第147話 ~テネメールの村① 燃え盛る故郷~
皇国ラエルカンが魔物達の手に落ちて以来、エレム王国東に位置する町村それぞれにも、騎士団の部隊は派遣されていた。動乱の時代の始まりに、かたぎの人々が混乱する中、暗躍を始める無法者も発生するからだ。魔物からの侵攻を防ぐという名目の裏に、人間のならず者の侵略を防ぐという意味で、各町村にはそれなりの兵力が送られていた。
ここテネメールの村も例には漏れず、2人の法騎士を総指揮官とした、総数500名近くの騎士と傭兵が配属されていた。これだけで少なくとも、野盗などの村への侵攻は防げるし、近くの村や街に駐在した騎士達とも、有事の際には連携が取れる。旧ラエルカン地方の町や村を飛び越え、魔王軍残党の頭どもが全力で進軍してくるようなことさえなければ、この兵力で充分に抗戦、あるいは村人達を逃せる動きは為せたはずだったのだ。
王都はずれののどかな田舎に派遣されることは、騎士団の兵にとっては左遷されたような心地になるものだが、こんな時だからこそ、比較的ラエルカン近くに位置する場所に当てられる人材は、それなりの実力を信じられた人物である。恐らくは、進軍してくるのが、アジダハーカのような遺産の側近を指揮官とした有象無象の魔物達ばかりなら、犠牲者多くとも敵を撃退するだけの働きは見せられたはず。
現実は違う。この村を襲ったのは、黒騎士ウルアグワという魔物の親玉と、それが率いる猛者達だ。
「ヒヒヒ……まったくもって、手応えがない」
目の前の戦域で、空を舞うジェスター達が騎士と傭兵を集中砲火し、戦える人間が倒れていく様を見て、一匹の魔物は上機嫌に笑っていた。全身をローブで包み、袖から伸びた枯れ枝のようなからからの腕を出すその魔物は、笑いながら手先に魔力を集め始める。
「走雷陣」
しわがれたその詠唱とともに放たれるのは、掌から伸びるジグザグの無数の電撃。それらは地を這うようにして道中で時に跳ね、術者の前方扇状に広く拡散する。広範囲地面に雷撃を走らせた術者の思惑に倣い、数多くの戦士達が地面から跳ね上がる強烈な電撃に身を焼かれることになる。
やや遠巻きの空からそれを見下ろしていたガーゴイル達が、動きの止まった戦士に向けて放つ火球。なすすべなく火だるまにされた戦士を、ローブの奥で満足の目と共に見届ける存在は、多数のジェスターと少数のガーゴイルを率いる権限を任された魔物である。
「さぁて、進め進め。人間どもを葬り去れ」
魔物達の中における魔法使いの、下級兵ジェスターのひとつ上位にあたるこの魔物ダークメイジは、部下ジェスターとは異なり、雷属性のみならず数多くの属性魔法を扱う存在だ。ふわりとわずかに体を浮かし、地表少し上を滑るように全身する姿は、ローブの下の体の動きを一切感じさせない。
そんなダークメイジに、真横から駆けて迫る大きな影。ダークメイジが目線を送ると、大柄の戦士が馬にまたがり、こちらに向かってくる姿がある。
「やれ」
ダークメイジが指先で指示すると、周囲を飛び交うジェスター達が、指揮官に仇為す騎兵に向けて雷撃の球体を一斉放火。自身の近くには数匹のガーゴイルを置き、自分は不届きな人間が丸焦げにされるのを高みの見物、それがダークメイジのスタンスだ。
馬に乗った大柄の戦士が、馬上から前方に跳び、直前に手綱を引いていた動きに合わせて馬の方も右に曲がる。雷撃の球体は馬に当たらず地面を焼き、飛び立った戦士は地面に着地したその瞬間、敵の指揮官と思しきダークメイジに向かって、矢のように直進する。
