第138話 ~学者の正義~
エルアーティの蘇生魔法実験に立ち会うという決意をしてから数時間後、時はおおよそおやつ時。チータは割り切っていたが、ユースはもう今にも心が折れそうな気分だった。
エルアーティに言われたとおり、何かの死体の一部だと思えるものを運んでいるうちは耐えられた。野垂れ死んだ野鳥の死体をエルアーティの魔法陣まで運ぶ作業も、気分は悪くても覚悟を決めたことだと無心で臨むことに努められた。だが、やはり魔法の遂行が始まるとその光景にはダメージを受けてしまう。
蘇生魔法を再度展開したエルアーティが、犬の頭蓋骨を半ば屍のまま蘇生したあの時と同じように、野鳥の亡骸を火水木金土の魔力で包む。死骸を包んだ土が取り払われたその時、現れたその存在もまた、生存活動など不可能にしか見えない有り様だ。皮膚なく骨格だけで構成された翼に、白骨からまばらに羽毛が生えるというあり得ない翼の構造、臓器が無作為に絡められただけで滅茶苦茶な胴体に、崩れかけた頭部の目穴から眼球がこぼれ落ちた姿は、あまりにも無残なもの。
蘇生失敗と見るや否や、エルアーティは死体に感謝するような言葉を述べ、さっさと炎の魔法を展開しその半屍鳥を灰にする。あんなざまに生き返らせるだけ生き返らせて、上手くいかなかったらさようなら。まるで童話に出てくる悪魔の所業そのものではないかと、ユースも心中ではエルアーティの行動に引くばかりだった。
しかも、その行為に加担している自分が確かにいるのだ。あのような姿に蘇らされた野鳥の魂は、どんな心持ちで再び消えていくのだろう、と思わずにはいられない。考えすぎかもしれないけれど、エルアーティだけでなく、自分に対して怨念すら抱かれているような気がしてつらくなる。
獲物を見つけられず息絶えた親猫のそば、すでに息をしていない子猫数匹を見つけただけでも、その姿に気の毒さを感じる程度には、ユースは感受性を持ち合わせている。さすがにそれを見た時には、これをあのエルアーティの前に差し出すことなど出来ないと、土を掘って隠すように埋めてやった。代わりに、野犬か魔物にでも襲われたか、引き裂かれた野兎の死体をエルアーティのもとに運んでいく。
片耳が虫に食われたようにぼこぼこと欠け、もう片方の耳も腐り果ててだらりと垂れ、腐敗したような全身で仰向けになってひくつく野兎が"蘇生させられた"光景を見て、どんな心地で亡骸を運んできた自分を見返せばいい。表情さえも読み取れない、左右別々ぎょろついた瞳の野兎の顔を見た瞬間に、こんな体で蘇らされた野兎の苦しみが伝わってくるようだ。エルアーティがその野兎を火で包むまでの数秒間が、何分にも何時間にも感じられるぐらい、その光景はショッキング過ぎる。
こんなことを何度も繰り返して、胸を張って機嫌よく歩ける方が狂っている。無心に努め、思考を放棄し、震える唇を歯で押さえて仕事に従事するユースのメンタルは、ただでさえ限界に近いものだ。相方であるチータが、無表情で日頃と変わらぬ足取りで歩いている姿が、心底信じられないほどである。
だが、運命はどこまでもユースに容赦しない。瓦礫の影に隠れた白骨死体を見つけたチータが、それに向かって歩いていった瞬間、冗談だろとユースは口に出そうになった。雨ざらしでも風化せず、なんとか形を保っている頭蓋骨を拾い上げたチータが、エルアーティの元へと帰っていく背中を追う中、その顛末を見届けることへの恐怖が、足を重くしたものだ。
「あら、いいもの持ってるじゃない」
冷え切った目でチータからそれを受け取ったエルアーティの言葉に、ユースは全力で首を振りたい想いでいっぱいだ。魔法陣の中心にそれを置き、エルアーティが再び蘇生魔法に向けて魔力を展開した瞬間から、ユースの心臓は最悪な意味で高鳴って仕方が無い。この時点ですらすでに吐き気を感じ始めているのに、今から見る光景を前にして、喉の奥のものを抑えられるだろうか。
