第120話 ~強くなるだけじゃ物足りない~
日が沈む前にあたるこの時間帯、シリカ達を含む旅団も随分山奥まで来たものだ。それぞれの表情に疲れが見え始めた一方で、山脈深部に潜む強力な魔物も姿を現すようになってくる。
「ユース、退がれ! 私がやる!」
木陰から敵の接近を待っていたワーウルフの気配は、近付いた騎士達が魔物の射程範囲内に入ってからようやく露呈するものだ。その恐ろしい存在に気付いたユースが足を止めかけた瞬間、後方からシリカの張った声が上がり、それとほぼ同時、大柄な人型の魔物ワーウルフが木陰より飛び出してくる。
急接近と同時にユースの喉元を目がけて爪を振るうワーウルフ、瞬発力全開のバックステップで敵の接近から退くユース、そしてそのユースをすれ違う形で追い越し騎士剣を振るうシリカ。退がったユースの前方で、ワーウルフの爪とシリカの剣が交錯する光景は、両者共に敵の凶刃を回避する一方、致命傷を目指した一閃をその得物で描いたもの。
ユースを狙い定めていたワーウルフの標的がこの一瞬でシリカへ変わり、下位種のワータイガーとは比較にならないパワーとスピードを以って、ワーウルフがその拳をシリカ目がけて撃ち抜いてくる。冷静に退がり、かがみ、反撃の刃を振るうシリカが、一対一でワーウルフとの戦闘に臨む光景は、周囲の騎士達にとっても緊張感のあるものだったはずだ。
ユースの決断は早かった。シリカによるワーウルフの討伐を信じ、別の角度に駆けていく。そこには平地の中心、鎖を握った巨人のような魔物がいる。今まさに、当の魔物はユースに向けて凄まじい殺気を放ち、その手に握った鎖の端の分銅を投げつけていた。
弾丸のように自ら向かって放たれる分銅を横っ飛びに回避し、ユースは足を遅めず魔物に一直線。かつてタイリップ山地にて、法騎士シリカも苦戦したという怪物ヒルギガースに、一介の騎士であるユースが立ち向かう姿は、あまりにも無謀で勇気ある行動とは形容し難いもの。ミノタウロスを単身にて撃破した実績があるとはいえ、それと同格かそれ以上のヒルギガースに挑み、今度も同じ結果を必ず残せる保証などない。それどころか、見込みは高くさえない。
ヒルギガースとて、人間なんかよりずっと強い自身の力量は把握している。そんな自らに敢然と立ち向かってくる人間を侮るような思考を、敢えて捨てる知性を持つ魔物だ。両者の力量差を魔物の慢心が埋める可能性は無いが、それでもユースはヒルギガースへ一気に距離を詰め、その騎士剣を敵の胴元目がけて振るおうとする。
太いヒルギガースの足の射程距離は、ユースの騎士剣といい勝負だ。相討ち覚悟かと思えるような、長い刃を持つ人間の頭目がけて右脚の回し蹴りを放つヒルギガースの行動は、無謀でも何でもない。自分の攻撃が人間に当たるなら、剣による攻撃を受けたとしても敵の命はほぼ確実に葬れるからだ。
振るいかけた騎士剣を引き止め、深く潜り込んだユースはヒルギガースの左の軸足目がけて騎士剣を横薙ぐ。ユースの頭上を右脚で空振った直後、まさにカウンターに近いタイミングでの攻撃だったが、その攻撃はヒルギガースの想定内。攻撃の最中であるにも関わらず跳躍し、自身を空中に逃がして片足を切り落とされる窮地を回避した。
自分よりも遥かに大きな怪物が高く宙を舞う光景は、ユースにとっても肝を潰されるものだ。さらには空中から分銅を投げつけ、戸惑う暇も与えず追撃してくるヒルギガースの攻撃が、ユースの額めがけて飛来する。当たれば人間の頭部など粉々に粉砕する、一撃必殺の弾丸。盾を引き上げてそれをはじき返すユースだが、上空から勢い良く投げ落とされた分銅の重みは、直撃の瞬間に盾を振るって衝撃を逃がしてなお、腕の骨まで鈍い痛みを伝えてくる。