その速度はまるで矢にも等しく、距離のあるうちであり、完全に油断していたダークメイジは反応することすら出来なかった。数十歩ぶん離れた距離から、地面ひと蹴りで瞬間的に前進した戦士は、敵に抗う暇も与えず、その頭を大槍のひと突きに葬り去る。
槍に突き刺さったダークメイジの頭と、ぶらさがるその肉体。持ち主が槍を大きく振るった瞬間、まるでぼろくずのように打ち捨てられたそれは、近くガーゴイルにぶつけられる方向に飛び、魔物達を混乱させる。当惑するもう一匹のガーゴイルに対し急接近した戦士は、敵に反応もさせぬ速度で振るう槍で、その首を勢いよく切断する。
ダークメイジをぶつけられ、一瞬ひるんだガーゴイルも、目の前で同胞が一瞬にして葬り去られた光景に、怒りの火球を掌から放つ。人一人をまるまる呑み込めるような巨大な火球が、横から迫ることを見ずとも察したかのように、槍を持った戦士は高く跳躍する。跳ぶ方向は、火球を放ってきたガーゴイルだ。
自分めがけて落ちてくる人間に対し、後方に跳んで逃れたガーゴイルだが、着地寸前に槍を長く構えた戦士の振るう槍は、横薙ぎにガーゴイルの首を跳ね飛ばす。ほとんど槍の尻に近い部分を片手に握り、長い腕を伸ばした巨大円弧の軌道は、とても普通の考え方で把握できる射程距離の長さではないということだ。
「ユース! お前の家はどこだ!」
ダークメイジとガーゴイル2匹を葬った騎士クロムナードが振り返って叫んだその先、すでに馬から飛び降りたユースが、3匹のジェスターを調伏した姿がある。ユースの後ろで息を切らせた馬も、ジェスター達がユースを警戒して攻撃し続けたであろうことを予想させるように、無傷のままだ。
「あっちです……!」
「おう、馬に乗れ! 急ぐぞ!」
ここまでクロムを乗せてきた馬が、自身の判断でクロムの元へ駆け寄る。走る馬に跳んで乗るクロムと、立ち止まった馬に駆け上がるユースの姿は異なるが、ユースの指し示した方向に二頭の馬が全力疾走し始めるのはほぼ同時。
ユースの実家は村の南西の方にある。魔物達が南東から進軍している以上、幸いあらばまだ手が届いていないかもしれない。そんな希望にすがるように、ユースは手綱を握り締めるばかりだった。
村全体が戦場と化した中、視野を広げればあちらこちらで戦う騎士団の姿が見えた。テネメールの村に駐在騎士として派遣された騎士達は、この数日間でも人当たりよく騎士団を迎え入れた村人たちに、報いる意志を強く込めて武器を振るっていた。ここに生まれたユースこそ、テネメールの村という地に、どれほど心穏やかな人々が住まっているかをよく知っている。
周囲からこの村に流入する者も少なく、この地に生まれた者の多くが都に巣立つことも多い中、テネメールの村は人口の減少と村人の平均年齢増加が、長く懸念された村だった。そんな中でも生まれた故郷を愛し、緑溢れるこの地に穏やかな終生を埋めると決めた人々は、誰もが心根まっすぐで穏やかだ。剣術指南書で厳しくユースをしつけてくれた師範の老人も、帰り際に冷たいお菓子をこっそり奢ってくれたりして、よく気を回してくれる人物だった。
いつ潰れたっておかしくない、客の中々来ない宿で、赤字も意識せず客にけちのない夕食を振る舞う女将さん。客と正面顔が向き合うと、お喋りせずにいられない定食屋の親父さん。年甲斐もなく、村の広場で遊ぶ子供に混ざりたがる60歳を超えた村長。訪れた人々に、ここに住まう人達はみんないい人だよと、ユースが胸を張って言える村がテネメールだ。今、火の手に包まれたこの村を守るため、普段以上の全力を振り絞る騎士や傭兵達の姿は、いかにこの地が来客に愛されたかを証明する様だ。
