聖女様の琥珀に十二年閉じ込められていた羽虫ですが、保存状態が良すぎたので証拠物件として提出します ~前世・博物館標本士、異世界では虫けら扱いの第三補佐官~
「ユリア・ヴェントよ。十二年の無断欠勤により、貴様を聖遺物管理室から追放する」
聖堂の高い天井に、王太子アルブレヒトの声が響いた。
私は机に突っ伏していた姿勢から、ゆっくりと顔を上げた。
まず、羽ペンを置く。
それから、インク壺の蓋を閉める。
乾くと、もったいないので。
「……ええと。少々お待ちを」
「この期に及んで何をしているのだぁ!」
「インク壺の蓋を、閉めますので」
かちり、と小さな音がした。百人を超える貴族たちが集う聖堂で、その音だけがやけにはっきり響いた。
私は立ち上がり、袖口の擦り切れた灰青色の事務服の裾を整えた。
「では、出勤簿を確認させてください」
ざわり、と扇の音が波のように広がる。
王太子は金の前髪をかき上げ、鼻で笑った。
「出勤簿だとぉ? 十二年だぞぉ。十二年、貴様は一度も管理室に姿を見せなかった。欠勤届も、退職届もない。これは職務放棄だ」
「はい」
「はい、とは何だ!」
「十二年間、私が管理室の外にいなかったことは事実です。ただ、順序が逆でして」
私は右手の指を、三本折った。
癖だ。
十二年間、動かせなかった指で会話を数え続けた名残。
重要なことを言う前には、必ずこうなる。
「……は?」
「私は管理室に来なかったのではなく、管理室から出られなかったんです。棚の、一番奥から」
王太子の隣で、白金の髪を結い上げた女が、ほんの一瞬だけ、右の口角を下げた。
聖女リーゼロッテ・フォン・エルデン。
この国の奇跡。
『祝福の琥珀』の主。
――そして十二年前の深夜、私の背後から樹脂を浴びせた人。
彼女はすぐに表情を作り直し、両手を胸の前で組んだ。
「まあ……おかわいそうに。十二年も行方知れずでしたのね。主の御加護がありますように」
私は、そこで初めて彼女のほうを向いた。
まだ、正面からは見ない。順序というものがある。
「聖女様。今、私はまだ『十二年』としか申し上げておりません。行方知れずだったとは、誰も」
聖堂が、しん、と静まった。
「……言葉の綾ですわ」
「ええ」
私は頷いた。
「綾は、記録に残ります」
◇
三ヶ月前の話をする。
聖遺物管理室の、一番奥。
埃と黴と古い紙の匂いが層になった、誰も来ない区画。
そこに十二年間、私は立てかけられていた。
薄い琥珀の膜に包まれて。
目を閉じることも、まばたきすることもできずに。
整理番号、第四〇三号。
品名、『人型琥珀標本・作者不詳』。
――作者不詳。
笑えた。笑う筋肉も動かなかったけれど。
その樹脂の配合を発案して調合したのは、十六歳の私だったのに。
前世の記憶が、私を正気に保った。
現代日本の自然史博物館。標本室。
私は何千という虫を樹脂に沈め、ラベルを書き、整理番号を振る仕事を十年続けた。そして過労で倒れて、気づけば異世界の下級官吏の子に転生していた。
前世の記憶は、ほとんど薄れている。
家族の顔も、好きだった歌も、曖昧だ。
ただ『虫の保存』と『記録の作法』だけが、異様に鮮明に残っていた。
琥珀の中の虫は、何万年経っても羽の鱗粉一枚まで完璧に残る。腐らない。朽ちない。変わらない。
それは呪いであると同時に、私にとっては職業だった。
だから私は決めた。
腐らないなら、記録しよう、と。
聞こえてくる会話を、一語も逃さずに暗記する。
日付は、朝の清掃の回数で数える。
月は、祭の鐘の音で数える。
年は、冬の湿気の匂いで数える。
十二年分。
四千三百八十一回の朝。
毎朝、柔らかい布が私の頬を拭った。
老いた手が、ゆっくりと、丁寧に。
「おはよう、お嬢さん」
彼は毎朝そう言った。
私はその声で、自分がまだ人間であることを確認していた。
月に一度、夕刻に足音がした。