そして、その時は訪れる。ユースは両手で口を押さえ、顔を伏せて何度も喉を鳴らしていた。吐瀉物が一気にこみ上げてくる一方で、それを耐えることで精一杯なのだ。これまでも、何度か屍人の魔物達と交戦したことはあったが、あれらは動けるだけの体を保たれていただけでも、まだ見られた風体だったと認識を改めるしかない。その発想がまず、普通ではない。
手の生えている場所がおかしい。指の数が足りない。全身から流れる血の色が、何故あんなまぶしい色なのかわからない。うめき声をあげるのをやめて欲しい。自分の体がどうなっているのか確かめるためなのかは知らないが、背中から生える脚をばたばたと振り回すのをやめて欲しい。吐いた血と息の勢いで、歯の数本が散らばった光景を見た瞬間、吐き気はピークに至った。
「ご苦労様。ありがとう」
エルアーティがその屍人を焼き払う光景までは、とうとうユースは目に入れることが出来なかった。最後まであれを克目する勇気など持てない。きっぱりと目を逸らさなかった隣のチータの姿は、正直チータもどこか壊れてるんじゃないかと思えてならなかったほどだ。
「魔力配合比率そのものの精査も必要だけど、単に要素が不足している気もするわね。基本的に五行の魔力を理想配合できるなら、理論上は何事も為せるはずという魔法論とは矛盾するけれど」
五行の魔力とは、火水木金土の5属性のこと。エルアーティが基本的に扱う魔力の色はこれが主だ。魔法学において、この5属性の魔力のかけ合わせで不可能なことなどないという仮説は長らく信じられたものであり、為せぬならば術者の未熟という結論で締め括られるのが一般論である。
「……やはり、霊魂かしらね」
魔将軍エルドルの蘇生に成功した魔物陣営の中にある、霊魂の扱いに長けた黒騎士ウルアグワ。人類史においては忌避される、霊魂の操りに秀でたその存在こそ、人間達には無い最大の要素である。魔力とは霊魂と精神の掛け合わせによって生じるものであり、霊魂は魔力を生み出す触媒そのもの。長く人類が蘇生の魔法を完成させられたなかった要因を、黒騎士ウルアグワの、霊魂を扱う手腕が補うことで、蘇生を実現させたのだとしたら、それがエルアーティの持論では最も得心がいく。
数度、この地に地縛された霊魂の数々を浄化するためにこの地を訪れたことのあるエルアーティは、その程度には霊魂の扱い方にも長けている。だが、それだけだ。黒騎士ウルアグワほど、死した命から離れた霊魂を操る技術は持ち合わせておらず、霊魂の存在を実験の中に含めようとすれば、どうしたものかと考え込む。姿勢や態度にそれを表すことはしなかったものの、不動にして魔法陣の前に立つエルアーティの後ろ姿は、無感情な魔女が思考中であることを示すに等しいものだ。
「……あぁ」
ふと、閃いたようにエルアーティが空を見上げる。目線の先を追おうとするユースの目に映ったのは、青空にただ一点残る、大きくて真っ白な雲だけだ。そんな雲の下を飛ぶ一羽の鳥のシルエットが、白い雲を背景によく見えた程度。
ことが起こったのはその直後のことだ。突然、その鳥が過ぎ去ろうとした空に起こった大爆発。鳥の影よりよほど大きな爆発により、空を舞っていたひとつの命が呑み込まれた直後、爆煙の中から小さな影が真っ逆さまに落ちてくる。
いったい何が起こったのか、ユースにはまったく理解できなかった。地面にぼとりと落ちたカラスの肉体が、落ちた勢いで形をひしゃげさせた姿は、その絶命を容易に想像させる。その時になってようやくユースは悟った。空を舞う一羽のカラスを、エルアーティがその魔法で撃ち落としたのだと。
魔法陣のそばに落ちたカラスをひょいと持ち上げ、まるで人形でも持ち歩く少女の如く、何気ない足取りで魔法陣の中心に歩いていくエルアーティ。そして、ほんの数秒前まで生きて空を飛んでいた命を扱うとは思えぬような手つきで、魔法陣の真ん中にその死骸を軽く放り出すのだ。一切の情を見せない一連の行動に、かえってユースも頭が追いつかない。
