4-6
思わぬ声に驚いて目を開く。足元の床を砕く勢いで爆発させるはずだった魔力が行き場を失くして再び全身を巡り始める。
視線を上げると、わたしの左腕が彼の背中から生えていた。
「え?」
「あ……り、あ、なん……で」
え?
え?
え?
「な、なん、なんで、やだ、やだッ」
慌てて腕を引き抜こうとするも、まるで感覚がなくなったようにわたしの左腕は言うことを聞かない。そのくせにぬるりとした粘膜と、指を押し返すように鼓を打つ心臓の感触がはっきりと伝わってくる。
「ちがう、ちがうちがうッ、わたし、こん、こんなの、ちがう、なんで、なんでッ」
なにが起きてるの? なんで腕が刺さってるの? なんで腕が抜けないの? なんで彼の心臓を掴んでるの? 分からない分からない。訳が分からない。
あ、先生。先生に、先生に助けを。
目が合った。
先生が目を細めて微笑んだ。
「どうしてそんなに慌ててるの? 元々彼のことは殺すつもりだったんでしょ? だったらちょうどいいじゃない。そのままぎゅっと握り潰しちゃえば、それで終わり。簡単なことだよ」
違う。そうだけど、確かにそうだけどこんなの違う。こんなの、嫌だ。
「や、やめろ、亜莉亜……」
魔力の源たる心臓を、文字通り生殺与奪を握られて動けない彼が、かすれた声で懇願する。表情はよく分からない。
自由にならない左腕に、ぐっと力がこもるのが感じられた。指先から伝わる心臓の弾力。一気に速まっていく鼓動。全身から一気に汗が噴き出してくる。
「なんで、なんで動かないのッ、わたしの腕なのに、こんなの嫌なのにッ」
「う、ぐぅ、頼む、亜莉亜、たの、む……」
わたしの意思とは裏腹にますます力がこもっていく左手。心臓を潰される苦悶の声が、彼の口から洩れてくる。
焦りと恐怖で目からは涙がこぼれ、彼の後ろ姿が滲んでいく。
駄目だ、このままじゃホントに自分の手で彼を殺してしまう。左手はわたしの命令を無視して少しずつ、まるでその感触を楽しむかのように、あるいはあえて彼を苦しませるように指先を心臓に食い込ませていく。
耳に響く苦悶の声、思考力を奪う焦燥。
馬鹿みたいに力づくで左腕を引っこ抜こうとするわたしをあざ笑うみたいに、指先からぶちっと粘膜を破る感触が伝わる。
おそらくはその痛みで、彼の体がびくんと跳ねる。
「ぐ、ぐぅぅ」
ぐちゃぐちゃにかき乱された頭の、その隙間を縫って彼を救う方法を思考して、ようやく一つの手段に辿り着いた。
言うことを聞かない腕なら、切り落としてしまえ。
当然わたしは腕を一本失うことになる。でもそれがなんだ。彼の命と引き換えなら安すぎるぐらいだ。
あらためて先生を見やる。
変わらず優しく微笑んでいる。公園で遊ぶ子供を見守る母親のような、穏やかな笑顔だった。
右腕に魔力を込め、手刀の形を作る。
逡巡はない。一息で左腕の肘から下を――切り落とす。
よく研いだ包丁で肉を切るみたいに、抵抗なく腕が二つに切り離される。
一寸遅れて切断面から噴き出す血が、彼の背中を汚す。
でも、これで彼は助かった。心臓のダメージも致命的ではなく、治癒することはたやすい。後は彼の体から左腕の残骸を取り除けばいいだけ。
ひとまず良かった、けどまだ終わったわけじゃない。「インスタント」達の輪は確実に狭まってきている。ここからの脱出を急がないと。
「あの――」
左腕の止血をしながら彼に声を掛ける。
反応がない。振り返りもしない。わたしの心臓が小さくざわつく。
「あの、だいじょう――」
肩を掴んだ途端、彼の体がぐらりと傾いて、そのままわたしに向かって倒れてきた。
咄嗟に抱き止めようとするも、わたしの右手が、体が触れるや否や彼の体がプリンみたく崩れて、液状になって床に弾けた。