「第7小隊は南の噴水広場を死守しろ! ここは俺達が引き受ける! 住宅地帯まで魔物を進軍させるな!」
テネメールの村の守りを任された一人の法騎士は、40手前の練兵。大剣にも近い大きな騎士剣を振り回すその腕も似合って太く、周囲の戦士達にとって大きな心の支えである。
「村役場までの道を許すな! 花屋の婆さんもそこにいる!」
「馬鹿野郎、退がるな!! 酒場まで魔物達を攻めさせる気か!!」
高騎士、上騎士、小規模の指揮を任された騎士達の怒号には、この村で出会ったばかりの人々に対する愛着が、端々に含まれている。哨戒任務の名目でこんな田舎に派遣された高騎士にとって、出世への道は絶たれたと一度意識せずにはいられなかったこと。そんな悩みを聞いてくれた酒場のマスターは、彼を慕う部下と共に大きく格安の宴会を開いてくれたりもした。退屈なこの村に訪れて時間を持て余した上騎士に、息子に顔がよく似ていると毎日挨拶してくる花屋のお婆さんには、その騎士にとって少なからずの愛着を抱かせたものだ。
「第12小隊に敵増援急襲! インプとグレムリンの集団!!」
「何が起こっている!?」
「建物の屋上に潜んでいたようです……! 数は50余り……!」
大柄のガーゴイルや尖兵ジェスターのみならず、小さな魔物の軍勢もまた騎士団を苦しめる駒。決して戦況は芳しくない。瞳に闘志を宿した戦士達は、それでも怯まず立ち向かう。
「射手は後ろに下がれ! 迫撃隊、恐れず進め! ここを守らねば全隊に支障をきたす!」
「増援に頼るな!! そう簡単に俺達が死ぬかよ!!」
「ガキどもはインプだけを狙え! こいつらは俺達が片付ける!」
僅か23名で攻勢された、エレム王国第12小隊。中年の高騎士の指令に倣って駆け出す上騎士や、階級は騎士止まりながら若い部下に愛された初老の男。言葉で仲間を鼓舞する姿に偽りはなく、急変した状況にも恐れず敵を討ち果たす姿は、戸惑う二十歳前後の騎士達にも頼もしい。元より前から進んできた3匹のソードダンサーに隊の上官達が応戦し、少騎士達が決死の想いでインプ達に応戦する図式で、やがて他の隊から射手が支援合流するまでの攻防戦を繰り広げる。
「そろそろ片付いてきたぞ……! もうこっちのモンだ!」
「第2分隊をここに残し、残りは第21小隊に合流しろ! ネビロスがそちらに向かっている!」
「後は任せろ! 寝てたってこんな奴らに負けるかよ!」
迅速に、細やかに、移りゆく戦況に合わせた騎士団の柔軟な動きが、少ない兵力で魔物達の進軍を食い止める。どこも激戦区、しかし魔物達の余りある地力を押し返し、犠牲者少なく撃退することに成功している。テネメールを守る騎士団駐在軍は、歴史に刻まれない小さな勇者達の集まりだ。
己が都合で馬を駆けさせるユースの耳に届く、故郷を守るために戦ってくれる騎士団の咆哮が、どれだけありがたいものであったかなど言葉で表せるものではない。無心で我が家に向けて馬を駆けさせる中、手を貸したい戦士達の姿がいくつあっただろう。母の顔だけを思い描いていたはずのユースの胸に、守りたいものが増えていくのは至極当然のことだ。
「前を向け! 欲張るなという前提を忘れたか!」
「っ……!」
城砦都市レナリックを放棄し、故郷の母の命だけでも守りたいと願ったユースの初志を、クロムは何より優先している。他のことを考えるのはそれが済んでからのことだ。雑念を捨てさせるために吠えたクロムの声に、ユースは爪先が掌に傷をつけそうなほど、手綱を握る手に力を込める。