白い外套の裾。眼鏡。黙って棚の前に座り、四半刻だけ、何も言わずに去っていく男。
百四十四回。
それから、時おり通りかかる磨かれた靴。手袋の指が、私の琥珀の表面の埃を払っていく。
優しさではない。礼装が汚れるのが嫌なだけだと、三年目で気づいた。
――そして三ヶ月前の、春の嵐の夜。
地震か、床の腐食か、あるいは十二年分の重みか。
棚が倒れた。
私の琥珀にひびが入り、空気が入り込み、十二年ぶりに樹脂が呼吸した。
割れる音は、思っていたよりずっと小さかった。
「うわあああっ、何っ、何なの、棚っ、棚がっ――ひっ、人っ!? 人が入ってる!?」
赤毛の少女が、悲鳴を上げながら私を引きずり出した。
十二年ぶりの空気は、埃の味がした。
十二年ぶりの声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
私は彼女の手の中で、まず天井を見た。
次に、自分の手のひらを見た。
十六歳のままの、小さな手。
琥珀は時を止める。
中のものを、完璧に、残酷に、保存する。
「……あの」
私は言った。十二年ぶりの、最初の一言。
「手順書、まだ使ってくださってるんですね」
少女の手元に落ちていた、見覚えのある手書きの冊子。
余白に、私の字で書いてある。
『虫は潰すな、数えろ』
彼女は三秒固まった。
そして絶叫した。
「せ、先代の先代の先代のせんぱあああああいっ!?」
◇
解放されて最初にしたことは、復讐の計画ではない。
風呂だった。
「ちょっ、先輩!? 湯が熱すぎますって! 普通その温度は無理ですから!」
「十二年ぶりなので、感覚がまだ戻っていないんです」
「戻してから入ってくださいよ!」
ノエル・ハーケン、十七歳。私の後任の、六人目。
彼女は叫びながら、桶で水を足してくれた。
腰まで伸びた亜麻色の髪を、自分の手で洗う。
指の間を、十二年分の埃と樹脂のかけらが流れていく。
泡が、灰色から、やがて白に変わった。
そこで私は、少しだけ手を止めた。
泣いたわけではない。ただ、指が自由に動くことを、何度か確認していただけだ。
風呂から出たあとは、洗濯をした。
「いや先輩、それは明日でいいでしょ!」
「だめです。生きている人間は、まず洗濯をするんです」
「格言みたいに言いますけどそれ何なんですか!」
「標本は洗濯をしません」
彼女は黙った。
私は十二年前と同じ型の事務服を、井戸端でごしごし洗った。袖口はもう擦り切れていたけれど、新調の申請書が受理されていないので仕方がない。
それから、食事。
固いパンをスープに浸して、三杯食べた。
「……三杯目ですよ、先輩」
「四杯目もいけます」
「胃が! 十二年休んでた胃が壊れますって!」
「大丈夫です。琥珀の中では、胃も止まっていたので」
「それ全然大丈夫じゃないやつでは!?」
パンは固かった。塩気の強いスープは、舌が痺れるほど熱かった。
生きている味がした。
その夜、ノエルは自分の寝巻きを貸してくれた。十七歳の彼女の寝巻きは、十六歳の姿の私には丈が余りすぎて、袖を三回折らなければならなかった。
「先輩、袖、ばかみたいですよ」
「ええ。ばかみたいですね」
二人で笑った。
そこだけは、十二年の重さがなかった。
寝台に横になって、天井を見る。
十二年ぶりの、横になるという姿勢。
「……先輩」
暗闇で、ノエルが言った。
「誰が、やったんですか」
私は右手の指を、三本折った。
「知っています。名前も、声も、その夜に何を言ったかも、全部」
「言わないんですか」
「言います。でも、泣きながら言っても誰も信じません」
私は目を閉じた。
「書類を揃えてから言います。三ヶ月ください」
「……三ヶ月で足ります?」
「足ります。保存状態が、良すぎるので」
◇
話を聖堂に戻す。
「くだらん」
王太子アルブレヒトは手袋の指で、椅子の肘掛けを払った。
十二年間、そうやって私の琥珀の埃も払っていた、あの動き。