「あ、え……?」
一瞬の後には、差し出した右手に彼の衣服だけが残された。
脳の働きが鈍化して、思考が働いているのかどうかさえあやふやになって、視界に映るものが全部意味を失って、自分だけが空間の中に置き去りにされたような感覚だけがあって。
唐突に、かん、という硬質な音が耳に響いてその全部が戻ってきた。
音がした方に視線を向ける。わたしの足元だった。
ついさっきまで彼だったはずの液溜まりの中に、マネキンの腕が転がっていた。左腕だった。
あぁ、そういうことだったのか、と自分でも驚くほど冷静淡泊に理解ができてしまって。でも自分の正体とか彼の死とか先生の魔法とかもう血が一滴も流れていない左腕の断面とか、目の前にぶちまけられた情報に脳が耐えきれなくて、気付いたら膝から崩れ落ちていた。
立ち上がる気力なんて、あるわけがなかった。
「さすがに、余興にしては趣味が悪かったね。別にここまでするつもりだったわけでもないんだけど」
ごめんね、と先生が言った。
のったりと顔を上げると、わたし達を囲んで蠢いていた人形達は一体残らずいなくなっていて、申し訳なさそうに笑う先生一人だけが近づいてきた。
目の前まで来た先生は体をかがめて転がった左腕を手に取って、そのまま胡坐をかいて座る。
「うぅッ!」
なにを言うとかなにをするとか考えるより先に、体が勝手に力いっぱい先生を殴りつけていた。
きっと原動力は怒りとか憎しみじゃない。でも説明はできない。ただ自分の中で急激に膨れ上がった正体不明の感情を思い切りぶつけたかっただけ。
だけど、その拳は先生には届かなかった。
厚さにしてわずか一ミリにも及ばないたった一層の局所結界。日焼け痕の薄皮みたいなそれに込められた魔力が、神でもなければ崩せやしないジェリコの壁のように彼我を隔てていた。
空気が抜けた風船みたくうなだれるわたしに先生は優しく、静かに語りかける。
「少し、昔話をしようか」
その手に持ったわたしの左腕を撫でる先生。少し伏せがちのその瞳には、じんわりと温ぬくい慈しみが宿っているようにも見えた。
「この国に生まれ育って、わたしはずっと独りぼっちだった。母から受け継いだこの赤髪も淡褐色の瞳も、周りにはいなかったからかな。保育園や学校で多少の迫害いじわるはあっても友達がいなかったってわけじゃないし、本当の意味で孤独だったわけでもないんだけどね。どうしてか子供の頃からずっと自分が独りぼっちだと感じてた」
それは今まで一度も聞いたことがなかった先生の過去。百貌の魔女の、その成り立ちだった。
「あれは八歳の誕生日だったかなぁ。母からのプレゼントを箱から取り出した時の高揚は今でもよく覚えてる。赤い髪と淡褐色の瞳を持った人形だった。ホントに嬉しかったよ。なんでも母が有名な人形作家に頼んでオーダーメイドで作ってもらったものらしいんだけど、とにもかくにもやっとわたしにも本当の友達ができたって、大はしゃぎして喜んだ。なにが由来だったかは忘れちゃったけど、その人形に「アリア」って名前を付けてまで可愛がってね」
え? と喉から声が漏れて先生を見ると、わたしと同じ瞳と目が合った。その視線に何故だか強烈な懐かしさを感じたのは、きっと思い違いじゃない。
「なにをするにもどこへ行くにも一緒で、アリアが来てからは毎日が楽しくて幸せだった…………ま、長くは続かない幸せだったけどね。だってね、どれだけ一緒にいてどれだけ大切にしようが、しょせんは人形だから。いくら話しかけても応えてはくれないし、どんな遊びにも付き合ってはくれない。ただそこにいるだけ。わたし自身の成長もあってアリアがただの置き物に変わるまで、そんなに時間は掛からなかったな」