見ればカラスは、まだ生きている。粉々に砕けた全身をひくつかせ、焼きただれた全身を震えさせて、がぁ、と鳴いた姿が、凍りついたユースの思考を目覚めさせる。同時に、カラスを痛々しく感じる想いを上書きするようにユースの目に飛び込んできた光景が、今日最大の戦慄の種。
瀕死のカラスを見下ろすエルアーティの口の端が、にやりと持ち上がったのを見逃せなかった。直後エルアーティの指先がカラスの頭に向けられ、思わずユースが予感からくる引き止めの声を放つより早く、指先から放たれる水の弾丸が、カラスの側頭部を撃ち抜いた。
頭に風穴を開けられたカラスが動かなくなったのを見て、エルアーティは魔法陣の外に歩み出る。空いた口が小さく塞がらず、絶句するユースが硬直する前、魔法陣の前にて魔力を練り始めるエルアーティは、後ろの若い彼の反応になど興味も示さない素振りだ。
「配合比率、よし。霊魂はそこにあり。今度はどうかしらね」
震えそうな手を、右手で左手首を握って押さえつけるユースの前、魔法陣を描く線が淡く光り始める。蘇生魔法の行使を予感させる光に呼応するかの如く、エルアーティの全身から溢れる濃厚な魔力は高く立ち上る。目には見えないのに、まるで炎が燃え盛るように勢いよく溢れるエルアーティの魔力は、今この"実験"に心躍る想いで臨むエルアーティの精神を半ば表したものだ。
「――蘇生魔法」
カラスの死骸に土が集まり、炎が土を包み、花が咲き、土が水を吸ったように色を変え、光沢を持つ砂が見え隠れする。数秒後、土が消えた末に手品のように、無残な屍のような命が蘇る光景を何度も見てきたユースは、戦慄の再来に向けて歯をくいしばり、見届ける心構えを整えることしか出来ない。
だが、往々にして諦観の果てに生じる奇跡というものは存在するものだ。魔法陣の中心、土の塊が飛散した直後、その中から現れたものの姿はあまりにも意外なもの。
「惜しい」
そこにあったのは、先程までの、焼けただれた姿で頭に撃ち抜かれた傷を持つカラスではなかった。全身の傷は塞がり、まるでさっきまで空を飛んでいた時のように、全身の傷を癒されたカラスの姿。頭の風穴も、傷跡すら残さないままに塞がっている。
エルアーティは、そのまま横たわるカラスに近付き、膝を下ろして手を伸ばす。エルアーティに持ち上げられたカラスは、ぴくりとも動かない。生きているのか、意識を取り戻さないだけなのか、遠目から見るユースとチータにはわからない。それほど、見た目の傷は全快している。
「ご苦労様。あなたの魂と命に深く感謝するわ」
カラスを地面に再び置き、背中を向けて魔法陣の外へと歩くエルアーティ。その後方で、カラスを突然包み込む火柱が発生し、炭に変えて空高く吹き飛ばす光景がそのあとに続く。
「……失敗ですか」
「ええ、蘇生は成らなかった。霊魂はもはや痕跡なく、仮に精神と肉体が万全でも、もう生きて動く生物ではなかったわ」
問いかけるチータに、淡々と答えるエルアーティ。冷たい声と表情なのは相変わらずのものだったが、どことなく先程までは声色が違うことを、チータの耳と肌ははっきりと認識する。
「だけど、ひとつわかったことがある。やはり蘇生魔法の実現に向け、死体が生前持っていたはずの霊魂の存在というものは必要不可欠なものであり、代えが利かぬことが確かなよう」
本来、魔法学においては当然であるように聞こえることを、改めて口にするエルアーティ。だが、漠然と世論に語られていたことを、実験によって実感を得た後では捉え方が違ってくる。過去の知識と現在の思考の融合で新たな事実を発見する、それが学者であるが、その一方で歴史が語る通説を何らかの形で再証明、あるいは反証することも必要なことだ。千年信じられてきた理論が、新説により真っ逆さまに否定されてきた事象など、歴史を振り返れば山ほどある。
「理屈はわかった。あと数度の実験で終わりにするわ。あなた達はそこで待っていればいいわよ」
