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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第9章  ひしめく悪意の行進曲~マーチ~
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第148話  ~テネメールの村② 魔闘士と戦乙女~



 滅茶苦茶だ。それ以外に目の前の二人を形容する言葉を、ユースには思いつかなかった。


 迫り来るミノタウロスの斧を片手で受け止め、さらには刃を握り、強引にミノタウロスの手からその斧をひったくるルーネ。あの怪物の握力で握られる斧を奪ったのは勿論、あの小さな体で巨大な斧を持つその怪力は、まるで現実味を帯びたものではない。斧を奪ったルーネが跳躍し、ミノタウロスの顎を蹴り上げた瞬間、まるで果物を鈍器で粉砕したかのように、ミノタウロスの頭がはじけ飛ぶ。


 空中のルーネがミノタウロスから奪った斧を、遠方の空に舞うガーゴイルに向けてぶん投げたのがその直後のこと。さらには、落ちてくるルーネに向けて6本の剣を同時に向かわせるソードダンサーに対し、ルーネは剣すべてをその足で蹴飛ばしてはじいてしまう。空中のガーゴイルが投げた斧によって胴体を切断されるのとほぼ同時、武器をすべて手からはじきき飛ばされたソードダンサーの頭に、ルーネの組んだ両手の拳が振り下ろされる。当たった瞬間、頭蓋骨から貫かれる絶大なる衝撃が、頭だけでなく背骨や骨盤まで届き、大きな全身骸骨の化け物を粉々にしてしまう。


 鉄分銅を投げてくるヒルギガースの攻撃を回避しながら猛進するクロムが、真正面から迫るケンタウルスの槍をかわすと同時、その肉体の下を、地面に腰を擦らせて通過していく。馬の下半身を持つ、ケンタウルスの体の下をである。斜めに構えた槍先でケンタウルスの腹をかっさばきながら魔物の後方まで流れたクロムは、すぐに立ち上がり、後方で倒れるケンタウルスに目も向けず、駆けていた時よりさらに加速してヒルギガースへ。


 弾丸のように迫るクロムの、槍のひと突きをヒルギガースは右手に握る巨大な(いかり)のような武器で防御する。金属音が鳴り響いたその瞬間、豪腕に力を込めたクロムが槍を横に振るうと、錨はその怪力に引っ張られて横に引っ張られ、武器を握っていたヒルギガースの体も流れてしまう。あの巨大な鉄の塊をいとも簡単に振り回すヒルギガースが、人間に力負けして体勢を崩すなど、当人こそ最も予想外のことだ。そんな当惑を感情として認識する暇もなく、崩れかけたうちのままのヒルギガース、その首をクロムの槍が刎ね飛ばしたのが直後の出来事。


 宙に飛んだヒルギガースの頭に向けて跳躍したクロムが何をするかと思えば、その頭を空中で蹴飛ばし、空中のジェスターに向けて砲弾のように放つのだ。蹴鞠のように飛ばされたヒルギガースの頭だが、子供が蹴って遊ぶそんなものより遥かに固く重い。それを凄まじい速度で顔面に受けたジェスターは、頭蓋の奥まで破壊され、即死したのち地面に落ちていく。


旋風砲撃(エアロバースト)……!」


 親分格のネビロスも、ルーネとクロムの初動を見た瞬間に、配下だけではどうにもならぬと確信してやまなかった。その両手から放たれる風の砲撃はルーネを狙ったものであり、人間がこの魔法の直撃を受ければ、全身の骨を砕かれて死に至るはずである。


 後方から迫る風の砲撃を、振り返りもせずにルーネは高く跳躍して回避。さらには落下先にいた一体のケンタウルスの脳天目がけて、真上からの蹴りを踏み放つ。死角からの攻撃に反応できなかったケンタウルスの頭が、その一撃で粉々に粉砕され、頭頂部から地面までケンタウルスの頭を破壊するまま降り立ったルーネは、その途中でケンタウルスの握っていた槍を右手でぶん取っている。