「大切にはしてたけどね」と少し寂し気に笑って、先生は手にした左腕をそっと床に戻した。小さく鳴った無機質な響きが、虚しく耳を打った。
「転機と言えるのは十歳の頃。一人の魔法使いと出会ったこと。ファンタジーだと思ってた魔法の実在を知ったわたしが真っ先に考えたのが、アリアを作り出すことだった。自らの手で理想の友達を作る。図らずも芽生えたその目標のために必死で頑張って、ありがたいことに三年ほどで師の元を卒業できた。自分の工房を持って、見習い時代から温めてきた方術を試して。もちろん最初はね、全然上手くいかなかったよ。独立こそできても子供は子供だしね。思い描いた魔法が形にすらならない時期が長く続いて、それでも子供なりにあーでもないこーでもないと色々試していくうちに少しずつ形になってきて…………」
そこまで言って、先生は小さな溜め息を一つ挟む。床に転がる左腕を見て微笑った。
「今度は上手くいくかもって期待したんだけどね。なんたって、アリアが初めて恋をしたんだもの。わたしのアリアが人間の男と恋をするなんて、正直嬉しい想定外だった。今まで経験したことがない感情を知って、今までになかった人との関わり、人との交わりを経て、今度こそアリアは完成するかもしれないって、ドキドキしてた。ま、最後の最後でフラれちゃって残念な結果に終わっちゃったけどね」
先生の右手がおもむろにわたしの頬に触れる。その掌の温かさに、不意にボロボロと涙がこぼれ出す。
そうか、わたしのしたことをはただの裏切りだったのか。最愛の恋人とともにあろうというその選択を美しく尊い決断に仕立て上げて、その実やったことはただ友達を裏切っただけ。なんて醜く愚かな選択か。
先生は試してたんだ。恋と友情の二択を迫られたわたしが正しい選択をできるのか、最後のテストをしてたんだ。そしてわたしは見事に違えた。先生を失望させ、幻滅させた。
わたしが犯した罪は、あまりにも大きい。
「ご、ごめ、ごめん、なさい……」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
それ以外の言葉が出てこなくて、涙は少しも止まってくれなくて、口から漏れ出るその言葉の意味さえ見失いながらひたすらに繰り返す。
先生の手がそっと髪を撫でる。涙でぼやけた視界に、先生の少し困ったような笑顔が見えた気がした。
「気にしないで亜莉亜。わたしはなんにも怒ってないし、傷ついてもいない。君はなんにも間違えていない。君のおかげで有用なデータがたくさん取れたんだから、むしろお礼を言いたいくらい。今度はきっと上手くいく。今度は、もっと上手く君を作ってあげる」
ゆっくりと先生の顔が近づいてきて、互いの額が触れ合う。
「だから今は少しだけ――――おやすみ」
◇
お気に入りのカフェの窓際の席。少し酸味の強いブラックコーヒーを飲みながら、昨日買った新作の小説を読む。店内は余計なBGMもなく、そこそこに席を埋めているお客さん達も場の空気に合わせて控えめの声でおしゃべりして。窓の外に見える雑踏とは隔絶されたこのコントラストが、とても好きだ。
この小説、ミステリー要素のある恋愛物だそうで、物語の最後に衝撃的などんでん返しが待っているらしいんだけど、中盤辺りまで読んだ感じだとごく普通の男女によるごく普通の恋愛にしか見えない。わたしもこんな普通のありふれた恋がしたいなぁ、なんて思うけれど、前の彼氏と別れて以降は残念ながらいい雰囲気のお相手はいない。別に理想が高いわけでもないはずなんだけど、なかなかどうして、男女の出会いというものは意外とありそうでないものである。