再び空を見上げるエルアーティ。廃墟の空は、棲みついたカラスがよく飛んでいる。それに目をつけたエルアーティの挙動の意図は、二人の目には明らかで、冷ややかな目のチータがそれをどんな想いで見届けているのかは、ユースには想像できない。想像する暇もない。
空に生きる命を自らの手で奪い、蘇生魔法の実験対象として死体に変え、上手くいかなければ結局灰にして地に返す。おおよそ命を命と思わぬような所業を目の前にして、引き止めることさえ出来ないユースの心は、言い知れぬ痛みに焼け付くような想いでいっぱいだった。
「輪廻に移り、転生する前の霊魂には、生前の記憶が刻まれていると言われる。善行を詰めば極楽へ、悪行を重ねれば地獄へと、魂の行き先が唱えられる根拠としても、この理論は支持されている」
数度の実験を重ねた末、描いた魔法陣を地面を爆発魔法で粉砕し、綺麗に掃除したエルアーティは、砦跡の門へと帰りの足を向けていた。その後に続くユースとチータに、今日の実験で得られた知識を紐解きながらである。
「恐らくそれは、宗教家が作った善行の勧めではなく、過去に蘇生魔法を研究した魔導士の残した研究成果によって導き出された結論だったんじゃないかしら。現代においては、その理論は宗教家が善行を積むことを推奨する理屈に用いているけれど、長い歴史の中で伝わり方が曲がってしまった可能性は低くない」
あの後エルアーティは、空のカラスを撃ち落として殺害、それを蘇生するという実験を6度行った。その末に得られた結論は、死者を蘇らせるにあたり、霊魂の存在がいかに大きいかということだ。
「打ち捨てられた亡骸の一部からでも、生物の肉体を復元することは不可能ではない。だが、それを正確に復元するには、蘇生魔法の術者が想像で補わなくてはならない。そして想像力のみで元の形をいくらイメージしたところで、亡骸が持つはずの真なる過去を補いきることは不可能に近い」
生き物とは複雑な構造だ。骨の組み合わせ方、内臓の深いメカニズム、緻密に組み合わされた体組織。蘇生魔法を行使する者が、生き返らせたい対象の中身まで正確にイメージし、その思考力を以って"実現したい蘇生後の姿"を完全に願う時点で、無理がある。
「その亡骸に生前宿っていた霊魂は、生きていた時の体のことをはっきりと覚えているようね。死して間もないカラスの死体は、霊魂がすぐには剥離せず、そこに蘇生魔法をかけてあげれば、随分と体裁は整ったものであったでしょう。私は五行の魔力によって、元の肉体を構築する材料を霊魂に与えただけだったけれど、生前のカタチを知る霊魂が、肉体を元の形に復元してくれた。だから表面上は上手くいったということなんでしょうね」
エルアーティが命を奪った直後のカラスを蘇生させる実験は、そのすべてが、肉体の損傷だけは完璧に治癒させていた。ただ、ひとつとして生前のように動き出すカラスはおらず、結果として完全なる蘇生が上手くいった例はなかった。
「ただ、霊魂に仕事をさせるというのには、やはり限界があるようね。元の肉体を復元するように霊魂にはたらきかけたはいいけど、体の復元にすべての力を使い果たした霊魂は、疲弊の末に消えてしまう。まあ、それが完全なる霊魂消滅なのか、輪廻への旅立ちなのかはわからないけど」
蘇生魔法とはつまり、死者の霊魂に刻み付けられた生前の記憶に対し、肉体を再構築させるための元素を与え、復活を命じる魔法である、と、エルアーティは仮説する。ただし、そのために全精力を使い果たした霊魂は消えてしまい、肉体と精神の繋がりを保つ霊魂が失われたその抜け殻は、結局の所再び生きた命として動きだすことが出来ない、ということだ。
「まあ、結論としてはそんなところよ。魔将軍エルドルも、そうして蘇らせて貰ったんじゃないかしら」
城門が近付いてきたところで、ひとまずここまでわかっただけでも満足、と言い残し、エルアーティは数秒の沈黙を作る。ユースも何一つ話そうという気分にはなれず、黙ってエルアーティの言葉に耳を傾けるチータも、沈黙の空気に一役買う。
