『日常茶飯事』
生き物が死ぬ事自体は悲しいモノではない。
痛覚とは生物に共通してある反射行動。
しかしまぁ何故そんなものがついているのだろう。そんなものがついているから、こんな状況になった。
車に轢かれた―。
足を引きずりながら道路を歩いていたら轢かれた。もはや一人では起きれない。猫の手も借りたいとはこの事か・・・、皮肉な事ニャ。しかもまだ痛いし、血が止まらない。助けを呼びたいが、呼ぶ手段が無い。声が出せない。首は動かせるか。
あ・・・、内臓が出てる、グロっ・・・!?
これはもう尋常ではないらしい、私はきっと死ぬんであろうな。こんな浮浪者を誰が今更助けてくれるというんだ・・・。否、私は分かっていてこの生き方を選んだのだからそんな権利も無い。
主張も奇怪だな、フフフ。
『猫の手も借りたい』とは・・・、フフフ。
・・・。痛みが引いてきた・・・。というよりこれは感覚が無くなってきたというべきであろうか?痛みが無くなっていく事に次第に恐怖を感じてくる。怖い、これだから痛みなんてなくていいというのに。いや、痛みがあるから気をつけなければいけないのか・・・、ならば私のせいだな。
痛みがあるから痛みに気が付く。
痛みが無いから傷つける。
車で私を轢いた人間も、痛み伴わないから罪悪感を感じないのであろう。いや、罪悪感とは意識下に無ければ感じるもないもないのか。ならば気が付いていないのならば罪では無いな。いやむしろこの罪悪感を感じるという自体、穿った見方であろうか。フフフ、轢いた人間からすれば自分には関係の無い事柄なのだから。
他者の痛みに他者が気がつけるのも、自分がその痛みを知っているからなのだろう。他者を痛みによって理解するとは・・・面白いな、人とは。
・・・・。
普段の私はこんなに難しい事考えられないというに、フフフ、今日はどうしたというんだ?…眠たくなってきたよ。
では・・・そろそろこの世からおさらばするとしようか・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
そこへ一台の車が来る。
男が彼の顔を覗き込む。
「・・・・・・」
もう一人の男が車から降りて、彼をじっと見ている男に問いかける。
「それー!何だったー?」
男は哀愁漂う顔で男に答える。
「ただの猫だよ」
自分が死ぬ事をよく考える。それは色々な事から逃げたいがための口実、関心を浴びたいという羨望などが原因だったりする。
実際死んだらどうなるのか?正直こんなもん。この小説みたいに呆気ない、味気ない、陳腐なもんだと思う。死にたいやつは死ねばいいと思うし、ソイツはどうしようもない馬鹿だとも思う。
僕なんか特に馬鹿だといつも思う。
だからこう書いとこう。
『死んだって、何も変わらない。未来に期待しようが過去に羨望しようがお前はずっとお前のままだと』
ホラ、悔しいから生きたくなった。