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見上げた空は、目が覚めるほど青かった。
あんまりにも青が鮮明で、いい天気だなって思うよりも先になにか良くないことの前触れなんでは、と不吉を感じてしまうほどだった。
あの人の姿を初めて見てから数か月。季節はすっかり夏真っ盛り。まだ朝だというのにただ外に立っているだけで肌は汗ばみ、自己主張も甚だしい太陽にじりじりと焼かれていく感覚がひどく不快で、喉の奥から勝手に「あつぅ」と漏れ出てしまう。
この季節になると毎年のように、子供の頃はあんなに夏が待ち遠しかったのになぁなんて懐かしんでしまう。プールに海や川で遊んだり、虫取りに行ったり、なかなか日が落ちないのをいいことに遅い時間まで公園で遊んだり。暑さなんて関係なく、もうただただ毎日が楽しかった。
それが今じゃもう、すっかり外出することすら億劫な有様である。まったく、歳は取りたくない。
でも今日はこのばか暑い晴天の下でおでかけだ。
少し錆が浮き始めた自転車に乗って、ゆっくりと漕ぎ出す。
入院していた祖父が息を引き取ったのは年が変わる少し前。体調はずっと安定していたのだけど、急激に容体が悪化して意識を失ったまま静かに逝った。本当にあっという間の出来事だったけど、苦しむことなく最期を迎えられたのは不幸中の幸いだったんじゃないだろうか。
涙は出なかった。
悲しくなかった、とかじゃなくて、祖父の思う「人間らしい」死に方が出来ただろうから、わたしも祖父の死を自然と受け入れられたんだと思う。
そういうわけで、あの病院に祖父はもういない。とっくに骨になって先に逝った家族と同じお墓の中にいる。
けれどわたしは病院へ向かってる。少しだけ胸をそわそわさせながら、普段よりもちょっとだけペダルを強く踏み込んで、見たくないもので溢れる病院をわたしは目指す。
病院へ着いたらわき目も振らずにカフェに急ぐ。
お気に入りのコーヒーとBLTサンドのセットを注文して、お気に入りの窓際の席に座る。コーヒーの淹れたての芳醇な香りを鼻腔に感じながら、中庭に差す幻想的な木漏れ日にうっとりと目を細める。
わたしにとってはもうすっかり日常になった、来るたびに非日常を感じられるこの時間を楽しむために、祖父が亡くなった今もこの場所に通い続けている。
――――なんてのは嘘で。
本当の目的は、もちろんあの人だ。ここに通うようになってから何度か散歩姿を見掛けたけど、見るたびに病気は悪化しているようで、見るたびに彼という輪郭が希薄になっている。なのに、わたしの中でその存在はどんどんと密度を増していって、忘れようにも忘れられなくて、こうしてこの場所でその姿を観察する日々が始まった。
これっていわゆるストーカーという奴なんだろうかと、深入りする前に止めといた方がいいのではと、自分で思わなくもないのだけど、わたしが他の誰かにこんな気持ちを抱くのはたぶん人生でも初めてのことで、それは遠い昔に経験した初恋なんかよりもきっと、ずっと尊い。
だから気の済むまで自分の気持ちに従ってみようと思い至っただけ。無論、絶対に彼に迷惑はかけないという前提で、だけど。
彼も調子がいい日ぐらいしか散歩しないだろうし、わたしだってさすがに毎日は来ないから、その姿を見られる確率は高くない。なのでカフェの店員さんに変な目で見られないように、あくまでここにはコーヒーを楽しみに来ているという「体」は崩さない。
素知らぬ顔でBLTサンドを頬張りながら、窓の外に目を向ける。
そこに、いた。
ゆっくりと弱々しい足取りで、母親と思しき女性に支えられながら歩く彼はまた一段と痩せていた。誰の目にも予後の悪さが見て取れるくらいに、その魂の在りかがおぼろげになっていた。なのに彼の口元には柔らかな微笑みが佇んでいて、瞬きをする間に消えてしまいそうで、いつにも増して強く見入ってしまう。
