第100話 ~終わりと始まり~
コズニック山脈の一角。現在アルム廃坑と呼ばれるその地は、今最も人類にとっては足を踏み入れてはいけないと言われる、世界有数の危険地帯。山脈奥地に位置するこの空間には、魔王マーディスの率いた残党魔物が数多く潜んでいると言われてやまないからだ。
その中でも最奥地にあたる、ひとつの洞窟の袋小路。暇があればこの場所に腰を据えに来る、魔王マーディスの遺産と名高い一匹の魔物がいる。その魔物は今日も、ここに来るたびの日課の一環として、足元に転がる魔物の死骸の血を爪先に塗り、蛍懐石に照らされる岩壁に血文字のような記号を描くのだ。
子供のような小さな体躯にして青緑のローブとフードに全身を包み、フードに開けた穴からぴょこんと二つの猫耳。高い場所に触れようと背伸びをしようとする仕草は可愛らしいもので、血文字を描くという行為でさえなければ、愛玩動物の挙動とも思えるその外観。百獣皇という大層な名前と風体があまりに不釣合いなその魔物に、背後から音も無く歩み寄る者がいる。
「精が出るな、アーヴェ……」
「ウルアグワ!! お前また勝手に某の新作持ってったニャ!!」
対象が近付いた途端、不機嫌な顔をそちらに向けて怒鳴り散らす百獣皇アーヴェル。高いその声に気迫らしきものはほとんどなく、怒鳴られた側も、頭でも撫でてやろうかという気分になる。
「すまんな。貴様の作った新作の調子を試してみたくなった」
「ギガースゾンビは自分の稼動領域の認識力が足りないから実戦向きじゃねーって言ってたはずニャ! 使い物にならんうちに持っていって無駄遣いするんじゃねーニャ!」
百獣皇に近付いて、申し訳ないという風も見せずに声を殺して笑う、全身を真っ黒な甲冑に包んだ存在。黒騎士ウルアグワと呼ばれるそれは、百獣皇や獄獣と並び、魔王マーディスの遺産と呼ばれる魔物達の筆頭だ。
かつて魔王が率いた最強の魔物達。そう名高い存在が二つ、同時に並ぶこの光景は、人が目にすればこの上なく恐ろしい光景。百獣皇アーヴェルの風貌は、単体で恐怖心を駆り立てるものではないが。
「お前さんがそうやってせっかく作った某の傀儡兵を浪費するから、最近生産が全然追いつかんニャ! もうちょい自重しやがれニャ!」
「くくく、それは悪かった。だが、新しい玩具が手に入ると、遊んでみたくなるだろう?」
「壊さず使えニャ! 人里のガキよりタチ悪いニャ!」
屍兵を自分で作り出せるはずのウルアグワが、自分の作り出した混血魔獣を浪費する姿勢に、日頃からアーヴェルは不平を唱えている。それでいてウルアグワが態度を改める気配もないから、基本的にその辺りには諦観も混じっているが、言うべきことは言わずにいられない。
怒鳴り飽きてはぁーっとうんざりした溜め息をつくアーヴェルは、ウルアグワに背を向けて再び岩壁に血文字を描き出そうとする。爪の先に携えた血が乾き始めていて、上手く文字列が書けない結果になり、余計にむしゃくしゃしたアーヴェルは、八つ当たり気味に足元に転がる魔物の死体を蹴飛ばした。
「それはそうと、ルオスの人里襲撃は上手くいったんだろーな。首土産なしとか言わねーよニャ?」
「新鮮な人間の死体を十数体持って帰ってきたが、不満か?」
「後で持って来いニャ。アジダハーカがエクネイスから持って帰ってきた死体と合わせりゃ、少しは研究を進める足がかりにはなるニャ」
百獣皇の研究所と魔物達に知られる、アルム廃坑最奥地のここ。ウルアグワの報告を聞いて少し機嫌が直った表情を浮かべると、アーヴェルはしゃがみこんで足元の亡骸に手を伸ばす。それは元が魔物であったと何とかわかる程度の無残な死体で、何者かの手によってずたずたに切り裂かれ、牙や眼球もくり抜かれた残酷な有り様だ。かっさばかれたその腹から臓器の一つを抜き出して、爪先でぐりぐりとほじくり返すアーヴェルの姿は、心臓の弱い人々が見れば吐き気催さずにいられない光景。
そしてこの空間に転がる死体は、それだけではない。蛍懐石に淡く照らされたこの場所に横たわる、無数の魔物達の死体と、それに紛れた人間の亡骸いくつか。絵物語に描かれる煉獄空間をそのまま現したような地獄絵図は、仮にここを強い光で照らせば、亡骸の血で岩壁や地面が真っ赤に染められていることが明らかになるはず。
