第9話 「ここは私たちの村だ」搾取者への引導と完全なる敗北
「ふざけるな……私を、誰だと思っている!」
朝の澄んだ空気を切り裂くような、甲高くしゃがれた絶叫だった。
前日、すべてを失い歴史の表舞台から姿を消したはずの男がそこにいた。護送の隙を突いて逃げ出してきたのだろう。地に伏していたゲオゲオが、泥にまみれた顔を上げて立ち上がる。その目は狂気に血走り、肥満体をわななかせていた。
「私は領主だぞ! 貴様らのような下賤な職人風情が、私を見下すなど許されるはずがない!」
レオンは静かに彼を見据えた。
すでに国からの沙汰は下っている。彼の領地は没収され、爵位も剥奪された。もはや彼は領主でも何でもない。ただの罪人だ。
「現実を見ろ。あんたの時代は終わったんだ」
「黙れ! 代わりなどいくらでもいる! 貴様らが戻らないというなら、力ずくで連れ帰ってやる!」
ゲオゲオが懐から笛を取り出し、狂ったように吹き鳴らした。
けたたましい音が森に響き渡る。すると、木々の陰から武装した男たちが次々と姿を現した。
粗末な革鎧に、手入れの行き届いていない剣や斧。正規の兵士ではない。金で雇われたゴロツキたちだ。その数は二十人近い。
「やれ! こいつらを縛り上げろ! 一人残らず私の工房に引きずり戻して、死ぬまで働かせてやる!」
ゲオゲオの命令を受け、ゴロツキたちが下卑た笑いを浮かべながら広場へと踏み込んでくる。
村人たちの間に緊張が走った。だが、レオンは一歩も動かない。
「……学習しないな」
レオンが小さく息を吐いた瞬間だった。
ゴロツキの先頭が広場の境界線を越えようとした途端、空気が微かに歪んだ。
バチィッ!
「ぎゃああっ!」
目に見えない壁に激突したかのように、先頭の男が弾き飛ばされた。
地面を転がり、白目を剥いて痙攣している。
「な、なんだ!?」
「魔法か!?」
慌てて足を止めるゴロツキたち。
彼らの目の前には、淡い光を帯びた半透明の障壁が展開されていた。レオンが村の安全を守るために構築していた、自動防衛結界である。
「無駄だ。その結界は、悪意を持って侵入しようとする者を自動で弾き飛ばす。あんたらのなまくらじゃ、傷一つつけられない」
レオンの冷ややかな宣告に、ゴロツキたちは顔を見合わせる。
だが、雇い主の手前、引き下がるわけにもいかないらしい。数人がかりで結界に武器を叩きつけ始めた。
鈍い音が響くが、光の壁は揺らぎすらしない。
「ええい、何をしている! さっさとその壁を壊せ!」
ゲオゲオが泡を飛ばしてわめき散らす。
その滑稽な姿を見かねたように、レオンの後ろから二つの影が進み出た。
「レオンさん。ここは私たちに任せてください」
アリアが、腰に提げた短杖を抜き放ちながら微笑む。
かつての彼女は、過酷な労働で魔力をすり減らし、常に顔色を悪くしていた。だが今は違う。適正な休息と十分な食事によって、彼女は本来の健康と、規格外の魔力を完全に取り戻していた。
「ああ。俺の出番はなさそうだな」
ダグラスもまた、自身の背丈ほどもある大剣を肩に担いで前に出る。
長年の酷使で曲がりかけていた腰は真っ直ぐに伸び、職人としての誇りを取り戻したその顔には、獰猛な笑みが浮かんでいた。
「お前さんたちは、少しばかり痛い目を見ないとわからないようだな。俺たちが手塩にかけて作った村を、土足で荒らそうってんだから」
「ふん、たかが職人風情が粋がるな!」
結界の突破を諦めたゴロツキの一人が、迂回して側面からアリアに斬りかかった。
だが、遅い。
「そこです」
アリアは軽やかなステップで剣を躱すと、短杖の先で男の鳩尾を突いた。
同時に、凝縮された魔力の衝撃波が放たれる。
「がはっ……!」
男はくの字に折れ曲がり、数メートル後方へと吹き飛んで気を失った。
その俊敏な身のこなしと正確な魔力操作に、残りのゴロツキたちが息を呑む。
「おいおい、よそ見してる暇はねえぞ!」
ダグラスが大剣を横薙ぎに振るう。
刃を当てず、峰打ちの要領で放たれた一撃は、三人の男をまとめて薙ぎ払った。
重い金属音が響き、男たちの武器が粉々に砕け散る。
「ひぃっ!」
「ば、化け物かよ……!」
圧倒的な力の差だった。
劣悪な労働環境から解放され、心身ともに万全の状態にある彼らは、その道の専門家すら凌駕する実力を秘めていたのだ。
手出しすらできないまま、ゴロツキたちは一瞬にして無力化されていく。
アリアが魔力の糸で次々と男たちを縛り上げ、ダグラスが逃げようとする者の襟首を掴んで放り投げる。
ものの数分で、二十人近いゴロツキたちは全員が地面に転がり、呻き声を上げるだけの存在となっていた。
「……ば、馬鹿な」
ゲオゲオは、信じられないものを見るような目でその光景を見つめていた。
彼が最後の切り札として用意した暴力すら、レオンたちには全く通じなかったのだ。
「これで終わりだ、ゲオゲオ」
レオンが静かに告げる。
その声には怒りすらなく、ただ路傍の石を払いのけるような冷徹さがあった。
「ひっ……!」
実力行使すら通じない現実を突きつけられ、ゲオゲオは完全に戦意を喪失した。
膝から崩れ落ち、ガタガタと震えながら後ずさる。
「お、おのれ……覚えておれ……!」
