第134話 ~闇は終わらず今より始まる~
「――そういえばアーヴェル様。アズネオンの姿が見当たりませんが」
「ああ、アレはアルム廃坑に置いてきたニャ。元々厄介者だったけど、そろそろこっちの陣営にも被害及ぼしそうだったし、騎士団の連中にぶつけて始末して貰うのが効率的だからニャ」
ひと仕事終え、ごろ寝してあくびをする百獣皇に、側近の魔物が語りかけた。頭をかりかりかきながらむにゃむにゃと返答する百獣皇だが、態度から察するに機嫌は悪くない。
「サイデルと同じ、ということですか……」
「んニャ? そういやノエルにゃ、この話してなかったっけ? アズネオンのこと」
「はい。特に詮索する機会もありませんでしたので」
巨体に筋骨隆々、獅子の頭を持つ獣人の魔物は、ノエルという名を百獣皇に与えられた魔物の将。法騎士や聖騎士のような上層騎士を葬った過去を持つこの怪物は、百獣皇アーヴェルの有力な配下であり、人類にとっても魔王マーディスの遺産に次いで、討伐を急ぎたい魔物達の一角だ。
よっこらせ、と体を起こし、あぐらをかく姿勢で獣人ノエルに向き合う百獣皇。座り込んだ小さな体は、巨大な魔物ノエルの膝元ぐらいまでしか頭の高さがなく、見上げても随分遠い場所にノエルの顔がある。百獣皇が首を大きく上げないと、顔を向き合えない状況に気を遣うノエルは、自分自身がその場にあぐらをかき、自らの方へと百獣皇の体を持ち上げて置きにいく。
「アズネオンは元々、昔ラエルカンを攻め落とした時に持ち帰った、人間どもの遺産から作った魔物ニャ。お前も"渦巻く血潮"の話は聞いたことがあるだろ?」
「ええ、アジダハーカ様もそうであると聞いています」
「人間に魔物の血を流して、心身ともに強化する技術、人間にしちゃあ見事なもんだったニャ。さらにはあいつら、生まれる前の赤ん坊に魔物の血を流し、成長とともにその血を体に馴染ませるっつー試みもやってたみてえなんだよニャ」
その発想力は嫌いじゃねえけどニャ、と言って、くすくす笑う百獣皇の話を、ノエルは黙って聞いている。この手の話をする時、黒騎士ウルアグワあたりなら、人間の非道に皮肉を言って悪辣な笑みを浮かべるものだが、百獣皇アーヴェルの笑い方は無邪気なものである。単に人間達の探究心を賞賛する悪意ない笑みであると同時に、人間達が為したことを倫理的に咎める想いも一切抱かないその表情は、心ある生物が本来持つ倫理観を持ち合わせない、無垢な悪意を彷彿とさせるものだ。
「ラエルカンから持ち帰った、渦巻く血潮を受けた胎児の入ったカプセルを頂いて、なんぼか魔物を作ったんだけどニャ。その唯一の成功例がアジダハーカで、他は軒並み上手くいかんかったニャ。アズネオンは、半分成功半分失敗ってとこニャ。生きたまま生まれたって意味じゃ、アジダハーカと並んで二つだけの成功例だけどニャ」
「半分失敗、とは?」
「あいつは心が成長しなかったニャ。生まれた時からあのカタチで、時が経つにつれて育つのは大きさのみ。育たぬ精神に対しては、肉体も育たない、という意味では、霊魂と精神、肉体の関連性に近い何かを感じられて面白かったけどニャ」
好奇心の末に学んできたことを語らう百獣皇は饒舌で、経験則を披露することを楽しんでいる様子。学んだ知識を語りたがる、人間の学者によく似た態度だ。
「望まぬ生まれ方、形、異形の姿にて魔物の同胞にも受け入れられない日々。アズネオンは世界の全てを恨み、人も魔物も動物も、すべての命を憎む魔物へと育っていったニャ。人間も動物も親の愛を受けて育つという話を、昔ラエルカンを支配した時に読んだ書物で見たけど、あれって案外間違ってはいないのかもしれんニャ」
人としての生を受けるはずの赤ん坊が、魔物の血を流され、その後生まれる前に魔物の手に渡り、魔物達の技術によって生まれた存在。それがアズネオンだ。百獣皇アーヴェルの見解では、アズネオンは人間でもあり魔物でもある存在であり、今の話はそれを前提において語られている。
