば、残念だけど諦めるしかない、という意図も兼ねているのだろう。
「……まあ、少しぐらいならいいさ」
「ありがとうございます……!」
基本的に急ぐ旅だが、時間が無いわけではないのだ。数瞬考えたのち、それぐらいなら構わないと許したシリカに対し、キャルは申し訳なさそうに、しかし嬉しそうに頭を下げた。
「わ、私も撫でてみていいかな……」
そろーっとキャルに近付いたアルミナが、恐る恐る手を伸ばし、狼の子の頭を撫でる。一瞬警戒した狼の子だったが、撫でられてしばらくするとその目も穏やかになって、くすぐったそうに小さくうなずく。
「可愛い……! ねえねえキャル、もっと……!」
「もう、アルミナ……」
狼の子を抱くキャルの正面に周り、至近距離で狼の子を愛でるキャル。もふもふした毛皮は触り心地もよく、とろけた顔で狼の子を撫でるアルミナには、キャルも仕方ない人だなという顔。
背の高いアルミナが、キャルよりも頭を低くして狼の子に顔を寄せる。ちょっと狼の子に唸られただけで、びくっとして逃げかけるアルミナの姿には、自称キャルのお姉ちゃんも形無しである。大丈夫だよ、とキャルが狼の子を撫でる姿に対し、腰の引けたアルミナを見ていると、背の高い妹が小さな姉にあやされているようにしか見えない。
「どうやって探す? 手がかりなく探すのは、時間を使いすぎるぞ」
「僕に考えがあります。上手くいくかどうかはわか……」
狼の子を愛で合う二人を微笑ましく見守る周囲が、全員ほぼ同時に目の色を変えた。遠方よりこちらへと駆けてくる何かが、草木をかきわける音と共に近付いてくるからだ。可愛い出会いに夢中の二人はそれに気付くのが遅れたが、二人が異変に気が付く頃には、謎の気配と二人の間に、クロムが立ち塞がっている。
間もなくしてクロム達の前に現れたのは、一匹の狼だった。それもただの狼ではない。体躯だけで、間違いなく魔物だと思えるものだ。
「マナガルムか……この目で見るのは初めてだな」
狼の姿をした魔物の中では最上位種の一つに数えられ、獅子か大虎のような巨大な体格を持つ姿。唸り声を漏らすその顔と向き合うだけで、差し向けられる威圧感は相当なものである。
「待て! 武器を構えるな……!」
ユースが騎士剣を抜くより早く、アルミナが銃を構えるより早く、シリカが咄嗟に声をあげた。最速かつ、最善の判断には、同じ事を言おうとしていたクロムもその口を重く閉ざす。
大森林アルボルにしか棲み付かないと言われる、希少種かつ強大な力を持つ魔物、マナガルム。人里離れた大森林にて第14小隊を迎え入れたかの存在は、キャルの胸に抱きかかえられた狼の子を一瞥すると、対峙する人間に厳しい眼差しを向けた。




