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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第二章 北方の赤い影編

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31 日ソ避戦の模索

 日ソ関係が悪化の一途を辿りつつも、日本政府内部では依然として避戦への模索を続けていた。

 しかし、日ソ漁業条約の五年延長を達成し、北樺太油田の売却も行ってしまった以上、ソ連側はこれまで以上に日本との外交交渉に冷淡になっていた。

 現在、両国間に特筆すべき外交的課題はないとして、モロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使の求める会談にまったく応じようとしなくなっていたのである。

 日本としては日本海における公海上の臨検問題や北洋漁業における取り締り強化問題、満ソ国境に位置する光風島占拠事件など、ソ連側に解決を求めるべき問題が多数あったのであるが、そのどれもソ連側は交渉に応じる態度を示していなかった。

 日本海公海上での臨検や北洋漁業の取り締り強化はあくまでソ連の国内法に則って行っていることであり、黒龍江に浮かぶ島々の占拠に関してもあくまでソ連の領内における警備活動の一環であるとして外交問題は存在しないという立場をとっていたのである。


「これではまだ会談に応じはする米国の方が、交渉の余地があるな」


 首相官邸で開かれた閣議の席上、山梨勝之進首相は嘆いた。


「かくなる上は、ソ連に対しては戦争を辞せざる決意の下で臨むしかないと考えます」


 四月十六日の閣議に引き続き、東條英機陸相は日ソの緊張緩和は困難であるとの姿勢を貫いていた。


「もちろん、戦争を辞せざる決意とは言いましても、こちらから戦端を開くという意味ではありません。あくまでも、ソ連の満洲や樺太、千島、北海道侵攻を迎え撃つための用意を万全にすべきという意味です」


 とはいえ、東條も日本側から対ソ宣戦布告を行う意思は持っていない。関東軍の上申もあり、陸軍は対ソ戦に関して守勢・持久の方針へと転換していたからである。

 もちろん、一切の攻勢作戦を行わないという意味ではないが、少なくとも関東軍による攻勢作戦はこの頃にはほとんど陸軍内部で顧みられなくなっていた。


「そもそも、ソ連の強硬な対日姿勢の目的は奈辺にあるのだろうか?」


 そう困惑顔で言ったのは、櫻内幸雄鉄道相であった。


「ソ連はすでに北樺太利権を取り戻している。日ソ漁業条約の五年延長も合意し、以後の日ソ交渉に応じようとしていない以上、我が国に何らかの譲歩を行わせたいとも思えぬのだが?」


 彼は前回の閣議で、前総裁・町田忠治の成した日ソ漁業条約五年延長という外交成果を強調しようとして、東條陸相や吉田外相から否定されている。正直、立憲民政党として面子を潰されたという思いはある。

 だがそれ以上に、前回の閣議では政党政治の再びの凋落を感じざるを得なかった。

 櫻内は、閣僚の半数以上を軍人で占められた内閣の中で、政党政治家として政党政治の灯火(ともしび)を守っていかなければならないという立場に置かれていたともいえる。

 だからこそ、少しでも発言の機会を増やして閣議で存在感を示さねばならなかった。


「あるいはスターリン首相は、かつてのロシア帝国のように、自由に外洋に進出出来る港を欲しているのかもしれませんな」


 吉田外相が、ちらりと堀海相の方を見ながら言う。


「ソ連は現在、海軍の大拡張計画を実行中です。自らが造り上げた大艦隊が、大洋を思うままに航行する姿を見てみたい。まあ、そんな独裁者なりの欲望があるのではないですかな?」


 その発言に日本海軍への当て付けも含まれていることを、山梨や堀は気付いていた。ロンドン海軍軍縮会議以来の吉田の海軍不信は、依然として根強いようであった。

 要するに、日本海軍も対米戦に備えて軍備を整えてきた以上、米艦隊を打ち破って太平洋に思うままに連合艦隊を浮かべたいという密かな願望があるのではないかと、吉田は暗に言っているのだ。

 確かに、山梨も堀も海軍軍人である以上、そうした夢想を抱かなかったかといえば嘘になるだろう。しかし二人は、ワシントン海軍軍縮会議に臨んだ加藤友三郎の系譜を引く人間である。いたずらに海軍兵力を用いて他国を恫喝することの愚を、十分に弁えていた。

 山梨も堀も、帝国海軍はあくまでも対米戦を抑止し、大日本帝国が東亜の安定勢力としての地位を維持するために存在するものであると考えている。

 日米関係の緊迫化が続き、米海軍に対して艦艇保有比率七割を切っている今、海軍内部には岡敬純や石川信吾のような対米強硬派も存在していたものの、山梨や堀はだからこそ対米戦は避けなければならないと考える側の人間であった。


