第96話 ~ゼーレの街② 戦慄~
暗殺者と名高いカティロスの動きは、騎士団にもよく言い伝えられている。風のように素早く駆け、両手に握る短剣を素早く振るう動きは、目にも留まらぬものだと有名だ。シリカほどに戦場を駆けた身ならば、その攻撃を視認するだけの実力も身についているが、一般的な騎士や上騎士では歯も立たぬというのが通説である。
それと交戦することになったシリカだが、初めて武器を交えて実感することがあり過ぎる。素早い攻撃が恐ろしいとはよく聞いたものだが、自身の反応限界に肉薄する敵の速度と直面した今、どうやってこの難敵を打ち破るかを考える時間すら与えて貰えない。
カティロスの二本の短剣の連続攻撃を、ことごとくその騎士剣の短い部分ではじくシリカだが、そうでもしないと対応できないのだ。騎士剣の先に近付けば近付くほど、手との距離は必然長くなる。そんな部分をこの敵の速さに対応する盾には出来ない。しかし、柄に近い部分で敵の攻撃を受けると、腕力に秀でないカティロスの攻撃も一撃一撃が重く、シリカの動きに余裕が生じない。
短剣はリーチが短いが、その分力を伝えやすい上、軌道の操作も容易なのだ。攻撃力に優れる剣や刀、槍ほどの猛攻性は無いが、カティロスほどのスピードがあれば敵の懐に入り込み、一気に攻め立てることが出来る。それを二本持つだけに、手数も倍になるのだから恐ろしい。
一秒の間に何度騎士剣での防御を強いられたかわからぬシリカが、僅かな隙を縫ってカティロスの体を切断する横薙ぎの斬撃を放つ。かがんでそれを回避しながら短剣を突き出すカティロスの動きに無駄はなく、攻撃と同時に退くことを最初から決めていたシリカが後方に身を逃さなかったら、間違いなく脇腹を深く貫かれていたところだ。
距離を取っても即座に近付くカティロス。着地よりも早くに自分に肉薄するのではないかと思えるその俊足には、シリカも迎撃体勢を取れない。反撃をはずせばその瞬間、全身を切り刻まれるのが目に見えているからだ。
退がりながらカティロスの攻撃を凌ぎ続けるシリカは、それでやっとの想い。攻撃は最大の防御とはよく言うが、一切の反撃を許さないカティロスの猛攻が戦場に金属音を繰り返す中、シリカの精神が焦燥感に追い詰められていく。
加勢したのは一人の少年。シリカを押すカティロスに、横から飛び入ったユースの騎士剣の振り下ろしが迫る。単調ながら、敵が豪腕でなければ騎士剣の重みは簡単に止められるものではない。敵の特性を見れば合理的な攻撃方法だ。
最小限の動きで一歩後ろに下がったカティロスの目の前を騎士剣が通り過ぎた瞬間、カティロスの右手が放つ殺人的一撃。ユースの眼球目がけて鋭く投げつけられた短剣が直撃し、ユースがその頭を後方に勢いよくのけ反らせる。
シリカでさえも眼前の光景に血の気を引かせたが、それでも一歩離れたカティロスに素早い攻撃を繰り出す姿は法騎士のそれ。しかしカティロスの左手に握られた短剣はその攻撃を捉え、短剣と騎士剣が火花を散らした直後、カティロスは薙がれた剣の力の向きに体を逃がし、離れた位置まで跳んで着地する。
「ユース……!」
「っ……大丈夫です!」
シリカには、直撃したようにしか見えなかったカティロスの攻撃だが、瞬時に頭を逸らしたユースは短剣を逃れていた。シリカにとっては心底胸を撫で下ろすものであったが、カティロスからは目が逸らせない。
周囲の魔導士達による魔法攻撃、射手による矢が、そのカティロスに向けて放たれる。身をよじり、かがめ、跳躍し、それらを回避したカティロスが、低い建物の屋上に着地する。傍目から見れば、あわや敵の攻撃をかわした直後だというのに、その瞳からはそういった感情も一切匂わせない。人間のような風貌を持つ一方、人とは思えぬ冷淡な瞳を持つことこそ、"凍てついた"風の異名の所以であろう。