 槍を槍として扱うのではなく、ただの長い鉄の塊として、それで近くのソードダンサーを殴りつけるルーネだが、その破壊力一発で骨盤を殴られたソードダンサーの下半身が粉々にされてしまう。直後、空中のジェスター目がけて槍を投げつけたルーネは、脳天をそれで貫かれたジェスターのすぐそばで戸惑うガーゴイルに向けて跳躍。その速度は回避しようとした敏感なガーゴイルでも避けきれず、ルーネの両手がガーゴイルの頭を掴む形になる。


 額目がけて膝を激突させるルーネの一撃が、一瞬でガーゴイルの意識を彼方まで吹っ飛ばす。獲物が抵抗力を失って落ちていく中、ガーゴイルの肩に片足を置き、ガーゴイルの頭をねじって、果実をもぐように首を引きちぎるルーネの力技。ガーゴイルの頭を胴体から切り離し、両手にそれを握ったルーネは、足がけたガーゴイルの体が地面に落ちたその瞬間、別角度のジェスター目がけて投げつけた。


 ガーゴイルの頭を流星のような速度で顔面にぶつけられたジェスターが落命するその真下、一体のミノタウロスが大斧をフルスイングしてくる攻撃をかわし、回し蹴りを放つクロムがいる。それを腹に受けたミノタウロスが、あの巨体を後方に吹き飛ばされてしまうほど、身体能力強化の魔法を行使したクロムのパワーは凄まじい。吹き飛ばされたミノタウロスはもう一体のミノタウロスを巻き込み、巨体の魔物二匹が共々倒れる様になる。


 跳躍したクロムが、重なったミノタウロスの体の部分に、上空からその槍を串刺しにする。その攻撃は二体のミノタウロスを同時に貫くもので、直後に槍を振り上げたクロムの動きが、刺し傷からかっさばく形で二体ともどもに致命傷を与える。血を吐いた上のミノタウロスと、巨体に潰されたままで身動きも取れない下のミノタウロス。その頭の方に駆け寄ったクロムが、二匹の頭を蹴り飛ばせば、いずれの頭も高い木から地面に落ちた果物のように破裂し、魔物の完全なる絶命を表すのみだ。




 これまでもユースは、シリカやクロム、マグニスという先輩の後ろで戦うことが多く、頼もしい先人の力に甘んじず、少しでも力になれるよう尽力してきたつもりだった。そんな昔からの信念すら遂行できず、ただそこに立ちすくむことしか出来ないのは、目の前の二人に対する、畏怖の念があまりに強すぎるからだ。


 クロムが身体能力強化の魔法を行使した上で戦う姿は、実はユースもこの目で見るのは初めてである。それに頼らずとも並居る敵の数々を葬ってきたクロムは何度も見てきたが、それが彼の本気の半分ぐらいだと思っていたユースの認識は、それでもまだ甘かった。身体能力強化の魔法を込みで全力を引き出したクロムの戦いぶりは、下手をすれば克上祭で剣を交えた剣豪、聖騎士グラファスにも比肩するものではないかとさえ思えてしまうほどだ。


 そしてクロムと共闘する、半ば都市伝説と化した噂話のみで、最強の魔法使いだと知っていた賢者。その昔旧ラエルカンにて、"信愛の戦乙女(ヴァルキリー)"の二つ名で敬われた彼女のことまでは知らないユースだったが、知らずとも戦乙女の名を彼女の姿に連想してしまうほどには、今のルーネの姿は敢然たるもの。


 子供のような小さな体が、大怪物にも勝る身体能力を持つのは何故なのか。旧ラエルカンの呪われた技術と呼ばれる、"渦巻く血潮"によるものなのか。あるいはクロムと同じく、身体能力強化の魔法を行使した結果なのか。今のユースの想像力で答えを導き出すことは出来なかったが、少なくとも目の前にいる彼女の戦いぶりは、見た目から想像できる範疇を遥かに超え、我が身一つで屈強な魔物の軍勢を討ち滅ぼすものに違いなかった。