クロムはわかっているのだ。どんなに騎士団の勇士が戦い抜いたところで、魔物達の将にあたる存在が一気に押し寄せれば、この村がおしまいであることに。村と騎士団を、自分とユースの二人が参入した程度で守れるほど、魔物達は弱くない。恐らくはこの村に近い町村も、魔物達の襲撃を受け、こちらに増援を送るような余裕などないだろう。
テネメールの村の崩壊を、口にはしないだけで、クロムは半ば確信している。100と1でどちらも守れぬならば、守れるかもしれない1を守るのがクロムの生き方で、可愛い後輩の母親の命は、顔も初めて見るような騎士団の仲間全員と天秤にかけても重過ぎる。
目的は何なのか。それを見失わないことが、"前を向く"という言葉に込められた真意である。それを強引に呑み込むユースの胸が焼けるように熱かったのは、彼の若さが為す業だ。
この緊急事態、村から人々を逃がすため、騎士団も村人の多くを馬車小屋から西の王都に向けて押し出しただろう。そうして村を離れた人々の中に、母が含まれているなら何も問題は無い。それだとここまで来たのは無駄足になってしまうが、守りたいものが無事ならばそれはそれでいいのだ。
だが、村から逃亡の足に任される馬と馬車の数には限りがある。まして小さなこの村で、今回の緊急事態の中、村人全員をテネメールから救うほどの馬が、あらかじめあるはずがない。大半の村人は、第一、第二以降の逃亡陣からはずれ、この村に留まっているはずだ。
そしてユースは、母ナイアの性格をよく知っている。あの人はこんな時が訪れたら、自分よりも年上の老人や、幼い子供が逃げることを優先させるような人物だ。魔物達がこの村に辿り着く前に、馬車が西の町とここを何往復したかは知らないが、母ナイアはその列の最後尾に、進んで並びたがるような人だと、ユースは知っている。村人全員がテネメールを離れていないのならば、きっと今も、母はこの村のどこかにいるだろう。
今も家にいるとは限らない。だけど、母がいるならやはりそこなのだ。魔物達が一斉に襲いかかり、逃げ道を失った人々は、家屋に隠れる以外に手段が無い。生きているなら母もどこかの家に隠れているはずで、よそ様の家に隠れるシチュエーションなんて、逆にそうそうあるものではない。他者の家に隠れるような状況といえば、村をのん気に歩いていて、魔物達の進撃を見受けて近くの建物に駆け込んだような時ぐらいのものだ。あらかじめ聞かされていたであろう魔物達の襲撃に、そんな風に母が外を出歩いているなんてユースには考えたくない。
だからユースが目指すのは、母がいるかもしれない実家なのだ。そこに近付くに連れて、半壊した建物や燃え盛る木々が増えていくことも、今は敢えて意識しない。目的地を前にして、徐々に周囲の風景が廃墟に近付いているにしても、家まで同じようになっているとは限らない。そう信じたい。
あと少し、あと少しと心の中で叫びながら、母と長年過ごした家のある、テネメールの村南西の居住区を駆けるユース。そして目の前に広がっていた光景を目にして、ユースは心臓が止まるような想いとともに、手綱を引いて馬を止めさせる。
「間に合わなかったわけじゃねえ……! ユース、降りろ!」
一階建てだった実家の屋根が、地面近くにまで近付くようなひしゃげた形に潰された光景は、一瞬ユースの頭を真っ白にするには充分なものだった。そしてその周囲をうろつく一匹のミノタウロスが、別の家に向けてその巨大な斧を振りかぶっている。巨木を切り倒す木こりのように、人類の住まう家を粉砕するための所作だ。
