第130話 ~アルム廃坑⑦ 全滅の足音~
「アズネオンは、獲物と見定めた相手の精神にまで響く魔力を展開し、亡霊を召喚する。その対象の記憶の底まで潜り込み、"その相手を恨んでいる魂"をこの世に蘇らせる力を持っている」
獄獣ディルエラの口から語られる、アルム廃坑の外に放たれた邪悪なる存在の全容。静かにそれを聞くシリカやユースにとっても、そんな魔物がいることなど初めて知ることだ。
「アズネオンもサイデルと同じで、誰彼構わず絡む奴だったからな。俺にその術をかけてきた時は、正直骨が折れたもんだ」
ディルエラは長い戦いの中で、無数の強者を葬ってきている。積み重ねてきた勝利の歴史が、かつての強敵が目の前に蘇るその術には、ディルエラも冷や汗をかいたものである。強き者ほど苦しい戦いを強いられるアズネオンの力は、敵対陣営の何者にぶつけてもその力を発揮する、恐ろしい術であると言えるだろう。
もしもそのアズネオンという存在が、マグニスと遭遇したら――そう考えた瞬間、思わず頭を振ってまで、シリカはその想定を頭から追い出す。マグニスが討伐した魔物の中には、魔将軍エルドルだって含まれているのだ。あれが再びこの世に顕現させられたらと思うと、そんなこと想像したくもない。
「まあ、厳密にはアーヴェルいわく、"アズネオンの魔力を受けた者は、自分を恨んでいると思っている魂を呼び起こしてしまう"そうだがな。ま、大差はあるまい」
歩き続けるディルエラだが、徐々に歩みがゆっくりになってきた。その行動の変化が意味する所は、追従するシリカ達にも想像がつく。
「それより、そろそろ準備しとけよ。サイデルはすぐそこに――」
言いかけたディルエラの正面から、飛来する犬の頭蓋骨。がばりと口を空けたその骨が弾丸のように自分の鼻先に突進してくるのを、ディルエラは指で弾いて吹き飛ばした。
規格外の指のパワーだけで、その頭蓋骨は岩壁に弾き飛ばされて粉々になる。獄獣ディルエラの攻撃は、すべてが人間にとっては一撃必殺だとよく言われたものだが、それを指一本で証明するその後ろ姿には、シリカもユースも息を呑む。
「いるからよ」
やがて目の前に広がる、大きな空間。アルム廃坑金鉱区、第7発掘場と呼ばれていたその場所は、広大な空間に高い天井、所々に作られた階段代わりの坂道が、岩壁高所さまざまに開けられた坑道への横穴へ、道を作っている。地面の広さだけで言っても、詰め込めば人が三千人は入れそうな大きさだ。
そしてディルエラが真っ直ぐ見据える先に、それはいた。人間の頭蓋骨を頭の位置に構え、極太の長い背骨から生える無数の肋骨、節のある骨の腕の先に輝く鎌。巨大な体躯は獄獣よりも大きく、さらに自らの周りに、ふよふよと浮かぶ無数の頭蓋骨。獄獣の隣に並び、今日再びこの魔物と合間見えるシリカとユースだが、その怪物的な外見に加え、少し前に経験したこの怪物の高い実力の記憶が、二人の胸を締め付けるような緊張感を生み出す。
「先に言っておくぞ。サイデルを殺すには、奴の操る全ての頭蓋骨を粉砕しなきゃならねえ。すべての頭蓋骨がサイデルの本体であり、ひとつでも残せばそこが発生させる魔力から、他の頭蓋骨も次々に復活しちまうからな」
上空高くに漂っている頭蓋骨も含めれば、百では利かない無数の頭蓋骨。これらをすべて同時に破壊された状態に持っていくことが、あの怪物を死滅させる唯一の手段だとディルエラは言う。果たしてそんな事が出来るのだろうかと、シリカもユースも不安を隠せない。
「奴の体は俺が抑えておいてやる。お前らは、自分に向かってくる頭蓋骨どもをぶっ壊せ」
背中に背負った巨大な両刃の大斧を握ったディルエラは、その巨体に加わった斧のシルエットによりとてつもない威圧感だ。ずしりとした足を踏み出し、サイデルに近付いていく恐れ知らずの後ろ姿は、騎士としてあるまじき思想だが、あまりにも頼もしい。