 率いていた魔物の軍勢をすべて失ったネビロスの心に落とし込まれた絶望感は、本来自分が無力な人間に味わわせるはずだったものだ。ユースとクロムという、二人の人間を多数の魔物達で囲ってやったあの時も、目の前の二人の表情が絶望に染まる様を見届けるつもりだったのだ。あの時クロムが結局表情を崩さなかった時点でネビロスは面白くなかったが、まさかあれからほんの少し後である今、自分が絶対不利の絶望感を味わうことになろうとは、夢にも思わなかったことだ。


 ネビロスが位置する空中地点に近い地上、構えもせず直立の姿勢のままネビロスを見上げるルーネ。最後はお前だ、という意志の込められた眼差しを突き刺されたネビロスは、悪魔の形相さえもを怯ませる。逃げたくても、背を向けた瞬間に殺されてしまう、と連想してしまう恐怖など、並のことでは味わえぬものだ。


「……業の深さがやがて私を煉獄に送るなら、我が生の意志の実現と共に受け入れましょう」


 戦意を失いかけたネビロスへと、容赦なき跳躍を為すルーネ。窮鼠猫を噛む想いで、鋭い爪を振るって迎え撃つネビロスだが、ルーネの放った裏拳はネビロスの爪に衝突した瞬間、破壊力ひとつでその手の骨格すべてまで粉砕し、まるで細い木剣を打ち砕く金棒のように敵の武器を破壊する。


「殺生とは、自他を滅ぼし道を拓くための、罪深き正義です……!」


 数々の人間をこの村で葬ったネビロスと、それが率いる魔物達をことごとく滅却したルーネ。賢者の放った言葉とともに振るわれたルーネの空中回し蹴りは、ネビロスの側頭部に当たった瞬間に内部まで衝撃を轟かせ、直後ネビロスの首から上を一瞬にして吹き飛ばした。


 地面に降り立つルーネから目が離せないユース。魔物はすべて片付いた。今ここユースの周囲で、動くものはクロムとルーネしかいないのだから、目線を向けるならそこしかないのだ。


 振り返ったルーネの表情は、まるで日頃の彼女を変わらぬ顔。ユースに駆け寄り、お怪我はありませんかと心配した表情で語りかけてくるルーネは、先ほどまで多数の魔物を撲滅し続けていた彼女の記憶も薄れるほど、心から自分を案じていることがわかる。


「――おい」


 乱暴にルーネの肩に拳をぶつけるクロムが、ルーネを振り向かせた。どす、という鈍い音には、ユースもクロムの行動にぎょっとしたものだが、恐らくそれなりの力で小突かれたはずのルーネも、顔色ひとつ変えずに彼に向き合うのみ。


「この家の中に、こいつの母親がまだ生きてる。あんたの耳でなら探せるか」


「……気配があるの?」


「俺でも聞こえた」


 こくりと小さくうなずいたルーネが、潰れたユースの家に向き合い、目を閉じて耳を澄ます。数秒後に、はっとしたかのように目を開けたルーネは、家屋の一角に向けて走り出す。


 玩具箱をあさる子供のように、家屋の瓦礫を次々と軽々放り投げるルーネ。そこなんだな、とクロムが小さく言った後、同じ場所に向けて走り出し、ルーネと同じ行動を始めるのだ。見守ることしか出来ないユースだったが、願う想いはここにきていっそう膨らむばかりで、どうか神様という言葉ばかりが胸の内で繰り返される。


「――大丈夫ですか!?」


 瓦礫の山をかきわけた末、ルーネが放った大きな声。誰に話しかけたのかを容易に想像させるその言葉は、たまらずユースをそこへ駆け出させようとする。振り返ってユースを見たクロムが、そこで待ってろと手をかざさなかったら、間違いなく足が前に進んでいた。