「結果としてアズネオンの精神は、ひとつの魔法に辿り着く。憎む対象の精神に干渉し、対象者の記憶の奥底から、"自分を憎んで死んでいったと深層心理で思っている存在"を想起させる。そしてそれを、自らの魔力でこの世に顕現し、手駒として使う魔法ニャ。某はアズネオンのその魔法を、"憎悪の連鎖"と名付けていたけどニャ」
魔法とは、魔力とは、術者の精神の在りように強く依存するものだ。生きとし生けるもののすべてを憎むアズネオンが、他者の心の奥底に封じた、憎まれた過去を掘り起こし、まるで悪夢のように目の前に呼び起こす魔法に辿り着いたのは、魔法学の理論において極めて自然なことでもある。
「要するに、強敵を葬ってきた者にこそ厄介な術だからニャ。配下のザコどもも、曲がりなりにも騎士達を殺した経験を積んできてる頃合い、あんまりアレを放置し過ぎてもマズいんだニャ。だから騎士団と潰し合いさせるのが一番だと思ってニャ」
「なるほど、効率的ですね」
そうだろ? とノエルの頭をぽんぽんと叩いて笑うアーヴェル。その目には、そんな生まれを経てなお、捨て駒として騎士団の前に差し出され、今頃命を失っているであろうアズネオンに対する情など、全く含まれていない。救い無き生涯の末、誰からも愛されず、ただ生を望む目を浮かべて人間達に命を乞うたアズネオンのことなど、仮に知れても百獣皇にはどうでもいいことである。
ひととおりの抗議を終えて、アーヴェルはノエルの肩の上で立ち、コウモリのような翼を開いて体を浮かせる。休んで、遊んで、本来働きたがらないアーヴェルも、今は次の仕事に向けて機嫌よく動き出せる精神状態のようだ。
「んじゃまー、お前はゆっくりしてろニャ。ウルアグワは魂いじりで遊んでるようだし、某が動かんと"あの単細胞"も暴れるのをやめねーニャ。そろそろ止めてやらんと、後々に響くからニャ」
「よろしくお願いします。"あの方"を止められるのは、アーヴェル様とウルアグワ様しかいませんので」
「ウルアグワなんかアテにすんニャ。あいつはホント、今の目的の達成に対してしか興味ねーからニャ」
たちの悪い黒騎士の名を思い出し、少し機嫌が悪くなってしまったようだが、アーヴェルは吐き捨てるだけにして空を飛んでいく。愚痴に付き合わされる形を免れたノエルとしては、やれやれと思いながらも軽くほっとした表情だ。
自分自身の仕事も終えたノエルとしても、何もすることがないのでごろりとその場に寝転がる。5階建ての建物の屋上であるこの場所からは、景色が広く見渡せて、随所から昇り立つ黒い煙と火の粉がよく見える。
「いい眺めだ」
右半身を下にして、肘をついた手に頭を置いて、燃え盛る光景を満喫するノエル。ひと仕事完遂した後、その結果を物語る光景というのはいいものだ、と、魔物の将は満足げに笑うのだった。
"凍てついた風"の名で人類に知られる、黒騎士ウルアグワの飼い猫、カティロス。彼女の目の前で、暴れ足りぬとばかりに腕と足を振るい、建物を破壊する魔物の親玉は、後ろ姿を見ただけで、これが敵でなく味方であることを、心強いと思わずいられないものだ。
かつて騎士団に身を置き、何度も何度も討伐すべき対象として名を知らされてきた存在。自分が黒騎士ウルアグワの配下として生まれ変わったしばらく後、この存在は騎士団によって討伐されたと聞いていたが、今再びこの世に顕現し、今度は自分にとって味方の陣営にいる。数奇な巡り合わせに対しては、無感情の仮面の奥底で、カティロスも不可思議な想いに駆られるものだ。
火の手が上がる街の中、とうに廃墟となった都を力任せに破壊する、目の前の怪物の姿からは、人類に対する凄まじい憎しみを感じ取れる。ふと目に付いた、すでに事切れた戦士の亡骸を見つけると、思いっきり振り上げた足で、地面が抉れるほど踏みつけてその死体をぐしゃぐしゃにするのだ。
「こらぁ! もうやめニャ!」
遠方の空から聞こえる、もう一体の魔物の親玉。百獣皇アーヴェルの高い声は、魔物達の中では極めて珍しいものであり、その声と語尾だけで、誰の声なのかすぐにわかる。
