4-5
喉の奥からこぼれたのは、絞り出したようなかすれ声だった。
でも先生はわたしの呼びかけには反応せず、彼のことを薄い笑みとともに見つめていた。
いや、それ以前に先生は一体いつ、どうやってこの場に来たのか。殺し合いの最中だったとはいえ、わたしと彼の探知網を潜り抜け、まるで初めからそこにいたように空間に馴染んで。どうすればそんな芸当ができるのか。
「何故オマエがここにいる」
彼が言う。一見冷静ではあるけど、明らかに声に動揺がある。
「君がわたしに辿り着けた、そのご褒美に」
わたしが必死で否定しようとしていたことを、先生はこともなげに認めてしまった。
「自分が百貌だと認めるってことか。なら、亜莉亜を洗脳して身代わりにしようとしたことも認めるんだな」
「それは認められないなぁ。亜莉亜はわたしの大切な友達だよ。友達にそんなことはしない」
言って、やっと先生はこっちに視線を向けてくれた。いつもと同じ、優しい目だった。
「それで言うなら、君が亜莉亜をモノにするために彼女を洗脳して、自分に好意を向けるように仕向けた――なんて言い分もできちゃうけど、どう?」
思わず彼に目を向けてしまう。そんなこと、考えてもみなかった。
「ふざけるなッ、そんな卑劣な真似するわけがないだろうが」
「そういうことだよ。百貌の魔女を弟の仇と憎むのはいいけど、だからって勝手にバイアスを掛けて百貌は悪みたいな扱いしないで」
チッと舌打ちする彼を横目に、少し安堵した。先生が百貌の魔女であることには驚いたけど、彼の推察を否定してくれたことは素直に嬉しい。だけど、結果としてまた大きな疑問が生まれてしまった。
わたしがそれを問おうとするより先に、彼が口を開いた。
「オマエが百貌の魔女だと言うなら、亜莉亜の記憶はどうなる。どうして亜莉亜は自分を百貌だと思ってる。どうして俺の弟を殺したという記憶を持ってる」
「そりゃあ、亜莉亜が百貌の魔女で君の弟を殺したからだろうね」
はあ? と彼が苛立った声を上げる。わたしもただただ困惑してしまう。先生の言っている意味が、頭の中で整理できない。
「百の貌と書いて百貌って、わたしが付けた二つ名じゃないけど、まあ分かりやすくて案外よくできた名前だよね」
笑みを浮かべたまま、先生の目がすっと細まる。冷たいムカデかなにかがぞろりと背すじを這い上がった気がした。
「君もそうだろうけど、魔法使いっていうのは苦心の末に編み出し磨き上げた技術を秘匿したがるものでしょ。もちろんその気持ちは分かるけど、実のところわたしは特に隠すつもりなんかなくてね。どうせわたしの魔法を再現できる使い手なんて世界中に何人といないだろうし……ただね、親しくもない相手にこれはこうですあれはこうですって懇切丁寧に教えてあげるほど、優しい人間ではないのよ」
再現できる使い手なんて何人といない。先生がさも当然のように言い放ったその言葉から、絶対的な自身と矜持が伝わってくる。そして、わたしが今置かれている理解不能な状況が、先生の魔法によるものだという事実をさりげなく突き付けられていることに、嫌でも気付かされる。
「今のは失言か? 亜莉亜に魔法を掛けていることを認めたな」
「違うし、その話はもういいよ。いちいち教えてあげる気はないってさっき言ったでしょ。で? どうするの? わたしを殺す? それとも、亜莉亜を殺す?」
立ち上がった先生がゆったりと瓦礫から下りてくる。まるで自宅のリビングを歩いているかのような、微かな緊張すら感じさせない足運び。相変わらず魔力はちっとも感じないのに、一瞬気を抜くだけで魔法使いの、人の尊厳ごと踏み潰されてしまいそうな異様なプレッシャーがあの肢体からにじみ出ている。それを感じ取ってしまったせいで勝手に体が強張って、全身の筋肉がギシギシといやに軋む。
「根源がオマエだと分かった以上、亜莉亜を殺す意味はもうない。オマエを殺せば、亜莉亜に掛けた魔法も解けるんだろう。なら、やるべきことは一つだ」
彼の体から暴風のように激しく魔力が噴き出す。さっきまであんなに疲弊していたのに、この短時間で凄い回復速度だ。この力強い魔力が守ってくれているのか、先生から伝わるプレッシャーが幾分和らいだ気はする。だけどそれでも、それでもこの身の強張りは少しも解けてくれない。
先生がわたしをじっと見る。とても優しくて、とても冷たい目だった。
「亜莉亜はどうする? 彼と一緒になってわたしを殺してみる?」
「え――――っ」
わたしが、先生を殺す?
