21 三番目の大和型
一九四四年四月七日、横須賀軍港にて一つの式典が開催されていた。
式典の会場は、一隻の巨艦の艦上であった。
戦艦信濃。
大和型戦艦三番艦として建造されたこの戦艦の、竣工引渡式がこの日、挙行されていたのである。
式典の会場となっている前甲板には、信濃建造に関わった人々が集まっていた。
艤装員長・有賀幸作大佐を始めとして、信濃乗組員の幹部、艦政本部や横須賀海軍工廠の首脳部、そして工廠の主要な作業員たちが、前甲板に整列している。
まずは、招かれた神主による祝詞奏上が行われた。
神主は、有賀幸作大佐の希望により諏訪大社から招聘されている。諏訪大社は信濃国一宮であり、祭神・建御名方神は源頼朝の時代より武士たちに軍神として崇められてきた。
この世界最大・最強の大和型戦艦の竣工を祝し、そして艦内神社として祀られる神としては、相応しいといえよう。
祝詞奏上に続き玉串奉奠が行われると、横須賀工廠からの授受式へと移行する。
横須賀工廠側から有賀大佐に対して引渡書が渡され、有賀大佐の方から引渡受領書が手渡される。
そして、式典の場は前甲板から後甲板へと移動した。
そこには、信濃乗り組みを命ぜられた乗員たちが整列していた。
彼らの前に、濃紺の第一種軍装をまとった有賀幸作大佐が立つ。
「海軍大佐有賀幸作、ただ今より軍艦信濃の指揮を執る」
その宣言と共に、軍艦旗掲揚の儀式が厳かに執り行われた。後部旗棹に、旭日旗が鮮やかに、そして力強くひるがえった。
これにより、戦艦信濃は正式に帝国海軍の艦籍名簿に「軍艦信濃」として記載されることになる。
軍艦旗掲揚の儀式がつつがなく終わると、艤装員長改め艦長となった有賀幸作大佐による乗員への訓示が始まった。
「本艦は、大和、武蔵に続く帝国海軍の誇るべき最新鋭戦艦である。すでに大和、武蔵は連合艦隊の主力として、四方の海の守りについている。帝国を取り巻く情勢が風雲急を告げる今、本艦の使命もまた重大である。小官は信濃艦長の辞令を受けてすぐ、二重橋前にぬかずき、皇居を拝し、一切を捨てて重大な職務にご奉仕する決意をお誓いしてきた。諸君らも各々の使命の重大さを自覚し、これより日々の訓練に励んでもらいたい」
訓示の終わりを以て、竣工引渡式に関するすべての儀式が終了する。
この後、信濃の准士官以上の者たちと工廠関係者は信濃士官室に集められ、竣工祝いと造船関係者への慰労を兼ねた祝宴が催された。また、その他乗員たちに対しては恩賜の煙草が配られ、赤飯と酒で同じように信濃竣工を祝った。
この日、居住区では兵員たち皆が談笑したり歌を歌ったりして、新戦艦の竣工とその乗員に選ばれた栄誉を喜び合ったという。
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戦艦信濃は第四次海軍軍備充実計画に基づき、一九四〇(昭和十五)年五月四日に横須賀海軍工廠で起工された。
一九四四(昭和十九)年四月七日竣工であるから、建造期間はおよそ三年十一ヶ月である。
一番艦大和は呉海軍工廠にて四年一ヶ月、武蔵は三菱重工長崎造船所にて四年四ヶ月で竣工していた。それに比べれば、信濃の建造期間は若干、短いことになる。
つまりはそれだけ、竣工が急がれたということだ。
そもそも、世界最大の四十六センチ砲を搭載する大和型戦艦は、米戦艦を圧倒するために建造された艦であった。
八八艦隊計画で建造された戦艦土佐以来、大和は帝国海軍がおよそ二十年ぶりに竣工させた戦艦である。
大和型に相当する新型戦艦の計画は、すでに一九三三年頃から軍令部第一部第一課の松田千秋、富岡定俊、中澤佑らによって研究が開始されていた。ワシントン海軍軍縮条約が一九三六年末日で期限が切れるため、来たるべき無条約時代に備えてのことであった。
少なくとも一九三〇年代当時、ワシントン・ロンドン両軍縮条約を延長しようという動きは、海軍内部ではなかった。山梨勝之進や堀悌吉など、加藤友三郎の系譜を継ぐ国際協調派の海軍軍人たちも、積極的に条約更新を主張することはなかったのである。
ワシントン海軍軍縮条約を一九三六年末日で失効させるためには、その二年前に廃棄通告が必要であった。
