第149話 ~テネメールの村③ 騎士ユーステットの私闘~
獅子の頭に位置する場所から、人間の胴体が伸びているスフィンクスの体躯は大きい。頭の位置も腕の位置も、騎兵のそれに等しく高く、人の背丈以上の長尺の杖を振り回す姿は、突進してくる速度も手伝って迫力がある。
その迫力に違わず、スフィンクスがユースに振りかぶった黄金の杖は、かがんですれすれの回避を為したユースの頭上に特大の風切り音を残す。恐らくそれが人間の肉体に直撃していれば、どこに当たっても皮膚の下の骨まで粉砕し、当たり所次第では即死さえあり得るものだ。
体勢を低くしたユースは前進を留めず、スフィンクスの前足の一つに騎士剣を横薙ぐ。第一撃を回避されたことを見受け、さらにユースが自らの足元に潜りこんだ時点で大きく跳躍していたスフィンクスは、ユースの騎士剣の斬撃軌道を飛び越える。
ユースの後方に着地したスフィンクスは、地に足が着いた時点で既に半身ユースに向けている。巨体に身のこなしの器用さを兼ね備えたスフィンクスは、すぐさまユースに魔法を放つべく杖を向けようとするが、Vターンして即時スフィンクスに直進してくるユースの動きが速い。魔法狙撃の決行を取りやめ、構え直したスフィンクスの杖が、腹部目がけて突き出されるユースの剣をはじき返す。
自分から見て右側から、騎士剣を横に流されたユースだが、それで左に流れた剣は片足を軸にしたターンによって、再びスフィンクスの左から迫る。騎士の脳天を杖で殴り潰そうとしていたスフィンクスの杖は、胴元を斬り落としにくるユースの剣に対する防御に切り替えられ、垂直の柱を作る形で食い止める。
人間如きに力負けしないパワーを持つスフィンクスも、片手で握った杖を横から騎士剣で殴られた衝撃が、手まで伝わり痺れたものだ。スフィンクスの瞳を真正面に見据え、怒りを宿したユースの力が、今の一振りに全力込められていたことがよく伝わる。
ユースの剣を押し返し、半歩後ろに退がったのち、距離を作ってユースに杖先を鋭く突き出すスフィンクス。長く重い杖はまるで槍のようなはたらきを為し、今のスフィンクスはまるで、見上げるような高さから槍を扱う騎兵のようだ。ユースは退がらず騎士剣で横に払い続けるが、払われた杖をすぐ引いて突きを繰り出すスフィンクスの動きは、やむなき後退をユースに強いてくる。
払っても払っても、スフィンクスは次々と杖先による突きを連続で繰り出してくるのだ。この攻撃は単にユースを攻め落とすためのものではなく、騎士が自分を射程範囲内に入れないようにするための攻撃だ。リーチの長いスフィンクスは、騎士剣を握ったユースの射程外からの攻撃が容易であり、杖の連続突きをはじきながら退がるユースを、ゆっくりと前進して追い詰める。これが延々と繰り返されるだけなら、体力で勝るスフィンクスは勝ったも同然だ。どこかで必ず、攻められっぱなしのユースが動きを崩すはず。
埒があかずに一度大きく後ろに退がったユースを、魔法の遠距離攻撃で狙撃するつもりだったスフィンクスの狙いは、予想外のユースの行動で破綻する。額を撃ち抜くスフィンクスの杖先を、わずか右に体をずらして回避したユースが、敵に向かって前進したからだ。これは読み勝ちであり、敵が誘う動きをまんまと取ってはいけないという、シリカとの度重なる修練で得た教訓から来る、敵の予想を大きくはずした動き。
リスクは伴う。動きをすぐに感知したスフィンクスが、その杖の横を駆け出したユースの首を薙ぎ折ろうと、杖をスイングしたのがその直後。ほぼゼロ距離から急加速して延髄を殴りにくるその攻撃もかがんで回避したのは、見てからでは間に合わないはずの動き。槍を扱うクロムとの修練の日々が、直感で敵の動きを先読みさせてくれたのだ。