「研究の完成までもう少しなんだけどニャ。ただ、完成前に人間どもがこの場所を嗅ぎ付けてきたらまずいニャ。この場所を引き払うことになれば、研究過程のなんぼかはパーだからニャ」
「騎士団の連中も、ここアルム廃坑には目を付け始めているようだがな」
「だからこそ、お前らの人里襲撃だったんだろうけどニャ。某らの攻撃姿勢が見えれば、人間どもも警戒して守りに注力するだろうし、それで進軍遅らせることは悪い見込みじゃねーんだが」
魔物の臓器を手放し、血まみれになった爪で、岩壁に再び文字列を描くアーヴェル。グロテクスな行為ひとつとっても本人には意味があるらしく、今の手先から得られた情報を書き留めるのだ。
「人間どももアホばっかじゃねーから、そういうこっちの思惑も加味して、攻める姿勢をかえって加速させてくる可能性もあるニャ。油断せず、陽動を続けてくれんと困るニャ」
「続けはするが、時間の問題だろうな。騎士団の執拗さは、近いうち必ずこのアルム廃坑に辿り着く」
「だからそれをせめて一日でも遅らせろと言ってるニャ!」
ぴょこぴょこ跳ねて文句たらたらのアーヴェルに、ウルアグワも呆れたような溜め息を漏らす。ウルアグワの真意ではもう、この廃坑を捨てて次なる地に移る算段をし始めているので、今更そんなことに固執されても汲むつもりはないのだ。
「時がくればその成り行きに任せるしかあるまい。こちらに決定的な要素がない以上、今のところは主導権が向こうにあるのは、変わらぬ事実なのだからな」
「今のところは、だけどニャ。この研究が完成すりゃ、勢力図は一気に変わるだろーしニャ」
魔王マーディスが滅んで以降、その配下の筆頭であった三匹は、行動を制限されている。それぞれが圧倒的な実力を持つ個であっても、魔王を討ち果たした人類を侮ってはいけないことは学習済みだ。人類は常に、生存した魔王マーディスの遺産に対する警戒心を保っているが、構図そのものを客観的に見れば、今は人類に主導権のある時代と言える。追う人類、隠遁せざるを得ない魔物達、ということだ。
それが、いつまでも続くものでないと強く懸念するがゆえ、人類は魔王マーディスの遺産の討伐を急いでいる。そしてその不安はまさしく的を射ており、黒騎士と百獣皇の企みは、人類の得た仮初めの平穏を、やがてかつてと同じ、恐怖の時代へと導くためのもの。
「ともかく、今は連中の動きをよー見張っておいてくれニャ。邪魔さえ入らなければ、魔族の天下が訪れる日もそれだけ早くなるからニャ」
「いいだろう。期待には応えて貰うぞ」
アーヴェルに背を向け、去っていくウルアグワ。ひととおりの報告と会話を経たアーヴェルは、あのうざったい黒騎士のことはとっとと頭から締め出し、任せられた研究に没頭する姿勢に入る。
「精神と霊魂の切り離された繋がりの再結合……これさえ上手くいけばニャ……」
死体を眺めているだけでは進まない、研究課題の重要な要素を思い返し、アーヴェルもいらいらした足取りで洞窟から出て行く。手近な動物でも捕まえて殺すか、などと考えながら歩く百獣皇は、可愛らしい風体の奥に残忍な心を秘めた、魔物の親玉そのものだ。そして、手近に動物を見つけられなければ、配下の魔物でも殺して研究対象にしようと考えるであろうその本懐も、配下の命さえ尊重しない冷血たる本性の賜物。
魔王マーディスの遺産達は、跋扈できたかつての時代へ、時計の針を戻そうとしている。そしてその悪意の芽吹く日は、すぐそばまで迫っている。
後にルオスでも長く語られることになるであろう、サルファード裁判。三代名家とまで呼ばれ、長らくルオスの歴史に名を刻んできたその家の当主が、魔物に関与した疑いで被告人となるなど、前代未聞のことだ。歴史的スキャンダルに生きて立ち会った各国の報道陣も、判決が出るや否や、刊行する新聞の見出しはこの件で決まりだと、即決したものである。
