第2話 美人上司が推しのセリフを呟いた
飲み会当日。
駅近の居酒屋、のれんをくぐるとすでに何人かの同僚たちが集まっていた。
俺もスーツのネクタイを少し緩めて席に着く。心なしか、みんなの表情もいつもより柔らかい。
こういう場では、みんな多少気を抜くものだ。俺も、普段よりは少しだけ口数が増える。
でも、今日に限っては――そんな空気を壊す存在が来る。
「おつかれさまです」
店の入り口で静かにそう言って、入ってきたのは氷川 澄主任だった。
オフィスでは見慣れたパンツスーツ姿のままだが、髪を少しゆるくまとめていて、どこか雰囲気が違って見えた。
周囲が小声でざわつく。
「うわ、マジで来た」「主任が飲み会って初めてじゃない?」そんな声があちこちから漏れる。
無理もない。
氷川さんは今まで、歓迎会も忘年会も参加していなかった。誘っても「遠慮します」の一言で終わっていた。
それが今回は、まさかの参加。
俺も思わず彼女を二度見した。
「氷川さん、こちらどうぞ〜」
同期の久世が気をきかせて、俺の隣の空いている席を指差す。いや……気を利かせてなんかない。
やめろ、やめてくれ、そこだけはやめてくれ。
……しかしその願いは、届かなかった。
氷川さんは無言のままうなずき、俺の隣に静かに腰を下ろす。
視線を合わせることなく、黙々とおしぼりを取り、グラスに水を注ぎ始める。
やばい。呼吸が浅い。心拍が早い。
斜め上の角度から降ってくる彼女の横顔が美しすぎて、こっちの顔が火を吹きそうだ。
「主任、お酒飲まれるんですか?」
誰かがそんなことを聞くと、氷川さんは一瞬だけ考える素振りを見せ――
「……今日は、飲んでもいいかなって思って……」
そう言って、日本酒のメニューを静かに指差した。
え、待って。
飲むの? 氷川さんが? しかも日本酒??
俺の中で、ありとあらゆる警報が鳴り響く。
“あの人は絶対に酔っ払ったりしない”という固定観念が崩れていく音がした。
やばい。やばいぞこれ。
「じゃあ、かんぱーい!」
「「「かんぱーい!」」」
乾杯の声が上がり、宴が始まる。
グラスの音、笑い声、焼き鳥の匂い。みんなはもう普通に飲み始めている。
でも俺は、隣にいる氷川さんの様子が気になって仕方がなかった。
ちらっと横目で見ると、彼女は一口、日本酒を飲んだところだった。
その表情は無表情のまま。お酒を飲んだところで氷川さんは氷川さん。そんなふうに思っていた。少なくともその時までは……。
だけど――1時間経ったあたりで事態が起こった。
(……あれ?)
ほっぺたが、ほんのり赤い気がする。
気のせいかもしれない。でも、それは確かに――いつもの彼女じゃなかった。
酔ってる? いや、そんなすぐに?
でも明らかに、姿勢が少しだけ緩んでいる。
そしてなにより。
声だ。
ほんの一言、となりの人にいつも頑張ってるねと言われ、「ありがとうございます」と返したその声が――
柔らかかった。
まるで、あの“姫乃ラピス”のときのような、落ち着いていて、だけど包み込むような温度を帯びていて。
一瞬、ゾクッとした。背筋を冷たいものが走ったのに、なぜか顔は熱い。
(やっぱり似てる。……いや、似てるどころじゃない)
自分でもどうかしてると思う。
ただの似てる人かもしれない。ネットで声が似てるなんて、いくらでもある。
でも俺は、半年以上、毎日のようにラピスの声を聞いてきた。耳が覚えてる。
だからわかる。
これは、“あの声”だ。俺が推してる、姫乃ラピスの――
「……あの」
突然、隣から声がして、ビクッと肩を揺らす。
氷川さんが、俺のグラスを指差していた。
「飲まないんですか?」
「あっ、あ、はい、いえ、飲みます、飲みます……!」
情けないくらい焦って、慌ててグラスを手に取る。
その瞬間、彼女の目がほんの少しだけ細くなった気がした。
まるで、笑ったように――見えた。
いやいやいやいや。そんなわけない。
氷川主任が、俺に笑いかけるなんて。そんなの、幻覚だ。
だけどそのあと、彼女は一言だけ、ぽつりと呟いた。
「……このお酒、けっこう、あまいんですね」
その声音。トーン。間。
そして語尾のやわらかさ。
そのすべてが、“あの声”と重なる。
胸が苦しくなる。
心臓の鼓動が、耳の奥でガンガン響く。
まさか。まさか。そんなはずない。
でも、だったら、どうして――
俺は気づけば、彼女の横顔をじっと見つめていた。
何かを探すように。答えを求めるように。
だけどそのとき、彼女はグラスを手に取り、ぽつりと、言った。
「今日も一日……おつラピでした」
――脳が、爆発した。
その一言で、すべてが、つながった。
声、言い回し、タイミング、そしてなにより、その“決めゼリフ”。
毎日のように聞いてきた。ラピスが配信の最後に必ず言うあの言葉を。
まさか。まさかまさかまさか。
でも、これはもう――
(氷川さん=姫乃ラピス……!?)
頭が真っ白になった。
次の瞬間、彼女は何もなかったかのようにグラスを置き、静かに席を立っていった。
俺の幻聴かなんかだったのか……。そう思わざるを得ない。
俺はただ、ひとりで取り残されたまま、呆然とその背中を見送るしかなかった。
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