「書類だと? 貴様のような下級官吏が、何を持って来るというのだ」
「三点です。宰相閣下、ご確認をお願いできますか」
白髪交じりの宰相ヘルマン・ドルシュが、銀縁の眼鏡を押し上げた。手には、いつもの小型の計算盤。
「……述べなさい。それは記録にあるのか」
「一つ目。聖遺物管理室の在庫台帳、原本です。――ノエル」
聖堂の扉が開いた。
「はいぃぃっ! 持ってきました! 落としました! でも原本です! 原本ですからねっ!」
赤毛の少女が、分厚い台帳を抱えて駆け込んでくる。途中で一度落とし、拾い、また抱え直した。
「ありがとうございます、ノエル」
「いえあの、あたし膝が笑ってて」
宰相が台帳をめくる。乾いた紙の音が、聖堂に響いた。
「……聖遺物第四〇三号。『人型琥珀標本・作者不詳』。受入日は、十二年前、春の月の四日」
彼の指が止まった。
「それ、先輩の最終出勤日の……翌朝ですよねっ!?」
ノエルの声が裏返る。
貴族席が、ざわりと揺れた。
「偶然であろうが。標本の一つや二つ」
王太子が吐き捨てる。
「二つ目です」
私は抱えていた布包みを台に置き、ほどいた。
掌ほどの、琥珀の破片。
内部に、灰青色の繊維が数本。そして――樹脂が固まりきる前に押しつけられた、五本の指の跡。
「私の体から剥がした、琥珀の破片です。内側に、私の制服の繊維と、押しつけられた手の形が、そのまま残っています」
「十二年前の指の跡ですって?」
聖女が笑った。澄んだ、計算された笑い方だった。
「そんなもの、残るはずが」
「残ります」
私は静かに言った。
「琥珀は腐りません。音も、匂いも、嘘も、全部そのままです」
「下級官吏が知った風な口をきくな」
「知っております」
私は王太子を見た。
「前世で十年、虫を樹脂に沈めてラベルを書く仕事をしていましたので。何万年前の羽の鱗粉だって残るんです。十二年など、昨日のようなものですよ」
「前世だと? 気が触れたか!」
「触れていたら、三つ目は暗記できませんでした」
私は右手の指を、三本折った。
「三つ目。琥珀の中で聞いた、十二年分の会話記録です」
聖堂が、静まった。
宰相が、計算盤を手元に引き寄せた。
「……日付は」
「夏の月の十一日、夕刻。管理室前の廊下。女性の声。『樹脂の原料、南方産は高すぎますわ。東方の代替品に差し替えても、誰も気づきません』」
私は、琥珀の中で聞いたとおりの抑揚で続けた。
「男性の声。『差額はどうする』。女性の声。『半分ずつ。帳簿は祈祷料に計上なさって』。――銀貨で、千八百二十枚」
かちり。
宰相の計算盤の珠が、一つ動いた。
「……金額は、一致します。続けなさい」
「冬の月の三日、同所。『今月は二千四百。薬価の改定前に、在庫を流してしまいなさい』」
かちり。
「やめなさい」
聖女の声から、祈りの文句が消えた。
「春の月の二十九日。『産地の書き換えは誰が』『管理室の第二補佐官に。あの者は字が上手ですから』」
「やめなさいと言っているでしょう!」
かちり。かちり。かちり。
珠が鳴るたびに、聖堂の温度が一度ずつ下がっていく。
「十七件あります」
私は言った。
「日付と、時刻と、金額と、話者の声の高さまで」
宰相は帳面を開き、珠を動かし続けた。
一度。二度。三度。
やがて彼は顔を上げ、眼鏡の奥の目を細めた。
「……出納簿と照合します」
長い沈黙。
「……整合します。十七件、すべて」
「ぜ、全部合ってる……先輩、怖……いや、すごい……いやっぱり怖い……」
ノエルの呟きが、やけに響いた。
◇
「虫けらの言うことを信じるの!?」
叫んだのは、聖女リーゼロッテだった。
慇懃な敬語が剥がれ落ちて、地の高さの声が聖堂に跳ねた。
私は、初めて彼女を正面から見た。
「…………虫けら」
「そうよ! 管理室の塵みたいな事務方が、聖女たるわたくしに何を――」
「リーゼロッテ様」
私は遮った。
大きな声ではない。むしろ囁くくらいの声だったのに、聖堂の誰もが黙った。