かの裁判から僅か2日後、サルファード家当主、グレゴリー=フォン=サルファードの死刑判決は、エレム王国の朝刊でも大きく報じられた。エルアーティを通じ、ルオス皇帝やダニームのアカデミー学長まで話が飛んでいたこともあって、閉廷後の両国の動きはあまりにも早かった。ここまでで突き止められた事実の究明、さらにはサルファード家の完全不利を確信した貴族達からの更なる告発、他報告から寄せられる情報を集約した結果、そんな速度で死刑判決を出すことも厭わないレベルで、話は進んでしまったのだ。よくもまあ、ここまで多くの貴族に嫌われるだけことをやってきたものだと、ミュラーも嘆息が止まらなかった。グレゴリーの弁護人である彼女も、最後まで抵抗を試みようとはしたのだが、帝国と司法そのものに切り詰められては、返す言葉もないというものだ。
戦いは終わったのだ。父を憎む少年魔導士の望む裁きも、アマゾネス族を人の手によって滅ぼされた少女の復讐も。各国が報じる、魔物達と手を組む没落名家を批難する言葉ばかりが表に語られる中、この案件に根深く関わっていた少年少女の戦いが、勝利の名の下に終えられた瞬間だった。
「――ねえ、キャル」
自室で新聞に目を通すキャルに、アルミナが語りかける。人前で、その報道を目にした時の自分の姿を見られるのが嫌だったのか、わざわざ自室でその新聞を読んでいたキャルの元へ、わざわざ近付いてだ。
新聞を閉じるキャルの表情は、決して明るいものではなかった。人一人の命が死に追い込まれて、笑うことが出来る人格の方が珍しい。キャルは元々穏健な思考の持ち主だが、そんな彼女でなかったとしても、司法の場で死刑を促す語りに加担した自分のことを、わざわざ胸に張れるものではないだろう。
自室のベッドに座っていたキャルの隣に座ったアルミナは今、短い時間で全力で頭を回転させている。お節介な自分の性分はわかっていても、何とか彼女にかける言葉がないかと考えずにいられないのだ。
「……私さ、最近よくわからないんだ。キャルの考えてること」
新聞を閉じたはずのキャルが、アルミナの方を向き直らない。人と話をする時は、はにかんででも体を相手に向ける行儀が沁み付いているキャル。それがこうした姿を見せるということは、敢えて顔を逸らしているということだ。
「最近、お仕事のたびに目を合わせてくれることが少なくなったよね。……やっぱり、今回のことが気になってて、集中できなかったってこと?」
長い間キャルと後衛を共にしてきたアルミナは、戦場においてもキャルの挙動には敏感だ。プラタ鉱山でゴグマゴグと対峙した時には、呼吸を合わせての絶妙なコンビネーションを放った記憶がある。あれはこの二人の間でなら、日常的に行えるだけのものだ。だからこそ今日まで、第14小隊の尾を支える立場として、二人は戦ってこられた。
以前よりも、キャルが自分と力を合わせることが少なくなっていたことを、アルミナはずっと不安に感じていた。力を合わせなくても充分に、判断力と腕前で戦場で力を発揮できるキャルだとは知っているし、それでも上手くいくならそれでいい。長く妹のように見てきたキャルが、自分一人で戦えるようになってきたなら、置いていかれたって構わないとアルミナは考えられる。自分のことを変に気にして、キャルを縛ってしまう方が、アルミナにとっては嫌なことだ。
「……だとしたら、これからは今までのキャルに戻ってくれるよね?」
今まで当たり前のようにしてきたこと、出来ていたことをしなくなるのは、必ず何らかの予兆なのだ。その予兆が、良くないことに繋がる兆しだったらと思うと、アルミナには放っておけない問題になる。一方で、少し寂しさを感じていたことも声色に出てしまうが、それは深層心理を隠し切れなかった結果。
「……ごめんなさい。今はちょっと、お話できそうにない……」
「あ……」
立ち上がり、アルミナから離れる方向に歩いていくキャル。思わず声を発しかけてまで、キャルを求めたアルミナだが、何か触れてはいけないものに触れてしまったかと思って、積極的な彼女も動けずの形になる。
そんな、いつもと違うアルミナに数秒遅れて気が付いたか、キャルは部屋を出る前に振り返る。アルミナを見るキャルの瞳は申し訳なさでいっぱいで、目が合ったアルミナの胸に、結果として鋭い痛みを走らせる。
そのまま部屋を立ち去るキャル。残されたアルミナは、人前では絶対に見せない、悔恨に満ちた顔で頭を抱える。文字通り、両手で頭を抱えてうつむくほどへこむことなんて、今まであっただろうか。
「あぁ、もう……私……」
