悪夢の世界
王洪健は市内の自然公園の出入り口付近に佇んでいた。
土曜日だと言うのに人っ子一人いない。
最近出来た大型ショッピング・モールに、休日の人手が吸い寄せられているらしかった。
しかし、ほぼ貸切状態の公園の空は明るく澄み渡り、秋口らしい涼やかな風が吹く。
少し古風な情緒を感じさせる穏やかな日和。
そんな中にあっても、彼の気分はすぐれなかった。
昨日見た悪夢の故だ。
夢の中で彼は水に沈んでいた。
息もできず、浮かび上がる事も出来ず、ひたすら藻掻いた。
水中で散漫に振り回される手に、海藻やロープの様な紐が絡みつく。
それに比例して苦しさは増し、かといって死ぬ事も出来ず、彼は恐怖に悶えた。
やがて真っ暗闇の中に一つの目玉が浮き上がる。
真ん丸な、虹彩や瞳孔がつぶさに観察できる程大きく、彼を見抜くだけで押しつぶせそうな、圧倒的に巨大な瞳…
洪健は一声、叫んで目を覚ました。
「……。」
フッと息を吐く。
彼は足元の砂利を、足で踏んで搔き回した。
一人の時間がそもそも苦手だ。
洪健は思う。
別に寂しがり屋な訳では無い。
周りが静かで誰もいないと、常に何かに“見られている”気になるのだ。
これまで親にすら言った事のない、彼だけの秘密だった。
無意識に抱える不安に引き伸ばされる様に、背筋が伸びる。
…やがて、孤独の中に一人沈み続けていると、二人分の駆け寄る音が聞こえて来た。
「ごめんなさい、待った?」
祝原悠が、ハァハァと息を切らしながら近づいて来る。
蔵岡瑞羽が、落ち着いた様子で後から来る。
「ごめんなさい。家出る直前で、お腹痛くなっちゃって…」
そう、膝を掴みながら言う悠に洪健は言った。
「良いよ。最近寒いからね。身体冷やしちゃ駄目だよ。」
彼は着ていたジャケットのポケットから、丸薬の入った小瓶を取り出して言う。
「凄い良く効く薬をあげようか、中国4000年の歴史が詰まった薬よ。」
カラッと音を立てて中身が揺れる。
「…いや、いい。何かすっごく苦そう…」
…微笑んで、洪健はゆっくりと薬をしまう。
瑞羽は彼に告げる。
「王君。では私達の“組織”に案内するわ。私の手を取って頂戴。」
「……。」
「王君?」
洪健は尋ねる。
「瑞羽さん、話には聞いていた。あなたは時空を超えて一瞬で移動できると。何故ここまで、走って、歩いて来た?」
…瑞羽の目が見開かれる。
「それに、悠。あの日この薬あげたよ。そんなに苦くない言って、気分悪いの、治った言ったよ。」
洪健は薬の入った胸ポケットを軽く叩いて言った。
ぞわ…
空気が重くなって、明らかに周囲の雰囲気が変わる。
洪健は静かに後ずさる。
彼は後悔した。
小さな少女、悠について、悪夢の世界に首を突っ込んだ事を。
そして眼前で名状しがたい冒涜的な姿に変貌していく少女達を眺めて、言葉なく自身の両親に懺悔した。