「海軍としても、ソ連の海軍拡張計画を注視しています」


 とはいえ、堀は吉田の嫌味には付き合わなかった。


「現在、ソ連海軍はソヴィエツキー・ソユーズ級戦艦を二隻竣工させ、もう二隻を建造中。クロンシュタット級巡洋戦艦は二隻が竣工し、他に四隻が建造中ないし起工したとされています。ただし、空母の建造は確認されていません。また、この他にイタリア、アメリカより戦艦を二隻ずつ、計四隻購入しています」


「そう考えますと、ソ連による軍事的圧力は今後とも増大していくと見るべきでしょうな」


 堀の発言を深刻に捉えていたのは、小日山直登拓相であった。前満鉄総裁であった彼にとって、日本海公海上でのソ連海軍による不当な臨検は、依然として記憶に新しい。


「すると、日本海航路の安全確保は、これまで以上に重要となってきますぞ」


 今度は、岸信介商工相が言う。


「朝鮮半島東岸、特にウラジオに近い羅津や清津などには製鉄所や特殊鋼の製錬施設などが連なっている。日・鮮・満の経済の一体化は、帝国の今後のさらなる発展に欠かせない。故に、日本海航路の安全確保は帝国の産業を考える上で重要となってくる」


「海軍も、日本海航路の安全確保には重大な決意を持って臨んでおります」岸の言葉に、堀が応じる。「朝鮮半島東岸には海上護衛を主任務とする第一〇五戦隊を派遣しており、日々、日本海を航行する我が国船舶の安全に努めているところです」


「しかし、平時から大規模な艦隊を以て商船の護衛を行うとなりますと、燃料やら艦艇の整備やらで予算が大変なことになりますぞ」


 賀屋興宣蔵相が、釘を刺すように指摘した。彼は大蔵大臣として、平時における日本海での海上護衛任務にかかる予算を、海軍から新たに要求されている立場にある。

 実際、海軍が日本海における海上護衛に万全を期し得ない理由の一つは、そうした問題があるからであった(もちろん、海軍のソ連軽視という要因も大きいが)。


「それは公海上で臨検を行うソ連も同じことでしょうに」


 不可解そうに、三土忠造文相が呟いた。ソ連側も多くの艦艇を日本海上で活動させている関係上、その燃料消費や整備にかかる費用はそれなりに上るはずであった。


「つまりは我が国との間で、根比べを目論んでいるということでしょう」


 海軍軍人の立場として、堀はそう指摘した。


「要するにこれは、日本海における航海の主導権を我が国が握るのか、ソ連が握るのか、という問題に繋がっていきます。ここで我が国が燃料などにかかる予算を理由として折れれば、朝鮮と内地日本海沿岸諸港を繋ぐ航路は衰退していくでしょう」


 堀の発言は、暗に賀屋蔵相に対する海軍予算の増額を求めるものであった。


「それは商工省としても看過できぬ問題だ」


 当然ながら、堀の発言に岸も便乗する。


「ソ連が日本海の制海権を掌握するようになれば、宗谷・津軽・対馬の三海峡の制海権も危うい」堀はさらに続けた。「そうなれば、海軍としては米国に備えつつ、常にソ連艦隊の動向を警戒せねばならなくなります。日本海における海上護衛体制を万全なものとして、ソ連艦隊をウラジオに封じ込めることこそが、現下情勢における海軍の役目であると申し上げておきましょう」


 少なくとも、現状における日ソ海軍戦力は、依然として日本側が優勢であった。そうした状況下で、ソ連がようやく再建した艦隊を危うくするような冒険的な対外政策に打って出てくる危険性は低いと、堀は考えていたのである。

 帝国海軍は自らの海軍戦力をあくまでも東亜における抑止力と認識しており、当然、ソ連の指導者であるスターリンも同じであろうと認識していたのだ。

 現状では、日本海航路の安全を確保するために必要な海軍予算を大蔵省側に認めさせることが必要であろうと、堀は考えていた。

 ソ連太平洋艦隊と違い、第七艦隊は空母五隻を擁している。たとえ戦艦がソユーズ級に劣る伊勢型とはいえ、総合的にはソ連海軍に対抗出来る戦力であると見られていた。この艦隊を上手く用いれば、相応の抑止力にはなるだろう。

 そう考える堀は、ある意味で優秀な人間であるが故の陥穽にはまっていたといえる。

 それは、相手(この場合はスターリン)もまた自分と同じ思考をするだろうという思い込みである。海軍兵力が抑止力であるというのはあくまで堀の考えであり、スターリンが同じように考えているという保証はどこにもなかったのである。

 そのようにソ連側の意図を自らの価値観で判断しつつ、山梨勝之進内閣の閣議は進んでいった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 頭の良すぎる人、周りの人も頭のいい人ばかりなので、世の中の愚か者がどのような思考をするのか、全くわからないことがよくありますね。本人はわかった気でいるから余計まずい。
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