やってしまった、とここまで苦しむのは何年ぶりだろう。首を突っ込む自分の性分を、今日ほど悔いたことはなかったかもしれない。
「……よかった」
父の死刑判決、同時に、過去にサルファード家に嵌められたあの人の罪が晴れたことに、思わず独り言を言わずにはいられないほど、チータにとってこの結果は嬉しかった。肉親の死刑判決に対して妙に複雑な気分なのは致し方ないとしても、ティルマの無罪が認められたのは間違いなく朗報だ。
「ティルマさん、だったっけ。ルーネ様も、今頃その人に手紙を書いてくれてるのかな」
「……そこまでのことは求めないけど、そうして下さっていれば嬉しいな」
チータにとっての恩師に救いが訪れたことは、居間で彼と向き合うユースにとってもよくわかるつもりだ。自分だって、シリカが無実の罪を着せられて謂れなき罰を受けたら、言葉に出来ないぐらいやりきれない気分になるだろう。チータが数年前に経験したのはそれと同じことであり、当時のチータがどれほど苦しんだかは想像に難くない。そして、今はそれが正されたのだ。どことなく心持ち穏やかに見えて仕方ないチータの姿は、友人として祝福したい想いでいっぱいになる。
「ルーネ様に頼めば、会わせてくれるんじゃないか? 賢者様にお願いするのは少し恐れ多いけど、チータの立場からならそれも……」
「……いや、いいよ。今の僕に、先生に合わせる顔なんてないからさ」
常に堂々とした態度のチータから、こんな自虐めいた言葉が出る日が来るとは思わなかった。チータなりに何かしら思うところがあるのはわかるが、ユースにはその先が読み取れない。
「何かあったのか?」
「いや、まあ……何かあったかどうか、って言われると、あったにはあったんだが……」
第14小隊で出会った奴らは、結構深入りしてくるものだとチータは常々思う。少しでも気になることがあれば、無興味せずにしっかり尋ねかけてくる姿は、あまり他人に干渉しないスタンスの自分とは対極的だと感じるものだ。話さなければわからないこともあるし、そうして理解を深めることに重きを置くその考え方、嫌いでもないのだが。
「本当のことを言うと、あまり話したくない部分なんだけどな」
「う、ごめん。だったら……」
「いや、いいよ。ちゃんと話す。隠しても何にもならないからな」
出会った頃にぶつかり合った時から、ユースだって自分と性格が噛み合わないことぐらい、わかっているだろう。自分だったら、そういう人間とは深く付き合わない。同じ職場であっても、干渉し合わずに仕事だけ共に出来ればいいと考える。任務の時は、実際それでもそこそこ力を合わせた実績もあるから。
任務と一切関係のないこんな時にも、心配するように声をかけてきたユースに対して、隠し事をするつもりになれなかった。話したくない理由は、こいつに弱味を見せたくないからだ。その理由が自分にはわかっているだけに、心配してくれる奴にそれを隠すのは不誠実な気がして。
「僕は、先生が冤罪を着せられた時、裏切られた心地だった。司法とは、真実を暴き、正しい裁きを下してくれるものだと信じていたから。実際にはそうならなかった。司法とは、与えられた情報から有罪か無罪かを、とりあえず決めることしか出来ず、誤っていてもその刑を執行するに過ぎない場。……それを知ったのが、4年前のあの時だった」
「それは……」
「わかってる。今になればわかるよ。人の定めることに、絶対に正しいことなんてないもんな」
シリカがユースを一度、第26中隊に送り出したのは間違っていたことだと、新参者の自分でさえも今では確信出来ることだ。今わざわざそれを言うことはしないが、法騎士様でも間違えることはあるんだなと思えたのは、貴重な経験だ。
「人に裁きという役目を任せることの恐ろしさを、あの日感じずにはいられなかった。その結果……まあ、悪い意味で尖っていた頃が僕にもあったよな」
一発でピンとくる言い回し。そう言えば、第14小隊に来て数日でチータが問題を起こしていたと。極めて苦く、小さく笑うチータの態度だが、笑い事じゃないんだけどな、と付け加えるぐらいには、あの頃のひどい手打ちをチータも悔いているようだ。
「自分が許せないと思った相手の裁きを、他者に委ねることを、僕は当時すごく嫌悪していた覚えがある。なまじ僕には、魔法という、人を痛みでもって罰する力があった。迷いはなかったんだ」