「魔王マーディスの遺産達は、魔将軍エルドルの霊魂を、何らかの形で回収に成功したんじゃないかと私は考えている。きっとそれは黒騎士ウルアグワの手腕によるものであり、エルドルの肉体を構築する元素を与える魔法を展開したのが、百獣皇アーヴェルといったところなんでしょうね」
「……霊魂の回収、ですか」
「もっとも、どうやってそんなことを為したのかは計りかねる。すぐに出来ることなら、とうの昔にやっていたことでしょうし、自由自在にそんなことが出来るのであれば、これまででも何度だって、討伐したはずの存在が蘇ってくるという事件があってもおかしくなかったはずよ」
魔物達は、死者を蘇らせるすべをどれほどまでに完成させているのだろうか。チータの問いに冷静な声で応じるエルアーティだが、敵の動向がわからぬうちは、不安要素に違いない。
何よりも。
「もしも黒騎士ウルアグワが、魔王マーディスの霊魂を再び手中に収めることがあるとすれば、それはきっと魔王再来の日と同じ意味なのでしょうね」
長年人類を苦しめてきた魔王の討伐によって為された、十年あまりの平和の時。ラエルカンの崩落でその平穏に大穴を開けられた直後、その可能性を突きつけられることは、あまりにも平静心を崩すもの。元より口を閉ざしたままのユースだったが、今のエルアーティの言葉には、息が詰まるかと思った。
城門が近付く。リリューの砦跡にて最悪の時間を過ごした末、帰路の見えたユースは、今すぐにでもその場に座り込みたいほど参っていたものの、力を振り絞るような心地で最後の足を運んでいた。
「最後に聞くけれど」
やがて数分も待てば、待ち合わせの御者がこの場所に現れるはず。城門をくぐった直後のエルアーティが、振り返ってユースとチータを見据えて口を開く。疲弊した表情の騎士、無表情の魔導士。そんな二人を目の前にして問いかけるエルアーティの言葉は、あらかじめ用意していたものだ。
「あなた達から見て、私は善人? 悪人?」
漠然とした問いだが、社会の仕組みを知る大人なら、魔法都市ダニームのお偉い様に、貴方は悪人ですなどと口が利けるはずもない。エルアーティの地位というのは、魔法都市ダニームという一国の宰相に近いものだ。騎士団でいえば勇騎士でさえも頭を下げるほどの地位にある彼女に対して、そんなことを軽々に言えるはずもないことを知っているのに、敢えてそれを問うことに、意図は必ずあるはずだ。
つまり、思ったことを正直に言えということだ。エルアーティが、社交辞令や表面的なお行儀に興味を示すような人物でないことは、ユースもチータもよく知っている。
「善人ですね。少なくとも、人類にとっては」
答えを探すユースの隣、媚びを知らぬ口をチータが開いた。死したはずの命を無残な形で蘇らせ、生きた命さえも実験のために葬って素体としたエルアーティを、本意から善人と形容するチータも、彼なりに導き出した途中式あってのことだ。
「それはどういう意味?」
「知識の究明は、人類にとって間違いなき前進であるからです」
「それは私の持論ではなくて?」
「ええ。僕はその持論、嫌いではないので」
古くから、エルアーティは真実究明のためなら、おおよそ掟破りも辞さない人物であると有名だ。かつて彼女が強く興味を示した存在が、大森林アルボルの精霊だが、数度アルボルに足を運んだのち、絶大なる魔力を持つ精霊と触れ合った末に書き綴られた彼女の論文は、恐ろしく世間を騒がせた。
"精霊と魔王の境界"という題目を持って作られたその論文は、森の大精霊を信仰する緑の教団にとって見過ごせるものではなかった。エルアーティの語り口は、まるで精霊バーダントが魔王と呼ばれる存在と何ら変わらないという口調であり、信仰対象、言うなれば神を冒涜された形の緑の教団は、エルアーティを激しく糾弾した。魔導帝国ルオスの主たる宗教である緑の教団と、持論を覆さないエルアーティの対立は、下手をすれば魔法都市ダニームと魔導帝国ルオスの関係悪化にさえも繋がり得るものだった。紆余曲折あってその事態は最悪を免れたが、今も緑の教団とエルアーティ個人の関係は最悪なまま終わっている。神を冒涜された教団はエルアーティを決して受け入れないし、エルアーティは真実の究明を拒絶する教団を、今でも批難する口を持っている。
