第143話 ~城砦都市レナリック② 法騎士の決意~
「俺が行く。ユースも連れていくぞ」
恐慌のユースと向き合う苦悩のシリカ、その横から放たれたクロムの声に、シリカは思わず振り返る。今の状況を伝えきった後、最短でその口から紡ぎ出されたクロムの結論だ。
「し、しかし……!」
「頼む」
幾千の魔物が迫る北に向けて、たった二人の兵を送ることなど、雀の涙のような足しである。あるいは切迫したこの城砦都市の守りにおいて、クロムのような有能な兵を欠かしてしまうことは大きな痛手。レナリックの守りの責を担う法騎士として、この申し出は受け入れられるものではない。クロムだってそれをわかっているはずなのに、その上で申し立ててくる彼の意志がどれほど重いものであるか、どうしてもシリカには読み取れてしまう。
クロムが勝手な行動で北の要請に乗ってしまえば、部下の管理能力を問われるシリカの立場が無い。クロムの北への出陣を認めるなら、城砦都市を守る騎士としてのシリカの甘さが指摘される。クロムが己の我が儘で北上することは、どちらに転んでも騎士としてのシリカの名を落とす結果になる。それを承知で頼み込んでくるという時点で、もう腹は括っているのだろう。
「……わかった、行け」
「恩に着る……!」
それでもシリカが首を振れば、クロムは堪えてくれたかもしれない。可能性は半々だ。だが、それを一度脳裏に描いてもなお、シリカはその決断を踏んだ。今は戦の真っ只中、決断は早いに越したことはない。どうせどちらか選ばねばならぬなら、悩む時間はそれだけ無駄でしかない。
「し、シリカさん……」
「行ってこい。悔いを残すなよ」
ユースとて騎士の端くれ、シリカの決断が、法騎士たる判断として客観的に適切なものでないことはユースにだってわかる。クロムの頼みを受け入れたシリカに、思わず動揺の眼差しを向けてしまうユースの目の前には、気にするなという表情を堅く構えた法騎士の顔がある。
「ユース、行くぞ! ついて来い!」
「っ……はい……!」
ある一方に駆け出すクロムを追うように、ユースも同じ道へと駆けていく。駆けだす前に一瞬シリカに頭を下げたユースを、シリカは二人の決断が最大限の吉兆を招くことを祈るように見送っていた。
責任を取る覚悟はもう出来た。この大事な局面で、正しい決断が出来なかった自分は、たとえ勝っても騎士としての資格を奪われるかもしれない。そこまで想定が至っても、今の二人を送り出すことこそが、自分として正しい行動だと信じたシリカは、この先のことに対して腹を決め打った。
ユースの故郷、テネメールの村。それが今、滅亡の危機に瀕している。気が気でないであろうユース、そんな彼の想いを汲んで駆けることを、我が儘と知りながら唱えたクロム。二人の想いをシリカは蹴らなかった。法騎士としてではなく、シリカ=ガーネットとして選んだ道だ。
「……クロムのぶんまで働いてくれ」
「旦那ほど上手くやれるとは思えねえがな。善処はさせて貰うわ」
上官としてではなく友人として"頼んで"くるシリカに、マグニスも嫌な顔ひとつせず頷くのみ。仕事嫌いの彼が振る舞う態度にしてはあまりにも似つかわしくない態度だが、今の切迫した状況下で己を貫くほど、彼も子供ではない。
可愛い後輩が故郷を襲う恐怖に震え、その地に向かいたい気持ちは、想像できない方が人でなしだ。シリカという長い友人の名を落としかねない決意だと知りつつ、そんな後輩を手を引くことを選んだクロムの思いの丈も、彼をよく知るマグニスには読み取れることだ。そんな二人が強く願ったこと、その尻拭いに前向きに取り組めるほどには、マグニスにとって彼らは尊重できる対象である。
「ツケは旦那に後で請求おくからよ。たまにの本気だ、シリカこそ足引っ張るんじゃねえぞ!」
「誰にものを言っている……!」
遠方より向かいくる魔物の軍勢を前に構える、最前線のシリカとマグニス。ガンマがその僅か後ろに、そしてチータが無言で位置取りを構え、射手アルミナとキャルを守る役割を引き受ける。言葉ひとつ無く完成された陣形を作るこの連携こそ、第14小隊最大の強み。
