20 内閣総辞職
一九四四年四月七日、立憲民政党を中核とする町田忠治内閣が総辞職した。
対ソ外交の失敗の責任をとっての、総辞職であった。
ソ連からの軍事的圧力が強まる中で懸案となっていた北樺太油田に関する外交交渉が、国民から“失敗”、“弱腰”と見做され、町田内閣は支持を失ってしまったのである。
北樺太油田の権益は一九二五(大正十四)年の日ソ基本条約とその後のコンセッション契約において一九七〇年まで、日本が採掘権を得ているはずであった。しかし、ソ連側からの執拗な採掘事業の妨害によって、採算が取れないどころか日本人従業員の身にも危険が迫っていたことから、四三年六月の閣議によって利権をソ連へと有償譲渡することが決定されていたのである。
ソ連側はソ連人労働者に対する過度な賃上げ要求を行い、またソ連人労働者の時間外労働を厳しく制限するなど石油採掘事業を妨害するだけでなく、北樺太石油株式会社の人事異動の拒否、それに伴う日本人関係者への入国ビザの発給拒否、日本人従業員宅に対する突然の家宅捜索、本来無関税となっている日本人従業員への生活必需品に関税をかける、などの行為を行っていたのである。
突然の家宅捜索を受け、密輸品があったという理由でソ連当局に逮捕される日本人も増加の一途を辿り、このままでは現地邦人の安全が確保出来ないと判断した上での、閣議決定であった。
もちろんこの決定の背後には、満洲やサウジアラビアで開始されている石油採掘事業に、北樺太石油株式会社の技術者・従業員を充てるという目論見があった。日本はソ連側の執拗な妨害工作に辟易し、自国の勢力圏下にある地域での油田開発に集中しようとしたのである。
北樺太油田を巡る日ソ間の外交交渉は、一九四三年七月三日より、駐ソ大使・佐藤尚武とソ連外相ヴァチェスラフ・モロトフとの間に開始された。
この北樺太油田を巡る外交交渉では、本来であれば利権の期限である一九七〇年までに日本が得るはずであった金額が、ソ連の支払うべき金額になるはずであった。
しかしソ連側は、日本が有償譲渡を希望するのは会社の業績不振が理由である以上、七〇年までの金額をソ連側が補償する理由はないとして最初から拒絶する姿勢を示していたのである。むしろソ連側は、北樺太石油会社の契約違反、法律違反などを理由に、日本に対し逆に三六〇〇万ルーブルもの損害賠償金を要求してくるような有り様であった。
ソ連側は損害賠償請求を日本の日ソ中立条約違反を根拠に正当化した。一九四一年の日ソ中立条約付属議定書では北樺太油田利権を解消する方向で両国間において調整を進めることが定められていたにもかかわらず、今まで日本側がソ連側の要求に曖昧な返答しかしてこなかったというのがその理由であった。
外交交渉もモロトフ自身が直接交渉に応じることは少なく、もっぱら副外相のソロモン・ロゾフスキー(外務人民委員代理極東担当)が佐藤を相手にするなど、ソ連側の交渉姿勢は強硬かつ冷淡であった。
同時期、日本はソ連との間に日ソ漁業条約を巡る漁業交渉も抱えており、佐藤尚武はソ連側のこうした態度の前に困難な交渉を続けざるを得なかった。
一九二八年に締結された日ソ漁業条約は八年の期限が過ぎた三六年以降、一年ごとの延長が必要とされており、日本政府としては一挙に五年延長をソ連側に認めさせたかったのである。
ソ連側に北樺太油田利権の補償を拒絶された後は、ソ連は利権を回復した後五年間は日本に対し石油二十万リットルを供給すること、などの代替案を提示することになったが、こうした条件にもソ連側は難色を示し続けた。