当のミノタウロスにクロムが急速接近し、反応したミノタウロスが斧を振るって迎撃しようとする。横薙ぎに払われたそれを素早くくぐり、ミノタウロスの真横を駆け抜けると同時、槍先の巨大な刃でミノタウロスの胴体をざっくりと切り裂くクロム。胴体の半分を切断された深い傷から、ミノタウロスの鮮血が噴き出し、当惑するミノタウロスの後頭部に、急停止したクロムの槍先が突き刺さる。凄まじいパワーで繰り出されたその突きは、ミノタウロスの後頭部から頭を粉砕し、体を前方に吹き飛ばして倒れさせた。
血の気の引いた顔で、長年過ごした家に駆け寄るユース。玄関はくぐれぬ形にひしゃげ、家の縦長の入り口が横に倒れたようになっている。絶望が胸いっぱいに満ち始めるユースのすぐ横に駆けつけたクロムは、黙って体内に魔力を練り、自身が得意とする唯一の魔法を展開する。
「……間に合っている。おふくろさんは生きてるぞ」
身体能力を向上させる魔力を、耳奥の鼓膜に集めたクロムの聴力は、潰れた家屋の中にあるかすかな呼吸も聞き落とさない。はっとしてクロムを見上げたユースの涙目に、嘘のない瞳を返すクロムは、崩れた目の前の家の中、生存者の呼吸があったことをしっかり認識している。
瓦礫と山と化した、家だったそれに手をかけようとしたクロムだったが、遠方から迫り来る敵の存在を感知した耳が、クロムを振り返らせる。周囲と見合わせ、すでに廃墟と化したこの住宅地帯は、もう騎士団も見放した地なのだろう。この近くを徘徊する、仕事を終えた魔物達が、徒党を組んで生きた人間の匂いを嗅ぎつけてくるのだ。
「――この家の中に、おふくろさんはいる。まだ生きているぞ」
敢えてもう一度事実を述べるクロムが、槍を構える姿は何を意味するのか。形無くなった我が家に、守るように背を向け、前方から迫る魔物達の影を見据えるクロムの目は、ユースにもどうすべきなのかをはっきりと伝えてくれる。
ミノタウロスが、ヒルギガースが、ケンタウルスがこちらに向かってくる光景を前にしても、今のユースは恐れず騎士剣を構える。隣にクロムがいてくれるという心強さも遠因になっているが、何より母の命が隠れているという後方を死守する想いが、ユースの心を前に向かせるのだ。
「――まだ人間がいたとはな」
3匹のミノタウロスと1匹のヒルギガース、4匹のケンタウルスを率いた上空の魔物は、巨大な翼をはためかせ、小さな声でつぶやいていた。クロムの耳だけがそれを聞き落とさなかったが、空で数匹の魔物達を率いる役目を預かった、一匹の緑色の全身をした魔物は、クロムとユースの二人を見下ろしている。プラタ鉱山にて、風の魔法で法騎士シリカを苦しめた魔物と同種、ガーゴイルの上位種にあたるその魔物は、ネビロスと呼ばれる悪魔である。
村の他の区画を攻める魔物達とは一線を画す兵力で、この居住地帯を制圧したネビロスの軍勢は、今更再びこの場所に人間が現れたことに怪訝顔。しかし獲物が見つかったのであれば、それを狩らずに帰るのも勿体ない。人間の首を差し出せば、主であるウルアグワはそれだけで喜ぶのだから。
「よし。お前達、かか……」
「待て!」
上空のネビロスが、その手でミノタウロス達、獄獣軍から借りた兵力を突撃させようとした時のことだ。地上にて4匹のケンタウルスの後ろ、一体の魔物が、ネビロスの指令を半ばで切る。
獅子の下半身と、本来獅子の頭のある場所から、人間の胴体が伸びている全身を持つその魔物は、ある種ケンタウルスとよく似た風貌だ。人型である部分に鎧を纏い武装するケンタウルスとは異なり、たくましい裸体を晒して長尺の杖を握る姿が、下位種ケンタウルスとは大きく異なる様である。