着地と同時にユースへ追撃しようとヒルギガースが軸足に力を入れようとした瞬間、状況が一変する。遠方より弾丸を放った何者かの手によって、ヒルギガースのアキレス腱が深く抉られたからだ。巨体を支える支柱の楔を突然破壊されたヒルギガースは、駆けてユースに直進しようとしていた動きを為せずに、がくんとその体勢を低くする。
自身の足を撃ち抜いた何者かを探して睨み付けたいヒルギガースだったが、そう出来なかったのは正面の騎士が勢いよく直進してきたからだ。頭を垂れる形になった自分の頭部に殺気を寄せる人間、その手に握る剣の切っ先の動きから、目を切れない。遠方に存在するであろう別の敵の存在も今は思考から締め出し、鎖の端、分銅の反対側にある巨大な錨をフルスイングし、ユースの全身を粉々にする攻撃を放つ。
巨大な錨のフルスイングは捉える範囲が広く、身を低くしても横に逃れても、前進するユースには回避手段になり得ない。そこでユースが取った行動とは、さらに加速して一気にヒルギガースの懐に潜り込む動きだ。伸ばした長い腕で錨を振るうヒルギガースの、錨より内側に滑り込んだユースだが、代わりにその側頭部目がけてヒルギガースの丸太のような腕が向かっている。これをユースは盾を引き上げて防ぎ、同時に魔物の怪力による衝撃を緩衝する盾を生み出す魔法、英雄の双腕を発動させるのだ。
人間など軽々と吹き飛ばせるはずのパワーを持つヒルギガースの腕が、小さな人間の盾にぶつかる。それを上に跳ね上げるかのように盾を振り上げたユースの動きに伴って、全身のけ反りそうなぐらいその腕を上へと弾き飛ばされた。あまりにも想定外の展開にヒルギガースが戸惑う中、ユースは既に次の行動に移っている。ヒルギガースの胸の前より高く跳躍、僅かながら後方に体重を逃がしながら、ヒルギガースの顔面を振り上げた剣にて切り裂いたユースは、最上点に達した瞬間に身を反らし、バック宙返りの動きの末に地面に降り立つ。
頭部を切り裂かれてもすぐには絶命しないヒルギガースは、泳ぎかけた眼球をぎょろりとユースに向ける。先ほどまでの紙一重の連続以上に、その瞳は若い騎士に戦慄を覚えさせたものだが、直後その目がぐるんと、完全に死の色を得たのは、何者かの銃弾がヒルギガースのこめかみを貫き、巨大な魔物に致命傷を与えたからだ。
ぐらりと傾くヒルギガースの巨体。今わの際、銃弾が飛んできた方向にその目を向けたヒルギガースの瞳が、最後に一瞬真っ赤な光を放つ。
「アルミナ!! 来……」
絶命寸前、遠方で銃を構える射手目がけ、ヒルギガースはその手に握る分銅を投げつけた。勝利を確信しかけていた射手は、自らの脇腹目がけて勢いよく飛来するその凶弾に、全身からぶわりと汗を噴き出して身をよじる。分銅は空を切るものの、あと拳ひとつぶん体が横に残っていたら、露出したへその横を抉られていたであろうことが、かすめた分銅の残した風によって伝わってくる。
投げつけた分銅をすぐさま手元に引き戻すのが常のヒルギガースが、その分銅を放り投げたまま倒れて動かなくなる。本当に、死の間際の最後の一瞬の力を振り絞った、道連れ狙いの一撃だったのだろう。頭に開いた風穴からどろりとした血が溢れ出て、平地の真ん中に血の池を作り出していく。
恐らく窮地は免れたように見えたものの、思わずユースはアルミナに駆け寄っていた。ヒルギガースという怪物を相手に戦うことになった自分を、ここ一番のアシストで支えてくれた親友は、引きつった顔に脂汗を滲ませている。銃を持つ手も僅かに震えているが、それほどまでに先程の一瞬は危うかった。
「だ、大丈夫か……!? 今……」
「し、心配無用……! ほら、次いくわよ!」
普通の神経、それも女の子ならば、腰を抜かしても何ら不思議でない、あわやの所からの生存劇。孤児院の子供達に向けるような、頼もしい姉のような力強い笑顔をすぐさま作り上げ、同志を鼓舞する言葉を紡ぐアルミナの芯の強さは、戦士のそれとして男達にも劣らないものだ。案じるユースが迷いなくうなずけるアルミナの淀みない声は、死に瀕した戦慄を僅かに残した一方で、それを振り払い戦場を突き進まん意志を体現したものだ。
