4-1
水音は大きかったと思ったが、さいわい誰も聞きつけなかったらしい。
思わず川の水をたっぷり飲んでしまったが(心の準備がまったくできていなかったのだ)、どうやら溺れずにはすんだ。
川から上がったシンカは、この街についたときに隠しておいた装備一式をとりにいった。
(どうせ着替えるつもりだったから、よかったけどさ)
季節は冬。それにもう夕方といっていい時間だ。
早く着替えないと風邪をひいてしまうだろう。
(しかし、アイツ、自身たっぷりにまちがえやがって)
腹を立てたいところだったが、アーニアのあまりにも堂々とした間違えっぷりを思い出すと、シンカは妙におかしくなった。
アーニアが約束の廃墟についたとき、あたりには誰も見当たらなかった。
早く来すぎたか、あるいは、やはりシンカの約束というのはウソで、お人好しにもただ脱獄を手伝ってしまっただけなのか。
アーニアの心に疑心が芽生えたところで、廃墟の影からアーニアが姿を現した。
どこで調達したのか、ひととおりの旅装と、また腰には剣(それはとても見事なものに見える)をひと振り帯びていた。長い髪からは水が滴っていた。
「待たせたかな」
「少しね」
「ところで」シンカは言った。「川に落ちた」
アーニアは、最初、何のことだかわからなかったが、事態を理解すると顔を赤くした。
「……う。あ。それは……」
「まあ、それはいいよ」とシンカは言って、(へえ、こいつこいういう表情すると意外とかわいい)と思った。
「それより、ぼくもできるだけ、早くここを去りたいから、やるべきことをやってしまおうか。まず、どちらを先に?」
「まず杖を渡しておくわ」とアーニア。「川に突っ込ませちゃったし」それにまだ心の準備ができていなかった。
「それはどうも」杖を受取りながら、シンカが言った。「たしかに魔導具〈転移の杖〉だ」
「で、それどうするの?」
たしか彼女は「この杖は返す」というようなことを言っていたはずだ。
「そうだな。じゃあ、悪いけど、こっちの用事を先にすまさせてもらおうかな。少し、待っててくれ」
シンカはそういうと、杖を両手で持ち、その両手を目よりも少し高くかかげながら、アーニアには何かわからない呪文のようなものを詠唱しはじめた。
「エヴァネスカント・オプリメレ・エヴァネスカント」
と、〈転移の杖〉が徐々に鈍く輝きだした。その光はだんだんと強くなっていく。
「アビレ・ノン・レトロ!」
シンカがそうひときわ高く詠唱すると、杖は「ぱきっ」という音を立てて一瞬閃光を発し、そしてそのまま光を失った。
「ありがとう。これでぼくの用事はおわりだ」シンカは、杖をアーニアに返しながら言った。
杖の色形は変わらなかったが、何か違和感があった。以前の杖とは何かがちがう。
「こ、これは? あ、あと、いまのは?」
「それはもうただの杖だ。〈転移の杖〉でもないし、魔導具でもない。そして、いまのはぼくの魔法だ」
「あなた……魔法者だけじゃなくて、魔導具の力まで消せるの?」
「そうだな……」とシンカは少し考えて言った。
「杖を持ってきてくれたことだし、それについても言っておいたほうがいいよね。ぼくの力はすでに説明したとおり、魔法者が持つ魔法の力を消し去ること、だ。そして、いま使ったのもまったく同じ力だ」とシンカは言う。
「……どういうこと?」
アーニアには説明がうまく飲み込めない。
「言ったとおりの意味さ。魔導具というのは、魔法者なんだ。ある禁断の方法で魔法者を道具にしたんだ。魔導、古代魔法が生み出したおぞましい技術だ」
「この杖が……人間!?」
「そうだ」シンカはうなずいて言った。「魔法者の力を便利に半永久的に使えるように、とある古代魔法の術者たちはこの狂った技術を作り出した。それを作り出した技術者が死に、その文明が滅び、その本当の姿が知られなくなってはるか経っても、道具にされた魔法者たちは死ねない。暗い闇の中で永遠に道具として生きている。ぼくがなすべきことは、ぼくが授かったこの力で彼らに彼女たちに安らかな眠りを与えることだ」
アーニアは口が利けなかった。
「それがぼくの仕事だ」シンカが言った。「さて、次はキミの願いを聞いてあげる番だけど……」
「あ、ああ……うん」アーニアは、いま聞いたシンカのとてつもない話にすっかり気を奪われていたが、そこから戻ってくると、しばし躊躇い――ずっとずっと、この問題が自分の人生から離れることはなかった。そして、この問題があること自体も誰にも悟られてはならなかった――しかし、最後に踏み出して、言った。