「今日この聖堂で、私を『虫けら』と呼んだのは、あなただけです」
「……っ」
「殿下は『下級官吏』と仰いました。宰相閣下は『ヴェント補佐官』と。貴族の皆様は、何も仰っていない」
私は一歩だけ前に出た。
「私は琥珀の中で、その呼び名を三千回以上聞きました。『あの虫けらの標本はまだあそこ?』『虫けらのくせに手控えを書くから』『虫けら一匹で奇跡が買えるなら安いもの』」
聖堂の空気が、ぴしりと音を立てた気がした。
「ち、違う、わたくしは比喩で――」
「あなたは今、ご自分が何を標本と呼んできたかを、ご自分で白状なさいました」
私は宰相のほうを向いた。
「閣下。琥珀片の鑑定を」
「……鑑定術師長」
壁際の柱の陰から、白い外套の男が歩み出た。
黒髪。眼鏡。灰色の半眼。
誰と話すときも三歩分の距離を空けて立つ、無愛想で冷徹で誰も信じないと噂される男。
王立鑑定術師長、レオン・アーレンス。
十二年前、虫の羽の数え方を私に教わった、十三歳の助手。
彼は私の前を通り過ぎるとき、一度も私を見なかった。
代わりに、その袖口が、わずかに震えていた。
レオンは琥珀片を台に置き、両手をかざした。
鑑定術の光が、琥珀の内部をゆっくりと走っていく。
十数える間。誰も、何も言わなかった。
「……封入時刻」
低い声。句点の多い、短い喋り方。
「十二年前、春の月の三日。深夜二刻」
彼は顔を上げた。
「使用術式、『静止封印』第三位階。封入術式の署名――リーゼロッテ・フォン・エルデン」
「嘘よ! 署名など偽造できるわ!」
「できない」
レオンは、彼女を見もしなかった。
「術式署名は、術者の指先の樹脂反応から読む。筆跡と同じだ」
彼は、ようやく一度だけ視線を上げた。
「……あなたは毎朝、指に樹脂を一滴垂らして固め、剥がしている。十二年間。爪の端が白く濁るほどに」
リーゼロッテが、咄嗟に両手を背に隠した。
「あっ、手っ! 聖女様、今、手を後ろに隠しましたよね!? 隠しましたよねぇっ!?」
ノエルが叫んだ。
隠した。
その動作を、聖堂の全員が見た。
「……隠されましたね」
私は言った。
「もう、何も仰らなくて結構です」
◇
「待て」
王太子アルブレヒトが立ち上がった。
「待て、私は知らなかった」
「夏の月の十一日、夕刻。『差額はどうする』と仰ったのは、殿下です」
「聖女に勧められただけだ! 国庫の効率化だと聞かされて――」
「冬の月の三日。『今月は二千四百。在庫を流してしまえ』」
「っ、数字の意味までは、私は正確には」
「秋の月の七日。『管理室の人間が気づいたらどうする』」
王太子の喉が鳴った。
私は右手の指を、三本折った。
「――そして、その次の一言です、殿下」
聖堂が、しん、と静まる。
「……」
「『あそこの連中は人ではない。書類の欄だ』」
貴族席から、小さな、しかしはっきりとした嫌悪のざわめきが上がった。
「ち、違う、僕は――」
一人称が、崩れた。
「僕は、そんな、そこまでは、僕は知らな……」
「殿下」
宰相が、計算盤を閉じた。
かちん、と乾いた音。
「出納簿との整合は、十七件すべてで確認されました。その十七件すべてに、殿下の決裁印が押されております」
「……」
「十二年前、春の月四日。聖遺物第四〇三号の受入決裁印も、殿下のものです」
王太子は、何も言えなくなった。
そして、椅子に座り込んだ。
座り込むというより、崩れ落ちたという方が近い。
磨かれた所作も、仕立ての良い礼装も、そこでは何の役にも立たなかった。
「……あの」
そのとき、場違いなほど大きな声が上がった。
ノエルだった。
「あの、すみません、あたし下っ端なんで口を挟むのもあれなんですけど、一ついいですか」
「……述べなさい」
宰相が許した。
ノエルは、台帳をぎゅっと抱え直した。
「十二年ですよ、十二年! 人が一人、棚の隅に立てかけられてたんですよ! 毎朝、拭かれてたんですよ! 誰もおかしいと思わなかったんですか!」
