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部屋に入ると、介護用ベッドに横たわって窓の外を見つめている彼の姿があった。
よかった、今日も顔色は良さそう。「おはよう」と声を掛けると、彼は垂れ気味の優しい目をこちらに向けて「おぁよう」と舌足らずに応えてくれた。たったそれだけのことなのに、毎日のことなのに、胸の奥に言葉にできないほどの愛おしさが込み上げてくる。
「はい、お薬」
口元に薬を持っていくと、彼はもどかしそうに口を開ける。薬を口に入れて、それからゆっくりと水を流し込む。少しだけこぼれてしまったけど、彼は一生懸命飲み込んでくれた。
こぼれてしまった水を拭いていると、「いぅおあいあお」と聞こえた。
上手く話せないのに、それでも頑張ってお礼を言ってくれたことが嬉しくて、思わず力いっぱい抱きしめてしまう。体がまともに動かない彼が私を抱きしめてくれることはないけど、そんなことはどうだっていい。
私、こんなに幸せでいいんだろうか。
彼の胸に手を当てる。指先に伝わる微かな心臓の鼓動に、彼が確かにここに生きていることを実感する。
「ずっと傍にいるからね」
言ってからもう一度彼を抱きしめて、今度は耳を胸に押し当てる。
「愛してるよ」
鼓膜の奥まで優しく染み渡る心音が「俺もだよ」と言ってくれた気がした。
魔法使いに「君には才能がある」と声を掛けられたのは中学生の頃だった。最初に思ったのは「キモい」で、次に思ったのは「逃げなきゃ」だった。
魔法だ魔術だ超能力だって、そんなファンタジーだかオカルトだかSFだか分からないようなものまったく信じてなかったし、憧れもなかった。
それはね、子供の頃は魔法少女とか好きだったよ。可愛いマスコットキャラを引き連れて、可愛い衣装を身に纏って悪と戦う正義のヒロインに憧れはあったよ。
でも「あればいいな」とは思っても、実際にはそんなものは物語の中にしか存在しないってことぐらい、子供心に理解はしてた。子供の頃の夢だって、周りの皆と同じでパン屋さんとかケーキ屋さんとかそんな現実的なものばかりだった。
だからね、「魔法使いにならないか」なんて言われても、目を輝かせて「なります」とはならないわけで。下手な対応して個人情報掴まれたり、自宅がバレたりするのはまずい、と目の前の危険人物からどうやって逃げるかってことばかりが頭の中でぐるぐるしてた。
まあ結局、自分の身を以ってすぐに魔法が本物だと知って、この世界に実在するものだと知って、私はあっさりと弟子入りを決めたのだった。
魔道に踏み入って、魔法使いの弟子になったからと言ってこれまでの生活が一変するわけじゃない。ただ、これまでの生活に魔法という要素が加わるだけで、自分が特別な存在になったという感覚はなかった。周囲には秘密にしてないといけない、という制約はあっても、やってることは「習い事」と同じだ。
技術と知識の習得に応じてちゃんと位階が上がっていくのも、目標を持って修行ができてそれなりに楽しかった。下級第一位から中級第三位に昇級するのは少し大変だったけど、がんばったおかげで師匠からの独立が認められて、協会から自分用の工房を与えられて魔法の研究し放題になったのは純粋に嬉しかった。
残念なのは魔法使いは仕事ではないということ。魔法があればなんでもできるわけじゃないから、生活や研究のためにお金が必要になる。就職のために勉強して、勉強のためにアルバイトして、友達と夜遅くまで遊んで、親からの仕送りにも頼りながら少ない時間を研究に費やす。
そんな風に大変だけどそこそこ満足度の高い青春を過ごす中で、出会ったのが彼だった。
出会いの場は、友達に誘われていった合コン。
別に彼氏が欲しいと強く思ってたわけじゃないけど、かといって欲しくないというわけでもなくて。そういう欲求は人並みにあるつもりではあった。なので特に誘いを断る理由もなく、いい人に出会えたらいいなぐらいの感覚で参加した。
彼のことは最初は特別印象には残らなかったんだけど、お酒を飲みながら会話をしていく内にだんだん興味が湧いてきて、合コンが終わった時にわたしの方から連絡先を聞いた。彼を狙ってると思われてもアレだから、せっかくだから交換しとこうぐらいのノリで。
実際、興味を持つイコール恋じゃないから、この時はまだそこまでの感情は全然なくて。友達として連絡を取り合ったり、お互い予定が合ったら遊びに行ったり、食事をしたり。
で、気付いた時にはすっかりしっかりと恋に落ちていたというわけ。恋をした経験はあっても実際の交際経験はゼロの私に自分の気持ちをコントロールする術なんてあるはずもなく、一度恋心を自覚してしまうと後はもうただただ際限なく好きになっていくばかりだった。
毎日声が聞きたくて、毎日顔が見たくて。一日の内で彼のことを考えない時間の方が少なかった、と思う。まあさすがに周りが見えなくなるくらい盲目的になってたわけでもないから、そこはちゃんと分別して必要以上に連絡を取ったりしないように気を付けてはいた、と自分では思う。
そんなこと言いながら、魔法で彼を魅了できたら楽なのに、なんて何度思ったか分からない。片思いをしている間はとても楽しくて充実しているけど、その分だけすごく体力を消耗するから、魔法で楽をできたらホントどんなにいいか。彼の気持ちを操って自分の都合のいいように書き換えて、彼の目に私しか映らないようにして。
もちろん、思うだけで実際にそんなことはしない。そんなものは恋愛とは言わない。