「敵を見ろ。小さな方はともかくとして、槍を握った方は相当の手練だ。この兵力では足りん」
ケンタウルス達の上位種にあたる、スフィンクスと呼ばれるこの魔物は、総大将ウルアグワの配下にふさわしく、状況を的確に判断する知性が最大の特徴だ。たった二人の人間など、この軍勢で一ひねりだと判断したネビロスの甘さを指摘するその声には、舌打ちしつつもネビロスが手を降ろす。魔物同士にも、スフィンクスという魔物の目は信頼すべきだという繋がりがあるということだ。
「もう少し待てば、周囲の連中も集まって来る。それが揃ってからでも遅くない」
「……いいだろう」
スフィンクスの言うとおり、周囲からぞろぞろと集まってくる魔物の群れは、クロムとユースを広い円で取り囲む。ガーゴイルが、ジェスターが、ソードダンサー達が集まってきた末に、屈強な魔物達が30を超える数で二人を包囲する光景は、普通の人間ならば膝をついて絶望するようなものだ。
守るべきものを後ろに構えたクロムとユースは、敵の集合を止めることが出来ない。位置取りを遵守し、自分の、あるいは後輩の母が息づく家の前を離れ、敵に攻撃することが出来なかった。
「この程度の数で、足した気になってんのかねぇ……」
窮地にいらつく顔ではなく、見くびられたことに呆れたような顔を示すようなクロムの表情が、ブラフなのか真意なのかはユースにもわからない。少なくとも、ユース一人だったらどう足掻いたって、1分経たずに踏み潰されるだけの敵軍なのだ。クロムが人間離れした実力を持っていることは知っていても、その自信を口に表す姿を、素直に妄信できるような光景ではない。
「まあ、いい。ユース、死ぬ気で戦えよ」
「……はい」
僅か2秒でも槍を片手離して、ユースの肩をぽんと叩くクロム。恐怖心を拭い去り、生涯二度と訪れないであろう死守の局地で戦う覚悟を決めたユースは、騎士剣を握る両手に全力を込める。意識の奥で、盾に込める魔力を絞り出す心構えも、とうに固めている。
「そろそろいいな?」
「ああ、これなら構わんだろう」
地上のスフィンクスの同意を得たネビロスが、片腕を高く掲げる。指揮権を担う魔物の指示を待つ魔物達は、いずれも我先に得物をその手にかけたい想いで焦れている。魔物の本能を抑え、指示に従うよう躾けられた魔物達だからこそ、おあずけが解かれた時には溜めた想いを爆発させるかのように大暴れする。スフィンクスの計算には、それもしっかり含まれているのだ。
「よし、かかれ! 八つ裂きにしろ!」
ネビロスの号令とほぼ同時、この場唯一のヒルギガースの放つ分銅がユースに向かって放たれる。構えたユースは的確にそれを上空に打ち返したが、ヒルギガースの分銅とほぼ同時に前進していたミノタウロスは、クロムを真っ二つにするべくその手の斧を振るっていた。
戦場では何が起こるかわからない。テネメールの村のような辺境の地に、これだけの怪物軍団が押し寄せたことも本来の予想外だし、南東からの魔物進軍方角とは別角度から、こんな化け物達が遊撃していたことも異例の出来事。魔物達にとっては、クロムのような人類の一騎当千が突然現れたことも予定外のことだったし、そうした不測の事態に対しては魔物達も知恵を利かせる。敵が強しと思ったら、兵力を揃えてからの攻撃を形にするなどだ。
人間だけではなく、魔物達も柔軟に知恵を活かして戦うのだ。その最善への努力を以ってしても、戦局を大きく切り替える激動ひとつで、揺るがぬ敗北が確定してしまうこともある。そうした運命のいたずらは、どんな戦の中にでも、両陣営に対して常に起こり得ることだ。