「わたしは魔法者なの。わたしの力を消してほしい」
それはシンカにとって、予想してない願いというわけでもなかった。
「そうか。なぜ?」
「なぜって……」アーニアは、はっきり答えた。「この力が嫌いだから」
「そうか」シンカはしばし目をつぶって、何かを考えているようだった。「こんなことをいうのはなんだけど、ぼくはこの力で人の力を消すのは好きじゃない。魔導具は人だけど、人は魔導具じゃない」
アーニアの顔が険しくなった。
「……あなたは、わたしの力がどんなものか知らないからよ」
「知ってる」
アーニアにしばしの沈黙。
「……知ってる?」
「知ってる。キミはぼくの力を正確には知らないだろう? ぼくの力は魔法者の力を消せるが、それに付随した力として、魔法者の能力もわかる。人を見れば、そいつが魔法者かどうかはだいたい判別はつくし、相手に触れることができれば、その力の概要もわかる」
アーニアは、一昨日の出来事を思い出した。たしかあのとき――わたしはシンカの手を。
「ひ、卑劣ね。ひ、人の秘密を勝手に……!」
「あれは、キミが勝手にぼくに触れてきたんだ」とシンカは指摘する。
「そ、それはそうだけど……」
「でも、人の隠していたことを一方的に覗き見たのはたしかだ。その点は悪いと思っている」
「……それで、あなたはわたしの力を知っているのね?」
「そうだ」
シンカは、あのときはっきり知った。
アーニアの強大な力を。
アーニアははっきり知った。
シンカに自分のこのおそろしい力が知られているということを。
忌まわしい殺戮の力を。この世界でもっとも呪われた行いを、いともたやすく成し遂げる力を。
アーニアは、人の命を奪うのに、何の困難も要らない。
条件は、ただ相手を視認していることだけ。あとは、それを見て、その死を念じるだけ。それだけで、相手は何が起こったかわからずに、ただ死んでいく。
十年前のあの日のように。あの多くの死体たちのように。
アーニアは思い出す。
平穏なはずの/突如/襲撃/歓声/剣戟/悲鳴/恐慌/嘆願/暴力/流血/悲鳴/怒号/沈黙
「死にたくない」/「この子だけは」/「助けて」
(死にたくない)/(助けて)
力の行使
死体/死体/死体/死体/わたしが殺した/わたしが作った死体/死体/死体/死体/沈黙/死体/沈黙/沈黙/夜/闇
しばらく間があって、アーニアが口を開いた。
「この呪われた力を、あなたは、消したくないというのね」
「ん。そうだね」
「わたしが、この、この力で、それで、どんな思いをしたのか、知らない、くせに」アーニアが言った。
「もちろん、よくは知らない。ただほかにもうひとつ言っておくことがある」アーニアの目をまっすぐ見て言う。「魔法者の魔法の力は、その人の魔力や精神や生命力に、程度の差はあれ、かかわりがある。だから、魔法の力を消し去って、まったく何も問題がないというわけにはいかない。強力な力であればそのかかわりも深い場合が多い。キミの場合も死んだりはしないだろうし、別に人格や性格が変わるということはないと思う。少し身体は弱くなるかもしれないが、生きるのに支障があるわけでもないははずだ。でも、魔力は確実に減退する。近代魔術も、旧魔法も根っこの根っこのところでは同じだ。キミはたぶん、近代魔術師として、たぶん二流以下の存在になるだろう。少なくとも一流に留まっていることは無理だ」
「……」
予想もしなかった副作用。
そして、思ったより――もちろん、予想しなかった事態に対して思ったよりもないが――大きな衝撃。
アーニアは知った。
わたしが、誰からも認められる近代魔術師になろうと思っていたのはなぜか。それは、近代魔術を修めることによって、魔法者の自分を上書きしたいと思ったからだ。
しかし、いま、その魔法者としての自分を消し去ることができれば、魔術師としての自分はどうでもよいとはアーニアには思えなかった。自分がいま、すでに魔法者の自分を克服することとは別の水準で、魔術師であることに誇りを持っている、ということを自覚した。
「君の魔術師としての素質と力はすごいと思う。ぼくが見せてもらったのはほんの一瞬だったけど、あの力を消し去りたくはない。ぼくの力は、呪われたものを消し去るのだけに使いたい」
「私の力だって、呪われている」
「ちがうよ」とシンカは言った。
きっぱりとした言い方だった。
「魔導具のようなものとはちがう。キミはその力を自分の意思で使える。ほかの武器や魔法といっしょだ。武器はひとを傷つけるために存在する。だからといってそれを呪われているとはぼくは思わない。ぼくのこの剣も、多くの人を傷つけてきた。でもそれは、ぼく自身やぼくの大切なものや人を守るために、ぼくの意思でやったことだ。キミの力もそれと同じだ」