近しい周囲に敵がいないことを見受けたユースの目線が、自ずとシリカの方へ再び向く。その先にあった光景が、まさかのあの人の敗北でないことを一瞬祈ったユースだったが、それも目の前の光景が素早く希望を届けてくれた。
拳を振り抜いたワーウルフとのすれ違い様、その肩口に深い傷跡を残すシリカ。一瞬見ただけでもわかるぐらいワーウルフの全身は傷だらけで、人間ならばとうにくたばっているであろう満身創痍。なのに全く速度を落とす様子もないワーウルフの耐久力は見るも恐ろしく、同時にシリカの攻撃の数々を受けつつ、致命傷だけはしっかり避けている俊敏さも物語っている。シリカには敵をいたぶる趣味などなく、決まれば勝負ありという太刀筋しか放たないはずだからだ。
全身傷だらけのワーウルフが、振り向き様に放った苦し紛れの右の回し蹴りも、一太刀入れて油断していれば、シリカの側頭部を粉砕していたはずの一撃だ。振り向きもせずに気配から身をかがめて回避したシリカが、片足を軸に独楽のように回れば、振り抜かれる騎士剣はワーウルフの左の軸足を深々と斬りつける。バランスを崩しかけながらも身体能力任せに体勢を整えるワーウルフも、その一瞬の隙を見逃さないシリカの急接近、さらには心臓ありと思しき左胸を貫く騎士剣の一撃に、全身を硬直させる。
それでも瞬時絶命とはいかないのだから、シリカはすぐさまワーウルフの腹を蹴って剣を引き抜き、自分自身の体を後方に逃がす。ワーウルフの胸から勢い良く血が噴き出し、思わずその傷口を押さえてシリカに突き進もうとするワーウルフも、ここまでに失った多量の血も合わせ、体がよろめいて真っ直ぐ走れない。速度を失ったワーウルフの肉体がシリカに接近した瞬間、正面から追い抜くように駆け抜けたシリカの騎士剣が、ワーウルフの首を通過した。ユース達の目の前、ちょうど決着の瞬間前後だけが繰り広げられた形だ。
敬愛する上官の誇らしき勝利には、以前の二人なら周りの様相も忘れ、見惚れるだけだっただろう。今のユースとアルミナは、シリカの勝利を見届けると軽く顔を合わせると、うなずく仕草も言葉もなく、同じ方向に向けて駆け出していた。行くべき先を目で追えない時、その直感で足を駆けさせ、戦うべき場所を探す戦士の魂が、今の二人には脈々と宿っている。
ほんの少し前までは、自分の差し出した手にすがりついてくるような幼い兵に見えていたユースとアルミナが、自分に背を向けて別のバトルフィールドへと駆けていく後ろ姿。自身も冷静な瞳で行くべき場所をつきとめる中、シリカの胸中には頼もしい後輩二人の姿が深く刻み込まれていた。
仲間を信頼し、自分の為すべきことに専念できる。ここ数年、若い部下を守ることに常に意識を割いてきたシリカにとって、久しぶりの感覚とも言えるものだ。
日を跨ぐ遠征任務は、段取りが重要だ。人間、食欲と睡眠欲は絶対に無くせないものであるし、まして神経を尖らせて全身を激しく使う、戦闘という仕事を朝から晩まで続けてきたのだ。補給も休息も無しで、明日の決戦を迎えようとするのは、無謀を通り越して自殺行為と言ってもいい。
勇騎士ベルセリウスを総指揮官とするシリカ達の旅団だが、これも聖騎士が指揮官を務める数組の連隊で構成されるものであり、シリカが纏めている大隊は、聖騎士グラファスを頭とする連隊を構成する一組となっている。こうして旅団を複数の連隊に、連隊を複数の大隊に、と細分化していった末席に、第14小隊のような小さな隊が位置するわけだ。もっと言えば、第14小隊も場合によっては分隊に分けるケースもある。
「ようやく着いたな。無事辿り着いた隊も多いようで、何よりだ」