攻撃をはずしたスフィンクスの胸元目がけて跳ぶユースに対し、スフィンクスは大振りの杖の尻を引き、その部分を防御に使うよう尺を操る。肩口に剣を振り下ろしてくると見えたユースの腹腹へと、杖の尻を小さな弧を描かせるのだ。杖がユースに直撃したように見えた瞬間の、クロムの背中から頭を乗り出して戦いを見届けるナイアの胸を貫いた恐怖は、息子の死さえ予感させ肝を握り潰す。
ユースが構えた盾は、スフィンクスの杖を食い止めていた。空中においてスフィンクスの怪力が振るう杖を受ければ、どう足掻いても遠方に飛ばされていたところを、杖の衝撃を殺したのはユースの切り札。盾に纏わせた英雄の双腕の魔力は、敵を吹き飛ばすはずだったスフィンクスの杖が持つエネルギーと相殺し、盾を構えたユースの腕が、逆にスフィンクスの杖をはね上げる。
前進する勢いを殺されたユースは、僅かスフィンクスに届かない。だが、振り下ろした剣の先は、スフィンクスの胸元から腰元までを縦にばっさりと斬る傷を残す。あと半歩ぶん前に進めていたなら完全なる致命傷を与えていたであろうダメージを刻んだ。
「人間風情が……!!」
激痛に怯むより、強い怒りに火をつけたスフィンクスは、離れた位置の脅威クロムのことも完全に意識から締め出し、着地直後のユース目がけて杖を大振りする。素早く後方に跳び退いたユースは、すれすれのところでスフィンクスの長い射程距離から逃れるが、青筋のぶち切れたスフィンクスは恐ろしい形相で猛進してくる。
人間の頭蓋骨をも打ち砕く杖のひと突きを、突進しながら放つスフィンクスの攻撃を、ユースは的確に横に身を逸らして回避。勢いを止めずに猛進してくるスフィンクスの前足が、ユースを蹴飛ばそうと振り上げられたのが直後すぐのことだ。一気に跳躍すると同時、上昇する中でスフィンクスの頭を、目と鼻の先に捉えた瞬間、剣を大きく振るうユース。ワータイガーやオーガが相手ならば、この瞬間に敵の顔面を真っ二つにしていた場面だが、すぐに杖を上げて構えたスフィンクスの防御が、ユースの剣を防ぐ柱を作る。反動で身をスフィンクスから離れる方向に身を逃がす形のユースだが、空中姿勢を整えて地に足を向ける中、すでに自分の方へ狙いを定めるスフィンクスの姿がある。
「英雄の双腕……!」
危機の予感に一歩早い詠唱。地面に足が着く一瞬前、盾を構えた瞬間、まだ空中に身のあるユース目がけて放たれた杖の先端が、ミスリル製の小盾に激突した。両手で握りしめる杖で全力の一撃を放ったスフィンクスのパワーは凄まじく、魔力なしの盾でその攻撃を受けていれば、重すぎる衝撃が腕の骨をへし折った上で、ユースを吹き飛ばしていたことは間違いない。
その全力を盾によって受け止め、一歩ぶんも後方に吹き飛ばされないユースがそのまま着地し、両者の間の時間が一瞬止まる。直後接点となる杖先を勢いよく横に払いのけたユースが、距離のあるスフィンクスへ足を踏み出す。前足めがけて騎士剣を振るうユースに対し、後方に飛び退いたスフィンクスはその一撃を回避。ユースの前進以上に大きく後退したスフィンクスは一瞬で距離を作り、杖先でユースの側頭部をぶん殴る軌道を作りだす。危なげなくそれをかがんで回避したユースだが、再び前に進もうとしたユースの眼前、引いた杖を身に寄せて構えたスフィンクスの姿がある。
「氷結風!」
「っ、英雄の双腕!」
