鏡の国
…身体中を、冷たい澄んだ水が包む。
耳からごぽりと、空気が押し出されて、一瞬だけ、世界との繋がりが絶たれたかの如く、静寂が訪れる。
即席で造られた溜め池は予想を超えて深く、下からグイグイと足を引っ張られているのではないかと錯覚する程、急速に深みに吸い込まれていった。
悠は恐怖を感じた。
飛び込む前、肺の中に貯めた空気が尽きかけている。
これは、一体何処まで…?
半ばパニックに陥りつつ、両足をぴったり付けた姿勢を保ったまま、下方へ向かう流れに身を任せた。
やがて皮膚にひりつく様な痺れを感じ始め、周りの澄んだ水が脈動しているのが分かり、悠は何かしら変化が起きるのを予期して身構えた。
…突如として視界は暗転する。
彼女は軽い衝撃と共に地面に投げ出された。
「っぷはぁっ!」
喉の奥より、二酸化炭素の濃い吐息が吐き出される。
悠はへたり込んだまま、必死に肩を上下させ、荒い息をする。
急速に新鮮な酸素が、肺の中に充填されていき、激しい目眩と視界の明滅を伴って活力が戻ってくる。
「……!」
昼下がりの自然公園の入り口。
悠は荒い呼吸をしつつも、すぐ隣にずぶ濡れで座り込む瑞羽と、傍らに立つもう一人の顔を見て驚きの声を上げた。
「王君!」
目の前の少年の名を呼ぶ。
呼ばれた相手は、着ているジャケットの胸ポケットから、丸薬の入った小瓶を取り出して言う。
「薬をあげようか?中国4000年、以下略。」
…一時間後、瑞羽の能力で彼女の自宅部屋に帰還した一行は、代わる代わるにアパートの風呂を借り、ドライヤーで髪を乾かして、ようやく人心地ついた。
服は仕方がないので瑞羽の物を借りている。
悠はゴシック・ロリータ調の黒い衣装を着させられた。
…何故こんな服を持っているんだろうか…?
「着せて楽しむ為に決まっているじゃない。」
台所から飲み物を運んで来ながら、瑞羽は言った。
「心が読めるんですか!?」
膨らんだスカートの裾を掴みつつ、悠は叫んだ。
「瑞羽さん。お風呂と着替えと、それに飲み物まで、ありがとう。」
熱い湯気をたてる一杯の紅茶を受け取りながら、洪健は言う。
「…良いのよ。その服似合っているし。」
洪健は迷彩柄の、野戦服の様なコスチュームに身を包んでいる。
彼女は尚も微笑んで言う。
「いつか一緒に、サバイバル・ゲーム、行きましょうよ。そう言うのって、やった事ない…?」
「やりますねえ!」
洪健は目を輝かせてそう言った。
…横から悠は、気まずそうに口を挟んだ。
「…あの、そろそろ本題に入りませんか?」
「…そうね。」
瑞羽はすとん、とスタイルの良い身体を、座布団の上に下ろした。
寒がりなのか灰色のパーカーを、Tシャツの上から羽織っている。
紅茶のカップを手に取り、スプーンでかき混ぜながら、彼女は語った。
「今回は私がうかつだった…。知らないうちに、神話領域に引き込まれていたのね。周囲の環境が無人になっていた時点で気づくべきだった。そこは反省してます。」
彼女は延々と、熱い紅茶を飲む事なく、かき混ぜ続ける。
「…それにしても凄いわ。王君。たった一人でダエーヴァから逃げ延びて、しかも能力を発現して戻って来れるなんて。」
王は一口紅茶をすすって言う。
「無我夢中で生き延びようとしたら、両手から水が溢れてきた。“彼ら”はその水に触れられない様だった。やがて水面に“こちら側”の風景が映る事に気が付いて、大きな窪みに水を溜めて、飛び込んだ。」
瑞羽は頷く。
「水は、古来より異界への出入り口とされているわ。人魚伝説しかり、“ギルガメッシュ王叙事詩”しかりね。」
「それでなんですが…」
ためらいがちに洪健は瑞羽に言う。
「何?」
「“彼ら”、こっち側に、入って来ると思うんです。」
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