シリカ達第14小隊を含む、第2アルム廃坑攻略連隊。聖騎士グラファスが指揮官であるこの連隊が、ひとまずの目標地点としていたのはここ、ゾーラ湖と呼ばれる山脈の一角だ。アルム廃坑をやや近く、すなわち山脈奥地と呼べるこの場所に至るまで、日中から夕暮れの今にかけて、騎士団と魔物達の交戦も数多く繰り返されてきたが、負傷者あれど戦死者がこの連隊にいなかったことは幸いである。
「……シリカさん、お疲れ様です。衛生班から、貰ってきました」
「ああ、助かる。やっぱり持ち寄りの水では、ここまで保たないな」
水筒をキャルから受け取り、喉を鳴らすシリカもひとまず安堵した表情だ。第14小隊の面々は残らず自分の周りにいるし、負傷しているなら今頃衛生班のお世話になっているはずだから、目に見えて近しい仲間の無事を確かめられるというのは嬉しいことだ。
「ひとまず飯食おうぜ。腹が減っては戦は出来ぬ、って言うしな」
「マグニスさんほんとに腹減ってるんですか? 殆ど戦ってないでしょ」
「人間、歩くだけでも体力使うんだよ」
夏空の下、汗びっしょりになるぐらい戦い続けてきたユースやガンマに対し、既に風呂上がりのようなさっぱりした顔のマグニス。戦場をピクニック気分の足取りで歩いてきたのがよくわかる。これは絶対、ここまで一回も気を入れて戦ってない。
「負傷者も散見するんだから、あまりそうした態度を表に出すんじゃないぞ。周りが面白い顔をしない」
「まあその辺は心得てますよっと。第14小隊の立場を悪くするわけにもいかんしね」
シリカの刺す釘に、マグニスはさばさばと応じる。未熟な騎士や傭兵も、命を懸けて戦ってきているのだ。立ち回りの妙で交戦を避けるのも在り方の一つではあるが、必死で戦っている者にとって快く見られる態度ではあるまい。小さな不和が全体の士気に関わることもあるため、俗世的な言葉で言うなら、せめて空気は読んだ態度を繕うべきという話。
シリカ達7人の第14小隊は、ゾーラ湖のすぐそばに駐留した、騎士団の衛生班の集まる場所へとまず向かう。数台の馬車を率いて、聖騎士グラファス率いるこの連隊の衛生班としてここまで来た仲間達は、食料を求めて訪れる騎士達を歓迎すると同時に、時々ほっとした顔を見せる。衛生班の騎士や傭兵は年経た者が多く、若い戦士が歩いてこちらに来ると、その無事を喜ぶ心地に胸を満たすのだ。負傷者は、衛生班の馬車から出てこられないから、歩いて来る者はそれだけで無事を示している。
「ひとまずは一人ひとつだぞ。物は多く見えても、配る相手は多いんだからな」
食料を積んだ馬車から、こっそり大きな缶詰を二つ持っていこうとしていたガンマの後ろ姿に、シリカがほぼ名指しの指摘を下す。ガンマは二つ持った缶詰のひとつをシリカに差し出して、自分で二つ食べるんじゃなくて、一つは取ってあげただけですよ、という態度で誤魔化した。大食漢かつつまみ食いの大好きなガンマがそんなことしても、胡散臭すぎてバレバレなのだが。第一、気まずそうな顔が隠しきれていない。嘘のつけない子だ。
「先輩、お疲れ様です。お水貰ってきましたよ」
「わ、ありがとう、プロンちゃん。道中、無事でよかった」
「何度か魔物の襲撃も受けましたが、衛生班は守り通しましたよ」
衛生班をここまで護送してきた第19大隊。その活躍を誇らしげに語るプロンとやや離れ、ユースも克上祭で引き分けた、騎士アンディとの再会を果たしていた。年上の拮抗した実力を持つ先輩に礼儀正しく挨拶するユースに、第19大隊に属するアンディも、年下ながら見上げた実力の騎士に敬意を含めて挨拶を返してきたものだ。
「聞いたぞ、ヒルギガースを倒したそうだな。絶好調じゃないか」
「アンディさんも、ガーゴイルを討伐したそうですね」
「俺ミノタウロスいっぱい倒したよ!」
仲間達の援護あってのようやくの勝利とはいえ、一般階級の騎士が倒すには荷が重いとされる魔物達。二十歳前後の騎士達の中にあって、その頭角を現しつつある二人の騎士は、ここまでの輝かしい戦果を自慢するより、なぜか相手の功績の方を先に強調する。謙虚な二人の脇、頑張ってきたことを明け透けに言い張るガンマの、無邪気な姿とは対照的だ。