そんな選択肢がわたしにあるの? なんで先生はそんな選択肢を私に与えようとするの?
「友達である亜莉亜に掟破りの罪を負わせるつもりか。勘違いするな。オマエを殺すのはオレだ」
「ぅん? ああ、なるほど。確かにそれはそうだ。ごめんね亜莉亜、今のは忘れて。はい、じゃあわたしを殺して、どうぞ」
先生が言い終わった時にはもう、彼は先生の眼前で飛び蹴りの姿勢に入っていた。
さっきまでこの場に不釣り合いなくらいにリラックスしていたはずの先生の体がバネのように反り返り、蹴りをいなす。躱されることを想定していたのか、彼が蹴りの勢いを利用して空中で回転し、体勢を立て直そうとする先生に後ろ蹴りを叩きつける。
「んぎッ」
防御は間に合ったものの、呻き声をあげながら先生がよろめく。彼が着地と同時に足払いし、仰向けに倒れた先生の胸部に拳を振り下ろす。
打ち込まれた魔力が先生の体内で弾け、その衝撃で大気が震える。
先生の口から、目から耳から、鮮血が噴き出す。一目で致命傷だと分かるダメージ。見たくもなかった、生涯で目にすることなんてあるはずがなかった先生の痛ましい姿に、反射的に視線を逸らしてしまう。
「なッ!?」
耳に、彼の驚きと戸惑いを含んだ声が届いた。恐る恐る視線を戻すと、拳を打ち込んだ姿のままの彼の足元に――――先生とは似ても似つかないマネキンの残骸が散らばっていた。目の前の光景に理解が追い付かなくて放心していると、またあの声が聞こえた。
「ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち」
まるで時間が巻き戻ったように、瓦礫の上に腰かけて微笑む先生の姿。もちろん血なんか一滴も流れていない。
これは一体どんな魔法? 幻覚、とは違う気がする。それなら空間転移? だとしたら、マネキンと入れ替わったのは一体どのタイミングで? いや、それも違う気がする。駄目だ、分からない。
こんな技術、知らない。
彼の表情にも訝しみがありありと浮かんでいる。直接先生に触れた彼ならその魔力の流れ、術式の作用を多少なりとも感知できたかもと思ったけど、残念ながらできなかったみたいだ。一体どんな魔法を、どれほどの精度で扱えばこんなことを可能にするのか。
「魔法の正体が分からないのが怖い? 亜莉亜」
気心の知れた友達に「昨日のドラマ観た?」とでも問いかけるかのような、軽く弾む声。彼の殺意を全力で受けてなお、なんでそんな声が出せるんだろう。わたしにとって、彼以上に身近な存在だったはずの先生が、どんどん分からなくなっていく。魔法の正体なんかよりも、それが一番怖い。
「別に特別なことはなにもしてないよ。種明かしすると、この場所にはあらかじめ結界を張っておいたんだよ。君がここに来る前からね。つまり、君たち二人はわたしの腹の中で殺し合いをしてたってわけ」
「結界を張っておいただと? オレにも亜莉亜にも気付かせない、そんな馬鹿げた結界を専門家でもないだろうオマエに張れるってのか?」
「さっき君が自分で言ってたじゃない。百貌の魔女は規格外だからそれができちゃうの。そして君が地下の工房に入れなかったのは、悪意や敵意を持った人間が入れない結界を張ってるから」
彼が目を見開いたまま一寸硬直してしまう。
工房にいながら自宅の様子を把握していて、彼が工房に入れなかったことまで知ってる。全部、わたし達に知覚できない結界で見られていたということだ。
「確かにわたしは結界を専門的に研究してるわけじゃないけどね。仲のいい友達にそういう子がいるのよ。君たちと違って武闘派じゃないけど、才能や技術で言えば多分二人より上じゃないかな。結界の扱いに関してはその子から色々学んだ」
そこまで聞いて彼が舌打ちをする。不愉快が表情に出ていた。そして、わたしの名前を呼んだ。
「ここは一旦引こう。本当にここが奴の腹の中だとしたら、あまりに不利だ」
「え…………」
わたしが、引く?
彼がそうするのは分かる。でも、どうしてわたしが先生から逃げないといけないの? わたしは先生の敵?