少しずつ遠ざかっていく、痩せこけて小さくなった背中。初めてその姿を見た時よりずっと勢力を拡げた病魔。きっと彼はもうじきいなくなってしまうだろう。いつからこの病院にいるのかは分からないけど、彼自身も彼の家族も大きな負担を抱えて、それでも生きたいと願って、生きてほしいと願って、必死で懸命に病魔と闘って。結果、かなわずに死んでしまうのだ。
それは歴史の中でごまんと繰り返されてきた、よくある人の営みだ。この病院の中に限ったってこんなことはたくさんあった。彼だけじゃない。だから、わたしがなにかをする必要なんてどこにもない。両親に対してそうしたように、祖母に対してそうしたように、祖父に対してそうしたように、なにもせずに黙って見届けるだけでいい。彼だけを特別視する意味なんて、きっとない。
…………本当に? 本当にそれでいいんだろうか。
近く消えようとしている命を、なにもせずにただ見ているだけで、本当にいいんだろうか。
祖父の教えは理解している。だから今までそれを大切にして守ってきた。でも同じぐらいに疑問もあった。
人を救うために魔法を使えないのなら、魔法は一体なんのためにあるのかと。わたしは一体なんのために魔法使いでいるのかと。
魔法の始まりは、人を救わんとする者がその想いから発現せしめた一つの奇跡だった。その奇跡を技術として発展させ体系化したものが魔法だ。つまり魔法とは人を救うための技術に他ならない。その技術を人を救うために使ってはいけないというのなら魔法は、魔法使いの存在意義は果たしてどこにあるのか。
家族や友人、自分が大切だと思う人に生きていてほしいと願うこと。それもまた人の営みの、その一部なのではないだろうか。大切な人を救える技術が自分にあるのなら、できる限りを尽くすこともまた、人の営みなのではないだろうか。
わたしは心から思う。彼に生きてほしいと。
「…………ぅん」
決意とともにBLTサンドの最後の一口を放り込んで、乱暴に咀嚼してからコーヒーで流し込む。
ごちそうさまでした、と会釈をしながらトレイを戻してカフェを出て、まっすぐに玄関に向かう。
ごめんねおじいちゃん。わたしはもうあなたの教えを守れません。自慢の孫ではいられません。自分の本心に、これ以上蓋をしておくことができなくなりました。
少し錆が浮き始めた自転車に乗って、勢いよく漕ぎだす。
彼の体はもういつどうなってもおかしくない。このまま時間が経てばわたしの決心が鈍らないとも限らない。
決行は、今夜だ。
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深夜の病院に来るのは祖母が亡くなった時以来だ。あの時は祖父と一緒だったから気にならなかったけど、一人で来るとほんのわずかな音すら耳に響く独特の静けさがなんとも言えず不気味だ。
視えるわたしでさえそうなんだから、視えない人たちが夜の病院や学校に強い恐怖を感じてしまうのは、まあ仕方のないことだろう。
さておき、今わたしの視線の先では彼が小さく寝息を立てている。
この人の病室なんて調べたこともないから今日まで知らなかったけど、かすかに感じ取れる気配を辿ってくればすぐに見つけられた。
深夜の個室とはいえ、絶対に病院のスタッフが来ないとは限らない。万が一にも魔法を見られてはいけないから、部屋全体に人除けの結界を張って、合わせて彼が目を覚まさないように意識を封じておいた。祖父の教えは破っても、魔法使いの掟は絶対に破ってはならない。わたしだけの問題ではなくなってしまうから。
ふぅ、と息を吐いて、気持ちを整える。体の内で心臓が大きく鳴り響く。
彼を死に近づけている病魔は、もはやわたしに治せるレベルじゃない。初めて彼の姿を見たあの時であればまだどうにかできただろうけど、ここまで進行してしまったらもう無理だ。ならどうやって彼を救うか。わたしにできる方法、可能性をできるかぎり検討して導きだせた結論は一つしかなかった。
わたしの命を捧げる。
それしかなかった。比喩とかじゃない。文字通りの意味だ。