直後、自らに迫り来る獄獣に対し、大口を開けたサイデルの頭が魔力を集める。直後その口から放たれる巨大な炎は、ディルエラの巨体をも呑み込みそうなほどのものだった。
「爆閃弾」
自らに襲い掛かる炎を、魔力を凝縮させた右の掌で殴りつけるように手を突き出すディルエラ。炎とディルエラの手の魔力がぶつかったその瞬間、後ろに立つシリカ達の体にまで衝撃を届けるような、凄まじい大爆発がディルエラの掌を爆心地に発生する。音のよく響く採掘場において、その爆発が起こした轟音は、騎士二人の鼓膜を貫いたかと思えるほどのものだ。
サイデルの炎を吹き飛ばしたディルエラは、はっと笑ってサイデルを見据えている。向かう所敵なしの怪物同士の邂逅は、発掘場全体の空気にまで響き、両者の殺意だけで岩壁を震わせるかのようだ。
「さあ始めようか! 殺し合いだ!」
ディルエラがサイデルへと突進する後方、上空に漂っていた無数の頭蓋骨がシリカ達に襲い掛かる。剣を構えた二人の騎士は、無言のままにして背中を合わせ、死闘の始まりに目を切り替えた。
アルム廃坑銀鉱区の山岳を進軍していた第26中隊は、まさしく壊滅寸前といえる状況だった。道中で討伐してきたヴァルチャーやコカトリス、その返り血を浴びた者の数名は衛生班の所まで撤退を余儀なくされ、それだけで兵の数は60名ほどまで減少。さらにはその後の交戦の数々で、命を散らした騎士達の過去から、今やはじめ100名近かったこの中隊も、頭数を30名近くまで減らしていた。
敵対する魔物達は、この中隊に属する騎士達にとって、決して討伐不可能とされるものではない。指揮官である法騎士カリウスをはじめ、騎士階級ながらこの隊の尖兵を務めるアイゼンや、以前ユースに教えを請うた少騎士バルトも、可能な限りで立ち回って結果を出している。個人技量としては頼りないバルトとて、周囲の射手や戦士と力を合わせれば、ガーゴイルの一匹を討伐できるだけの腕前がある。
「ここまでだ……!」
ミノタウロスの上位種、ビーストロードの首を二本の騎士剣で両断した法騎士カリウスの力量は、疲弊した兵達にとって最後の希望の綱とも言えるものだ。兵力の減少から、半ば撤退の方向に動いていた彼らを執拗に追い掛け回す魔物達が、次々と襲い掛かってくるこの状況、強い指揮官の存在は何よりも頼もしい。
あと少しで衛生班の所まで辿り着く。そんな想いを胸に、追撃してくる魔物達を撃退する第26中隊。だが、前方の上り坂に差し迫ったその時、正面遠方から自分達を見下ろしている二匹のヒルギガースの存在が、第26中隊の疲れた心をへし折りにかかってくる。
「気を抜くなよ! ヒルギガースは……」
「地震魔法」
突如、遥か遠方から、第26中隊の立つ地面に着弾する光球。その瞬間、家屋ならば家具もあっさりと傾くような地面の揺れが発生し、突然の出来事に騎士達が足を取られる。
思わず膝をついたカリウス目がけ放たれる、ヒルギガースの鉄分銅の弾丸。正しい姿勢ならば剣でそれをはじき返す力量を持つカリウスも、咄嗟に横っ飛びで回避するしかない。しかしもう一匹のヒルギガースが投げた分銅は、カリウスの近くにいて足を捉えた高騎士を捉え、その頭を一撃で粉々に粉砕した。
目の前で、法騎士様の側近だった高騎士が絶命したことは、後方の騎士達の闘争心を大いに削ぐもの。彼に数多くの師事を受けたアイゼンもこの出来事には瞳を濁らせ、悪化する状況に経験の浅いバルトは恐慌の表情を隠せない。