カティロスの少し前、目の前で暴れる怪物のすぐ後ろに降り立つアーヴェルは、堂々と巨体の怪物に歩み寄る。体格差は歴然で、あの怪物がアーヴェルを蹴飛ばそうものなら、一瞬で百獣皇の首が飛びそうなものだというのにだ。怪物に、味方ながら声をかけることすら恐ろしかったカティロスにとって、やはり百獣皇は見た目に反し、魔王マーディスの遺産の一角なのだと実感する瞬間である。
「あのなあ、エルドル。今のお前は肉体はともかく、霊魂が不安定なんニャ。魔力の抽出を控えてるだけでも自制してるのはわかるが、精神を昂ぶらせて肉体を酷使すんのは勧めんって何度も言ってるニャ」
「……抑えきれぬ。人間どもがのうのうと生きてきたこの里を、粉々にしたくて仕方ない」
振り返って低い声を放つ、山羊の頭を持つ大悪魔を彷彿とさせる魔物。かつて聖騎士ナトームや法騎士ダイアンを筆頭とする騎士達が、死闘の末に討伐したはずの存在は、憎しみに満ちた真っ赤な瞳をぎらぎらと光らせ、ここにいる。燃え盛り、すでに生存者など残らないこの街にいる中で、なおも破壊に次ぐ破壊を繰り返し、それでもまだ怒りを鎮められないという眼差しだ。
かつて生前であった頃のエルドルの性格を、長い付き合いで知っているアーヴェルは、予想されていた反応にはぁと溜め息をつく。魔王マーディスによく似て、自分の思い通りに事が運ばない時こそ、その激情を抑えきれなくなる性分は、過去にも面倒を焼かされたものだ。今もエルドルの前で、呆れたような溜め息をつく態度を見せたアーヴェルだが、これがアーヴェルでなければエルドルの逆鱗に触れ、即座に殺意がこちらに向いていたはず。それだけ魔将軍エルドルは、気難しい化け物だった。
「ウルアグワにも言ってあるから、人間の死体はある程度残しておいてやってるニャ。八つ当たりの案山子代わりにはなるだろうから、好きなだけ遊んでこいニャ。死骸は某やウルアグワが再利用したいから、焼き尽くさん程度にやってくれりゃ嬉しいけどニャ」
鼻息荒く、アーヴェルを睨みつけるエルドルの姿は、その視線を受けたわけでもないカティロスも緊張感を得るものだ。だが、やがて荒い息をおさめ始めたかと思うと、エルドルが熱気に満ちた鼻息を煙のように大きく噴き出す。ゆっくりとアーヴェルに近付くエルドルだが、巨大な怪物が赤い目のまま近付いてきても、百獣皇は肩の力を抜いて待つのみだ。
「……この世に顕現させて貰った礼だ。ある程度の要求は聞こう」
「気晴らしに好き放題やれニャ。100体ぐらいなら、消し炭にしても文句言わねーニャ。お前も鬱憤は溜まってるだろうからニャ」
「……もう少し譲れんか。纏めて焼き払うには物足りん数だ」
「ニャろう……んじゃ、500でどうニャ。それ以上は譲れねーぞ」
「結構だ」
頭をがりがりとかいて、面倒くせえ奴だと顔に表すアーヴェルの前、わずかに機嫌が直ったように口の端を上げるエルドル。釣り合わぬ両者の風体の間で、こんな会話が繰り返される光景には、傍観者のカティロスも口を挟める余地がない。
「それ以外の死骸も、焼かない上では好きにしても構わんけどニャ。あんまり原型とどめないほどに、くっちゃくちゃにするのは自粛してくれニャ。臓器ひとつありゃあ実験素材には使えるけど、それ以外に使い道がなくなっちまうからよ」
「善処しよう。ある程度は、手もつけずに置いておくぐらいの配慮もする」
「今、配下の奴らを使って城に死骸を集めてるニャ。半日すりゃあ纏まった数も集まるだろうから、それを楽しみに今はその辺の死骸でも食っておけニャ」
「そうか。それは実に楽しみだ」
明確に、くくっと邪悪な笑い声を小さく漏らして、魔将軍エルドルは歩いていく。近場に見つけた人間の死体をひょいっと拾い上げ、頭をまるかじりにする横顔は、エルドルを近くに見ることは今日が初めてのカティロスも、恐ろしい魔物に対する戦慄の感情を思い出す。
大きな足音と共に去っていくエルドルを見送って、またも深い溜め息を漏らすアーヴェル。つくづく魔王マーディスの遺産に名を連ねる奴らは気難しい連中だと、自分のことを棚に上げて憂いる表情だ。振り返ってカティロスと向き合うその顔も、疲れたニャという態度を隠さない。
「お前さんも災難だったニャー。あれの目付け役っつーても、声もかけられやしねーだろ」