迷いがなかったと言えば嘘になる。だってこの方法で彼を助けられたとしても、わたしはそれを見届けることができなくなる。元気になった彼を見ていることができなくなる。
……それがどうした。彼の命に比べたらわたしのエゴなんてゴミみたいなものだ。
彼の命を救えればそれでいい。それで十全だ。
今一度大きく息を吸って、深く吐きだす。
よし、始めよう。
彼の胸に手を当てて、呪文で印を結ぶ。彼の中に魔力を流し込み、浸透させていく。ゆっくりと彼我の境界が曖昧になっていって、気を抜くと今あるこの意識がわたしなのか彼なのかさえも分からなくなりそうで、自分を見失わないように必死で呪文に意識を集中させる。
まずやるべきことは彼の命を蝕む病魔をわたしの身と「入れ替える」こと。範囲が広いから少し時間は掛かるけど、病魔は一片も彼の中に残さない。全部わたしが持っていく。
朦朧とする意識を繋ぎとめながら呪文の最後の一説を唱える。
取りこぼしがないことを確認してお互いを繋いでいた魔力を切り離すと同時に、喉の奥から胃の中身が込み上げてきた。噴きだしそうになるのを咄嗟に手で堪えて、飲み込む。
呼吸が苦しい。膝が勝手に震える。立っているのも辛い。視界が歪む。体内の急激な変化に、脳の処理が追い付いていない。
でもまだだ。まだ終わりじゃない。今はまだ外側から魔力で無理やり状態を安定させているだけ。わたしがいなくなったら魔力が途切れて、彼の全身に強い拒絶反応が出てしまう。最後の仕上げが必要だ。それまで、絶対にこの意識を絶ってはいけない。もうすぐだから、もうこれで終わりだから。
右手を自分の胸に当てて、ぐっと力を入れる。ずぶりと水に浸かるように胸の中に沈み込む。手に触れたのは、わたしの命そのものであり、魔力の源でもある心臓だ。これを失えばわたしは死ぬ。人としても魔法使いとしても、わたしは死ぬ。でも彼を救うため、術式の仕上げにこれが必要だ。
死ぬのは怖い。わたしがやろうとしていることは自殺と同じ。自分で自分を殺すんだ。事故や病気とは違う。ここまで来て後戻りはできない。躊躇している時間もない。
今一度、彼の寝顔を見る。
本当ならもう幾ばくも生きられなかったはずの人の寝顔。その儚い命を、尊い命をわたしが救うんだ。
「怖くない」
あえて口に出して、右手を一気に引き抜く。
手の中で大きく脈打つ心臓。ここからは時間との勝負。お願い、と心で念じてそれを今度は彼の胸に添えながら、今一度呪文を唱える。
心臓が音もなく胸の中に沈んでいく。彼の心臓にわたしの心臓が溶け重なって、魔力が血液とともに全身へ巡っていく。その流れに淀みは感じられない。心臓も穏やかなリズムで脈を打っている。もう大丈夫。これでわたしがいなくなっても魔力の供給は続いて、彼の状態は常に安定を維持できるはずだ。
これで、終わり。
「――――うん」
ばしゃり、と音を立てて膝から下が崩壊する。一気に視線が低くなって、反射的に右手でベッドの柵を掴もうとしたら、右手が弾けた。魔力の源を失った魔法使いの末路は、知識としては知っていたけど、あまりに唐突すぎて驚く暇もない。
お別れの言葉ぐらい言っておきたかったな。もう彼の顔も見えない。このまま床に体を打ちつけてわたしは消える。あ、しまった。服のこと忘れてた。女物の服だけが床に落ちていたら、さすがに気味が悪いだろう。でも今更どうしようもない。
学生時代からの友人にも、社会人になってからの友人にも、なにも伝えられなかった。急にいなくなって、職場の人たちにも迷惑を掛けちゃうな。家や土地のことだって、なんの処理もしてない。やり残したことだらけだ。
だけどわたしは満足だ。思い残すことはなにもないって言えるぐらいには。
床に叩きつけられて上半身が砕けて、勢いで一瞬だけ頭部が浮き上がる。
自由の効かない視線の先に、悲し気に立つ祖父が視えた気がした。
頭が落ちる直前、わたしは願う。
もしもう一度この世に生まれ変わることができたらその時は――――。
今度こそあなたと出会えますように。
了