長く続く揺れに立ち上がることも出来ない騎士達に、上空からガーゴイルが火球を放ち、その身を焼き尽くしてくる。最前列の騎士達を、次々とヒルギガースが分銅で撃ち抜こうとする。ある者は攻撃を回避し、ある者は為すすべなく分銅や炎をその身に受け、絶命する。抗おうにも、突如起こって尾を引くこの地面の揺れが、反撃どころか体勢を立て直すことさえ許さない。
全滅の二文字。騎士団の中でも優秀な隊と知られて長かった第26中隊が、初めてその言葉を切なる意味で意識した日だった。
「さて、次の獲物を探しに行くか」
山の高台から遠方の第26中隊を見下ろす魔物。トロルの上位種スプリガン、その更に上位種ギガントスの名を種族名に持つその魔物は、ゼルザールの名を魔王軍に賜った魔物の将である。その手に宿る、地を揺らす魔力の強さは、下位種のトロルやスプリガンの比ではなく、向こうからは認識されぬほどの遠方から、遠き地を大きく揺らすほどの力を発揮する。
個人としての力量も圧倒的でありながら、決して自ら激戦区に入ることはせず、援護魔法を下す形で参戦してきたゼルザール。こうして敵に見つかることもなく、ここまでいくつもの隊を壊滅させてきたのだ。空から目を光らせている勇騎士ゲイルとその側近がいることを知ってからは、木陰を駆け、時に坑道内に逃げ込み、騎士達の視界からは姿をくらましている。
直接戦闘になってもそう簡単には討伐できぬ存在ながら、安全圏を確保した立ち回りを好む魔物だからこそ、長年騎士団もゼルザールを討伐すること叶わずにいた。魔王マーディス軍の残党達の、用心深い立ち回りは、何度人類に取り逃がす辛酸を舐め続けさせてきたかわからない。
第26中隊の壊滅を予見したゼルザールは、踵を返して森の中に消えていく。そろそろ人間狩りにも満足してきたし、あとはその身を隠して騎士団の撤退を待つか、などと考えながら走り出す。巨体ながら素早いその動きは、木々の間を抜ければ目立つものだが、どうせ空からの目に見つかったとしても、すぐそばにある坑道入り口に滑り込んでしまえば、敵も追っては来られない。
地理を把握するゼルザールの動きには迷いがない。だが、ふとゼルザールの第六感がぴりっと電気を走らせたその瞬間、思わずゼルザールはその足を止めた。気付けただけでも、その勘の良さは鋭いものだ。
「……引き際を誤ったか」
長年、アルム廃坑で危機から離れた時間を過ごしていた。それによって自らの判断力が詰めの甘さを生じさせていたことに、ゼルザールは舌打ちせずにはいられなかった。
正面から、自分に向かって歩いてくる絶大な闘志。今更背を向けて逃げようとしても、そんな隙を与えれば直後には自らの落命の予感しかしない。獄獣ディルエラの率いる巨人族の将たるゼルザールが、そこまでの想いに駆られるような人間などほんの一握りだ。
「……好き放題してくれたようだな、ゼルザール」
「生憎だが、人間どもを蹂躙するのは我々の性分でね」
木々の間からその姿を見せた、近衛騎士ドミトリーの目は、敵対する魔物に対する怒りで満ちている。廃坑奥地の魔王マーディスの遺産を討つべく、坑内を進撃していたドミトリーだったが、時に坑道さえも襲う揺れに地上の異変を感じ取ったドミトリーは、こうして廃坑外の山岳部へと舞い戻っていた。
隠密に立ち回り、数多くの隊を狙撃してきたゼルザールを突き止め、今ようやく目指す敵を眼前に捉えたドミトリー。あの手によって、いかほどの騎士が窮地に追い込まれ、命を落としてきただろう。想像でしか補えないことだが、それでもドミトリーの胸に燃える炎は収まることを知らない。
「ならば一度は、蹂躙される痛みを思い知ることだな……!」
勢いよく地を蹴ったドミトリーが、自分よりも大きな体躯を持つ魔物めがけてその大剣を振るう。跳躍して上空の木の枝の根元を掴んだゼルザールは、そのまま体を翻し、枝の上に立つ。
