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9 南シナ海のシーレーン

 出師準備の影響は、南シナ海に浮かぶ新南群島(南沙諸島)にも及んでいた。

 日本人がこの島々に進出し始めたのは二十世紀初頭のことであり、一九二九年には燐鉱採掘事業が開始されている。

 日本人漁民がやって来た段階ではこの島々の領有権は未だ確定していなかったが、第一次世界大戦に日本が本格参戦した結果、フランスから領有を認められたことで正式に日本領に組み込まれることとなった。

 当時のフランス首相ルネ・ヴィヴィアーニがフランス領インドシナの日本への割譲を閣議で提案して却下されてはいたものの、フランスは日本の欧州派兵の対価としてこの群島の領有権を認めることにしたのである。

 一九一〇年代の段階で日本が南沙諸島の領有権を争う相手はフランス程度であったから、こうして日本は波乱なく南沙諸島を自国の領土に組み込むことに成功したのである。そうしてこの諸島は「新南群島」と改名され、台湾高雄市の一行政区画となった。

 当然ながら新南群島はワシントン海軍軍縮条約第十九条における太平洋防備制限の対象であり、これまで軍事施設は一切存在していなかった。

 そうした状況に変化が訪れたのは、第二次欧州大戦におけるフランスの敗北とドイツの傀儡政権であるヴィシー政権の誕生であった。

 フランス領インドシナがヴィシー政権への帰属を表明したことで、にわかに新南群島の戦略的価値は高まった。南シナ海には、日本にとって重要な海上交通路が存在していたのである。

 第一次世界大戦の結果、日本が中東の油田権益を手に入れたことで南シナ海が石油輸送のための重要な経路となったこともそうであったが、それ以外にも東南アジアから輸入される資源がこの航路を通って日本本土へと運ばれていたのである。

 例えば、日本は製鉄のための屑鉄を主にアメリカから輸入していたが、一方で銑鉄はインドに多くを頼っていた。また、鉄鉱石の輸入先第一位は英領マラヤであった。この地では、石原産業がジョホール州スリメダン鉱山の採掘事業を行っている。

 第一次世界大戦後の日本の急速な重工業化によって、製鉄業界において屑鉄に頼る平炉企業の割合は減少し、一方で鉄鉱石から鋼材を造る銑鋼一貫企業の割合が増えていたから、なおさらマラヤ産鉄鉱石の存在は欠かせないものとなっていた。

 そして当然、鉄鋼自給体制の確立を目指していた日本にとってマラヤ産鉄鉱石だけでは足りず、フィリピンや仏印からも鉄鉱石を輸入していた。東南アジア地域に対する鉄鉱石の依存度は、今や七〇パーセントに届こうとしていたのである。

 また、アルミニウムの原料となるボーキサイトの輸入先もまた、東南アジア蘭印にあるビンタン島を中心とした地域であった(後世、ボーキサイトの一大産出地となるオーストラリアは、この当時だと未だ十分な鉱山開発が行われていなかった)。もちろん、蘭印からは石油も輸入している。

 鉛・亜鉛・アンチモン・タングステンなどは主として三井鉱山が英領ビルマから、銅・マンガン・クロームなどは主として三井物産がフィリピンから、それぞれ輸入していた。

 ニッケルなどはカナダからの輸入に頼っていたが、それでも日本が東南アジア地域に依存する資源は多い。

 もしフランス領インドシナにドイツ海軍のUボート部隊の基地が設置されれば、南シナ海航路が脅かされる。

 だからこそ、日本は南シナ海航路を重視していたのである。

 そしてここにきて、ソ連艦隊も仏印のカムラン湾などを利用する可能性が出てきたことも、日本海軍の危機感を強める要因となった。

 ソヴィエツキー・ソユーズ、ソビエツカヤ・ウクライナは極東へ回航される途上、このカムラン湾で、ヴィシー・フランス政権の便宜で補給を受けていたのである。ドイツのUボートだけでなく、極東地域に展開するという一〇〇隻近いソ連海軍潜水艦についても、カムラン湾を基地とする可能性を警戒しなければならなかったのだ。