エルアーティには、昔から絶対に揺るがない信念がある。どんな不都合な真実も、やがては大きな破壊を招く武器の発明も、新たな知識が人類にもたらされることは、間違いなく前進であるという信念。たとえばその昔、百獣皇アーヴェルが好んで使用した環状岩という魔法があるが、後年この魔法に目をつけたルーネがその仕組みを解析し、礫石渦陣という人間にも扱いやすい新魔法を開発したことがある。
無数の岩石を風の渦に乗せるこの魔法は、攻防ともに便利なものであり、それが普及したのは人類にとって大きな前進だった。しかしそれは、魔王軍を迎え撃つ魔法使いたちの大きな武器となった一方、後年にはチータの兄ライフェンが、追撃する人類を苦しめる魔法として悪用した礼もある。しかし、ライフェンのような悪例を踏まえてなお、新魔法が生み出されたことによって生まれた人類の前進まで否定してしまうのはおかしい。知識とは所詮、手にした者の意志一つで、利にも害にもなるもので、総じてそれを人類史の"前進"と称するのだ。
過ちが学習を促すものであると知るエルアーティは、人の歴史はまだ幼い、が口癖。新たな知識を人類に授けられるべきで、重ねられた知識を人類がどのようにして扱っていくのか。その末にあるのが豊穣であれ、滅亡であれ、その繰り返しで人類は前進していくものであるとエルアーティは考える。彼女の揺るぎないスタンスは数々の過去から物語られるものであり、誰かが彼女を語る人物像を描くにあたって、これが欠かされることは決してないだろう。
既に死んだ命を、あるいは生きていたはずの命まで実験のため、無慈悲に弄ぶようなエルアーティの姿を、道徳的に肯定できる者がどれだけいるだろうか。そんな彼女を、少なくとも人類にとっては善人と形容するチータの真意とは、エルアーティが新たな知識の究明のために動いているからだ。そしてそうした彼女の正義に、チータは比較的共感できるからである。
「もっともあなたが同じ実験を、人間を実験対象にしてするなら、話は難しくなりますが」
「だから蘇生術は完成してこなかったのよ。私のように、魔物や動物、死体を対象に蘇生魔法の実験を施してきた者は、星の数ほどいたでしょうね。だけど、蘇生魔法を人間に成功させようとするならば、当然人間を対象にした実験も必要になってくるでしょう」
そうなってくれば、それはもはや人道に反する行為として一線を超えてくる。渦巻く血潮が未だに強く批難される歴史からもわかるとおり、人の命とそれ以外の命を扱うことの差は、人類が勝手に作った倫理観においてとてつもなく大きいことだ。
「貴女が人類に新たな知識をもたらそうとする行為を、僕は善行と捉えます。僕が知る限りで貴女に抱く印象としては、暫定的にこれが答えですよ」
「アルにそっくりだわ、あなた。あの子と言ってることがまるで一緒」
聞き慣れない名がエルアーティの口から溢れたが、それを問う暇もなくエルアーティの目線は、黙り込んだままのユースに向く。目を向けられても考え込んだ頭をまとめきれないユースの胸中も、エルアーティはきっと読み取れているだろう。
「あなたはどう思う?」
「…………わかりません」
率直な想いだ。チータの言うことはわかる。エルアーティが善人に見えないことも、己の心が勝手に作り出した人物像だ。客観的に見れば、エルアーティは人類にとって、大きな前進をもたらしてくれる人物なのかもしれない。
だけど、自分の心に嘘はつけない。答えが見えない中、ユースは素直な言葉を返すことしか出来ない。たとえ白黒はっきりつけた答えを相手が求めていたとしても、答えの出せないことに針を振り切った回答を返すようなことは、ユースには出来ないことである。