そして"風"の名を象徴するかのように、その一点からカティロスが消える。シリカとユース、遠方から見るチータにはその動きが追えたが、カティロスの向かった先にいる帝国兵に、その動きは視認できなかった。なぜならカティロスの動きが目に見えたその瞬間には、その肉体が自らの横を通過し、短剣が帝国兵の首を刎ね飛ばしていたからだ。
何が起こったのかわからなかった若い帝国兵が戸惑う仕草こそ、カティロスにとっては次の獲物。自らの動きも追えぬ者など、短剣の錆にすることも容易いのだ。剣を握った若い帝国兵に近付くと、自らの接近も感知されぬ間に、その首を刎ねて通過する。さらにはその先にいた、彼よりも少し年上に見える帝国兵にそのまま直進するのだ。
棒術を得意とするその帝国兵は、カティロスの攻撃を二発はじくには至った。だが、そこまでだ。対応しきれぬ三発目の短剣に右の手首を切り落とされ、それによって動きが止まったその瞬間、カティロスの短剣に喉元を貫かれる。すぐさま離れたカティロスの前、首から血を流した帝国兵が力なく崩れ落ちる。
街の南部にはカティロスの葬った兵の亡骸が山のように転がっている。未熟であっても、彼らは全力で戦ってきた。単身ではケンタウルスに敵わぬ者も、力を合わせてそれを食い止め、あるいは討伐し、力ある精鋭の助けとなってきた。盤上の駒取り遊びでもそうだが、弱い駒も数を集わせれば大駒を討つ刃になるのだ。それを削いできた凍てついた風が、戦局を悪しき方向に流しているのは明白だ。
カティロスの拓いた道を、後方からソードダンサーやデッドプリズナー、ギガーズゾンビの数々が進軍してくる。生き残った帝国兵の精鋭は、これらにそう簡単に負けるほどの者達ではない。しかし縦横無尽に戦場を駆け回るカティロスの存在は常に意識の隅にあるし、これらと真っ向から戦うことに集中力を傾けられない。シリカもソードダンサーとの交戦中、カティロスの横殴りを受けた際には、殺されたかと思うほどに危機感を覚えたものだ。
魔導士が、射手が、常にカティロスを狙撃してその動きを牽制している。それによって最大の脅威は抑えられているものの、それに多大な戦力を傾ける以上、魔物達の行進に割く兵力は限られる。ましてカティロスに若い駒を摘まれ、前衛は著しく数を奪われているのだ。
名高きリリューの砦を滅ぼした、黒騎士ウルアグワの魔物達。その戦陣の前衛を駆け、敵の布陣を突き崩すカティロスの恐ろしさはそこにある。防衛都市として名高いゼーレの街も、それと同じ道を辿らされるのは時間の問題なのだろうか。
そうはさせないと決意を固めた法騎士が地を蹴る決断は早かった。火球魔法を回避した地上のカティロスに、風の如く接近して騎士剣を振るう影。カティロスは冷徹にその一撃を短剣でかち上げ、その法騎士の額めがけて短剣を突き出す。
身をよじってそれを回避したシリカの第二撃は早い。回転する動きに合わせた十八番の斬撃は、カティロスの腰元を狙う横薙ぎ。跳躍して回避するカティロスが、シリカの脳天めがけて短剣を投げるものの、腰元の短剣を抜いていたシリカは、それでカティロスの短剣をはじき飛ばす。
すぐさま短剣を投げ捨てて騎士剣を両手で握り、落下するカティロスに向けて騎士剣の猛襲を仕掛けるシリカ。空中にあるカティロスにこれを回避する手段はないが、短剣を投げた方の手で腰元から短剣を抜くと、両手の短剣を交差させてシリカの騎士剣を防ぐ位置に構える。長い騎士剣のフルスイングはカティロスの軽い身体を吹き飛ばしたが、猫のように空中で身を翻すカティロスは、地面に着地すると同時に地面に靴跡を残して滑り、低い体勢のままある一点で止まる。
「開門、岩石魔法」