逃がさんとばかりに、ゼルザールが立つ木の幹めがけ、その大剣を振りかぶるドミトリー。その大剣が巨木を捕らえたその瞬間、太い幹が一瞬で斜め一閃に切断され、ゼルザールを乗せた木が切断面に沿ってずるりと崩れ落ちる。
「ちっ……!」
急ぎ近くの木の枝根元に飛び移るゼルザールだが、後方から迫るその存在の動きはあまりに素早い。立ち並ぶ木の幹を蹴り、三角跳びを繰り返し、地上高くのゼルザールに迫るドミトリーは、ゼルザールが振り返ったその瞬間には、すでに近く迫ってその大剣を振り上げていた。
自らの立っていた場所ごと勢いよく両断するドミトリーの大剣を、咄嗟に後方に逃れて回避するゼルザール。着地先を選ぶ余裕などとてもなく、地上に降りたゼルザールの正面、だんと地面に着地したドミトリーが、殺気に満ちた眼差しでゼルザールを睨んでいる。
一瞬でも背中を見せればこうなのだ。構えるゼルザールは、魔王マーディスを討伐したと言われる勇者を迎え撃つ覚悟を決め、その瞬間にドミトリーは再び地を蹴って、魔物の将へと差し迫った。
マグニスの振るう長い鞭が、迫り来る魔物達を纏めて薙ぎ払う。ただの鞭ではなく、マグニスの魔力による炎熱を携えたその鞭は、凄まじい高熱とその鋭い速度により、触れた獲物を瞬時に焼き切る力を発揮する。この一振りで、自らに迫る魔物を4匹同時に仕留めたマグニスは、捕えきれなかった小さな体のヘルハウンドが飛び掛ってくる様を、ナイフの一振りであっさりと首を刎ねる。
「きりがねえな……! チータ、あの術者を仕留められねえか!?」
「単発の狙撃では不可能です……!」
ふらふらと不規則に上空を漂うように見えて、アズネオンの視線ははっきりとこっちに向いている。アルミナの銃弾を機敏に回避したことからも、その反応も速度も決して鈍くなどない。空中の敵を狙撃できる手段は幸いにも多いが、地上の魔物達への応戦が精一杯で、二人以上の者がアズネオンに対して意識を傾ける暇がない。
チータの応答は、誰かがアズネオンの体勢を崩し、それを誰かが追撃する形でも作らねば、あの魔物に致命傷は与えられないという示唆。地上がこの有様でなければ、空を駆けるマグニスが直接攻め込んでもいいのだが、それが出来ないから袋小路なのだ。
思索巡らせる間にも、アズネオンの泣き声がさらなる魔物を召喚する。どこまで戦い抜いても敵の増援が尽きる気配はなく、このままでは疲労したガンマが崩れた瞬間、一気に布陣が崩壊する。多数の魔物を相手に応戦するガンマのはたらきは凄まじいが、その中にはオーガやワータイガーのような、凶悪な魔物も含まれていることを忘れてはならない。
「くっ、そ……!」
三つ首のケルベロスがその牙を鳴らしてガンマに連続して噛み付いてくる。回避に徹するガンマは他の魔物への応戦が出来ず、そこをカバーするチータの魔力の消費も激しい。アルミナもキャルも死に物狂いでチータのサポートへ、ガンマのサポートに回っているが、いくら魔物の脳天を撃ち抜いてとどめを刺しても、それに変わって次の魔物が生み出されるため、敵が減らない。身体の疲労より、精神的に追い詰められていく想いだ。
「ガンマ、伏せろ!」
業を煮やしたマグニスが手先に炎を集め、五本の指の間に炎を固めた細い針を4本挟む。直後ガンマが頭を下げた瞬間、それをケルベロス目がけて投げつけたマグニスにより、マグニスの4本の針のうち2本が、ケルベロス正面の顔の両目を射抜いた。
着弾の瞬間に業火を発するその恐ろしき針に、ケルベロスも驚愕と痛みに悶絶する。その隙を突いてガンマの横薙ぎに振るう大斧が、ケルベロスの頭3つを一気に両断したのが直後のことだ。討伐されたケルベロスは霧のように消えていくが、それが消えた後ろから、猪突猛進してくるワータイガーが一匹。
「開門、地点沈下……!」