君は高嶺の花だからね、と彼女に笑って言われたっけ。それはあなたの方でしょうと返したら、まあねってにっこり笑って。それを思い出して、うっかり「くふっ」と鼻から息を漏らしてしまう。周りに聞こえてないかなと気にしつつ、ごまかすように窓の方に目を向けると、彼女が歩いていた。
目が合うと、彼女はついさっき思い出してた笑顔とともに手を振ってくれた。わたしも小さく手を振って返す。その何気ないやり取りだけで胸の奥がなんだかそわそわしてしまう。待ち望んでいた時間がやっと来た、とでも言うように。
からん、とドアの鐘がなる。「いらっしゃいませ」と落ち着いた声と「あの子と待ち合わせです」というはつらつとした声。
それからフローリング特有の鈍い足音が近づいてきて、わたしの傍で止まった。
「あ、それわたしも昨日買った。どこまで読んだ?」
彼女は言いながら、わたしの向かいに座ってバッグを隣の椅子に置く。
「まだ半分くらい。ひょっとしてもう終わった?」
「まあね。昨日は時間あったから……ネタバレしようか? 結構びっくりなラストだよ」
「ダメ。それしたら絶交レベルでダメ」
「ははぁ、それは困る。止めておこう。あ、ホットコーヒーお願いします」
水を持ってきた店員さんに注文して、彼女はくつくつと笑う。自分で言っておいてなんだけど、この笑顔を前に絶交宣言なんてとてもできる気がしない。
鮮やかな赤い髪。神秘的な淡褐色の瞳。わたし達の関係を知らない人に「姉妹です」と言えば、疑う人は少なくともこの国にはまずいないだろうと言えるくらいにわたしと同じ外見的特徴。
そんな二人が向かい合って座れば嫌でも目立つ。この店はもう何度か利用してるから店員さんは慣れたものかもだけど、お客さんはその限りじゃない。もうすでに何人かのお客さんがちらちらとこちらを窺っている。その類の視線はわたしはまだ少し気になってしまうけど、彼女はまるで意に介する様子がない。その堂々とした姿が、一緒にいるわたしにはありがたい。
なんの目的もない閑談をして、二人で控えめに笑って。ただそれだけ。運ばれてきたコーヒーをすぐに口に運んで、彼女が「あちっ」と顔をしかめる。わたしは「ばか」と言って少し冷めたコーヒーを飲む。ただそれだけ。
別にこれからどこかへ行こうとかなにかしようとか決めてるわけでもなくて。お互い時間があったから会う約束をしてこうして一緒にコーヒーを飲んでいる。それだけなのに、それだけで今日一日が幸せに終わるであろうことを予感できる。
仕事の不満とか人間関係の煩わしさとかちっとも始まらない恋とか、同じ魔法使いの命を奪う憂鬱とか。そんなものを全部いっぺんに吹き飛ばす爽快な風をもたらしてくれる彼女が、わたしは大好きだ。
彼女はどうだろう。わたしのこと、どう思ってるだろう。
いや、そんなのどうだっていい。わたしは彼女が好き。その事実だけで充分だ。
あちあち言いながらちょっとずつコーヒーを啜る彼女と目が合う。ふと瞬間に思いついたことを提案してみる。
「この後、カラオケでも行かない?」
彼女はにやりと笑った。
「いいね。たまには採点勝負でもしてみる?」
「あれ、もしかして勝てると思ってらっしゃる?」
「そりゃもう、アドもびっくりだよわたしの美声は」
ほぉほぉ、じゃあわたしはミーシャも裸足で逃げますよと返すと、彼女は「なにこの会話」と苦笑した。
コーヒーを飲み終わって、二人で荷物を持って立ち上がる。
そして彼女が目を細めながら笑って言う。
「じゃ、行こうか亜莉亜」
長いようで短い、平凡で幸せな一日が今日も始まる。
了