その体が止まるか止まらないかという所に、絶妙な石槍を突き上がらせたチータの魔法も、即座にバック宙返りするカティロスに回避される。これ以上ないタイミングで撃った一撃を軽々とかわされた事実には、チータもこの敵を討つ手段に詰まる。
そうした動揺を、視界に入れずして感知するカティロスの、次の一手が恐ろしい。自らの後方で僅かに集中力を散漫にしたチータ目がけて、後ろ手で短剣を投げつけてくるのだから。
気が付いたその瞬間には短剣が自らの鼻先まで迫っていたことに、チータは大仰に全身を傾けて回避する。白兵戦の得意なシリカやユースのように、最小限の行動で回避するのはチータには不可能だ。それでもなんとかかわせたものの、冷静沈着な彼とて、今のは冷や汗を吹かせずにはいられない。
上空の魔導士を黙らせたカティロスの目線がユースに向いた瞬間、シリカを襲った戦慄は計り知れない。それを制止するためにカティロスに向けて駆けようとした頃には、凍てついた風の俊足が少年騎士に向かって直進していた。
シリカでさえも苦戦していたカティロスの連続攻撃は、明らかにユースにとってはオーバースペックの猛攻だ。一秒間に3度4度の金属音を奏でる、騎士剣で短剣の連続攻撃を受けるユースだが、敵が盾持ちだと見たカティロスの攻撃はユース右半身に偏っている。狙いが絞られるためにユースも少ない動きで対処できるが、盾による防御は追いつかない。攻撃手段の剣を防御にしか使えない。
その意識をかいくぐって、左から振りかぶられる短剣の一撃が頭に向かってくる。後方に逃れる以外にこれをかわす手段を見つけられなかったユースが距離を取るも、カティロスはすぐに10の距離をゼロに詰めてくる。そんなカティロスに対し、迎撃の騎士剣を振るったのがユースの致命傷を招く。
振られた騎士剣をかがんで回避したカティロスは、スピードを緩めない。攻撃をかわされた直後、敵の顔が目の前にある光景は、戦士としてのユースに死を予感させるには充分なものだった。そしてそれを現実のものに変えるための一撃が、カティロスの短剣の突きとして胸元に放たれる。
その一撃は盾によって防ぐことが出来た。しかしその直後、カティロスの放つもう一撃が、ユースの大腿部目がけて振り払われたのだ。盾を押された力をそのまま受け取る形で、後方に逃れる判断を即座に踏んだユースの決断は、命の危険を回避するためには間違いなく最善の動き。しかし本来ならばユースの脚をばっくりと切り裂くはずだったその短剣は、逃れてもなおユースの右大腿部を傷つけた。後方逃れて着地したユースが、自らを支える芯の一つを傷つけられたことに大きく体勢を崩す。
カティロスがユースに迫りきれなかったのは、後方から自らに迫る殺気に近い気質によるもの。気配をつぶさに感じ取ったカティロスが、身を翻しながら二本の短剣を構えた箇所に、シリカの騎士剣による重いスイングが衝突する。
力に秀でないカティロスにとって、この攻撃は腕を痛めるものだ。しかし重みを二本の腕に逃がすと共に、後方に身を逃すすべで緩衝も為し、決して致命的なダメージには至らせない。ダメージ少なく着地したカティロスに反し、脚の一本に手痛いダメージを受けたユースはほぼ死兵。
シリカが、ユースとカティロスの間から動くことが出来ない。今のユースがカティロスと交戦すれば、間違いなくもたないだろう。万全の状態で戦ってようやく凌げるかどうかという相手に、片足を万全に動かせぬ中でどうやって抗えるというのだ。命に別状はなくとも、足を奪われるのは戦士としては致命傷である。
ユースの負傷に伴い、動きを縛られる法騎士。一方でカティロスは先程までと変わらず、自由自在に駆けられる身。戦況は好転しない。黒煙立ち込めるゼーレの街を包み込む絶望感は、さらに色濃く空を染めていく。
「仕留めろ、カティロス」