ひったくり犯を火だるまにしたことをきっかけに、ユースとは一度ぶつかった。やり過ぎだ、というユースの当たり前の主張も、当時は受け入れない自分がいたものだ。
「力を持つからといって、誰かを自分の手で裁いてやろうという考えは、極めて危険な思想だと思う。当時の僕は、自らの判断が間違っているなら、その責任は取ってやるという覚悟ぐらいは決めていたつもりだった。だけどそれは、最後には逃げに走る口上でしかないんだと、今ならわかる」
ユースだって過去、新聞に目を通す中で、各国で行われる司法の判決を見た経験はある。あれだけの罪を犯した罪人の刑がなぜここまで軽いのか、とか、疑問を感じたことだってあるものだ。その理由に、罪人がまだ年若いからなどと理由をつける司法の判断に、何を甘いことをと感じた思い出はある。
「罰して奪ったものに、責任を取る方法なんてないんだ。先生はルオスを追放された数年で失った歳月を、二度と取り返すことが出来ない。事実を見誤り、先生に不当な罰を下した法廷が、先生に対して責任を果たせることなんてないんだよ。……同じ事が、かつての僕にも言えるよな」
しかし人を裁くということは、その人物から何かを奪うということ。物資の一時的な押収でもない限り、そうして奪ったものは返すことも出来ない。時間や尊厳、一度染み付いた悪名。それだけ裁きという言葉は重いのだ。
「力なき老人からものを奪ったひったくりに対し、同情の念が沸かないことは今でも変わらないよ。ただ、それを僕が裁くということは、ひどく思い上がったことだったと今では思ってる。責任を取る覚悟は出来ている、なんて、自身の行動を正当化するための詭弁でしかなかったともね」
過去の自分が間違っていたと認めるのは、それなりに胸を焼くものだ。それが出来てこそ人は大人に近付くのだが、かと言ってこれをユースの前で言うのも、そこそこ二の足を踏む。
ユースは当時から、自分のことを間違っていると言っていたから。あの時喧嘩したことをわざわざ掘り起こし、あの時はお前が正しかったよと敗北宣言するのは、こいつが相手だと何だか悔しいから。
「まあ……僕は歪んでいたんだ。その歪んだきっかけは先生の冤罪で……それも事実なんだけどさ」
首を傾け頭をかいて、気まずそうに話すチータ。人間的な心の迷いを、仕草に表す姿も珍しい。
「また会えるかもしれないのは嬉しいけど、先生とは顔を合わせづらいんだ。先生が冤罪を背負わされた過去をきっかけに、身勝手な正義を振りまくようになった僕が、確かにいた。そんな僕を、あの人が望んでいたようには思えないからな」
「……何ていうか」
「わかってるよ、言わなくても。考えすぎだって言いたいんだろ」
自分の言葉を二度も遮るなんて、今日のチータはよく喋る。基本的に相手の言う言葉を最後まで聞いてから返事を返す、いつものチータではない。そう固くない表情からも、さして暗い思考に陥っているようには見えないが。
「自分の中で、整理をつけられないだけなんだ。いざ先生と顔を合わせる形になっても、わざわざ隠れたりするわけじゃない。ただ、自分から会いにいけるほど、今の自分に胸を張れる気分にはなれないんだよ」
象牙の杖の頭を撫でてそう言うチータの挙動から、なんとなく感じる。その杖はきっと、かつてのあの人との思い出を、共に共有してきたチータの相棒なのだと。武器を手放さない気持ちだけならば騎士の自分にもわかることだが、杖を優しく握るのが手の様子からだけでも充分わかるほどには、あのとげのあるチータが、並々ならぬ愛着をその杖に抱いていることは感じるのだ。
「何はともあれ、あの人の無罪が示されてよかった。父のことばかりに固執していたけれど、やっぱりこの朗報に勝るものはないなって思うよ」
サルファード家の血が自らに流れることを嫌悪していた想いが、雪のように溶けていく実感を、チータはあまり動かない表情の中にも確かに宿していた。チータなりにも僅かにしこりを残している様子であることはユースも気にかかったが、この表情を見れば、まあいいかと思える程度。同時に、表情豊かでないように見えて、チータも案外露骨に感情を表に出すことは多くなったかな、とユースは感じるのだった。実際には、チータの機微にユースが目ざとくなってきているのだが。