私は彼と、ちゃんと恋愛がしたかったんだ。
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魔法は全能ではないが万能である。
なんていう言葉遊びがある。
要は人はどれだけ魔法を探求しても神にはなれないけど、神に近い存在にはなれる、ということらしい。私は身の程というものをわきまえてるつもりだから、正直どんなにがんばっても神様っぽいなにかどころか中級第二位にさえ到達できないと思ってる。
身に余る技術を望めば身を滅ぼすとは師の言葉で、多分それは魔法に限った話ではないんだろうけど、実際師匠からはそうやって身を滅ぼしていった魔法使いの話をたくさん聞かされた。おまえはそうなるな、という戒めを込めて。
次から次へと湧き出てくる身の丈に合わない欲望に溺れて、その果てに執行人に心臓を取られて死体すら残されないだなんて、そんなおぞましい末路はまっぴらごめんだ。
私は魔法使いである前に一人の人間なんだ。ちゃんと人間らしい人生を歩んで人間らしい終わり方をしたい。
そも私にとって心臓というのは、ただの魔力の源じゃない。
なにを隠そう、私は生まれつき心臓に問題があった。そのせいで我慢しなきゃいけなかったことも多かったし、今は分からないけど当時の教育現場は心臓病への理解が進んでなくて学校側から必要以上に活動に制限が掛けられることもあった。なにかあった時に責任を負いたくないからって。
おかげで私は皆とは違うんだ。皆ができることが私にはできないんだっていうある種の劣等感や諦めが子供の時分からあった。定期的に病院に行かなきゃいけないのも辛かったし、これが一生続くんだろうかっていう不安もあった。そんな私を救ってくれたのが、他ならぬ師匠だった。
私が魔法の存在を信じるようになったのも、師匠がその術で私の心臓を治してくれたからだ。いきなり治るとさすがに騒ぎになっちゃうから少しずつ、ゆっくりと心臓を正常に戻していってくれた。おかげでもう定期的な通院の必要はなくなったし、運動も人並みにできる。発育の遅れもある程度は取り戻せた。
そうした経験があるから私は師匠にしてもらったように、困ってる人苦しんでる人を助けられる魔法使いになりたいと思ってる。特に私と同じように心臓の病気で苦しんでる人を助けられたら、と。だからまだまだ未熟ながらも自分で色々勉強したり、師匠に教わったりと頑張ってるわけだ。
その中で知った心臓に関する面白い話として「記憶転移」というものがある。心臓移植を受けた人間に臓器提供者の記憶や趣味嗜好、性格が転移するという現象のことで、これについてはいくつかの説が挙げられながらも科学的にはまだ未解明だそう。
一方で魔道においては心臓は「魂」の在りかだとされていて、心臓の持ち主個人の根幹をなす生命エネルギーが宿っていると考えられている。つまりそこにはその個人を構成する情報――記憶や人格といったものが保存、蓄積されているという理屈だ。
もしそれが証明されて魔法技術に応用できたとしたら、たとえば私の心臓を他人に移して、その誰かに私という個人も移植できるようになったりするんだろうか。有り体に言えばわたしが他人の体を乗っ取ったり、とか。
…………馬鹿馬鹿しい。勝手に他人の体奪ったりしたら、それこそ制裁待ったなしだ。大体そんなことがホントにできるんならとっくに誰かがやってる。この世の中には私みたいな有象無象とは住む世界が違う、化け物みたいな魔法使いがたくさんいるんだから、私にとっては夢物語のような技術を人知れず使ってる人だっているはず。魔道の歴史上唯一「不老不死」を成し遂げた魔法使いがいるらしいって噂も聞いたことあるぐらいだし。いや、うん、さすがにそれは嘘だと思うけど。
ともかく、そんな凄い人たちがいて長い歴史のある魔法の世界で実現できていない技術があるってことは、それは相当に実現が困難な技術かそもそも実現不可能なものかのどちらかだ。言い換えれば私なんぞには一生縁がないってこと。
それはさておき、そんな私が今一番欲しい魔法は、自分のこの狂ったように跳ねまくってる制御不能の心臓を落ち着かせる魔法だ。自律神経に働きかける魔法もあるにはあるけど、それは事前に使ってる。使った上でこの有り様なのだ。
なんとか鎮まってほしいから一生懸命に、今置かれているこの状況とはちっとも関係ないことを考えていたのに、まったくこれっぽっちも効果がない。ホントに狂ってんじゃないかこいつ。
私より頭一つ分くらい背の高い彼が、切れ長のきれいな目でじっと見下ろしてくる。
今日こそは、と強い決意を持ってここに立っているはずなのに、その目で見つめられると口を開くことさえ憚られてしまう。
あぁ、この暴れ馬さながらの鼓動、彼の耳にまで届いてしまってるんじゃないか。怖い、恥ずかしい、逃げたい、帰りたい、彼だって迷惑なんじゃないか、今日はやめとこうか、また今度にしようか。そんな言葉が弾幕のように頭の中を飛び交う。
でもダメだ。今日ここで言わなきゃ、きっともう二度と言えなくなってしまう。なにかと理由を付けて逃げるようになってしまう。
だから、絶対、今言うんだ。
きっと私は茹でだこみたいに顔が真っ赤になってる。そんな私を見つめる彼も、私がこれからなにを言おうとしてるのかなんてとっくに察してると思う。
震える唇から必死で紡いだ言葉に、なんの捻りもないストレートな「愛の告白」に、彼は少しだけ困ったようにそれでいて優しく微笑った。
これが、幸福に満ちた私と彼の二人だけの暮らしの始まりだった。