戦士達の咆哮、魔導士の詠唱、屍兵の唸り声が響き合う戦場で、明確な声が響いた。その声の方向にカティロスが振り返った瞬間、その目線の先を追ったシリカの心に、さらなる闇が襲いかかる。
赤々と燃える空にたたずむ、黒い全身を持つ馬。脚先はまるで地獄の蒼い炎に包まれたようで、空に浮くその巨体を支えるかのように燃え上がっている。真っ赤な目を携えたその目と、鼻息荒く地上の人間を見下すその魔物は、ナイトメアと呼ばれる存在。血を欲し、殺意に満ちた魔法を使役するという、黒騎士ウルアグワの愛馬として知られる魔物だ。
それに跨る資格を持つ者など、この世に一人しかいないのだ。ナイトメアの背中で手綱を握るその存在を目にした瞬間、ユースやシリカ、チータの心を包んだ絶望感は、表現しようのない真っ黒な想いに胸を染め上げた。
「ひしめく闇を貫く幾閃の矢、我が魂を飛び立ち空を貫け……!」
主の声を聞き受けたカティロスが、シリカに直進する。直線的ながら防御以外の行動を促さない猛攻に、やはりシリカは押される。後ろに退がりたい想いも、傷ついたユースがいる以上、封じられているに近い状況だ。
「開門! 落雷魔法陣!!」
最悪の状況を打破すべくチータの放った稲妻の数々が、カティロス周囲に降り注ぐ。シリカとユースを器用に回避した落雷の数々であり、自ら目がけて落ちる稲妻によって、カティロスも僅かに体を逃がして攻撃の手を緩める。
逃れた先にもまた稲妻。稲妻の迷宮を潜り抜けるカティロスに、追い迫るシリカが反撃に移る。法騎士として鍛え上げた腕が繰り出す、騎士剣の連続攻撃がカティロスに差し迫る。しかしそれぞれの攻撃をカティロスは両手に握る短剣でいなし、はじき、対処する。短剣はリーチが短いぶん、防御には優れるという通説があるが、熟達の腕を持つ者がそれを扱えば、どんな攻撃も容易には体に届かせない。
魔力を解放し続けるチータの落雷が、カティロスの動きを制限し、シリカの攻撃を防ぐしかない形にカティロスを持っていく。それでもカティロスは、チータの雷撃の射程外、シリカの射程外に逃れない。凌ぎ続ける限り、チータの魔力が尽きに近付くことをわかっているからだ。ただ凌ぐだけで、上空の魔導士の魔力切れを誘発できるなら儲けものである。
そんなカティロスの狙いを阻害する影が一つ。それは万全の時ほどで無いにせよ、その足に全力の力を込めて走る少年の騎士剣だ。シリカと稲妻を回避することに傾倒していたカティロス、その意識の外から迫る騎士剣に対し、凍てついた風も本来の反応速度を発揮しきれぬままそれを受ける。
交差させた短剣でそれを受けるものの、シリカよりも腕力では秀でるユースの一撃。手数を増やすために短い攻撃を重ねていたシリカの攻撃、それを受け続けていたカティロスにとっては、かなりの緩急差となって腕を貫く。体を逃がすカティロスだが、逃げた先にチータの放つ稲妻が待ち構え、僅かに軌道を曲げるために地面を蹴る。望まぬ動きを強いられただけでも、カティロスにとっては少々風向きが悪い形と言えるかもしれない。
その少々を致命的なものに変えるべくカティロスに迫るシリカ、その一閃の太刀。それを再び短剣を交差させて受けるつもりだったカティロスも、瞬時に感知した決定打の予感を受け止め、一気に後方に跳び退いて騎士剣を回避した。必要あらば距離を取る、ではなく、完全なる逃げの動き。事実、予定しない動きによって動きを曲げられたカティロスに、直後チータの稲妻が直撃する。
「く……!」
バンダナに覆われた口元から、わずかなうめき声を漏らすカティロスが、稲妻の攻撃内から身を逃す。チータの雷撃は、無防備な魔物に直撃すればその身を黒焦げにする程の威力がある。それを受けたカティロスが、その肌に火傷も残さず、銀髪の先を焦がす程度のダメージに済ませていることから、魔力による防御も為しているのだろう。その腕前のみならず、そうした防衛手段も持っていることが、凍てついた風と呼ばれて恐れられる暗殺者の恐るべき所以だ。