日本政府は枢密院会議などを開催して条約廃棄の国内手続きを進めていたのであるが、それよりも早く日英不可侵条約に反発したアメリカがワシントン海軍軍縮条約の単独廃棄通告を行ったことで、結局、ワシントン海軍軍縮条約は一九三六年末日で失効した。
その前年である一九三五年からはロンドン海軍軍縮条約第二十三条(「本条約ニ代リ且本条約ノ目的ヲ遂行スル新条約ヲ作成スル為千九百三十五年ニ会議ヲ開催スベシ」)に基づき、第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催されたが、日英両国とアメリカとの意見の隔たりは大きく、結局、第二次ロンドン会議は何ら成果を挙げることなく閉会となってしまっている。
こうした経緯から、軍縮条約に囚われない性能を持つ新型戦艦の建造が正式に開始されることになったのであった。
第一次世界大戦後、重化学工業化を進めてきた日本ではあったが、それでも工業力ではアメリカに敵わない。そのため、新時代の戦艦は量より質を重視するという設計思想の下、四十六センチ砲搭載戦艦という形で設計がまとめられたのである。
ワシントン海軍軍縮条約失効以降、アメリカが建造した新鋭戦艦であるノースカロライナ級、サウスダコタ級、アイオワ級、モンタナ級はいずれも十六インチ砲搭載戦艦であるから、少なくとも主砲口径において大和型は米新鋭戦艦を圧倒していることになる。
しかし一方、一九四四年四月現在までに日本が竣工させた戦艦はこの大和型の三隻のみ。対するアメリカ側は両洋艦隊法などによる海軍の大拡張計画もあり、これまでにノースカロライナ級二隻、サウスダコタ級四隻、アイオワ級二隻を竣工させていると伝えられていた。
さらにこの他にアイオワ級四隻、モンタナ級五隻が建造中であるという。
合計すればアメリカは十七隻の新鋭戦艦を、日本が大和型四隻を建造している間に建造している計算になる。
事実上、質の優位でアメリカ戦艦に対抗することが難しくなりつつあったのである。
新設された大神海軍工廠では五十一センチ砲三連装三基を搭載した十万トン級戦艦の建造が計画されていたが、依然として計画段階に留まっていた。
それでも大神海軍工廠が築かれたのは、戦時における大型艦の整備能力を拡張するという目的も存在していたからである。
日米関係が緊張状態にあり、さらには日ソ関係まで緊迫化している現状で、信濃という大和型三番艦が抑止力としてどれだけの影響力を持つことになるのか、確信を持てる者は誰もいなかった。
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とはいえ、信濃艦長を拝命した有賀幸作大佐にとって、そうした複雑な国際情勢はさして興味のないものであった。
彼は戦艦信濃艦長に就任したことを、ただただ男子の本懐と思い喜んでいた。
有賀は、自分が信濃の艦長に就任したことに宿命的な何かを感じ取っていたのである。
有賀幸作は、一八九七(明治三十)年八月二十一日、長野県上伊那郡朝日村に生をうけた。つまり、信濃国の出身なのである。
そして、この地方に多い有賀姓は諏訪大社にゆかりが深い武士・諏訪氏の末裔であるとされる。
有賀が信濃の竣工式に諏訪大社から神主を招き、そして艦内神社に選んだのも、そうしたことが影響している。
だからこそ、自分が信濃艦長となったことを感慨深く思っていたのだ。
そして、有賀は一九一七年に海軍兵学校を卒業して以来、海上勤務一筋で生きてきた。駆逐艦水無月(一九〇七年竣工の初代)乗り組みを命ぜられて以来、同期の森下信衛や古村啓蔵などが海軍大学校へと進む中でも、有賀は海上勤務を続けていた。
部下たちからは、豪放磊落で実戦型の指揮官としてあつい信頼を寄せられている。
そうした人間であったから、複雑な国際情勢に頭を悩ませるよりも、信濃艦長としてこの艦を大和や武蔵、加賀や土佐、長門、陸奥に劣らない練度にまで仕上げることが自分の使命であると感じていた。
日本を取り巻く国際情勢が緊迫化しているからこそ、自分は信濃の練度向上に集中しなければならない。帝国海軍として国際情勢にどう対応すべきかなどということは、海大出の人間たちに任せればいい。
それが有賀の本音であった。
戦いが避けられないのならば、この信濃を以て自分は敵艦隊との決戦に臨むまでである。
その決意と共に、有賀はこれから始まる訓練の日々に思いを馳せていた。