反応が遅れかけたガンマをフォローするチータの魔法が、ワータイガーの駆ける先の地面に極小のくぼみを作り、その足を嵌める。体勢を崩したワータイガーが顔を上げた瞬間には、状況を把握し直したガンマの大斧が、すでにワータイガーの胸をぶった切っていた。
息を荒げることも珍しいガンマが、チータに礼を言う余裕もないほど疲弊している。当のチータにも一体のジャッカルが飛びかかり、それはアルミナの狙撃によってそれは撃ち落とされるが、その銃弾がなければ、ジャッカルの牙はチータを捕らえていたかもしれない。
互いを支え合ってなんとかぎりぎりで踏みとどまる第14小隊だが、状況は一向に良くならない。打破する何かを掴まなければ、このまま全滅への道を緩やかに下っていくだけだ。
「――アルミナ、キャル! ガンマのそばまで走れ! チータも二人を守る陣取りを作れ!」
もう、守りながらの戦いではこの状況を打破出来ない。アルミナとキャルという白兵戦の出来ない二人を守る役目を、この状況下でガンマやチータに任せることは賭けだが、もはや自分が尖兵となって敵を掃伐するしか生存への道がないと判断した。
「埋火走……!」
駆けながらその手に火球を宿したマグニスが手を振るい、地面深くに向けてその火球を投げつける。火球は地面に着弾するが、次の瞬間その地点から、四方八方に水脈の如く駆け巡る炎。炎の壁のような残影を残して駆ける火柱が、戦場広くを一気に焼き払っていく。アルミナやキャルの位置から、ガンマへ走る道だけには炎もなく、繊細なコントロールが為されているのもうかがえる。
「閃乃火閃……!」
地上の魔物達が次々と焼き払われていく中、上空に残るガーゴイル達に向けて炎の小さな針を放つマグニス。それは着弾した瞬間に対象の着弾点から業火を上げ、魔物の肉体を炎に包み込む。体力のあるガーゴイルがすぐに絶命に至るものではないが、掌大の火球を続けざまに投げることで、とどめを刺す周到さも欠かさない。
跳躍したマグニスの足の裏に宿る、回転する火の玉のような火炎車。空中をそれによって駆けるマグニスは地上付近を滑空し、敵を焼き切る鞭を振るい、火の手に惑う魔物達を一気に3匹首を落としていくのだ。
アルミナ達がガンマのそばまで行けそうだと確認した直後、マグニスは上空のアズネオンに視線を集中する。挨拶代わりだと火球を放つマグニスだが、アズネオンはふわりとその身を逃がす。しかし逃れた先目がけてもう一発の火球を放つマグニスの攻撃は、今度こそアズネオンを捉えられるかと思われた。
「水魔障壁」
だが、何者かの詠唱が地上から発せられた瞬間、アズネオンの前に水で作られた壁が発生し、マグニスの放った火球を呑み込んで消してしまう。何があったと特大の舌打ちを鳴らしたマグニスの目線の先、地上には司祭服に身を包んだ魔導士の姿がある。それも、人の姿をしていない。
「水噴柱」
自らの足元から間欠泉のような水を噴き出させ、自分の体をアズネオン近くの高さまで押し上げる魔導士。その姿を視認した瞬間、チータとガンマが感じた戦慄たるや、言葉では言い表せない。
「……てめえがやったのか」
「アズネオンか……再びこの世に、顕現することになろうとはな」
苦笑するような顔を浮かべる、鰐の頭を持つ魔物。その手に握る錫杖が放つ水の魔力は、かつてフィート教会の地下でガンマ達を苦しめたものだ。百獣皇アーヴェルの配下にして、魔王マーディス軍の古参の魔物、獣魔メラノスはにやりと笑い、その錫杖を軽く振るう。
「地上のガキどもへの恨みを晴らしてやりたいが、守るべきはこちらのようだな」
ガンマやチータへの復讐心を抑え、アズネオンを泡陣護法の魔力で構成した泡のバリアで包むメラノス。高い魔力もさることながら、私情を捨てて敵が最も困ることを的確に遂行するその知能こそ、獣魔メラノスの厄介さを為す最たる所以だ。