「……そうですね」
「もっともエルドルも、マーディスよりは話通じただけマシなんだけどニャ」
けらけらと笑う百獣皇の声が、燃え盛る街の真ん中でよく響く。人類の生存者なく、魔物達が大手を振って闊歩する街の中、無邪気に高い声は、まるで悪魔の高笑いのように空へと昇っていった。
アルム廃坑進軍師団、生存者の全集結が完遂されたと判断できたのは、日暮れの時間を過ぎてからのことだった。集合地と決めてあった廃坑の離れ、荒れ地に集った連隊3つは、ある程度距離があるものの、広い目線で言えば一箇所に集まったとも言える状況だ。
廃坑突入時と比べ、各旅団の生存者のなんと少ないことか。衛生班の元で応急処置を必要とされる者の数も相当なもので、充分な頭数を揃えられた衛生班でさえも大忙しである。旅団の指揮官、勇騎士と近衛騎士の元に生存者、死亡者の数が伝えられるが、指揮官数十年の騎士達でも難色を顔に隠せないほどの報告ばかりで、いかにこの任務が壮烈なものだったのかが数字に現れている。
小隊あるいは中隊まるごと全滅した隊もあるし、小さな隊の指揮官自身の口からではなく、その死体を発見した者によって報告を為された隊もある。かつての魔王マーディスの軍勢と戦い続けた、老練の指揮官達には覚悟の上のことであったが、かの時代を知らない若い騎士にとってこの戦死者の数は、聞いただけで吐き気すらこみ上げてきそうなほど嫌な気分になるものだ。特に、敬愛していた指揮官を失った少騎士や騎士の中には、既に涙を堪えられない者や、茫然自失といった表情の者もいる。
そんな中で自分自身が生存できただけでも幸運だったと、ささやかな救いを今素直に受けられるほど、尊敬する人物、あるいは可愛かった後輩、あるいは親しかった友人を失った騎士達の心は、背筋を伸ばして立っていられない。言葉に表さなくとも、悲痛な魂の叫びが蔓延する、撤退陣営を包む込む暗い空気は、決して夜闇のせいなどではない。
「――撤退しよう。最後まで、気を抜かないように」
金鉱区進軍旅団の指揮官、勇騎士ベルセリウスの言葉と共に、撤退の動きが始まる。恐らくは同じ頃、武鉱区進軍旅団の指揮官ハンフリーも、銀鉱区進軍旅団の指揮官ドミトリーも、同じような旨を述べて撤退の動きをとっているだろう。夜明けから休みなく死闘に明け暮れ、この危険地帯からコズニック山脈の外まで帰るだけでも、骨の折れる話である。そんな折に、思わぬ追い討ちの襲撃を受けてはたまったものではない。最後まで気の抜けない任務である。
幸いにも、第14小隊の中から死者もなく、もっと言えば重傷者もない形で終えられたことには、シリカならびに他の5人もほっとする想いだった。あの後ベルセリウスと合流したシリカとユースは、そこに合流する形で廃坑内をしばらく歩いていた。その後、ガンマとアルミナ、キャルを聖騎士グラファスのもとへ預けたマグニスとチータが、廃坑内にてシリカ達を探し当てて合流し、その後地上に生還した形だ。下手をすればすれ違うかもしれなかったシチュエーションだったが、それでも廃坑内部という危険地帯に踏み込んで、自分たちを探しにきてくれたマグニスとチータには、シリカもユースも頭が下がる想いだった。
地上に生還したシリカ達と再会した時、キャルがシリカの胸に顔をうずめ、シリカがキャルの頭を撫でる光景はいつもどおり。この日はアルミナも、不安だった想いから親友の生還には我慢できず、ユースの前に駆け寄るや否や、言葉見つからずおかえりの言葉を重く伝えてくれたものだ。キャルのように涙を顔に表すような彼女ではなかったが、揺らめく瞳からは、本当に心配してくれていた想いがユースにもよく伝わった。再びこのアルミナの前に生還し、顔を合わせられた幸福に、ユースの方こそ涙腺が緩みそうになったのは、彼の胸のうちだけにしまわれた秘密だ。
ベルセリウスに同行していた法騎士タムサートやプロンも、第19大隊の仲間達と顔を合わせ、生還を喜び合う光景が見られたものである。だが、第14小隊にも言えることだが、それを大きな声で祝う者は一人もいなかった。なぜならすぐそばに、同僚や友人を失ったばかりの騎士や傭兵が、数え切れないほどいるのが明らかだったから。それら差し置き、自分達の幸運を大仰な声で唱えられる戦士など、そうそういるものではない。明日は我が身だと、誰もがわかっている。