声が、裏返った。
「それを今さら『無断欠勤』で片付けようとして――そこぉぉぉっ!? 処理する欄がそこぉぉぉっ!?」
聖堂に、彼女の声が反響した。
誰も、何も、言わなかった。
言えなかった。
それが、この国の十二年だった。
◇
「……あのぅ」
聖堂の隅で、かすれた声が上がった。
腰の曲がった老人が、作業着のまま、羽根ばたきを握りしめて立っていた。
聖遺物管理室の清掃係、ギルベルト・ヴァイス。六十八歳。
「わしは、ただの、掃除夫でして」
文の途中で、一度息を継ぐ。
「……申してみなさい」
宰相が言った。
「場違いなのは、わかっとります。けんど、書類を出せと、お嬢さんが」
彼は震える手で、作業着の内ポケットから紙の束を取り出した。
黄ばんで、角が丸くなって、何度も折り畳まれた紙。
「名札の、申請の控えです。却下された分、十一枚」
「名札……?」
貴族席の誰かが呟いた。
「第四〇三号に、名前の札を、つけてやりたかったんです」
老人は、言葉を探しながら続けた。
「『作者不詳』じゃ、かわいそうでしょう。どんな物にも、名前は要ります。……誰かが拭いてやらにゃ、埃をかぶりますしな」
「ギルベルトさん」
私が言うと、彼はしわくちゃの顔をこちらに向けた。
「毎朝、おはよう、と言ってくださいましたね」
「……へえ」
「四千三百八十一回です」
老人の目が、ゆっくりと見開かれた。
「全部、数えていました。あなたの布の感触だけが、私の暦でした」
羽根ばたきが、床に落ちた。
宰相が、その十一枚を受け取った。
一枚ずつ、めくる。
紙の音が、聖堂に響く。
三枚目で、彼の手が止まった。
六枚目で、また止まった。
九枚目で、彼は長く息を吐いた。
「……この十一枚のうち、三枚に」
宰相ヘルマン・ドルシュは、銀縁の眼鏡を外した。
「私の決裁印があります」
「えっ」
ノエルが息を呑む。
「十二年前、私はこれを『些事』として処理しました。聖遺物の名札一枚に、宰相府の時間を割く必要はない、と」
彼は眼鏡を畳んで、机に置いた。
「もしあのとき一枚でも受理していれば、第四〇三号の鑑定が入り、十二年は十二日で終わっていたでしょう」
誰も、何も言わない。
「……ヴェント補佐官」
「はい」
「……私の不備です。記録に残してください」
彼は、深く頭を下げた。
言い訳を、一つもしなかった。
椅子に座り込んだ王太子と、両手を背に隠した聖女と。
その二人の前で、宰相ひとりが頭を下げていた。
その対比が、聖堂の全員に、この裁定の結論を教えていた。
「頭をお上げください、閣下」
私は言った。
「十一枚の控えを、十二年保管してくださった方がいました。それで十分です。――記録は、残っていました」
宰相は、ゆっくりと顔を上げた。
「……では、これより聖遺物第四〇三号に関する裁定を開始します」
彼の声は、もう震えていなかった。
「聖女リーゼロッテ・フォン・エルデン、ならびに王太子アルブレヒト殿下――両名の身柄を、拘束します」
◇
裁定が終わり、人の波が引いた聖堂に、夕日が差し込んでいた。
私は、柱の陰に立っている男のところへ歩いていった。
レオンは、三歩分の距離を空けたまま、動かなかった。
「……レオン」
「……」
「毎月一日の夕刻でしたね。四半刻。何も言わずに、私の前に座って」
彼の肩が、わずかに動いた。
「――百四十四回、数えました」
長い沈黙があった。
夕日が彼の眼鏡に反射して、表情を隠していた。
やがて、彼は言った。
「……気づいていた」
「はい」
「受入帳簿を見た。春の月四日。『人型琥珀標本・作者不詳』。前日、君がいなくなった」
「はい」
「十三だった。誰も信じなかった。助手の子どもの言うことだ」
「……割ろうとは、なさらなかったんですか」
「した。何度も」
彼の手が、外套の内ポケットに触れた。