前方より分銅をなげつけてくるヒルギガースに向け、その分銅を騎士剣で叩き上げると同時に直進する法騎士シリカ。戦局ひとつ覆し得る駒ひとつを、自分達の都合でこの戦場から捨て去ったのだ。命に替えてもこの防衛線を死守する覚悟は、とうに決めている。
騎士昇格試験、エレム王国騎士団5つの難題、第二問。100人の民と1人の上官、片方しか護れないとしたらどちらを護るか述べよ。
"100人を守れる自分を目指していきたい"と答えたユース。
"その1人が友人で100人が他人なら、自分が守るのは1人"と答えたクロム。
"どちらも護る道を捨てたくない"と答えたシリカ。
かつて騎士団に入ったあの日は、今となっては遠き昔。あの日と変わらぬ志をここにきても貫けた者が何人いたかは、それぞれの胸のみが知ることだ。
「第3区画は撃退に成功! 第1区画も優勢……!」
「悪くはない流れと本来言いたいところだが……!」
露出した荒原にて次々と魔物達を切り捨てる、総指揮官の勇騎士ゲイルの耳には、そばにいるルオスの老魔導士の助力ならびに各地の術者から戦況が伝えられる。魔物達を退ける区画が存在するのはあくまで朗報だが、その区画の強化のために手薄と化した区画もある。捨てた防衛線も少なくない。山を突破する魔物の絶対数は増える状況下、決してその知らせも手放しに喜べるものではない。
地上部隊の強さも各国が誇る充分なものであり、そこに勇騎士ゲイルとルオスの左官が率いる空中部隊が支援を繰り返すことで、魔物達を翻弄するはたらきは為せている。ワイバーンのような巨大な竜の魔物が襲い掛かってきても、ゲイルや大魔導士が優先的に対処することで、なんとか突破を防いで討伐できている。完全防衛は期待されていないこの状況下で、各国司令部の期待を上回っている活躍はここまで出来ていると言えるだろう。
「勇騎士ゲイルどの!! 東より……」
「承知している!」
それもここまでか、最も恐れていた展開が、今まさにゲイルの鷹の目に映っている。ラエルカンの都の領空から勢い良く飛来してくるそれは、小さな影に対してあまりに不釣合いな、強者の気質を背負っている。
老魔導士がその魔力を一気に解放し、1秒間に10も20も撃つ無数の火球が、前方より迫る魔王マーディスの遺産に襲い掛かる。機敏に滑空するそれは火球の数々を回避し、当たりそうな一つの火球を掌でひっぱたき、自分の体より大きな火球をあっという間に消し飛ばしてしまう。
その視界が遮られた隙、もっとも敵にとっては隙とも言えぬものだが、一瞬でも減速した敵めがけて猛進し、長尺の槍を振るって首を採りにいくゲイル。敵は素早く上昇し、素通りしてその場を去ろうと西の空へ向かうが、鳶のようにクイッターンしたゲイルは、後方から一気にその難敵に迫る。
後ろ手をかざしたその魔物が掌から放つ風の刃を回避し、敵の前に素早く回りこむゲイル。ほぼそれと同時に振るわれた槍は、即座後方にバックした魔物によって回避される。ひとまずこの防衛線を突破されることを防いだゲイルだが、対峙した魔物を前にして眼差しに宿るのは、この怪物をここで討つことの難解さに対する懸念。
「アーヴェル……!」
「……勇騎士ゲイルに宮廷魔導士エグアムか。猫いらずにしちゃあ、豪華すぎやしねーかニャ……」
眼前の老騎士と後方の老魔導士に挟まれる形で、百獣皇アーヴェルは気まずそうな表情だ。かつての戦役で何度も顔を見た、人類陣営に属する強敵の顔を、百獣皇アーヴェルの頭脳は決して記憶から落とさない。生存欲の強いアーヴェルに、この状況はあまり歓迎したいものではない。
だから厄介なのだ。驕った敵将の足を掬う隙ならあるだろう。百獣皇アーヴェルは、確固たる自信の裏に、常に自身が敗れる可能性も色濃く想定している。悪く言えばそれは臆病さであり、その臆病さは百獣皇の生存率を著しく上げる要素である。
「ここで引導を渡してくれる……!」
