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恋と掟と魔法使い  作者: 又蔵 雲國斎


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2-2

 霧がかった真っ白な空間に、彼は一人で立っている。


 その姿を認めた私は大きな声で彼を呼んで、手を振りながら駆け寄っていく。


 私の声に反応した彼が笑って手を振り返してくれる。


 彼の胸に抱き着いて、「おまたせ」と顔を上げる。


 私を見下ろす彼の顔が、半分潰れてなくなっていた。


「――――ッ」


 声にならない声が喉を裂いた瞬間、私はベッドの上で跳ね起きた。


 半ば強制的に覚醒させられたことで今見たものが夢なのか現実なのかすぐに判別できず、頭の中がパニックになってしまう。


 何度か深呼吸を繰り返して少しずつ思考がクリアになって、それがただの夢だったと確信を持ててから、安堵してまたベッドに倒れこむ。


 なんで今こんな夢を見てしまったのか。彼と過ごす日々はこの上ないほど幸せなのに、私にはもったいないくらいに満たされた時間なのに、もしかして私の本心はどこかで、もう戻ってはこないあの頃を求めてるんだろうか。


「そんなわけないじゃん」


 独り言ちてあらためて体を起こす。


 ベッドから降りて背伸びをすれば、寝ている間に硬くなった体が弛緩してじんわりとした心地よさが広がる。


 それからいつもと同じに水と薬を準備して彼のもとへ向かう。


 部屋に入ると彼はベッドに横たわって窓の景色を見つめていた。「おはよう」と声を掛けると、一重瞼の少し腫れぼったい目をこちらに向けて「おぁよう」と舌足らずに応えてくれる。


「お薬だよ」


 もどかしそうに小さく開いた口に薬を入れて、それから水をゆっくりと流し込むと、今日はこぼさずにきれいに飲んでくれた。


「上手に飲めたね。よかった」


 彼の少し寝癖が付いた髪を撫でて、それから強く抱きしめる。彼の胸に当てた耳に心臓の淡い鼓動が聞こえてくる。あぁ、今日も彼はここで生きていて、私の傍にいてくれる。これ以上の幸せなんてどこにもないから、この幸せが永遠であればって願わずにはいられない。人の人生なんて、人の繋がりなんて、ほんの些細なきっかけで失ってしまう泡沫(うたかた)のようで。それを嫌というほど分かってるからこそ、魔法使いとしての自分の無力が恨めしい。


 不意に、今しがた見た夢が頭をよぎる。背筋に強い寒気が走って、彼の背に回した腕につい力がこもる。


「お願いだから、ずっと傍にいてね」


 彼のいない人生なんて、私にとってはなんの価値もない。彼がいないのなら私が生きている意味もない。


「もう、どこにも行かないでね」


 この一度きりの人生で、もう二度とあなたを失いたくないから。


 あんな思いはもう、二度としたくないから。




「ひいあい」


 ある日、彼は一言だけそう言った。


 死にたい、と一言だけ言った。


 顔色が悪い。少し()()()も出てきてる。そっか、もう限界か。改良を重ねた薬で随分と「持ち」は良くなってたけど、これ以上は無理か。


「分かった。残念だけど、しょうがないね」


 彼の頬を上から下に向かって指先でなぞり、そのまま胸まで下ろす。


「今までありがとう。おつかれさま」


 言ってからずぶりと手首までを胸の中に沈み込ませて、その先にある心臓に触れる。傷つけないように柔らかく掴んで、丁寧にゆっくりと引き抜く。


 さっきまで彼の器だったものが音もなく溶けて蒸発するのを横目に、私はささやかに脈を打つ心臓に額を付ける。


「少し待っててね。すぐに新しいのを持ってくるから」


 私の言葉に反応するように、心臓が大きく鼓を打った――――。


 ――――私が人生で一番と言っても過言じゃないくらいに精いっぱいの勇気を振り絞って告白をしたあの日、彼は少し困ったように笑いながらこう言った。


「ごめん。ホントは俺の方から言わなきゃいけなかったのに」


 極度の緊張もあってその言葉の意味がとっさに理解できずに呆けてしまう私に、彼は続けた。


「好きです。俺と付き合ってください」


 と。天にも昇る気持ちっていうのはまさにあの時のような心境を言うんだと思う。彼と両思いだったと気付いた時の、あの大げさでもなんでもなく驚きと喜びが頭の中で爆発する感じ。爆発のせいで溢れてきたのは、自分でも引くぐらいのバカみたいな量の涙だった。あんなにみっともなく声をあげて泣いたのは子供の頃でもちょっと記憶にないくらいで、頭の中は割とすぐに冷静になったのに、どうしたって涙が止まってくれなかった。


 とにもかくにも、正式に恋人同士となった私たちはいわゆるどこにでもいる普通のカップルとして充実した日々を過ごしてた。人から見ればなんということもないんだろうけど、私にとってはその一日一日、一分一秒さえも特別で、目に見えるもの全てが華やかに色づいて見えていた。彼にとってもそうだといいな、とは思ったけど、彼は私と違って恋愛経験はあるからさすがにそこまでのぼせ上がってはいなかったみたい。だからこそその温度差が、私たちの関係に適度なバランスをもたらしていたんじゃないかと勝手に思ってる。