「……だが調べた。静止封印は、外から破ると内部の時間が一気に流れる。十二年分が、一瞬で」
「……死にますね」
「死ぬ」
彼は、ようやくこちらを見た。
「だから待った。自然にひびが入るまで。署名を読める位階に上がるまで。――十二年」
鑑定術師長。最年少。出世欲の塊と噂された男。
それが全部、たった一つの棚の隅のためだった。
「聖女の琥珀の公式鑑定を、ずっと拒否なさっていたと聞きました」
「鑑定したら署名が出る。出れば、俺は消される。位階に届く前に」
「はい」
「だから拒んだ。変人と言われた。構わなかった」
彼は、内ポケットから何かを取り出した。
紙片だった。
黄ばんで、角が擦り切れて、文字がほとんど消えかけた、小さな紙。
標本ラベル。
十二年前、私が書いたもの。
「……それは、何ですか。内ポケットの」
「……ラベルだ。十二年前、君が書いた」
「文字が、ほとんど消えかけていますね。書き直さなかったんですか」
「書き直したら、君の字でなくなる」
私は、右手の指を三本折った。
折ってから、言うことが見つからなかった。
十二年、暗記したはずの言葉の中に、これに合う台詞は一つもなかった。
「…………」
「……」
「……お腹が、空きましたね」
結局、出てきたのはそれだった。
レオンは、少しだけ目を見開いた。
それから、黙って外套の下から布包みを出した。
「……ある」
焼きたてのパンだった。
まだ、温かかった。
「パン。まだ温かい」
「……腹が減ると、人は判断を誤るので」
「それ」
私は、笑った。
十二年ぶりに、笑った。
「十二年前に、残業していたあなたに私が言った台詞です」
「……覚えている」
「覚えてるんですね」
「全部」
彼は、三歩分の距離を、一歩だけ詰めた。
◇
聖堂を出る階段のところで、ギルベルトが待っていた。
作業着のまま、何かを両手で包んで。
「お嬢さん。あの、その、ですな。……これを」
震える手を、差し出す。
小さな、木札だった。
手のひらに収まるくらいの。
表面がつるつるに磨かれていて、縁が何度も削り直されていて、角が全部丸くなっている。
そこに、不器用な彫り文字で、こう刻まれていた。
『聖遺物管理室 第三補佐官 ユリア・ヴェント』
「……木札」
「十二年、彫っとりました。名前の欄だけ、空けて。……名前が、わからんかったもんで」
「……」
「今朝、やっと、書き入れました」
私は、それを受け取った。
木は、軽かった。
琥珀より、ずっとずっと軽かった。
前世で、私は何千という標本にラベルを貼った。
採集地、採集日、学名、採集者名。
名前のない標本は、ただの死骸だ。
名前がついて、初めて標本になる。
私は十二年間、名前のない標本だった。
木札を、胸に当てた。
木の、乾いた匂いがした。
「……あ」
喉の奥から、知らない音が出た。
十二年間、泣けなかった。
涙腺も、琥珀の中で止まっていたから。
断罪の間も、聖女の前でも、王太子の前でも、一滴も出なかった。
それが、今。
木札一枚で、全部、決壊した。
「あ、ああ、あの、お嬢さん、わし、何か、悪いことを」
「違います」
私は首を振った。
振りながら、涙が止まらなかった。
「違うんです、ギルベルトさん、ただ、……名前が、ありました」
老人は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、節くれ立った手で、私の肩を一度だけ、ぽん、と叩いた。
「……おかえりなさい、お嬢さん」
階段の下で、ノエルが台帳を抱えたまま、ぼろぼろ泣いていた。
「うっ、うぇっ、せんぱ、せんぱいぃぃ……」
その隣でレオンが、何も言わずに自分の外套を脱いで押しつけていた。
「……鼻を拭け」
「外套で!? 鑑定官の外套で鼻かむんですか!?」
「……袖口はもともとインクで汚れている」
「理屈がおかしいんですよ!」
私は、泣きながら笑った。
一度だけ、泣いた。