 瓦礫の山から、クロムが担ぎ上げた女性の姿を見たとき、ユースはその目から涙さえこぼれ落ちそうになった。ぐったりとした姿は決して喜ばしいものではないが、怪我の痛みに表情を歪める姿は、彼女が生きていることを証明してくれる何よりの光景だ。


 ユースの母ナイアは、居間の隅に隠れていたのだ。しかしそのまま、家屋の数々を破壊する魔物達の暴行により、家ごと粉砕されてしまった。崩れてくる天井から逃れるため、食卓の下に潜りこんだナイアだったが、そのまま瓦礫の山に埋もれる形になってしまったのだ。


 運命のいたずらで、組み重なった瓦礫の山の空洞部分に、ナイアの体が収まれたのは幸運だった。瓦礫が潰して形の崩れた食卓が、ナイアの体を浅く潰してしまったせいで、彼女も身動きひとつ取れないまま内臓や骨を痛めてしまっていたが、ともかく絶命には至らなかった。年の利いた体が癒されるまでには時間もかかるだろうが、救出が間に合ったことはこの上ない朗報である。


「母さん……母さん……!」


「ゆ、ユース……どうして……?」


 ナイアを抱えてユースのそばまで歩み寄ったクロムに、彼そっちのけで何度も語りかけるユース。自分の名前を何度も呼ぶ聞き慣れた声に、つらそうに首を動かして向き合うユースの母ナイアは、まったく予想していなかった人物との対面に目を丸くしている。


「再会は何よりだが、ひとまずここを離れて貰おうか。幸い、馬は無事のようだからな」


 クロムの言うとおり、この場所から離れた位置に逃がしていた馬は、魔物の歯牙にかかることなく無傷で、戦いの終わった今ゆっくりとこちらに向かってくる。人間どもの匂いを嗅ぎつけて集まってきた魔物達にとっては、これが興味の対象外だったのが何よりだ。


 おもむろにジャケットを脱ぎ、びりびりとそれを破いて長い紐の形を作るクロム。その際に一度腕から降ろしたナイアを背負い直すと、たすきがけのように紐状になったジャケットを体に巻きつけ、背負ったナイアが自分の背中から落ちないように固定する。


「苦しいだろうが我慢して貰いますよ。少々の辛抱なんで」


 ぎゅっぎゅっと紐状にしたぼろジャケットに締め付けられるたび、後ろで聞こえるほどのうめき声を発するナイアは、クロムの肩にかけた手に力を込めて歯をくいしばっている。ユースとしても、見ているだけで気が気でない光景だ。


 クロムの背中に背負われたナイアに、慌てるように駆け寄ったのはルーネ。長身のクロムが背負うナイアの位置は、子供のような背丈のルーネにとっては見上げる位置だが、背伸びしてでもナイアの背中に両手を当てたルーネが、目を閉じて口を絞り、己が魔力を注ぎ込む。


 ナイアにとっては驚くような経験だが、家具と天井に潰されて苦しかった全身の痛みが、ルーネの治癒魔法によってやわらいでくる。背中に触れた賢者様に、首だけ回して振り返るナイアの目の前にあったのは、まるで自分の母が病に苦しむ姿を案じる少女のような、ルーネの瞳である。


「……大丈夫ですか? 少しは……」


 不安げに尋ねるルーネに、ナイアは上手く言葉を紡ぐことが出来ず、しかしはっきりとうなずいて答えてみせた。僅かに体が軋む実感は強く残っていたものの、全身を貫く痛みを癒して案じてくれているルーネに返した、元気のない笑顔だけでも、感謝の想いが伝わるには充分だ。