撤退の中、沈黙の師団の姿はごく自然なものだ。進軍中でも、戦闘中でなければ、性格によっては空気を柔らかくするような言葉を同僚と交換する者もいる。今ここにおいては、陽気なマグニスも正しく空気を読み取って、黙って歩き煙草を繰り返すのみだ。
「……ねえ、シリカさん」
周りの空気に触れない程度、アルミナが小さな声でシリカに語りかける。こんな状況下でこそ、予断なく視野を広げて真剣な表情のシリカだが、儚げなアルミナの声に対しては、少し顔の力を緩めて振り返ってくれた。
「黒騎士ウルアグワは、ここにはいなかったんですか?」
「……ああ。ベルセリウス様が言うには、黒騎士はそういった性格らしい」
イビルスネイルやヴァルチャーを媒介に、クロリィという寄生獣をアルム廃坑に置き去りにした黒騎士ウルアグワは、それだけ策を敷けばとっとと主戦場を去るような存在だ。廃坑全域に張った罠がどの程度人間を苦しめたか、安全な場所で想像するだけで愉悦に浸れるその思想は、まさしく劣悪非道の代名詞と言われる、黒騎士ウルアグワのイメージと一致する。
元より黒騎士ウルアグワは、他の魔王マーディスの遺産の中でも、攻撃力には欠ける方であると自認する存在だ。もっともそれは、獄獣や百獣皇、魔将軍の力が卓越し過ぎているせいによる相対的な評価であるが、ともかく黒騎士ウルアグワは矢面に立つことを好まない。聖騎士クロードと互角近い戦いを繰り広げる実力があっても、ウルアグワは自分自身を参謀位置だと正しく判断し、強敵の前に姿を現すことを嫌う。何年も魔王マーディスの遺産と戦ってきたベルセリウスならびに、聖騎士や勇騎士の上層騎士達の間では有名な事実だ。
「実際のところ、黒騎士ウルアグワや百獣皇アーヴェルの目撃情報はなかった。簡易に他の旅団とも連絡を取り合ったところ、獄獣ディルエラと番犬アジダハーカ、ギガントスのゼルザールの存在は確認できたそうだが、それだけだ」
「……そうですか」
魔王マーディスの遺産達のすぐ下にも、獣魔メラノスやゼルザールのような、人類にも名高く届く魔物はいる。アジダハーカやカティロス、百獣皇アーヴェルの配下ノエルもそれらのうちだが、今回の戦いで、ゼルザールという大駒を落とせたのは、欲張らない限りで大きな成功と言える。魔物達は、重鎮に位置する魔物に限って引き際がしっかりしており、魔王マーディス討伐以来の10年余り、それらの討伐も決して捗っているわけではない。魔将軍エルドル討伐の報がかつて流れた時には、それこそ各国はその話題で持ちきりになった。ゼルザールの討伐も、各国の新聞の見出しに大きく載るような出来事だ。
多数の犠牲者を出しておきながら、敵将討てた数は1体というのは釣り合わぬように思えるが、それだけ事を上手く運ばせてくれない陣営が相手なのだ。若いアルミナでさえもその事実を受け止めて、今回の遠征は成功だったと頭では理解できるほど、魔王軍残党達の厄介さはあまりに有名だった。
「だったら、黒騎士や百獣皇は……?」
「……わからない。私達が王都を離れ、アルム廃坑に赴いている間、どこかで妙なことをしていなければいいんだが」
隠さず、今の不安を口にするシリカ。多数の騎士が遠征に赴いている時、魔物達の将は本拠地を離れ何をしているのか。エレム王都は遠征部隊などよりも強固な守りにて守られているから、仮にこの隙に王都を攻め入られていても大丈夫、だとは思う。逆の意味で信頼できるのだが、魔王マーディスの遺産はそんな無茶な突撃をするような陣営ではない。百歩譲ってそれをやるにせよ、獄獣という最強のカードを捨ててまでやることではないはずだ。
「すまない、あまり不安そうな顔をするな。王都は大丈夫だよ。絶対にな」
シリカの言葉で、まさかを思い描いたアルミナに対し、シリカは極めて柔らかい表情を作ってそう言った。敢えてそうした表情を作ったのは、今の言葉が気休めのものではなく、自分の信じる王都はそんな結末を迎えるような所ではないと、絶対的に信頼する想いを伝えるためだ。