「その目、ベルによく似ているわ。嘘偽りない迷いを隠そうとしない純真な姿、本当にそっくりよ」
真昼頃には意地悪な目でユースをからかっていたエルアーティが、満足げな目でユースを眺める目は、あまりにもユースにとっては意外なものだった。ほうと息をついて、二人に背を向けたエルアーティの行動は、自らの表情に表れかけた感情を隠すためのものだろうか。
「私はもう、弟子を取る趣味はないのだけどね。あなた達を見ていると、かつての弟子とよく似てて、なんとなくお節介をかきたくなるのよ」
今のエルアーティの目には何が映っているのだろう。背中越しでは見えない大魔法使いの眼差しは、回り込んで覗き込みたいほどに、きっと口以上に胸の内を語っている。だが、エルアーティの見据える遥か前方から、馬車を引く御者の姿が見えてきたことで、二人の意識は一瞬そちらに奪われる。
その思考のノイズを一瞬で取り払うのは、再び振り返ったエルアーティの仕草。いつもどおりの無感情な瞳だが、次の言葉を用意しているであろうその行動に、二人の目線はエルアーティに引き寄せられる。
「近衛騎士ドミトリー、勇騎士ベルセリウス、魔法剣士ジャービル、凪の賢者ルーネ、魔導帝国皇帝ドラージュ、魔法都市アカデミー学長ウィル。数々の偉人がかつての時代を支え、危機を乗り越え、今をもたらし、年老いた今も人類の歴史を支えている。彼らは立つ足がある限り、あなた達の手を引き、大きな支えとなってくれるでしょう。だけど彼ら彼女らにも、手を引かれるだけの歴史の脇役であった過去がある。想像には難くないことのはず」
勇騎士ベルセリウスなどが最たる例だが、彼も巨人ウルリクルミという魔王軍の重鎮を討伐し、聖騎士の称号を得るまでは、いち法騎士という歴史に埋もれていくだけの人物であった。法騎士という階級は誉れ高いものだが、ただそれだけで歴史に深く名を刻むことはないだろう。今やベルセリウスの名を誰もが知っているのは、彼が魔王マーディスを討伐した勇者達に名を連ねているからだ。
歴史の主役となった偉人にも、人知れずいち兵卒として戦っていただけの非力だった過去がある。名の知れた今だからこそ、偉人の若い頃は美談として語られることはあるが、それは後付けに過ぎない。
「獄獣は、黒騎士は、百獣皇は未だに生存している。魔将軍エルドルは復活した。皇国ラエルカンは再び滅んだ。魔王マーディスの復活も、決して無いこととは言い切れない。魔王マーディスの討伐の際、有力であった勇騎士や聖騎士、大魔法使いの数々も世を去った現在。かつての勇者も年老いた。かつてよりも絶望の近い現在、人類に光をもたらすのは誰の役目?」
答えを真っ直ぐに言わないのも、知識人の性。あるいは長い前置きを置いた後、締め括りに結論を述べるのも、論文を書く学者に多く見られる癖である。
「今の時代の主役は若きあなた達。"前進"を忘れず立ち向かう勇気を常に持ちなさい」
近付いてきた馬車の音に振り返り、頭を垂れる御者に小さくうなずくエルアーティ。リリューの砦跡を去る足に乗り込むエルアーティと、それに続くユースとチータ。薄暗い馬車の中で会話はなく、懐から取り出した小さな愛読書を、光る手で照らして読み始めるエルアーティは、この日これ以上の口を開くことは一切なかった。
蘇生魔法の解明という任務に、若きユースとチータが名指しで呼ばれた理由。それはきっと、明確に答えを導き出せるようなものではなく、エルアーティの個人的な事情と気まぐれがもたらしたものであったのかもしれない。揺れる馬車の中、心身共に疲れ果てながらも理由を追い求めるユースも、容易に答えを導き出せる気はしなかった。
今日の巡り合わせにいかなる意味を見出すか。すべてはユースと、チータ自身の心が定めることだ。それにこそ意味があるという真理は、数式のように一定の解を導き出してはくれない。
だからこそ、意味がある。