「やだなぁ、勝手に亜莉亜を自分側に置いちゃって。この場から逃げるのは君だけ。そして、残念だけど君はここから逃げられない」
先生がそう言った瞬間、この場がわずかに歪んだ感覚があった。
あった、と感じた時にはもう、たくさんの先生に囲まれていた。
全員がわたしの知る穏やかな笑みを浮かべて、彼を見つめていた。
恐るべきはたくさんの先生のその一人一人から伝わる魔力。わたしや彼と同等レベル。そんなのが何十、あるいは百単位で立っている。これだけはっきりと魔力を感じるということは、これは幻でもなんでもない。確かにそこにいる、実体だ。
「規格外……これが百貌か。バケモンが」
亜莉亜、と彼がわたしを見る。まっすぐにわたしを射抜くその瞳が、揺れている。
「オレがアイツらを引き付ける。オマエはその隙にここから脱出しろ」
「な、なにを――」
言ってるんですか? と言う前に、彼がにやりと悪戯に笑った。
「オレの仇を討とうなんて思うなよ。どっかで新しい男でも作ってのんびり暮らせ」
なんでそんなことを言うの。わたしにはあなたしかいない。あなたの代わりなんてどこにもいないのに。
「まだ勘違いしてるなぁ。さっきまで殺し合ってた亜莉亜がどうして自分側だと思うの? わたしが殺すのは君であって亜莉亜じゃない。わたしの友達を勝手に巻き込まないでくれる?」
先生のことは大好きだ。わたしと同じ赤い髪、わたしと同じ淡褐色の瞳。魔法しかなかった人生の中で、初めてわたしを友達だと言ってくれた人。ずっと先生の傍にいられたらって本当に思う。きっと飽きることなく笑って毎日を過ごせるだろう。だけど、その毎日が彼の犠牲の上に成り立つのだとしたら、果たしてわたしはこれから先も同じように笑っていられるだろうか。
「亜莉亜を騙して利用し、使い捨てようとしているオマエの言うことを信じるわけないだろうが」
彼のいない日々を当たり前のこととして享受することができるだろうか。
「別に信じなくていいよ。君はここで死ぬ。それ以上でもそれ以下でもないから」
もしここでわたしが彼を選んだら、先生はきっとわたしを許さないだろう。ひょっとしたらわたしのことも殺すかもしれない。
彼のいない日常を生きていくことと、今ここで彼とともに死ぬこと。選ぶなら、どっち?
「……ごめんなさい、先生」
はっきり告げるはずだった言葉は、今にも消え入りそうだった。
彼の後ろに寄り添うように立ったわたしに、先生は表情を変えないまま、でも失望を込めた視線を向ける。先生からそんな目を向けられるのは辛い。この上なく苦しい。胃の奥から強烈な不快感が込み上げてくる。でもわたしは選択したんだ。
自分の意思による決断だ。
「バカやろう。オレは逃げろって言ったんだよ」
「バカで結構。わたしが勝手にこうすると決めたんです。文句を言われる筋合いはありませんよ」
「なんだそりゃ……亜莉亜、オレが人生で初めて本気で惚れた女が、オマエで良かった」
わたしもです、と心の中で答えて先生に向き直る。目が合うなり先生が薄く笑った。そこにはさっき感じた失望も、あるいは怒りとか悲しみとか負の色は欠片もなかった。
「いいよ亜莉亜。君が自分の意思で選んだことなら、わたしはそれを尊重する。だからわたしのことなんか気にすることはないし、遠慮はなにもいらない」
先生が言い終わるなり、周囲の先生の偽者達が緩慢に動き出した。歩く速度も手足の動きもみんな一様で、その無機質な在り様はまるで人形だった。それらがわたし達を中心に徐々に輪を縮めながら迫ってくる光景は、A級ホラー映画さながらの恐怖演出だった。
「じゃあ亜莉亜に一つ良いことを教えてあげよう。その子達は今この場で作った即席品でね。術式も最低限しか編んでないから単純な命令しかこなせない。そして与えてある命令は、そこの男を殺せとだけ。さて、それを知った君はどうする? 数の暴力に屈してここで彼と死ぬ? それとも愛の力で奇跡でも起こしてみる? 約束するよ。もしこの場を切り抜けることができたら、わたしはもう君達二人に干渉も関与もしない。協会にも報告しないから、心行くまで二人で生きていけばいい」
逃げる余地が、助かる余地が、今のわたし達にあるの?
先生の言う「インスタント」達がじわじわと迫ってくる寒気を伴うプレッシャーの中、彼が振り返って笑う。まるでこの状況を打破する光明を見出したかような、力強い笑顔だった。
「あの女の言う通りだとすれば打つ手はある。二人で一点突破。おそらくそれが一番可能性が高い。やれるか?」
「――――はいっ」
決断した。覚悟も決めた。できることを、やるだけだ。
「俺の合図で真正面に跳べ」
頷く。軽く腰を落とし、合図に備える。
「サン」
目を閉じ、彼のカウントに意識を集中する。
「ニィ」
上半身は脱力。下半身には魔力を集約させ、一歩目からのトップスピードを狙う。
「イチッ」
足先から魔力を噴出させ――――。
「ぐぁッ!?」
――――え?