「でも、私の力はそんな剣とはちがう。一方的に……、相手は何をされたかもわからずに……」
「本質的には同じだよ。その力を使ってキミは生き延びたんだ。言っておくけど、それでキミが生き残ったことはなにも悪いことじゃない」
「……」
「それを責めることができる人間はだれもいない。キミ自身を含めて」
アーニアは黙っていた。
「それにキミは、その力を自分の欲望や、ちょっとした不都合を解消するために使ったりはしなかったはずだ。これからもしないだろう。一昨日だって、その力を使えばあのチンピラたちを片付けることは造作もなかったはずだ。でも、キミはそれをギリギリまで使おうとしなかった。キミは自分の意思でその力をコントロールできる。だったら、それを消し去る必要なんてない。いままでと変わらずにその力を持っていてなんにも困らない」
「わたしは、それをちゃんといつでも、使わないでいられるかどうかの、自信は、ない」
「なんでもそうだ。でも、キミはたぶんそれをきちんと使える側の人間だ」
シンカの言い方は、すごくあっさりしていた。
あっさりしていているけど、それはシンカが本当にそう思っているから、ということがアーニアにはわかった。それがうれしかった。
シンカは、消し去らないと言ったけど、いまそれを消し去ってしまった、ということがわかった。アーニアは自分が消し去ってほしいと思っていたものが、この力そのものではないということにはじめて気づいた。
力は消えない。後悔も消えないかもしれない。葛藤は続くだろう。試される時は長い。
でも――。
いま、アーニアはそれを受け入れることを決めた。
自分の心と未来がぱかっと開かれたように思った。
「ところで……」とシンカは、アーニアがもう魔法者としての力を消し去らないことを決めたことを知っているかのように話を継いだ。「君はこれからどうするんだ?」
そう言われてアーニアは、はっとした。
そうだ、私はこれから何をしよう。
いままでは魔法者としての自分を否定するために戦ってきた。でも、それはもう重要なことではなくなった。近代魔術の勉強を続けようか。冷静に考えればそれがいちばんよいように思われた。
しかし――。
アーニアは思う。私は学院でいろいろ勉強した。父や先生たちの指導は本当にありがたかった。魔術を学ぶことには、充実感もあったし、楽しさもあった。それは魔法者としての自分の克服ということを離れても、後悔しない生き方だった。
だが、この一週間で私はさらにいろいろなことを知った。
ニッケスさんやテテロサさんから聞いた話(そこでアーニアはニッケスがいまこの世にいないことを思い出したが、やはり実感はわかなかった)。この世界は大きくて、そこには様々な国があり、人が住んでいる。戦士の人たちは、戦士としての技術と誇りを持って仕事をこなしていた。
魔法者の人たち。
今でも学院のやり方がまちがっているとは思わない。でも、昨日の夜に見たあの人たちの心が抜けたような姿がどんなものか、私は自分でそれを見るまでは想像したこともなかった。その人たちに学院が行う処罰を見て、私はそれがとてもイヤだと思った。まちがっているとは思わない。でもそれについて考えたこともない昨日までの自分がとてもイヤだと思った。
〈魔導具〉という神秘の道具を目の当たりにした。その素晴らしい魔力に感銘を受けた。そしてすぐあとに、それにおぞましい由来があることを知った。
そして、そして、そして。
この少女に出会った。
いろいろな思いが交錯して、何か言葉を出そうと、口をかすかにぱくぱくさせているだけで、立ち尽くしているだけのアーニアに、シンカは何かを言いかけた。
しかし、その瞬間、突然身をひるがえして、その場から飛び去った。
「!!」
シンカがいましがたまで居たちょうどその場所に、魔術弾が着弾する。
ずしょっ、という音がして地面がえぐれて、土が飛び散る。
身をかわしたシンカはすぐに体勢を立て直して、いま魔術弾が来た方向をにらむ。
「シンカ!」
アーニアはそう叫ぶと同時に、対魔術の結界を展開する。
範囲はふたりが入れればいいのだから最小限でよい。
シンカはすばらくアーニアに身をよせる。
密着したふたりの身体を、実に見事な結界が包み込む。
結界の展開を終えたアーニアに、ようやく魔術弾が飛来した方向にいる人物を確認する余裕が生まれ