これを今の強襲で討伐できなかったことが、シリカに強い無念を落とし込む。勇断の太刀の魔力を纏わせた今の一撃なら、カティロスの短剣ごと切り落として、その肉体を真っ二つに出来たはずなのだ。それを直感なのか何なのか、受けずに逃れる道を選んだカティロスの判断力は、聞き及んだ以上の強敵であるとシリカに印象付けるには充分だ。
だが、抱いた印象すべてを一瞬で吹き飛ばす光景が、その直後目の前に訪れるだなんて、ここに立つ誰もが予想しなかった。カティロスの口元を覆っていたバンダナが、チータの雷撃によって焦げ、炭になって顔から離れた瞬間、カティロスの素顔すべてがシリカの目の前に晒される。
完全に戦闘に対して集中していたシリカも、目の前の光景には言葉を失った。ユースは知らない。チータは知らない。カティロスの素顔は、騎士団にいる多くの者が知り、シリカもよく知るある人物の顔に瓜二つだった。
「貴女は……!?」
目を見開いてそう言うシリカの前、冷たい瞳を宿していたカティロスが初めてその目に感情を宿らせ、口元を手で覆う。集中状態にあったカティロスも、バンダナが失われたことに一瞬気付いていなかったようで、それを確かめてすぐ、その手を降ろす。
「私の助けが必要か?」
両者の動揺を割くかのように、上空から響く声。ナイトメアに跨る黒騎士ウルアグワを、ユースが見上げた瞬間、突然その脚を何かに掴まれたかのような違和感に襲われる。
見下ろせばそこには、おぞましい光景。まるで血のようなどす黒い何かが、手の形を作り、自らの脚に絡み付いているのだ。思わずそれを振り払おうと動くユースだが、その何かが脚を締め上げる力は想いの他強く、ユースの脚が持ち上がらない。それが地面から生えるようにして、ユースをその位置に縛りつける役割をしていると気付けたのは僅か後。
その手はさらに生え、ユースの体を這い上がってくる。身動き取れぬユースの首を絞め、もがくユースの動きを制限していくのだ。苦しみの声をあげたユースを振り返るシリカが、その光景にぞっとするのは当然の反応。
「仕留めろ」
ウルアグワの指示を受け、カティロスがシリカに迫る。その狙いは明白だ。シリカの動きを猛攻で以って怯ませた後、身動き取れぬユースにその脚が向かうはず。受けきる覚悟は固めつつ、最悪の未来しか見えぬカティロスの直進に、シリカは歯を食いしばって立ち向かおうとする。
まさに、その時だ。
「大地の征服」
どこからか聞こえたかすかな、しかし確かな詠唱。直後、シリカ達の立つ地表に広くひびが入り、あらゆる場所が不規則に突き上がる。それも、チータが作り出すような岩石の槍ではなく、ひびによって生じた石畳の一角そのもの、象一匹が座れるほどの大きな岩盤が、一気にせり上がるのだ。
バトルフィールドの突然の崩壊に、カティロスも思わず一度退がる。シリカの立っていた位置は高くせり上がり、ユースの立っていた場所はちょうどひびの上。自らに絡み付いていたどす黒い手からは解放されたものの、右足のあった位置だけが胸元あたりまで上がってきた急な変化に、ユースは対応しきれずに石畳の上に倒れていた。
「どうやら、宴もここまでのようだな」
馬上のウルアグワがそうつぶやいた直後、シリカ達の後方からゆっくりと歩いてくる影。緊急事態の真っ只中にあるこの街を、そんな足取りで歩む者など、他に誰もいない。群青色の法衣で身を包み、腰まで届く長い黒髪を、頭の後ろから鋭く一本にまとめたその人物は、滅茶苦茶に隆起した地面を事も無げに歩き、黒騎士ウルアグワを見上げる。