ミノタウロスを迎撃しようとしたクロムの広い視野の横に、一瞬映った影。それはクロムの卓越した動体視力を以ってしても、一瞬の光の筋にしか見えない速度で視界を横切った。まるで流星のように飛来したそれは、クロムを薙ぎ斬ろうとしたミノタウロスの顔面目がけて直撃する。
屈強なミノタウロスの頬に突き刺さったそれは、めきめきと魔物の頬骨を粉砕し、その衝撃は頭蓋骨の中にある脳までぐしゃぐしゃにする。隕石が顔面を横から貫いたような衝撃に、ミノタウロスの巨体が、先ほどまでの進行方向さえ失い、真横に吹き飛ばされて横たわる。
ミノタウロスの顔面を打ち抜いたそれは、くるりと空中で身を翻し、着地する。目の前で起こった出来事を把握できた者は一人しかいなかった。ユースも、ネビロスやスフィンクスのような魔物達の将でさえそうであり、猛っていた魔物達でさえ何が起こったかわからず進撃の足を止め、戦場の時が凍る。
ふわりとした蒼い髪をツインテールに纏めたその人物が、銃弾を追い越すような速度で飛来し、ミノタウロスの頬をその膝で打ち抜いたことを、視認できたのはクロムだけだった。えんじ色の法衣に身を包んだその人物の背中はあまりに小さく、後ろに立つユースも目線を落とさねば、その人物のことを視野の中心に入れることが出来ない体躯である。
「……てめぇ」
今までユースが聞いたことのないような苦い声を、クロムが思わず漏らしていた。その声に応じるように振り返ったその人物は、日々の穏やかな眼差しよりもやや鋭いものだったが、クロムと目線を向き合わせた途端、哀しげな色に染まった瞳を垣間見せる。
「あれは、まさか……!?」
ネビロスは知らない。それが率いる魔物達も知らない。目の前に突然現れた少女のような人物は、日頃殆ど戦場に立ち並ぶことなどなく、魔王マーディス存命の頃から生きる歴戦の魔物達の記憶にしか残っていない。なぜなら彼女が戦場に現れたその時、目の前の敵はすべて粉砕され、その実力を経験則として覚えた魔物が生存しないからである。
黒騎士ウルアグワや百獣皇アーヴェル、獄獣ディルエラでさえもが過去の激闘の記憶を回想する時、語らずして通れぬ名がいくつかある。勇騎士ベルセリウスや賢者エルアーティなどもその中にあり、それらと並んで獄獣ディルエラが、今までに戦った連中の中で一番骨のあった奴だと語っていた存在の特徴に、突然あらわれたあの人間の特徴があまりに一致する。
「常に、常磐に、常しえに……人々の未来に、倖い多かれ」
振り返って魔物達の軍勢と向かい合い、自身の得意とする魔法の前詠唱を唱える。賢者の全身から溢れる強すぎる魔力は、その凄みを後ろのユースには伝えさえしない。術者の体内だけに繊細に集中するその魔力は、使い手以外にその様を見せたり感じさせたりすらしない、完璧な循環を為すのみだ。
「――果て無き道」
発動した賢者の大魔法が生じさせた僅かな余波は、柔らかな彼女の髪を一瞬ふわりと跳ねさせた直後、そばにいたユースの肌を焼くように刺激する。その時初めて、ユースは賢者の凄まじい魔力を実感した。その片鱗に触れただけで、火傷でも負わされたかのように全身がひりつくような絶大な魔力を、何度も優しいその顔を見てきた人物が放つなんて、ユースには想像も出来なかったことだ。
テネメールの村に、台風が上陸した。凪の賢者と呼ばれた大魔法使い、ルーネ=フォウ=ファクトリアは、目の前の魔物達に鋭い眼差しを向け、その拳を握り締めた。