「俺はユースと共に、西の町までご婦人を届ける。あんたはどうする」


 ナイアがルーネに送る目線を振り切らせ、自身が振り返ってルーネに向き合うクロム。先ほどまで、怪我人のナイアを気遣っていた声とはまるで正反対の、淡々とした声だ。


「……残るわ。まだ戦っている人たちがいるのでしょう?」


「一人でやれそうか」


「出来ると思う」


 母が心配でならないユースにとっても、奇妙なやりとりに見えたものだ。初対面の年上のナイアにも丁寧な口調で話すクロムの性格は、ぶっきらぼうに見えて目上の人物と向き合う際にはしっかりした口調を用いる、彼の日頃から知っている。ルーネはまた別で、親友のエルアーティや、親しくなったアルミナやキャルに対してのみ砕けた口調で話すのを見たことがあるが、それ以外にはユースに対してさえ敬語を使ってくるような人物だ。


 遥か年上のルーネに対して乱暴なイントネーションで話すクロムも、まるで昔から知る友人に話しかけるようにクロムに返すルーネも、両者ユースの知る二人の姿には似つかわない。割って入るつもりはなかったが、元より両者の間に挟まる独特の空気には、ユースも足を踏み入れることが妙に無粋に感じられて仕方なかった。


「だったら任せた。俺の後輩の故郷だ、守ってやってくれ」


「ええ。必ず」


 淡々とした会話ののち、ユースに目線を送り、くいっと首で馬に乗るよう示してくるクロム。従うままに馬に駆け上がったユースと同じく、クロムも(あぶみ)に足をかけて、ゆっくりと馬に登る。それは恐らく、体を痛めたナイアを背負っているがゆえの、派手さを除いた動きなのだろう。


「揺れるが我慢して下さいよ。急ぎますんで」


 ナイアに一声かけると、手綱を操り馬を駆けさせ、足早にこの場を去るクロム。ユースもその後ろに続いて馬を駆けさせるが、前の母よりも今だけ後ろのルーネが気になって、馬が加速に乗る中でふと後ろを振り返る。


 立ちすくむルーネの、どうか無事にという言葉が、顔に書いてあるような表情。ユースと目が合った瞬間、くるりと背を向け、テネメールの村の中心へ駆け出すルーネが、今日のユースが見たルーネの最後の姿だった。











 村の域を出た二人と一人を乗せた二頭の馬は、だだっ広い夕暮れの草原を駆け抜ける。ここまででも脚を酷使した馬は、来る時に比べて景気よい足運びをしていないが、恐らく月が空に昇る頃にはテネメールの西の町に辿り着けるだろう。クロムの想定としてはその町にナイアを届け、そこの旅御者にナイアを預けて、さらに西まで送って貰う段取りだ。魔物達の侵攻を受けたテネメールからの生還者、さらにはそこで負傷したご婦人となれば、出来る限り魔物の進軍域から離れた場所まで身を運び、丁重な治療を受けた方がいい。


 治癒魔法の本質は瞬間的な完全治療ではない。ルーネがナイアに施した治癒魔法は、あくまで彼女の痛覚を抑えた上で、形を悪くした骨格を一時的によく繋がった形に押し留めただけだ。痛めた内臓の循環作用も上手くいくよう、体組織が本来持つ生物活動を強く促す魔力を投じているが、それはあくまでルーネがナイアの体内に流した残留魔力がもつまでの間だけ。ルーネは高純度かつ精密な魔力を扱うが、手元を離れた負傷者の体を、いつまでも健常体らしく誤魔化させることは出来ない。


 あの応急処置でナイアに施した効能が続くのは、もって半日かそれ以下というところだろう。それまでになんとか、しっかりした医療知識を持つ人物のもと、あるいは治癒魔法の使い手のもとに辿り着くことが求められるということだ。それが遅れれば遅れるほど、魔力の庇護からはずれたナイアは満身創痍の体で放り出される時間が長くなり、初老の婦人の体にそれはかなりきつい。


「なあ、ユース。お前には悪いんだがな」


 並走する、ユースが乗る馬にクロムが馬を近づけてきて、さして大きくない声で話しかけてくる。陽気な彼の落ち着いた声でもなく、戦場における厳しい声でもなく、無感情で冷淡な声だ。


