第1話 姫野ラピスというVTuber
俺――相川康介は、それなりの企業に入社した。
しかし社会人は甘くない。
毎朝ぎりぎりまで寝て、満員電車で立ちっぱなし、上に詰められ、客に理不尽を言われ、成果は数字でしか見てもらえない。
そこまでブラックという訳でもないし、やりがいを感じる時もあるが、そのような嫌なことがある日もある。
そしてそんなこんなで俺は今日も無事に、心をすり減らしながら定時を少しオーバーした。
デスクの上で書類をまとめ、ようやくパソコンを閉じる。
職場には俺のほかにまだ数人残っていたけど、静まり返ったフロアの隅で一際冷たいオーラを放っているのが、うちの部署の主任――氷川澄だった。
「……お先に失礼します」
誰にともなく呟いて立ち上がると、彼女の視線が一瞬こちらに向いた気がした。
でもその表情には何の色もない。まるで事務的に空気の動きを観察してるかのような、そんな目だった。
俺の直属の上司、氷川主任。
この人をひと言で表すなら、“無口・無愛想・無表情”。通称「氷の女王」。
営業成績は社内トップ。社外からの評価も高く、社長からも一目置かれているらしい。
だけど社内の人間関係はゼロに近い。雑談はおろか、挨拶すらも基本ナシ。
報連相しても、たいてい「……はい」「以上です」で終わる。
最初の頃は、俺のことが嫌いなんじゃないかと本気で悩んだ。
でも、他の同期にも同じ対応だったから、そういうスタンスなんだろう。
たぶん、俺の存在なんか空気以下って感じなんだろうな。
とはいえ――
(今日も、きれいだな……)
ふとした瞬間に見せる横顔は、人形みたいに整っていて、目が合ったら石化しそうなくらいの冷たさと美しさを持ってる。
俺なんかが気安く話しかけていい距離じゃない。それくらい圧がある。
******
そんな職場でのストレスを癒してくれるのが――俺の推し、VTuber・姫乃ラピスだ。
『らぴらぴ〜☆みんなの心にピンクの魔法を届けるよっ♡ 姫乃ラピスだよ〜!』
このオープニングボイスを聞くたび、俺の中の疲れが溶けていく。
一人暮らしの部屋で夜な夜なスマホを開き、彼女の配信を見るのが、俺の生きがいだった。
ピンクの髪にふわふわツインテール、ちょっと天然な癒し系ボイス。
でも時折、リスナーの悩みに真剣に答える姿や、不器用ながらまっすぐな言葉に心を打たれる。
コメントを全部読もうと頑張ってる姿にも、どこか親しみがあって――気づいたら俺は“ガチ勢”になっていた。
スパチャも送る。ファンアートも描く。配信アーカイブも漏らさず見てる。
もう半年以上前から「メガネくん」名義で、ほぼ毎日ラピスを追っている。
誰にも言ってない。会社の誰にも、友達にも、もちろん家族にも。
俺の癒しは、俺だけのものでいい。そう思ってる。
スマホを開き、今日の配信をチェックしながら家へと帰る。
コンビニで買った冷凍パスタを温め、パジャマに着替えてベッドに寝転がり、画面をタップする。
『はいは〜い、みんな集まって〜♡ 今日も来てくれてありがとう!』
ああ、今日もこの声に救われる。
明日もしんどい日々が待っているかもしれない。
でも今だけは、この空間だけは、俺だけの時間だ。
そんな癒しの時間をかみしめながら、俺はふと、ある考えが頭をよぎった。
(……氷川主任の声、ちょっとだけ、ラピスに似てるんだよな)
もちろんラピスはボイスチェンジャーとか加工とかしてるかもしれない。
まさかそんな偶然あるわけ――いや、ないない。職場の女上司がVTuberなんて、マンガじゃあるまいし。
あの氷の女王が、「らぴらぴ〜☆」なんて言うはずがない。
……ない、よな?
俺は頭を振ってその考えを追い払った。
そんなの、ただの妄想だ。ただの、夢見すぎたオタクの願望だ。
そう、自分に言い聞かせてから、コメント欄に「今日もがんばった!おつラピでした!」と書き込んだ。
その翌週。
会社での打ち合わせが一段落したあと、同期の久世が言った。
「おい、飲み会やるってよ。今週末、部の打ち上げ」
「……へぇ」
正直、気が重い。付き合いも大事だけど、飲み会より姫野ラピスを優先したい。
でも先輩や上司が来るなら、断るわけにもいかない。
「でな、驚きな事実が一つ。氷川主任も来るらしいぞ」
その一言に、俺の手が止まった。
「……え?」
「珍しいよな。まあ俺はちょっとテンション上がってるけど?」
その瞬間、俺の中で何かがざわついた。
あの人が、飲み会に来る?
しかも酒を飲むのか? 本当に?
その夜、俺は配信を開きながらも、まったく内容が頭に入ってこなかった。
ラピスの声は、相変わらず心地よくて優しくて、癒しそのものなのに――
なぜか、どこかで聞いたような気がして。
いや、違う。聞いたこと、あるんだ。
でも、まさか、そんなこと――
まさか、ね。