急加速したゲイルが百獣皇に迫り、その槍を振るう。素早く回避した矢先、至近距離からゲイルの首元めがけて風の刃を放つアーヴェルに、ゲイルはすぐさま身をひねって回避。さらにはそのアーヴェルに向かって、直後ゲイルの肩元をすれすれでかすめた氷の槍が直進する。額めがけて飛来する鋭い氷の槍をアーヴェルは錫杖で防ぐと、その強い衝突力に押されて後方に飛ばされる。
「逃がさぬ! 空爆放火!!」
アーヴェル後方の空中一点に、ルオス宮廷魔導士のエグアムが魔力を瞬時に集める。ある空間一点に瞬時に爆撃の魔力を集め、その場に凄まじい爆発を起こすこの魔法は、敵の不意をついて壮烈なダメージを与えられる手段。そしてこれは、高濃度の魔力とそれを精密に操る技量を求められるため、ごく一部の魔導士にしか扱うことの出来ない上級魔法である。
これより向かう後方に収束する、自身の破壊を招く魔力にアーヴェルは敏感だ。エグアムの想定より速度を敢えて上げたアーヴェルは、爆発地点にエグアムの魔力解放よりも一瞬早く到達する。
「雲散霧消」
エグアムの魔力が集まったその一点が火を吹く一瞬前、アーヴェルの掌がそこを通過した瞬間、予定されていた爆発は起こらず、アーヴェルはひらりとゲイル達の方を向き直る。あらゆる魔力をその一瞬で解析し、抗う魔力を注ぎ込むことで、どんな魔法も発動前あるいは発動後に打ち消してしまうアーヴェルの秘術は、かの存在を今日まで生き残らせてきた最大の防具である。
想定済みのアーヴェルの守備力に、驚きもせず猛攻に移るゲイル。練達の槍さばきを回避する一方、ゲイルの僅か離れた後方から魔法による援護射撃を的確に撃つエグアムへの対処を強いられる百獣皇。窮地に不満たらたらの表情だが、ゲイルの攻撃をかわし、的を射る魔法攻撃も錫杖と掌でさばきながら無傷で飛び回るアーヴェルは、人類側にとっても焦りを促す典型対象だ。
何があってもゲイルとエグアムはアーヴェルから手を離せない。他のどんな魔物より、これこそ最も好き放題を許してはいけない存在だ。これを野に放ったその瞬間、いったいどれほどの兵が、こいつの暴力的な魔法で切り裂かれるかわからない。絶大な魔力と制空権を併せ持つアーヴェルを討伐、あるいはそれが叶わなくとも、こいつを好き放題にさせてはならないという、絶対的な使命を否応無しに背負わされるのが今の二人である。
「第5区画、決壊寸前……! 凍てついた風がここを突破……!」
「――第4区画に合流せよ! 第5区画はもういい!」
百獣皇アーヴェルとの空中戦のさなかにも、地上の芳しくない戦況は矢継ぎ早に伝えられる。目の前の難敵に魔法を放ちながらも、指揮官としての頭脳と指令を全力回転する魔導士は、流石帝国の宮廷魔導士に迎え入れられることだけあり、優秀だ。だからこそ彼の脳裏には、敵の思惑を阻みきれない現実がよくわかり、歯噛みしながら戦わなくてはならない今が苦しい。
指揮官にして最強の遊撃手たる二人を足止め出来るだけでも、アーヴェルの仕事は大成功なのだ。彼ら二人の支援を受けられなくなった地上はそれだけでもダメージがあり、その機に押し寄せる魔物達の第2波3波は、いよいよ山を突破する実績を作り上げる。その中に、魔物達の中における左官格の存在が名を連ねていることは、後方の砦にとって厳しい凶報だ。
「第2区画、撤退します……! マンティコアです!」
「獣魔ノエルの暗躍を確認……! 第9区画、ここを捨て第1区画に合流します!」
潰された防衛陣も数多い。撤退を選んだ地上の聖騎士や法騎士の判断は現場の正しいものであるはず。完璧な壁であること叶わずとも、僅かでも敵を討てれば上出来というのは後ろ向きだが、元よりそんな任務なのだ。鬼門すぐそばの地上兵の心中察しながら、勇騎士ゲイルはアーヴェルの胸元めがけて鋭い槍の一撃を突く。
「ぬぐぅ……! なんで某がこんな役回りを……!」
魔王軍残党の首席にてあぐらをかけるだけの実力を持ちながら、地上を駆ける配下達の道を拓くための囮のような役回りを務めるアーヴェルは、ずっといらいらした表情を隠せない。紙一重で回避したはいいものの、勇騎士ゲイルを引きつけ、しくじれば命を失うようなこの仕事は、生存欲の強い魔物の長にとって嫌なものだ。自分がいなくなって魔王軍は回らないくせに、と思えてならず、イラつきが高まる。