「あの村は、もう滅びるものだと決め打たせて貰っていた。魔物達の大群が押し寄せて、田舎村に駐在する騎士だけでそれを退けられるはずがないからな」


 二兎を追う者は一兎も得ず。守るべきひとつのものだけを絶対に守り通し、後輩の故郷、第二の守りたいものを捨てたことを自白するクロムだが、ユースにとっては責める気持ちになれようはずもない。勿論クロムも己を顧みて、自分の判断が間違っていたとは思っていない。


「――多分、村は助かる。あれがいれば、一人でも魔物どもを殲滅してくれるだろう」


 ルーネの推参で見方が変わったクロムの放つ言葉は、ユースの心に救いの光を差し込ませる。圧倒的な実力を持つと聞いていた賢者様、先ほどその実力の片鱗も垣間見せたあの姿を見ても、たった一人の人間が村ひとつを襲う魔物の大群を撃退する要になるなんて、ユースの価値観では想像しづらかったことだ。確かにかつてゼーレの街で見た、大魔導士アルケミスの実力はそれに通じるものがあったが、それと同じことを為せる人間が他にもいるとは、やはり夢妄想の域としか感じづらい。


「心配するな。あれは一度、獄獣ディルエラをぶっ飛ばして撃退した超人だ」


 ユースの顔も見ず、遠い地平線を見やりながら、さらりとルーネの鋭い過去を口走るクロム。言葉が意味する重みに、一瞬ユースも手綱を握る手が強張ったが、状況を見返してすぐさま手首を柔らかくする辺り、今すべきことを見失わない肝を持ち合わせた騎士にはなってきた。


 そんなユースの細やかな挙動を横目で見る、クロムに背負われたナイアの胸中たるや如何ばかりか。親にとっては子はいつまでも子で、しばらく前に里帰りした時にだって、立派になったと褒めつつも、どこか可愛い自分の息子である面影が残っていた。少なくとも、騎士として戦場の果てで、手綱を引いた真剣な眼差しのユースを見る機会なんて、今までなかったものだ。


 前だけを見て馬を走らせるユースの瞳に今、母の姿は努めて入っていない。大切な人を守れる立派な騎士様になりたいと言っていた息子が、こんなにも頼もしい眼差しで前進する横顔を見せてくれている。今は亡き夫の忘れ形見、その輝かしい今の姿を目の当たりにしたナイアは、クロムの背中に額をつけ、母の意地として見せたくない目を隠すのだった。




「……さて」


 不意にユースとナイアの耳に入る、クロムの低い声。先ほどまでの、感情を込めない声とはまったく違う、明らかにどすの利いた声だ。戦場のクロムを知らないナイアでさえ、異変の予感を感じさせる短い言葉の裏にある意味を、長く彼と日々を共にしてきたユースは深くまで感じ取る。


「いつの世も、人の順風を妬む奴はいるもんだ……!」


 後方からの強烈な殺気。クロムの言葉の1秒後、ユースが振り返った先から飛来する、無数の勢いある物体の数々が、ほぼ反射的に盾に魔力を集める思考を促してくる。


 飛来したそのうちのいくつかが、馬の尻と後ろ足に突き刺さり、いなないた馬が跳ね上がる。クロムは即座に馬の脇に備えていた槍を握って跳躍し、ユースも暴れ出す馬の背中で揺られながらも、手綱を手放して鐙を蹴ると、半ば地面に転がるように着地する。殆ど落馬に近いものであったが、馬の失速としっかりした受身の賜物により、体は痛むがすぐに立ち上がって後方を向くことは出来た。


 ナイアを背負ったクロムは低い跳躍で穏やかな着地を為し、東の大地からこちらに駆けてくる影を睨みつける。自分達の乗った馬を貫いたものが、とげの形をした氷の塊であったことも、空中で身を操る中でしっかり視野に入れている。こんなことが起こるのは、考えるまでもなく何者かが、魔法で後方から狙撃してきたからに他ならない。