スフィンクスの杖先から放たれる強風が、ユースに襲い掛かる。風の中に含まれる無数の輝く何かに、ただならぬ予感を感じたユースは、構えた盾に魔力を一気に集める。前方から吹き付ける冷たい風に対し、ユースの盾を中心に広がる魔力は、傘のようにユースの前に魔力の壁を作り出す。ユースを射抜くはずだった風はその魔力の壁に遮られたが、逸れた風が夕暮れ夏の草原に、出来過ぎた冬を訪れさせた。
ユース周辺の地面が次々と凍り、地に生えた草は無数の氷の歯のように地面から突き出す形となる。スフィンクスの放つ冷気の強風は、吹き付けた先の世界を一気に凍らせる魔力を持っており、それによりユースの全身を氷づけにしようとしていたスフィンクスは、狙いの不成功に舌打ちして風を打ち切る。盾に魔力を携えた戦士だとはもうわかっていたが、初見のこの魔法も周到に防いでくる姿も、これに応じるだけの魔力を引き出せるのも、スフィンクスにとっては風向きが悪いことだ。
ユースを始点に後方に扇形に広がる地面は凍っていないが、前方一帯の地面が凍りついていることにユースは前進できない。足を滑らせればそれだけで致命的だ。その惑いを一目で感じ取ったスフィンクスは、冷静にあと一歩下がって再び杖先に魔力を集める。
「凍刃弾雨!」
構えた杖先から放たれる無数の氷の塊は、それぞれが切り立った岩石のような形にしてユースに襲い掛かる。馬を後ろから射抜いた、手に握りきれないほどの大粒の氷の塊の数々が、前にも横にも動けないユースに正面から迫るのだ。後ろに飛び退き、僅かでも左右に動ける形を作り、かがみ、身をひねり、氷の刃を剣と盾ではじき返すユース。だが、敵の弾数はユースの力量を超え、尖った氷の数々がユースの肌をかすめる。露出した腕を傷つけられた痛みはユースの表情を歪めさせ、氷の粒の一つが右肩に刺さった瞬間には、目に見えてユースの動きが鈍る。
「まだだ! 凍刃弾雨!」
氷の刃は剣を握るユースの右腕の要、肩に刺さって浅い傷と深い衝撃を与えた。効き目ありと見たスフィンクスは驕らない。敵の進軍不可能領域から自分を動かさず、遠方から同じ手段で狙撃する。それが最も安全かつ、今のユースには効果的な攻撃に違いないからだ。
ユースの判断は早い。同じ事を繰り返されればじり貧だ。地を思いっきり蹴って跳躍したユースは、放物線を描いた末に、スフィンクスへと真っ直ぐ舞い降りる道を開く。先ほどまでユースの立っていた場所を、無数の氷の塊が空を切り、このままスフィンクスが棒立ちでいるなら、ユースの振り下ろす剣が魔物を頭から真っ二つにするであろう光景。
「馬鹿が……! 氷結風!」
手をこまぬいて、スフィンクスが自らの最期を受け入れるはずがない。勝利への道を目指したユースに襲い掛かる、スフィンクスの杖先から放たれる極寒の風は、咄嗟に盾を構えたユースの肉体を包み込む。自らに向かい来る空中の人間を、スフィンクスの凍てつく風が後方に吹き飛ばし、その風を全身に受けたユースの体が、瞬時に氷の鎧に包まれたようになっていく。
魔力纏いし盾を前方に構えていたとはいえ、防ぎきれなかった冷気はユースの全身を氷で固めてしまう。空中で、下半身をまるまる氷付けにされたユースは、後方に吹き飛ばされた末に地面に叩きつけられる。半身と受身で落ちたことにより、ごろごろと地面を転がることである程度の衝撃を逃がすことはできたが、固まった脚のせいで柔軟な動きも出来ず、体を貫いた痛みが目の前を真っ赤にする。
「貰った……!」
下半身を縛られたままに倒れたユースに、機を見たスフィンクスが猪突猛進する。遠方で見守っていたクロムも流石にこの瞬間には、脚に全魔力を集中し、横入りしてユースを守るつもりだった。