「衛生班の護送は久しぶりだが、やはり緊張するよ。連隊全体の命運を左右する仕事だからな」
「お疲れ様です、法騎士タムサート様」
先輩法騎士に挨拶しに行くシリカも、疲れたよというタムサートの気持ちはよくわかる。日跨ぎの遠征任務において、衛生班というのは日付を越える上で命綱とも言えるものだ。何せこの衛生班が全滅でもしようものなら、あるいは馬車を引く馬の脚が潰されただけでも、彼らが運んでいた食糧が全部駄目になるということである。ほぼ半日、全身を使って戦ってきた騎士が、食事も摂らずに明日の戦いに挑むなんて、まず不可能だ。衛生班の壊滅は、その連隊の撤退を余儀なくさせられるものであり、その防衛は連隊の命運を左右するものだというタムサートの認識は、一字一句間違っていない。
また、衛生班の引く馬車の中には、出陣時には空だった馬車もある。それが今は、ここまでの進軍で負傷した戦士達の療養室となっている。衛生班に属する騎士や傭兵、専属魔法使いの数々は、水分摂取のための水を生み出す魔法や、治癒魔法を扱える者で構成されており、担ぎ込まれた戦士達を今も魔法と手当てで看病している。場合によっては同胞の死体を運ぶ棺桶にもなる馬車なのだが、幸いここまでで重傷者はいたものの殉職者はいないようで、それは不幸中の幸いである。
負傷者を手当てする衛生班に混じり、黙々と怪我人の看病に努めるキャル。傷口を縛る布を、うっ血しない程度に絶妙な加減で引き締め、患部を冷やすためのタオルを濡らして絞る作業を繰り返し、指先もすっかりふやけてしまっている。献身的なキャルの姿は、明日の戦いに臨めない戦士達の無念の心を優しく撫でるようで、キャルに追従して戦士達を介抱するアルミナ、その二人が、戦闘不能となって落ち込んだ戦士が集まる馬車内を、正しく慰めるように癒していた。
「治癒魔法には二種類ある。奇跡のように、たちどころに傷や体の異常を治す、即効治癒魔法と、人体の自己治癒能力を促進させることで、回復を早める一般治癒魔法だ」
衛生班の駐屯するそば、アルミナとキャルを除き、受け取った保存食を摂取する第14小隊。その暇潰しがてらに、チータとシリカによる治癒魔法講座が展開されていた。戦場用の供給食は、栄養価を濃密に詰め込んだ大きな缶詰であることが殆ど。極端に味気ないか、濃すぎる味が多い保存食なので、多少仲間うちで雑談でもしていないと、舌が退屈する。
「即効治癒魔法は聞こえがいいが、それは魔力で以って無理に傷を塞ぐのと同じで、注入される魔力が失われれば、塞がった傷も簡単に開いてしまう」
「たとえば腕を切断された者がいるとして、今日即効性魔法で腕をくっつけることが出来たとしても、いざ戦闘になれば治癒魔法の供給者がそばにいないので、腕がまた同じ状態に戻ってしまうんだ」
魔力によって体の不具合を強引に治すのだから、魔力の供給が無くなれば、元の有様だ。即効治癒魔法は、あくまで放置していては命が危ういような傷を受けた者の命を応急的に繋ぐものであり、すぐに戦士を戦線復帰させるためのものではない。
「一方、一般治癒魔法で回復力を促進させて治した傷は、後遺症も残りにくい。ベースとして、人間本来が持つ回復力を支えただけだからな」
「これなら注がれる魔力が途絶えても、既に治った体は崩れたりしない。そのぶん時間もかかるから、一般治癒魔法で傷を治しても明日までに復調しないなら、その日戦列に並ぶのは推奨されないな」
例えば腕の筋を切られたとして、その傷が浅いならば、それに対する対処の早さにもよるが、一般治癒魔法で自己回復能力を高めると、一日で繋がってくれることもある。それなら戦線復帰も出来るが、傷が深いとそこまで早くは治らないため、翌日以降も負傷者リストに載ったままだ。