ひとまず一件落着というところだ。ただ、今の話をしてしまうと、チータにも少し気がかりなことが。
「あの時のひったくりって、今頃どうなってるんだろうな」
「あ、そういえばチータには話してなかったっけ? クロムさんが裏で動いてくれてたみたいだよ」
「は?」
なぜそのタイミングでその人の名が。チータも思わず間の抜けた声。
「うちの若い奴が迷惑かけたな、みたいな感じでお詫びを入れておいてくれたんだってさ。別にもう向こうも気にはしてないみたいだから、チータも忘れていいんじゃないかな。だいぶ昔の話だし」
閉口した。あの事件があった日、自分はまだクロムに出会ってすらいなかったというのに。あの少し後、ラルセローミの町からエレム王都に帰ってきていたクロムだが、縁も浅かった自分の失態を尻拭いしてくれていたということなのか。
「シリカさんにお世話になってる自覚はあるけど、クロムさんって見えないところでよく動いてるから、その実感って感じにくい部分あるんだよな。意識しなきゃつい忘れがちだから、一応頭の片隅に置いておくようには俺もしてるよ」
かつて師に言われた言葉を思い出す。人は一人で生きているつもりになっても、そうではない。必ずどこかで、自分を支えてくれている人がいるものだと。それは見えるところであったりもするけれど、見えないところにも沢山あるものだと。
ティルマの知らない所で、数多くの人々が動き、彼女の罪は洗われた。チータの知らない所で、禍根の種はクロムに鎮められていた。チータの目線から見れば、日頃遊び暮らしているマグニスが、真剣にユースの行く末を案じてくれていることを知っている。それは女絡みのことだし、わざわざユースにそれを教えるつもりはないが。
言葉の意味はわかっていたつもりでも、実感としてそれを得ると世界も変わって見える。魔導士とは広く世界を歩き、すべからく見識を広げるべし。書物で得られぬ経験は何よりも尊く、魔導士に限らず人にとって、それは何にも代えがたい糧となる。
「……僕がここにいられることは、思っていた以上に幸せなことだったのかもしれないな」
行くあても無く飛び出したサルファードの屋敷。傭兵じみたことを繰り返し、小金を稼ぎながら遠きこの地に辿り着き、止まり木を得た。その樹は羽を休めるだけに留まらず、血も繋がっていない雛鳥をまるで家族のように包み、再び飛び立っても帰ってくることを許してくれる。
「俺は第14小隊に出会えてよかったって、ずっと思ってるよ」
ユースがそう言ってくることもわかっていた。第26中隊の招待を受けた上で、ここに帰ってくることを選んだ彼が言うのだから、本当に説得力がある。何より、その目に淀みがない。
真っ直ぐで、ちょっといびつな自分とは違う少年騎士。こんな奴と出会って、不思議とこうして安らいだ心地で話せる今というのも、こうして見ると数奇なものだ。それを不愉快に感じず、むしろ平穏をそこに感じる自分がいることも、昔の自分からは考えにくいこと。
サルファード家は完全に没落した。生まれた家は失われた。本来ならば姉のように、それを寂しく感じるのが普通のことなのかもしれない。確かに言い知れぬ虚無感があるのは否定できない。
だけど、もういい。前向きにそう思えるほど、今いるここには新しい家族達がいる。
「そうだな。僕も、そんな感じだよ」
迷いなく現在の想いを口にするのは、チータから見たユースの専売特許。何気なく、それと同じことを自然とせずにはいられなかった自分を自認すると、自分も変わったのだろうかと感じてしまう。
「……なんか最近、チータ雰囲気変わったよな」
「知ってるよ。お前が気付くのが遅いぐらいだ」
間違っていなかった。自己分析も、第14小隊に出会えたことも、こいつを信のおける奴だといつからか見直していたことも。
エレム王国第14小隊所属傭兵魔導士、チータ=マイン=サルファード。汚名にまみれた姓を捨てることは出来ずとも、新たな生をここに歩むことで、いつかは自分に胸を張ることが出来る。チータはそう信じた。明日の見えない毎日の中、為すべき道を未来へと作るのは、自分の手でしか出来ないこと。
没落と再誕。きっと、ここがスタート地点なのだ。