 草原の彼方より近付いてきたのは、長尺の杖を握る魔物。逞しい人間の裸体を持つ上半身に対し、獅子の肉体を下半身に持つそれは、黒騎士ウルアグワの率いる魔物であり、ケンタウルスと呼ばれる魔物達の上位種だ。黄金色の長髪は見るも美しいが、その目に宿る邪悪さだけは、人間の好青年のような顔立ちで以っても隠せない。


「手ぶらでウルアグワ様のもとへ帰るわけにはいかぬ……! 貴様らの命、ここで頂くぞ!」


 ネビロス達の後ろで参謀格を務めていたこの魔物、スフィンクスは、賢者ルーネの参入を目の当たりにして、いつしかあの場から姿を消していた。そしてルーネが立ち回るであろう、テネメールの村から単身逃れ、村を離れたユース達のあとをつけてきたのだ。


 村から離れ、関わり合いになりたくないルーネと充分な距離をとったスフィンクスの目は、土産首を狙う強い殺意を宿している。ナイアを背負ったままのクロムだが、槍を握ってさぞかし鬱陶しそうな目でスフィンクスを睨み返す。自分一人に喧嘩を売ってくるならまだいいが、後輩のみならずその母親にまで手をかけようとしている敵にまで、大人になってやる気分にはなれない。


 体を傷つけられた馬に、あごの動きひとつで、離れていろと命ずるクロム。その行動に応じるにせよわかっていないにせよ、体を傷つけられた馬は魔物から離れる動きを取る。特に動物はああした魔物を恐れる感性が敏感で、戦場を何度か駆けた末に度胸を鍛えられた騎士団の馬とはいえ、傷ついた体であれの近い場所でじっとしているのは恐ろしいだろう。


 クロムは一瞬悩んだ。恐らくナイアを背負ったままでも、この魔物を討伐することは出来るだろう。それでいいだろうとすぐに出来なかったのは、クロムの前に――厳密には、彼に背負われた母よりも前に立ち、スフィンクスと向き合って騎士剣を構える後輩の背中を見たからだ。


 そこに足を運ぶ前のユースの目は見た。傷ついた母を危険に晒そうと、しつこく追いかけてきた魔物に対し、過去にない憤りを見せたユースは、背中越しの今でもその怒りをにじみ出している。過去にスフィンクスという魔物と交戦経験のあるクロムにとって、この相手は今のユースにとって、単身で立ち向かうには厳しい相手だとも思う。怒り任せのユースを、こいつと戦わせていいものかとは、流石に一瞬迷ったものだ。


「やれるのか、ユース」


「やってみせます……!」


 こんなにも怒気を孕んだ声を放つユースは、今までクロムも見たことがない。アルミナにからかわれても、マグニスに悪くやり込められても、チータに意地悪な皮肉を垂れられても、少し機嫌を悪くした後にすぐ許してしまうようなこいつが今、母に危機を迫る魔物に対する憤りを隠せずにいる。クロムも、ラエルカン崩壊の日にもしも父の命が奪われていようものなら、我を失い魔物達を惨殺していたであろう自分があるだけに、ひどく今のユースには共感できたものだ。


「よし、任せるぞ。叩き潰してやれ」


「はい……!」


 託すことを決意した。母の手前、ユースを危険に晒すのは得策ではないかもしれない。万に一つのこと迫れば、最後には手を添える覚悟を決め、クロムは一歩下がってユースと距離を取る。それは後ろ盾の存在がなくなったことをユースの背後に伝え、同時に自分自身の戦いが始まることを、ユースの騎士としての魂が感じ取る。


 一対一だ。少なくとも、ユースの世界にはそれが唯一の答えとして刻まれる。


「舐めるなよ人間風情が……! 貴様ら共々、地獄に送ってくれる!!」


 杖を素振ったスフィンクスの行動が、離れた距離にあるユースまで風を届ける。その一振りをまるで開戦の合図の如く、駆け出したユースと踏み出したスフィンクスの戦いが始まった。

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