それで、十二年を終わりにした。
◇
半年後。
聖女リーゼロッテ・フォン・エルデンは、自分が国に導入させた『静止封印刑』の最初の適用者になった。
彼女が「野蛮な地下牢より人道的ですわ」と言って制度化した、あの刑だ。
期間、十二年。
彼女はそれを聞いた瞬間、叫んだらしい。
「そんなものは生き地獄です!」
宰相は、こう返したと聞いた。
「記録に残しなさい。――それが、あなたの作った制度の、唯一正確な説明です」
王太子アルブレヒトは廃嫡された。
爵位も領地も剥がれ、北の鉱山監督官付き書記として送られた。
仕事は、出勤簿の記帳。
毎朝、人の名前を、一人ずつ書くのだそうだ。
『祝福の琥珀』は奇跡ではなく時間停止の樹脂であると公表され、国庫は本物の薬学研究へ予算を移した。
病は、止めるのではなく治すものになった。
十年かかる、と医師たちは言っている。
十年。
十二年より、短い。
――そして、聖遺物管理室。
私は戻った。新しい制服の申請は、三日で受理された。十二年分の未払い給与も、宰相が利息をつけて計算盤で弾き出した。
管理室の奥、棚が倒れたあの区画に、私は新しい標本棚を作った。
並んでいるのは、聖遺物ではない。
ただの虫の琥珀だ。
甲虫。蜂。羽の透けた蜻蛉。
一つずつ、私が樹脂に沈め、ラベルを書き、整理番号を振った。
「……先輩。半年経ちましたけど、これ、何の意味があるんですか。虫の琥珀、こんなに並べて」
ノエルが首を傾げた。
「嫌じゃないんですか。琥珀」
私は羽ペンを置いて、インク壺の蓋を閉めた。
「虫は、閉じ込めるためじゃなく、残すために琥珀に入れるんです」
「……残すため」
「ええ。千年後の誰かが、この羽の数を数えられるように」
私は、棚の一番上を指さした。
そこには、何も入っていない空の琥珀が一つ。
その下に、小さな木札。
『聖遺物管理室 第三補佐官 ユリア・ヴェント』
「あ」
ノエルが、手順書を取り出した。
「あの、先輩。あたし、一行だけ書き足していいですか」
「どうぞ」
「いいんですか!? 先代の先代の先代の先輩の手順書ですよ!?」
「現役の第三補佐官が二人いるんです。書き足さないと、仕事になりません」
彼女は、震える手でペンを取り、余白に書いた。
『棚の下は、毎日のぞくこと』
私はそれを見て、何も言わなかった。
言わずに、お茶を淹れた。
夕方。
管理室の扉が、ノックもなく開いた。
「……パンだ」
「ありがとうございます」
彼は三歩分の距離を空けて立ち、布包みを机に置いた。
焼きたてのパン。
「……そちらの手の中のものは」
「……庭にいた。後翅が、半分ない」
両手でそっと包んでいたのは、羽の欠けた蝶だった。
片方の後翅が、半分ない。
まだ、生きている。
「標本にしますか?」
私が聞くと、彼は答えなかった。
ただ、灰色の目でこちらを見ていた。
答えを、知っているくせに。
「いいえ」
私は立ち上がった。
「――逃がします」
窓の掛け金を外す。
「窓!? その窓、十二年開いてませんよ、建て付け最悪ですって!」
「……押す」
レオンが、無言で隣に立った。
三歩分の距離が、なくなっていた。
二人で、押した。
窓が開いた。
夕暮れの風が、どっと流れ込んでくる。
「ああーっ! 書類ーっ! 飛んだ飛んだ飛んだーっ!」
紙が舞い、ラベルが宙を泳いだ。
私の手の中で、羽の欠けた蝶が、一度だけ強く羽ばたいた。
そして、飛んだ。
まっすぐではない。ふらふらと、不器用に、それでも確かに高く。
夕日の中へ。
「……飛びましたね」
「……ああ。まっすぐではないが」
「ええ。ふらふらで、不器用で、それでも高いです」
十二年ぶりの風が、私の髪を揺らした。
「……先輩」
ノエルが、散らばった書類を拾いながら言った。
「窓、毎日開けましょうね」
「ええ」
私は、右手の指を三本折った。
それから、開いた。
「――毎日、開けます」