ぎっと歯をくいしばったユースが、その剣を脚に勢いよく振り下ろしていなかったなら。脚を縛った氷をほぼ全力のスイングで打ち砕き、解放された脚を引いて手で地面を押し、素早く立ち上がった姿に、彼にこの戦いを任せたクロムも半歩踏み出したのち踏みとどまる。
獲物が立ち上がろうと、すでにスフィンクスは射程距離近くにユースを捉えている。立ち上がった瞬間にも、痛んだ脚に表情を歪めた様は、隙を見出すには充分な仕草。跳躍の難しいであろうコンディションのユースめがけてスフィンクスが放つのは、腰元を薙ぐ低空のスイングだ。かがんでかわすことが出来る低さではなく、飛び越えなくては避けられない一撃である。
自分の脚を捕らえた氷を打ち砕き、その衝撃で自分自身の脚を傷つけた人間が、しっかりと跳躍して回避を為すなんて、スフィンクスには予想できなかったことだ。地を蹴りスフィンクス目がけてその肉体を跳躍させるユースは、足のつま先がスフィンクスの杖の軌道をぎりぎりかすめるほどの危うさでありながらも、猛進するスフィンクスに正面から跳びかかる形となる。
剣を突き出したユースの行動は、スフィンクスの腹部をどすりとその刃で突き抜いた。それと同時、高速で突っ込んできたスフィンクスの胴体と、前方跳躍したユースの肩口が激突する。半ば事故のような衝撃を、それも先ほど痛めたばかりの肩に受けたユースは、今日一番の苦痛を目と奥歯にかき集める。
それでも剣を握る手だけは離さない。衝突したことによって後方に飛ばされたユースが、剣を手放さないことにより、わずか後ろにのけ反ったスフィンクスの体から、傷を大きく広げながら剣が引き抜かれる形を実現させた。
ほぼ受身なしで地面に叩きつけられたユースは、背中から落ちると同時に後頭部を地面に持っていかれ、目の前が真っ白になりそうなほど光ったものだ。飛びかけた意識を必死でつないで、詰まる肺をぐっと堪えて立ち上がったユースの前には、よろめいて後ろに数歩下がるスフィンクスの姿がある。
「ぐ、ガ……! おの゛……れ……!」
胸元から縦に斬り下ろされた傷、そして腹に開けられた風穴。それも腹の傷は、太い騎士剣の刃を単に真っ直ぐ突き抜かされただけではなく、抜く際にその傷口を大きく広げたものだ。だが、ぼたぼたとおびただしい血を流す深手を負ってなお、スフィンクスは倒れない。真っ赤に染まった魔物の瞳で、ごぼりと口から血を吐くままにユースを睨みつけてくる。
杖先で傷口周りを撫ぜ、傷を魔力で凍らせ止血するスフィンクス。僅か視界が霞む中、ユースも剣を構えて応戦の形を作り上げる。間違いなく、敵にダメージはあるはずだ。魔法による狙撃が来ようが、再び進撃してこようが、盾と剣をそれに応じて振るう構えは出来ている。敵に隙が生じるなら、次こそは決めてやるという決意が、はっきりとその瞳に宿っている。
スフィンクスは動かない。動けないのだ。母を傷つけようとした魔物に対するユースの激情は、憎き獲物を睨みつける魔物の眼差しにも押し勝つほど強い。全身をずたずたに切り裂いた人間を強く恨むスフィンクスの精神に対し、故郷を炎に包んだ魔物に対するユースの怒りは、刃なき刃として強く突き刺さる。とうに満身創痍のはずの人間が、屈さず魔物の将に立ち向かうその気迫は、負傷したスフィンクスの意地さえ塗り潰し、数秒後の死への恐怖さえ抱かせる。
若さなど戦人には関係ないのだ。決死行を覚悟した騎士の決意は眼差しに宿り、心の弱った敵など立ち向かわせもしないほどの威圧感を放つ。それは覇気と呼ばれるものに限りなく近く、若くそれを自ずと醸し出せないユースが今それを放つのは、ただならぬ怒りとそれが全身を支える様が生み出すシナジーだ。
