胡蝶の夢
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。」
王洪健は自宅の自室で一息に唱えた。
日本語を覚える際に手本とした、彼のバイブルの様な詩だった。
彼は周りを見回す。
子供部屋とは言え、その内装は豪華な造りをしていた。
高級店から取り寄せた壁紙や、オーダーメイドの調度品が、明るい雰囲気の部屋を彩る。
三階建ての一軒家、その最上階の東向きの角部屋。
毎日早朝に、自然の光が一番に差し込む。
少しでも息子に早起きの習慣が身に付くようにとの、父親の計らいだった。
一家の大黒柱たる父親が貿易商を営む富裕な家。
その長男として彼は産まれた。
父親、母親、妹、親戚、両親の知人、学友、また使用人。幼い頃から人に囲まれ、彼は育った。
周囲に他者がいる環境が洪健にとって自然であり、また必然と言えた。
逆に言えばたった一人の空間が、彼にとっての不自然だった。
不可解な侵入者が、ふと振り向いた瞬間に突如として現れて、一人ではない場所が異様な空間へと変貌するまでは…
「……。」
洪健は黙って壁際に寄ったまま、真正面を見つめ直した。
目の前の壁、一面に張り付いた巨大かつグロテスクな羽。
一際大きな目玉模様が、彼を見つめ返している。
人の背丈を越す程に巨大な、蛾。
奇怪で、理解のできない雑多な絵柄が、その羽根の表面を覆っている。
頭頂部からはぬらぬらと妖しく輝きを放つような触角が、だらりと下がって落ちている。
見事なまでにその巨怪なシルエットは、向かい合って立つ一人の少年の両足を、釘付けにして足止めする事に成功していた。
少年、王洪健は、猫に追い詰められたネズミの様に震えながら、それでも引きつった声で呟く。
「私が蛾を見つめているのか、蛾が私に見つめられているのか…?」
「あるいは悪夢を見続けているのはどちらなのか…?」
彼は微細に揺れるその羽根と触角を観察しながら、ゆっくりと集中と覚悟を、胸中で練り上げる。
「!」
《神々の声ミーミル》
蔵岡瑞羽によってそう定義された彼本人の“影”。
それを発動する時が来た。
心の中に固められたイメージの渦が奔流となって、掲げられた両手から溢れ出す…
「メッセージを確認するのだ。」
突如、厳粛な声が響く。
そして呆気なく、巨大な蛾の姿は消えた。
一気に力が抜けて、洪健はがくんと片膝をついた。
「……?」
唐突に、グロテスクなシルエットが消失した真っ白な壁を見て、洪健は沈黙する。
そして、机の上に置かれた自身のスマートフォンが着信している事に気付いた。
彼は無言のまま、電話に出た。
「はい、洪…」
「もしもし少年、無事かい?」
「ええ、まぁ…。」
慌てふためいた様子の薬師丸クイナの声が、洪健に二の句を許さずに告げる。
「悠が危ないんだ。家に急ぐぞ!」
「…!」
通話状態のまま、彼は身の回りの物だけをまとめ上げ、家を飛び出す支度を整えた。