身近の位置にゲイルを据えたその瞬間、自分周囲に真空の刃を伴う極小の竜巻を瞬時に作るアーヴェル。気配を察知したゲイルはすぐさま身を横に逃がすが、逃げ切れなかった脚を纏うブーツに、まるで真剣を叩きつけたような鋭い打撃を実感する。逃れるのが一瞬でも遅れていたら、全身を真空の刃に切り刻まれていただろう。鋼鉄製のブーツに、浅くとも小さな傷を残すほどの切れ味を生む風の刃、それを生み出すのがアーヴェルの恐ろしい魔力。
竜巻の発生に伴い、上昇気流で軽い自分の体を一気に上空まで飛ばすアーヴェル。逃さず上空から稲妻を招く魔法で狙撃しようとする、魔導士エグアムの判断は最速のものだ。上を向いたアーヴェルの正面から、まさに光の速度で迫る稲妻に、アーヴェルはしっかり掌をかざして対処する。
どんな魔法もアーヴェルの掌に宿る、雲散霧消の魔力に触れれば消え失せる。対魔導士において反則的なこの守備方法に、打ち消されない複雑な術式を組む実績を残した魔法使いは、今のところ大魔法使いエルアーティのみだ。確かな自信を持つアーヴェルは、素早く天高くにて身を翻し、低い位置にある二人の強敵から目を切らない形を作る。
「まぁ何とかなりそうではあるか……油断はならねーけどニャ」
向こうの出方をうかがい、先手を譲って敵の足止めに集中するアーヴェル。一刻も早くこの存在を無力化させたい勇騎士と老魔導士にとって、一番困る態度である。伴った実力を、敵陣営を最も苦しめる形に向けて最大限活かせる存在ゆえ、百獣皇アーヴェルはその地力以上に厄介な怨敵とされるのだ。
イーロック山地の激戦模様は、つぶさに西の防衛線レナリックにも伝えられている。念話魔法を受け取る役目の魔導士達は、すぐさまその情報を城砦都市いっぱいに発信する。受け取るのは指揮官格の騎士や帝国兵のみだが、その中には法騎士シリカも含まれている。
ある情報を受け取った瞬間のシリカの動きは速かった。周囲の騎士達に指令を下し、先ほどまで自分が死守していた、要塞都市第27区画を放棄してまでの全力疾走。追従する第14小隊の面々も、今のシリカが何を目指しているのかは計りきれない。
シリカは知っている。ほぼ完璧に周到に構えられた、城砦都市レナリックにも、隠された急所があることを。具体的に言えばそれは、海抜の高い位置にある第50区画であり、ここを魔物達がもしも制圧することあらば、山の上から攻め入られることと同じ構図となる。魔物達に押さえられることを、最も避けねばならない場所である。
建物が狭く敷き詰められた第31区画は、敵を迎え撃つ射手が潜むには最適である一方、敵にそこを奪われては逆利用される利だ。城砦都市中央巨塔のある第2区画は、見晴らしよく敵を把握できるため、守りの要と言える場所だが、ここを落とされると全体への指揮力が著しく低下する。市場用大通りのある第17区画は、ここを突破されれば一気に都市内全体への道が開けてしまうため、絶対に魔物達の進軍を許してはならない場所だ。
そうした最重要拠点は、騎士団も帝国も兵力を注いで強く押さえている。陥落が許されない地点である一方、比較的重要度の低い第50区画には、他の重要ポイントほどの兵力が割かれていない。なぜならそこは、他に兵を注げるだけの強固な地の利による守りと、そこに攻め入るまでには道なりも困難とされる、入り組んだ階段や坂を登らねばならないから。そこに配属された魔導士や射手のみで充分、攻め入ろうとする敵は撃ち落とすことが出来る構成だ。城砦都市レナリックにも、空中戦を得意とする魔導士は多数配属されており、対空戦力を持つ騎士も数多い。第50区画は兵力少なくして、人類の知恵と団結力で守りきれる要所である。