「っ……忘れんぞ、貴様だけは……!」
口惜しげな表情とともにスフィンクスがとった行動とは、ユースに背を向け駆け出す動き。振り返った瞬間、ごばっと口から多量の血を漏らしたことからも、体を貫く傷の深さは、魔物の生命力を以ってしても致命的だったのだろう。生存を優先したスフィンクスが、主への首土産を捨ててでも逃亡していく姿は、草原の真ん中で繰り広げられた激闘の終わりを示していた。
勝ったのだ。地平線彼方にスフィンクスが遠のくまで剣を降ろせないユースだったが、すでに決着はついている。テネメールの村を襲った魔物の将の一人を、騎士ユーステットは撃退することに成功した。
「ご苦労様、ユース。よく頑張ったな」
後ろから近付いてユースの肩を叩くクロムの行動が、ユースの緊張の糸をようやくにして緩める。その瞬間、ぐわんと目の前の光景が歪み、体を支えきれなくなった足から力が抜け、崩れるようにユースはクロムの膝元に寄りかかるように倒れる。
屈強なクロムの脚は、人がいきなりもたれかかってきても、大黒柱のように動かないが、しゃがんでユースの背中を支えてやるクロム。ほぼ同時、抑えていた体へのダメージが一気に肺を貫き、死に瀕した病人のように咳を繰り返すユース。両膝を地面につけ、腹を押さえてうずくまるようにして、何度も何度も咳をするユースの姿には、クロムの背中に固定されたナイアも気が気でない。
体を縛る紐状のジャケットを振りほどいてでも降りようとするナイアに、後ろ手で掌を向け、そっとしておいてくれとジェスチャーするクロム。後頭部を打ち付けた頭痛、星でちかつく視界、地面に背中を叩きつけた苦しみ、肩を撃ち抜かれた鈍い痛み。戦いを終えたユースの全身は、我慢してやっていた借金を利子つきで要求するかのごとく、肉体いっぱいに苦痛を体現する。咳の止まらないユースは、このまま意識遠のいて地面に倒れてしまうのを、精一杯こらえることしか出来なかった。
十数秒ほど、そうしていただろうか。ようやく咳が止まり、はぁはぁと荒げた呼吸を繰り返し、時々息が詰まるような感覚に襲われながらも、何とかユースはうずくまったような体を起こす。目の前に真っ直ぐ横一直線に伸びる地平線に目の焦点を合わせ、もう一度だけ大きな咳を一つ吐いたのち、口の中に溜まったものを飲み込んで、振り返る。
「マジでよく頑張った。やるじゃねえか」
母の手前、ユースの敗戦による死など絶対にあってはならなかったこと。万一が近付けば、自分の力でいつでもどうにか出来る見込みがあったとはいえ、クロムにとっては賭けに近かったことだ。いくら十中八九勝てる賭け事であったとしも、しくじれば失うものの大き過ぎる賭けというのは、やはり少なからず肝を冷やすものである。それを切り抜け、最高の結果を導き出した後輩に、満足いっぱいの顔で語りかけるクロムと、顔色悪くも照れくさそうに笑うユース。
そんなユースの表情は、表向きには母の目に、無邪気な子供だったあの頃と変わらないように映るもの。だが、あの頃の息子ではない。汗びっしょりで、肩から血を流し、それでも勝ち得た勝利に誇らしい笑顔を作るユースの姿は、まさしく戦人として大成しつつある男の顔。故郷の剣術道場で、初めて師範代に仮の一本を取らせて貰った時の幼きユースの笑顔も、今となっては遠く懐かしいものでしかない。
「――母さん!」
氷を砕いた時、衝撃によって痛めた足にも関わらず、よろりと肩膝立ちになってナイナに近寄るユース。バランスを崩しそうになって、傾きかけた体をさりげなく横から掌で支えるクロムが、後輩の不格好を密かに防いでいる。
「……やったよ、俺」