負け惜しみを口にするのが精一杯の彼のもとへ、静かな足音が近づいてきた。
「見苦しいですよ、元領主様」
冷ややかな声とともに現れたのは、家令のセバスティアンだった。
彼の背後には、王都から派遣された正規の騎士たちが控えている。
「セ、セバスティアン! お前、私を裏切ったな!」
「裏切る? 心外ですね。私はただ、正確な数字と事実を王都に報告しただけです。あなたの無能さが招いた結果を、帳簿に記したに過ぎません」
セバスティアンは感情の欠片もない声で言い放つと、モノクルの位置を直した。
「連行しなさい。この者はもはや、我が国の貴族ではありません」
騎士たちが無言で進み出、ゲオゲオの両腕を拘束する。
「離せ! 私は領主だぞ! 誰か、誰か助けろ!」
惨めにわめき散らすゲオゲオは、そのまま馬車へと押し込まれた。
かつてレオンたちを搾取し、理不尽な労働を強いてきた男の末路は、あまりにもあっけないものだった。
セバスティアンはレオンに向かって深々と一礼すると、別の馬車に乗り込み、騎士たちとともに去っていった。
今度こそ本当に、遠ざかる馬車の轍だけが残された。
静寂が戻った広場で、レオンは大きく息を吐き出した。
「終わったな」
「ええ。今度こそ、本当に」
アリアが杖をしまい、ほっとしたような笑顔を向ける。
ダグラスも大剣を地面に突き立て、太い腕で額の汗を拭った。
「やれやれ、朝っぱらからいい運動になっちまったぜ。だが、これでようやく邪魔者はいなくなったわけだ」
村人たちが、次々と広場に集まってくる。
誰もが安堵の表情を浮かべ、互いの無事を喜び合っていた。
レオンは彼らを見渡し、声を張り上げた。
「みんな、聞いてくれ!」
ざわめきが収まり、全員の視線がレオンに集まる。
「今日まで、本当によくやってくれた。俺たちの村は、俺たちの手で守り抜くことができた。これは、みんなが力を合わせた結果だ」
レオンの言葉に、村人たちが深く頷く。
「だから今日は、特別休暇とする!」
その宣言に、一瞬の静寂が落ちた後、割れんばかりの歓声が上がった。
「村の安全を祝して、ささやかな宴を開こう。仕事はすべて休みだ。温泉に入るのもよし、昼寝をするのもよし。夜は広場で、ありったけの美味いものを食べよう!」
「おおおっ!」
「村長、最高だぜ!」
村人たちが口々にレオンを称え、宴の準備へと散っていく。
適正な労働と十分な休息。それがこの村の基本方針だ。大きな脅威を退けた今こそ、心身を休める最高のタイミングだった。
夕刻。
広場にはいくつもの焚き火が焚かれ、香ばしい肉の焼ける匂いが漂っていた。
長机には、村の畑で採れた新鮮な野菜や、ダグラスたちが狩ってきた獲物の肉が山のように積まれている。
「ほら坊主、もっと食え! 今日は特別休暇なんだからな!」
ダグラスが、ジョッキに注がれたエールを片手に豪快に笑う。
「あんたこそ、飲みすぎないように気をつけろよ。明日の朝、二日酔いで工房に来たら減給だからな」
「へっ、俺の肝臓を舐めるなよ!」
冗談を言い合いながら、レオンも串焼きを頬張る。
ブラック工房時代には考えられなかった、穏やかで豊かな時間。
誰もが笑顔で語り合い、明日の仕事への英気を養っている。
「レオンさん」
ふと、隣からアリアが声をかけてきた。
彼女の手には、温かいスープの入った木の実の器が握られている。
「どうした? 疲れたか?」
「いえ、全然。ただ……なんだか夢みたいだなって思って」
アリアは焚き火の炎を見つめながら、柔らかく微笑んだ。
「少し前まで、私たちはあの暗い工房で、明日への希望も見えないまま働いていました。でも今は、こんなに温かい場所にいる。レオンさんが、私たちを導いてくれたおかげです」
「俺一人の力じゃないさ。お前やダグラス、みんなが協力してくれたから、この村ができたんだ」
レオンは夜空を見上げた。
満天の星が、静かに村を照らしている。
過去の脅威は完全に去った。
だが、この豊かな村の噂は、やがて王都や他の貴族たちの耳にも届くだろう。新たな問題や理不尽な要求が、再び彼らを脅かす日が来るかもしれない。
それでも、今の彼らには恐れるものはない。
互いを尊重し、共に働き、共に休む。その当たり前の営みを守り抜くための仕組みと、強固な結束があるのだから。
「レオン!」
ダグラスが、若手の職人たちを引き連れてやってきた。
「こいつらが、どうしても村長に一杯注ぎたいってきかなくてな!」
「レオンさん、本当にありがとうございます!」
「俺たち、この村に来て本当によかったです!」
若手たちが次々とジョッキを差し出してくる。
レオンは苦笑しながら、それを受け取った。
「おいおい、順番にしろよ」
アリアも楽しそうに笑い、レオンの隣に寄り添う。
「私たち、これからもずっと、この村で生きていくんですね」
「ああ。ここは私たちの村だ」
レオンは仲間たちとジョッキを合わせ、高らかに声を上げた。
「乾杯!」
「「乾杯!!」」
夜空に響き渡る笑い声。
すべての脅威を乗り越えたレオンと仲間たちは、明日からどのような理想のスローライフを送るのか。
その答えは、彼らの笑顔と、温かな焚き火の光の中に確かに息づいていた。