 そんな、いつまでも続いてほしいと願っていた、いつまでも続くと思っていた掛けがえのない日々が崩れ落ちるのは、本当に一瞬のことだった。


 きっかけは一本の電話。


 何度か顔を合わせたことがある彼のお母さんからだった。


 彼が、お年寄りが運転する車に撥ねられそうになっていた小学生をかばって、死んだって。なにかの冗談だと思った。到底信じられるものじゃなかった。


 眠ってるみたいに目を閉じる彼の顔とか、動かなくなった彼に泣きすがるお母さんとか、肩を震わせて立ち尽くすお父さんとか、彼の体に残る傷痕とか、霊安室の冷たい空気とか。全部夢であってほしいのに、ただの間違いであってほしいのに、全部が全部、地続きの現実だった。


 どんな優れた魔法使いでもなかったことにはできない、紛うことのない現実。


 天に昇った気持ちが、一気に地の底へ突き落された気分だった。彼の死を、その現実を受け止めた瞬間に全身から血の気が引いて、気が付いたら私は病室のベッドに寝かされていた。


 先生から失神の原因と、特に治療の必要がないことを説明された気がするけど、あまり耳には入らなかった。ご迷惑をお掛けしました、とだけ言って、もう一度霊安室へ向かった。彼のご両親は今後の諸々の手続きのために場を離れているようだった。


 横たわったまま動かない彼だけが、変わらずにそこにいた。どれだけ触れても、どれだけ呼び掛けても反応しない彼にあらためて現実を思い知らされた。


 ずっと一緒にいたかった。ずっと傍にいてほしかった。たったそれだけの望みさえ、私には過ぎたことだったんだろうか。私に未来予知の魔法があれば彼を守ることができたのに。私に千里眼の魔法があれば彼を救うことができたのに。私に蘇生の魔法があれば彼を取り戻すことができるのに。


 魔法使いとしての自分の未熟さを、才能のなさをこれほど憎んだことはなかった。そもそもそんな魔法聞いたこともないのに、それでもそれを持たない自分を恨んだ。


 ぐるぐると渦巻く悔恨から目を逸らすように、彼の胸に額を乗せた。胸の奥からはなにも感じないし、なにも響かない。彼が生きている証はもうとっくに熱を失っていた。


「心臓……ここにあるのにね」


 そんな言葉が自然に出てきた。


 まるで、天啓のようだった。


 あ、なんだ。ここに心臓があるじゃないか。彼の心臓が、彼の記憶が、彼の人格が、ここにあるじゃないか。


「そっか、あなたはずっとここにいたんだね」


 どうせ焼かれて骨と灰になるんだから、器は家族に返してあげる。


 でもこの心臓は、「あなた」だけは誰にも渡さない。もう二度と誰にも奪わせないから、ずっと私だけの傍にいてね――――。




 ――――今日の目覚めは、とても快適だった。


 心も体も羽のように軽くて、いつものように背伸びをする必要もないくらいだった。こんな寝覚めのいい朝は本当に久しぶり。


 設定した目覚ましの時間よりも少し早く起きてしまったからなんとなくテレビを付けてみる。普段は見ないいわゆるローカルワイド番組が放送されていた。


 地方アナウンサーや出演者が笑いを交えながらSNSで話題になっていることや流行りの飲食物について話していて、正直個人的にはあまり興味を引かれるものはなかった。腰を据えて見るものでもないなと台所に向かい、音声をBGM代わりに自分で飲む紅茶の準備を始める。水道水をやかんに入れて火にかけ、沸騰したら茶葉を入れたポットに注ぐ。タイマーをセットして茶葉を蒸らす。これらの工程は魔法を使えば短縮できるけど、これも紅茶を楽しむ大事な時間だと思ってるからあえて使わない。


 時間を待っていると、不意に耳に届いた声に反応してテレビに視線を向けてしまった。


 アナウンサーが真面目な表情でカメラに向かってニュース原稿を読んでいるところだった。画面には一人の青年の写真が映し出されていて、数日前から行方不明になっていることが伝えられた。ぱっちりとした二重瞼の澄んだ目の青年だった。


 タイマーが鳴って画面から目を離す。紅茶をティーカップに注ぐ内に、テレビから聞こえてくる音声は次のニュースに移っていた。


 熱々の紅茶を舌を火傷しないようにゆっくりと飲んで、時計を見ればちょうどいい時間。


 水と薬を用意して、彼が待つ部屋に向かう。


 部屋に入ると、介護用ベッドに横たわって窓の外を見つめている彼の姿があった。


 よかった、今日も顔色は良さそう。「おはよう」と声を掛けると、彼はぱっちりとした二重瞼の澄んだ目をこちらに向けて「おぁよう」と舌足らずに応えてくれた。たったそれだけのことなのに、毎日のことなのに、胸の奥に言葉にできないほどの愛おしさが込み上げてくる。


 ほんの少し水をこぼしながらもがんばって薬を飲んでくれた彼を抱きしめて、その胸に耳を当てればとくん、とくんと控えめで優しい音が温かく響いてくる。今日も確かに彼が生きているという命の証。彼の記憶が、彼の人格が、彼がこれまでの人生で積み重ね築き上げてきたものがこの音に詰まっている。


「愛してる。ずうっと一緒だよ」


 本当に、言葉にできないくらい、私は幸せだよ。




                了

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