 出師準備発動後、日本海軍はこの新南群島に大規模な基地を整備し始めることとなったのである。


  ◇◇◇


「電探室より報告。真方位六〇度、距離一五〇キロに大型機の反応あり」


 重巡足柄の艦橋に、そのような報告が舞い込んできた。


「各艦に対空戦闘用意を下令。ただし、別命あるまで発砲は厳禁とする」


 報告に対する命令が下され、それが他の艦に伝達される。


「まあ、いつも通りの比島から定期便だろう」


 対空戦闘用意が下令されたというのに、艦橋にはそれほど緊迫感が存在していなかった。

 南遣艦隊司令長官・南雲忠一中将は艦橋の窓から上空を見上げていたが、その表情はただ空を眺めているだけにしか見えない。

 現在、南雲率いる南遣艦隊は、新南群島最大の島・長島のあるティザート環礁に停泊していた。

 重巡足柄を旗艦として、その編成は次の通りである。


  南遣艦隊  司令長官:南雲忠一中将

司令部直属【重巡】〈足柄〉【軽巡】〈球磨〉

第十一航空戦隊【水上機母艦】〈瑞穂〉【特設水上機母艦】〈神川丸〉

第二十四航空戦隊【飛行艇母艦】〈神威〉〈秋津洲〉

第八駆逐隊【駆逐艦】〈朝潮〉〈満潮〉〈大潮〉〈荒潮〉

第一〇一戦隊【駆逐艦】〈春月〉【海防艦】〈天草〉〈満珠〉〈御蔵〉〈三宅〉〈淡路〉〈能美〉

敷設艦、掃海艇など


「米国の搭乗員も、毎度毎度ご苦労なことだな」


 空を眺めていた南雲は、そう呟く。

 足柄に搭載された三式一号電波探信儀三型(通称「一三号電探」。日本海軍の対空警戒電探)が伝えてきている情報は、フィリピン方面から接近しつつある大型機の存在である。

 新南群島は、アメリカの植民地であるフィリピンに近い。特にパラワン島との距離は五、六〇キロ程度しか離れていない。

 だからこそアメリカは新南群島において日本の軍事基地が拡張されることを警戒しているらしく、ほぼ毎日のように重爆撃機であるB17を偵察に寄越していたのである。

 この時代、すでに領空の概念は成立していた。その範囲は領土・領海の上空であり、南遣艦隊側は当然の対応として対空戦闘用意を命じているが、これまでB17が新南群島の領空に侵入してきたことはなかった。

 なお、領空の範囲を決める領海についてはその距離について各国で意見が異なり、日米英などは三浬、北欧諸国は四浬、ソ連は十二浬を主張している。

 それもあってか、B17は新南群島から十浬以内には接近してこようとしない。


「この艦隊など、在比のアジア艦隊の戦力を以てすれば吹けば飛ぶような存在だろうに」


 日本側が南遣艦隊を南沙諸島に派遣するに際して最も神経を使ったのは、その規模であった。

 アメリカ海軍アジア艦隊はフィリピン首都マニラのキャビテ軍港を根拠地として、戦艦ペンシルバニア、アリゾナ、ネヴァタ、オクラホマの四隻を基幹とする強力な艦隊である。

 一方、仏印に存在するフランス艦隊は、軽巡ラモット・ピケが最大の艦艇であり、残りは通報艦(フランス海軍における植民地警備艦艇の呼称)や河川砲艦でしかない。

 そのため、戦時艦隊編制への移行と共に編成された南遣艦隊の規模は、重巡一、軽巡一、駆逐艦五、海防艦六を中心とするものとなったのである。

 この規模ならば、仏印のフランス艦隊を圧倒出来、逆にアメリカ海軍アジア艦隊にとっては脅威とならない。

 少なくとも、日本側はそう判断していた。

 特に海防艦六隻を中心とする第一〇一戦隊は、南遣艦隊が南シナ海における海上交通路の保護をその主な任務とすることを示すものであった。


「しかしまあ、帝国海軍にとって長年の宿敵であったアメリカとは緊張緩和を図りつつ、一方で今まで軽視されてきたソ連海軍を警戒せねばならんとは、国際情勢の有為転変に付いていくのは大変だな」


 南雲は苦笑しつつ、なおも上空を見上げていた。

 新南群島に接近する大型機に対応するためだろう、足柄の頭上を水上爆撃機「瑞雲」が飛び越していった。

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