エレム王国は騎士団によって守られている。アルミナの信じるシリカが強く信じる騎士団のことを、その表情を受けて迷わずアルミナも信じられる。少し砕けた表情で、小さくうなずいてくれるアルミナの姿は、シリカにとってもほっと出来るものだ。アルミナにとってシリカは安心して背中を追える人だが、シリカもこうした瞬間には武人の仮面をはずしかけ、愛せる後輩に恵まれた幸せを感じてしまう。
決して明るくない、夜の撤退帰路。それでもやはり、大切な人と生を分かち合える幸福を見落としてはいけない。それがあるからこそ、誰かを守るために戦う今後の日々に向け、戦人は歩いていけるのだから。
言葉を失い自室で思索を巡らせる法騎士ダイアンのもと、勢いよく、乱暴に扉を開いて足を踏み入れた者がいる。考えることで頭がいっぱいだったダイアンも、思わず驚いたように顔を上げ、つかつかと自分の元へ歩み寄る上司に目を瞠る。
「……ナトーム様」
「その顔は、もう報を受けたという顔だな」
かつて戦人であった時の顔を彷彿とさせるほど、厳しい表情の聖騎士ナトーム。少騎士あたりがこれと向き合えば、言葉を失って硬直してしまうことも間違いないほどの剣幕だが、法騎士ダイアンはその顔が意味するところを知っている。彼も同じく、現状に対して表情を強張らせ、小さくうなずくのみ。
「どこまで聞いている」
「……ラエルカンが落とされ、魔将軍エルドルが復活している、という所まで」
20年以上前に魔王マーディスに攻め滅ぼされ、10年以上の時を魔王の居城とされた旧皇国。やがて魔王マーディスの討伐によってその地は奪還され、11年の時を経て復興し始めていた新しい皇国ラエルカンは、数十年先にはかつての盛栄を取り戻すだろうと言われていた国だった。
それが今この時代、再び魔王マーディスの遺産によって攻め滅ぼされた。その報を受け取った二人の騎士団参謀は、激動の時代の再開を予感し、その表情を緩めることが出来ない。
そして、ダイアンのもとへ届けられた速報には伝えられなかった事実がある。ラエルカン地方の各所より寄せられた情報は少々の差異を持ち、伝わり方も受け取らせる相手によって様々だ。何にも優先して届けられる、皇国ラエルカン滅亡の報の裏、伝えた側も認識しきれなかった情報だってある。ダイアンの元に直接届いた報には、決定的な情報が欠けていた。
「最新の情報だ。大魔導士アルケミス様も殺された。百獣皇アーヴェルだ」
その衝撃度たるや、もはや言葉では言い表せない。息をするのも忘れて、驚愕の表情が自ずと現れたダイアンと同じく、ナトームもこの報を受けた時には言葉を失ったものだ。
かつて魔王マーディスを討伐した勇者の一人。絶大なる魔力と無比の魔法を一手に扱う、人類最強の魔導士と名高かった英雄だ。魔導帝国ルオスにおいて、皇帝さえも一目置くその存在が、ラエルカンを守るために戦い、敗れてその命を散らしたという確かな知らせには、口にしたばかりのナトームでさえも僅かな時間、沈黙を作ってしまう。
「今すぐ参謀会議だ。足は重いだろうが、すぐに来い」
「……はい!」
騎士団参謀格の集う会議室へ向かうナトームと、古傷を持つ脚ながら早足で後を追うダイアン。付き合いの長い二人だけに、ナトームならば本来、脚に無茶を言わせるダイアンに対して少なからず気遣う言葉を向けるものだが、今ここにおいて伝えるべきは、それではない。
「……闇の時代が再び始まるぞ」
「心得ています……!」
彼らはよく知る、魔王マーディス存命だった暗黒時代。巨悪を討ち、一度滅ぼされた皇国の復興を以って、再び4つの国家が輪を繋いだ時、そんな時代は終わりを告げたはずだった。魔王マーディスの遺産を追うという大儀を背負う一方でも、魔王を討ったのち、仮初めでも平穏が各国に溢れた10年余りの日々は、かつてを知る二人にとっては、充分に何にも代えがたく貴いものだったのに。
和順に満ちた時代の終わり。人類の歴史は、この日より大きく動き出す。