魔導士であることを物語る、竜の頭を模したような杖を握るその人物。その杖を握る手が淡く光ると同時に、そばに立つシリカやユースの心臓をわし掴みにするような、膨大な魔力が周囲を包む。魔力の動きに比較的敏感ではない騎士達でさえそうなのだから、遠方とはいえこの空間に位置するチータは、その魔力には身震いせずにはいられなかった。それほどまでに、凄まじい強さを示唆する濃い魔力。
「カティロス、退くぞ」
「はっ……!」
「壊滅の星」
ウルアグワの声が第一。それに応じるより早く地を蹴っていたカティロスが第二。魔導士の詠唱が第三だ。そして目の前に訪れた第四の事象は、シリカ達の想像を超えたものだった。上空に突如集まった魔力が巨大な岩石を形成し、さながらその隕石がウルアグワがいた場所目がけて飛来したのだ。
素早く空を駆けた愛馬の動きに伴い、魔導士の呼び出した隕石は、大地に向かって勢いよく落ちていく。落下箇所にあった建物を容赦なく粉砕し、地面に辿り着いた瞬間に、隕石の持つ膨大な魔力が上空に向かって炸裂する。それはエネルギーの塊が生み出した光の柱のようにさえ見え、遠方からこれだけを見れば、神秘的な光景だと言えるものかもしれない。
シリカ達にそう思わせなかったのは、それに伴う耳を破るような爆音と、その光がやんだあとに地表に残った巨大な破壊後。街の一部であったその場所を広く破壊した隕石は、民家4つほどをまるまる吹き飛ばしたクレーターを地面に残し、そこに他のものを跡形も残さなかった。
息を呑むシリカ達にまるで無関心なその魔導士は、かつかつと靴を鳴らして、街の南に歩いていく。さっきまで表情を苦悶に染めていたはずの脚の痛みも忘れ、それを見送ることしか出来なかったユースに、目を覚ますようにシリカがそばに着地する。
「大丈夫か……!?」
「し、シリカさん……」
その声で我に返ったユースは、傷の痛みに目覚めて顔を伏せる。変な意地を張るわけでなくとも、苦痛に歪む顔をすぐそばの人間から隠してしまうのは、誰しもよくある仕草だ。
「……終わったみたいですね」
シリカのそばに降り立ったチータが、小声でつぶやく。黒騎士とカティロスの撤退という事実だけではなく、あの魔導士の登場は、この戦局の終わりを表すものに他ならなかったからだ。
その言葉を証明するかのように、街の南部から響く巨大な轟音。帝国兵達の魔法が奏でていた炸裂音とは比べ物にならないような、凄まじい爆音や破壊音が、次々と聞こえてくる。破壊的で、暴力的な力の数々が、矢継ぎ早にそこで行使されていることの表れだ。
その力の持ち主が敵であれば、ゼーレの街の終わりを意味するだけの気配。その力の持ち主が、人類の味方である以上、この戦いに勝利以外の道はないだろう。
「……あの方が、そうなのか?」
「はい……僕も、そのお姿を見るのは久しぶりでしたが……」
やがて、街の南部から響き渡る破壊音がやむ。あれだけいた魔物達が全滅したのか、あるいは黒騎士の撤退に伴って、魔物達も引き下がったのか。あるいは、かの魔導士の破壊的な力に、魔物達が指示もなく撤退を選んだのか。いずれにせよ、決着の気配が届くまでそう時間はかからなかった。
多くの精鋭が苦闘を強いられた末に、一人の人間の登場があっさりと戦況をひっくり返した。それだけの力を持つ魔法使いの存在など、シリカが知る限りでも二人しかいない。その力を行使する姿を見るのは今回が初めてだが、それでもあれがその存在そのものだと確信するには、充分過ぎるものだった。
大魔導士、アルケミス=イブン=ズィウバーク。かつて勇騎士ベルセリウスや魔法剣士ジャービルと肩を並べ、魔王マーディス討伐を果たした勇者の一人。ルオス最強の魔導士と名高いその人物の魔力を思い出し、チータは畏怖を通り越して、戦慄に近い感情を抱かずにはいられなかった。