「じゃあ、まずはてめえが死ねよ」
「水魔障壁」
マグニスがメラノス目がけて投げた火球を、目の前に展開した水の盾で防ぐメラノス。それによって視界の狭まったメラノスに対し、弧を描くように空中を滑り、ナイフをその身に迫らせるマグニス。死角から迫る強襲にも、その錫杖を振るって応戦する、メラノスの身体能力も侮れない。
マグニスのナイフを止めるや否や、その大顎を開いて獲物を噛み潰しにかかるメラノス。上空に逃れたマグニスだが、その動きに応じてメラノスが取る行動は決まっている。
「極地点雨」
メラノスの魔力が輝いた瞬間、戦場一帯に凄まじい勢いで降り注ぐ雨。瞬間的な集中豪雨のようなその発現に、地上のアルミナ達も視界を遮られて足を止めてしまう。この魔法は、本来ゲリラ戦においてこうして敵の動きを一瞬止めるためのものだ。
だがそれ以上に、地上から燃え上がる炎を消していくその雨が、メラノスの狙う本筋だ。炎の壁に遮られ、自由に動くことの出来なかった魔物達の視界が、メラノスが雨をやませた瞬間に広く開けた。
「この野郎……」
「泡陣護法」
ぶち切れそうなマグニスの目の前、涼しい顔で守りを固める。アズネオンという強力な攻撃力を持つ仲間を持つメラノスは、攻撃などせず守備に徹していればいいと正しく現状を理解しているのだ。
「さあ、火の勇者よ。どちらの道も地獄行きだぞ?」
地上を守る道へ逆戻りするか。それともメラノスとアズネオンを同時に相手取るか。マグニスがどちらに転んでも明るい道はないと示唆するメラノスは、語り口のとおりの余裕を見せ付ける。驕る性分ではないが、こうした態度の方が相手の感情を逆撫でし、冷静さを奪い得ることを知っているからだ。
「挑発するなら惨く殺される覚悟ぐらいはしておけよ」
「どうせ一度は死んだ身だ」
手を掲げたマグニスの掌の上に、自身の体よりも大きな特大の火球が発生する。メラノス目がけて投げつけられたその火球は、メラノスを包む泡にぶつかり、水と炎の相性さえも押し通して、メラノスの泡と相殺して砕ける。
危険を察知したアズネオンがさりげなく離れる中、マグニスはナイフを握ってメラノスに差し迫る。錫杖を構えたメラノスと、空を駆ける火術師マグニスの、空中戦の始まりだ。
とにかく上空のマグニスが、この状況を打破してくれるまで持ち堪えるしかない。アルミナとキャル、ならびにガンマもチータも、それぞれの位置を集わせようと、足を急がせる。
「っ……!?」
だが、瞬時に危機を察知したアルミナが、隣を走るキャルの手を咄嗟に掴み、一気に後方へとバックステップする。突然引っ張られたキャルはバランスを崩すが、アルミナの胸元にぶつかって支えられ、倒れるには至らない。
アルミナの眼前を横から通過していく矢の数々は、今の動きがなければアルミナ達を横から蜂の巣にしていただろう。矢を放った何者かに銃を構えるアルミナだが、その瞬間、銃口の先にいる者の存在に気付いたキャルが、目の色を変えてアルミナの腕にしがみつく。
「駄目……! やめて!」
突然の抑止力に驚くアルミナがキャルを見ると、目に涙を溜めたキャルの姿がある。確かに銃を構えた先にあったのは、人の姿をした何者かであり、魔物らしき影ではなかった。でも、だからってこの状況下、妙な情に流されて、人間を撃たないでなんて言いだすキャルではないはずだ。
戸惑うアルミナに向け、人型の何者かはさらなる矢を放ってくる。キャルを抱きかかえて横っ飛びにそれを回避したアルミナは、二人ともども地面に転がって倒れる。ここに追撃がくれば今度はいよいよ回避が出来ないであろう状況に、チータの判断は早かった。
「開門、落雷魔法」