今の誇らしさを上手く言葉にできない不器用さは、十年以上身近に育ててきたあの子の姿と全く同じ。強く望めば望むほど、それが叶った時には言葉を紡げなくなるユースの口下手を知っているナイアは、今のユースの胸が喜びに満ちていることが誰よりわかる。
誰を守ろうとして、こんなに頑張ったのか。さりげなくナイアの体を縛る紐をほどいたクロムの行為にも気付かぬまま、我慢できなくなったようにユースに近付いたナイアの目は、もう今の気持ちを抑えきれずにいる。すぐそばの、強く、逞しく育った息子の顔を胸にうずめ、ぎゅっと抱きしめずにはいられなかった。
「……ありがとう、ユース」
震えたその声だけで、立派に育った息子の姿に感極まる母の気持ちは、誰にだってわかるものだ。顔をユースの視界の外に持っていき、瞳から溢れる想いを隠すナイアの気持ちは、後輩が強く育っている姿を見届けられただけでも嬉しいクロムにも、自分の百倍そうだろうとすぐ想像がつく。
苦しそうにぺちぺちとナイアの背中を叩くユースだが、ナイアは腕の力を緩めるだけで、放さない。涙が止まるまで、ずっとそうしていた。空を仰いで頬を濡らすナイアの胸には、天に先立った亡き夫に、私達の立派に育った息子を誇る想いが満ち溢れていた。
空高く月が昇る頃には、各地で戦う陣営すべてに戦いに終わりが訪れていた。
城砦都市レナリック。エレム王国と魔導帝国ルオスの連合軍は、魔物の軍勢を撤退させることに成功させ、第14小隊も誰一人欠けることなく再集合していた。北へ旅立ったクロムとユースを案じる想いはあったものの、治癒魔法を扱える帝国の魔導士の付き添いのもと、未だ目を覚まさぬガンマを小隊の4人が強く心配していた。
イーロック山地。魔物達の撤退を見受けた百獣皇アーヴェルは、数時間にも渡る空中戦にようやく見切りをつけ、唾と悪態を吐き捨ててラエルカンに向けて撤退していった。長らく地上で野戦を繰り広げていた戦士達も、甚大なる被害を受けながらも撤退の動きを取り、西から押し寄せる魔物の撤退軍勢を回避したのち、やがて西のレナリックへと帰っていく手筈だ。アーヴェルとの死闘に、老体に鞭打って臨み続けた勇騎士ゲイルも、大魔導士エグアムも、軋む全身を最後まで働かせて撤退軍を導く。人里への帰還は遅れるだろうが、ここも首尾よく動くだろう。
テネメールの村。苦戦する駐在騎士達の戦いに参入したルーネの戦いぶりはまさしく圧巻であり、誰の助けひとつ借りることなく、次々と単身魔物を葬り去ったという。他に何一つ、特筆点などない。一度は人類最強と言われた賢者による、圧倒的蹂躙が魔物達を押し潰した、ただそれだけである。壊滅が目の前に見えていたテネメールの村は、救世主の推参によって完全に救われていた。
人類と魔王軍残党の第一次東西抗争は、こうして幕を閉じた。多数の犠牲を生み出しつつも、魔物達の多くを討ち倒し、奪われた人里は無し。人類の勝利と言っても過言ではないだろう。明日にでもどこへ襲い来るかわからない、ラエルカンに巣食う魔物達を警戒する日の始まりでもあるが、この一夜ぐらいは勝利への達成感に胸を満たしてもいいはずである。
哨戒任務に始まり、城砦都市の防衛任務、付け加えるならテネメールの村の私情的防衛援軍。第14小隊の連日の任務が一時ここで幕を下ろし、新たなる日々への前進が始まる。問題は山積みだ。小隊いち元気いっぱいだった傭兵少年は、今もまだ目を覚ましていないのだから。
テネメールの西の町へナイアを送り届けたユース達。レナリックの攻防戦の末に倒れたままのガンマのことを知るのは、二人が夜遅くに早馬でレナリックに帰り着いてから、ようやくのことだった。