その理念を読み、そこへ多量の兵を投入されたら、ということは、参謀ならば誰もが一度は考えること。だが、多くの場合、その読みを一度含んでも、それに対する策が実行されることは少ない。全体の防衛構図を見渡したその時、第50区画はそれでも抗うだけの役目を果たす位置として作られているからだ。城砦都市そのものが持つ、各地の調和を整えた全体構成に対し、裏の裏の裏を読みにいって構図を崩すようなことは、基本的に行われない。そんなふうに裏を読みたくなるような地点は、第50区画だけでなく他に山ほどあるのだから。
シリカの耳に届いた、遠方イーロック山地からの急報。敵の幹部格であるその存在が、城砦都市レナリックを攻め落とそうとする時、いったいどこを目標地点として攻めるのか。数多い区画の中からそれを読みきるのは至難の業だが、シリカの直感は、あそこが奴の目標地点だと強く訴える。
敵将の一人は元騎士団員だ。騎士団の防衛戦法をよく知っている。ここよりさらに西、エレム王国の城砦都市エルスローマの構造に関しては、百度以上勉強してきたはずだ。要塞の構え方、兵力の注がれ方、どこが攻め落とされて危険か、ということを、思考によって導き出せる頭を持っている。
第2、第17、第31区画のような場所よりも、手薄だと読みきってくるであろう第50区画。そしてそこは、要塞理念からして八割方、防衛力の過度増強が行われない場所。数多くの指揮官達が、そこを魔物の将に攻め入られることを危惧していながらも、限り在る兵力ゆえ対策を取れない場所なのだ。元法騎士であるかの存在が狙う場所として、第50区画以上に適切な場所は無い。それがシリカの読み。
城砦全体に頻りに飛び交う念話魔法による情報交換が、敵将の動きを追っている。目的地を悟られぬよう、参分した足取りで魔物達を率いるその敵将の真の狙いは、近ければ近いほどに読み取りづらい。決め打ったシリカだけが、奴の狙いはそこだと強く信じることが出来る程度のもの。
第50区画は切り立った壁の上にある。その真下に位置する場所を通過しかけたシリカの目に、かの存在が凄まじい速度で駆ける姿が映る。その足取りは、敵の動きを想定したシリカにとっては明らかに第50区画を目指したものであり、傍目には魔物を無作為に率いるだけにしか見えない足取りだ。
上方第50区画の高所狙撃軍が、遠方や上空に意識を傾ける真下、まさに灯台下暗しの地点から一気に頂上を撃ち抜く矢とならん暗殺者は、明確な目的と共に足を駆けさせた。その駆ける道に、黒猫が横切るように割り込んだシリカは、敵将の首めがけて勢いよくその騎士剣を振るった。
視界外からの奇襲にも関わらず、跳躍して回避ののち前進姿勢を崩さない敵将。軽業師のような人影がシリカを追い抜き道を倣うままの後ろ姿に、シリカは追うように跳躍して差し迫る。地上に向かって降下中のそれに向かい、放たれた矢のように真っ直ぐ突き進むシリカ。その手に握る騎士剣の突きが、人の姿をした敵将が素早く向き直って構えたナイフに衝突する。
空中で強い力を受け、吹き飛ばされてなお身を翻して着地するその存在。同じく地に降り立ったシリカと、静止した状態で向き合うそれは、表情の読めない瞳のみ晒してナイフを構える。
「捉えたぞ……! 凍てついた風カティロス!」
漆黒の胸当てに、膝当てと肘当てのみに包まれた細い四肢。尖った銀髪と、藍色のバンダナで鼻と口元を隠した元法騎士だ。エレム王国より魔王軍残党に寝返った人類の裏切り者――かつて法騎士スズと呼ばれた暗殺者は、無言にて両手に握るナイフを構え、シリカと離れて対峙する。向き合っただけで、隙のない構えであるとわかる相手と向き合う経験は、シリカもこれまで多く経験しなかったことだ。
雑念は無用、次に向き合うことあれば容赦なく。その理念に則って地を蹴ったシリカは、凍てついた風カティロスへ向けて一直線。繰り出した突きの一撃は、カティロスが眼前に交差させた二本のナイフの交点に突き刺さり、後方へと身を逃したカティロスが宙返りして飛んでいく。
着地の瞬間に素早く地を蹴り、風のようにシリカへ迫るカティロス。かつて、法騎士スズという女傑を敬う末に騎士団入りしたシリカにとって、過去最大の試練の時だ。人類の敵となった、過去の憧れの存在の凶刃が自らに振るわれる様を瞳に映し、シリカは騎士剣を握る力を倍にした。