弓を構えた遠方の人影をチータの落雷が撃ち抜く。生身の人間が魔力の防御もなしに受ければ、充分に致命的となるだけの威力だ。だが、ばたばたと倒れるそれらの人影を目にした瞬間、がばりと立ち上がったキャルがアルミナの腕を振り払い、真っ直ぐに倒れた人影に駆けていく。
「キャル!?」
「馬鹿! 今のはとどめには……」
アルミナとキャルの静止の声も聞かず、髪をはためかせて駆けていくキャル。そしてアルミナの懸念がまさに現実となり、倒れた人影の一つが地面を掴んで立ち上がり、握った槍の先をぎらつかせる。明確な殺意にキャルの足が止まるが、傷ついた人型のそれは地面を蹴ってキャルに迫り来る。
抵抗の素振りすら見せない、茫然自失といった様のキャル。後方から全力で駆けたアルミナが、キャルを後ろから抱きかかえて横に倒れなかったら、槍の一刺しがキャルの心臓を貫いていただろう。倒れたアルミナとキャル目がけて槍を振り上げる敵に対し、禁じ手の片手握りの銃の引き金を引き、人型の何者かの脳天をアルミナが撃ち抜いた。
反動を伴う銃は、両手で構えて撃たねば肩がはずれそうになる。咄嗟のことに片手で銃の引き金を引いたアルミナは、凄まじい反動によって肩を痛めたようだ。キャルを抱きかかえたままの片腕が震えるほど、彼女の全身が鳴らす痛みの警鐘は壮烈なもの。
脳天を撃ち抜かれた人影が、雲散霧消する光景を目の前にしたキャルは、まるで家族が消えていくような絶望の眼差しで言葉を失っている。ぼろぼろと大粒の涙を流し、目の前の光景以外に一切の意識がいかない彼女の真意など、周囲の誰にも伝わらない。周囲にはまだまだ無数の魔物がいるというのに、それすら意識に入れられない精神状態というのは、あまりにも異常なことだ。
襲い掛かるワータイガーやオーガを振り切って、ガンマがアルミナとキャルのそばに立つ。僅か遅れてチータもその近くに位置するが、獲物が一点に集まったことに、周囲の魔物達も意識を固めてにじり寄ってくる。
「アルミナ、キャルは!?」
「わかんない……わかんないけど、もう……!」
もう、今の彼女は戦えない。自分の痛む肩も隅にどけ、キャルの異変を言葉半ばに訴えるアルミナ。座り込んだまま、嗚咽の声を漏らすキャルは、もはや戦える精神状態ではないと、誰が見てもわかる。内面まではどうしても計りきれないが、今はそんなことよりも状況を正しく見据えなくてはならない。
いよいよ肩で呼吸をし始めたガンマ、魔力の限界を意識し始めたチータ、銃の反動で射手の要である肩を痛めたアルミナ。戦うどころか動いてくれるかどうかもわからないキャルを囲み、自由な動きさえも制限された第14小隊。敵の数は無尽蔵。
これまで何度も、曲がりなりにも危機的な状況を生き延びてきた4人だったが、今回のこれは間違いなく過去最大の窮地だ。
「……やるぞ。みんな、諦めんなよ……!」
こんな状況下においても、奮起を促す言葉を意図して紡ぐガンマの姿が、アルミナにとっては最大の心の支えである。元より諦めるつもりなどなかったチータも、今の一言には心持ち僅かにでも、窮地を切り抜けるための覚悟が固められた気がする。
さあ、これからだ。その胸に抱いた決意をへし折るべく、再び上空のアズネオンが地上に魔物達を召喚する。前進しない状況に、さらなる逆風ばかりが襲い掛かってくるこの状況。心も体も限界間近の第14小隊だが、それでも立ち上がるアルミナが、ガンマに背中を預けるようにして、後ろは任せてと訴えかける。一人だったらとっくに絶望している。そうじゃないんだから、諦めない。
遠方からゆっくりと歩み寄ってくる二匹のミノタウロスが、今日ほど恐ろしく見えたことはなかった。自身の命だけでなく、隊全体の全滅を切に覚悟するのは、サーブル遺跡以来2度目の出来事だ。