「それじゃあ、即効治癒魔法で傷を塞いで、一般治癒魔法で回復を促進させるってのは出来ないのか?」
深い傷を即効治癒魔法で浅い傷に変え、自己治癒能力を高めれば、どんな深い傷でも治せるのでは、という結論を期待して、ユースが問う。答える側のチータは、淡々と食事を摂りながら、わかりやすく事実を伝える言葉を捜している。
「理論上は、それでどんな深い傷もかなり早く完治させることが出来る。ただ、即効治癒魔法の魔力の供給を失った途端、傷が開く可能性も高いから、傷が深いと成功率の高い手段とは言えないな。そうならない完治のタイミングを見極めるのが難しい」
「衛生班の方々も、多数の負傷者を相手にするわけだからな。そこまでの至れり尽くせりの配慮を広く施すのは、衛生班の方々の体力的にも魔力的にも厳しい。遠征の際には、そこまでの配慮が敷かれることは少ないと思っていいよ」
サーブル遺跡で死に瀕したクロムのような重症者が、そうした特別措置を受けるのがせいぜいということだ。人間の体は深く傷を負えば、命を失うか戦えなくなる。それはもう、仕方のない現実なのだ。治癒魔法の有難さを伝聞で聞き、その神秘性さを夢見る者には、期待ほどの奇跡ではないと夢を壊す総論だが、それでも数多くの失われるはずだった命を救ってきたのも治癒魔法の奇跡である。満身創痍を無傷へと癒す、天使の息吹のような奇跡は存在しなくとも、不完全でも人の命を救うために行使される魔法を追究し、結果を導く人間の精神と霊魂こそ、抽象的な奇跡に勝る人類の財産なのだ。
衛生班に受け取った水の入った水筒で、喉を潤すユース。人間は、水分の補給を怠って戦うことは出来ない。ただの飲み水を生み出す程度の魔法を、衛生班の魔法使いや騎士は、堅実な修練の日々末に身につけている。派手さとは対極とも言えるそのはたらきは、こうした場に至って日の目を見る。日頃その仕事ぶりを目の当たりにすることの少ない衛生班の努力の結晶とは、今ユースが手にする飲み水ひとつとっても、それそのものだと言えるだろう。
「この後は夜警だからな。もうしばらくの間だけ、気は引き締めておけよ」
次の仕事を意識するシリカは手早く食事を済ませ、食事中の部下達を置いて持ち場へ向かっていく。その姿を追うように食事をかっ込んだユースも、少し遅れてシリカについて行く。見送るチータもマグニスも、本当にあいつはシリカに対しては忠実な奴だなと、相変わらず感じてしまう。
「犬?」
「それは流石にユースも怒りますよ」
チータも一応咎めたマグニスの言い草も、流石にそれそのものは冗談だが、シリカへの想いが高じてその背中を追わずにいられないユースの姿は、マグニスの目線から見れば皮肉の一つでも言ってやりたい気分だ。最近力をつけてきているのは結構なことだが、いつまでそんな自分でいるつもりなんだよ、という想いも沸いてくる。
短期隊長就任の時も上手くやれていたんだから、マグニスとしてはシリカの背中を追うばかりでなく、自分の足で歩き始めたユースを見たいのだ。1年前なら、独り立ちした気になって調子に乗ったりしてはいけない力量だったと思うが、そろそろ親元の手を離れて行動してもいい頃合いだと、マグニスもユースのことを見改め始めている。
「独り立ちはいつになることやらねぇ」
いつまでも法騎士様のしっぽ役では勿体ない。男というのはやがて独り立ちし、自分の手で自分の道を拓いていくもの。とうに自らを生んだ一族を捨て、自分自身の明るい今を獲得したマグニスにとって、その持論は決して揺らがないものだ。頼れる誰かの背中を追い続けることはさぞかし安心するだろうが、いつまでも今のままのユースではいて欲しくない。
きっとシリカだって、そんなユースを望んでいるはずなのだ。ユースだけでなくシリカに対しても強い思い入れを持つマグニスは、だからこそユースの大成を強く望んでいる。