結局、日本側は漁業交渉の方を円滑にまとめたいがために、北樺太油田問題ではソ連側に大幅な譲歩をするという決定を下した。約四〇〇万円(約五〇〇万ルーブル)で、北樺太油田をソ連側に有償譲渡することを合意したのである。この他、ソ連は利権回復後五年間、日本に対し石油五万リットルを供給するということでも合意していた。
日ソ漁業条約の方は、何とか五年間の期限延長を達成している。
北樺太油田の有償譲渡に伴う移譲議定書は、四四年三月三十日に締結された。
北樺太油田権益をソ連へ引き渡す合意が形成された段階で、北樺太石油株式会社の資産は二一七四万円、また会社保有の石油タンクには三六〇万円分の石油が貯蔵されていたから、四〇〇万円という数字は日本側にとって不当に低く抑えられた金額であった。
町田内閣としては太平洋上で日米関係の緊張状態が続いている以上、ソ連に対しては日ソ中立条約を遵守させるべく、譲歩的にならざるを得なかったのである。
しかし当然ながら、こうした町田内閣の交渉姿勢とその結果は、国民の怒りを買った。
北樺太油田は尼港事件に対するソ連側からの補償という意味合いもあったから、国民は町田内閣の対ソ外交政策に失望を禁じ得なかったのである。
議定書締結以降、全国では町田内閣を批判する集会、ソ連膺懲論を主張する集会が開かれ、日比谷公園では「大正九年五月二四日午後十二時忘ルナ」の横断幕が掲げられ、憲兵隊が出動する騒ぎにまで発展した。
この横断幕の文字は、尼港事件で虐殺された日本人が収容されていた建物の壁に刻んだものであり、当時から写真によって日本国民の間では広く知られている文言であった。
結果、町田内閣は北樺太油田を巡る対ソ交渉の終結から十日と経たず総辞職する事態となったのである。
◇◇◇
「このような事態になり、誠に残念です」
首相官邸で閣僚の辞表を取りまとめた町田忠治首相に対し、東郷茂徳外相は沈痛な面持ちでそう言った。外相として、対ソ交渉の責任を感じているらしい。
「外相お一人の責任ではありますまい。北樺太油田利権を失うことへの反響の大きさを十分に想定出来ていなかった私の失態でもあります」
丸顔に眼鏡をかけ、漫画「ノンキナトウサン」の主人公に似ていると称される町田首相は、嘆息と共に首を振った。
実際問題、町田内閣は国民の反ソ感情を見誤っていたきらいがあった。ソ連による軍事的脅威は続いているものの、ソ連膺懲論を唱えるのは一部の対外硬派だけで、国民の生活や収入に直結する漁業交渉の方で成果を挙げれば有権者の納得が得られるだろうと見込んでいたのである。
日本政府としては、ソ連による圧迫の結果であるとはいえ、最早採算も覚束なくなり邦人従業員の安全も確保出来なくなってしまった北樺太油田よりも、満洲や中東の油田開発の方が重要であった。
しかし、国民はソ連の圧迫の結果、北樺太油田の利権を手放さざるを得なかったことに納得していないようであった。日比谷公園での抗議集会を見れば判るように、北樺太の権益は日本人の血によってあがなわれたものであると認識しているのだろう。
構図としては、満蒙権益のときと同じであった。満蒙権益も日露戦争で流した血によって得たものであると国民は認識しており、だからこそ中国による国権回復運動に激しく反発し、関東軍の独走を原因として成立した満洲国を支持するに至っているのだ。
「このような言い方は軍に対する不信の表明になってしまうようで申し訳ないのだが、陸海軍共に統制は大丈夫でしょうな?」
町田がいささか不安げな面持ちで顔を向けたのは、東條陸相と堀海相であった。
「梅津総司令官からは、不穏な報告は一切届いておりません」
まず答えたのは、東條英機であった。梅津とは当然、関東軍総司令官の梅津美治郎大将のことである。
「そもそも、梅津大将は陛下から軍の統制に関して深い信頼を寄せられているからこそ、関東軍総司令官に親補された人物。このような事態だからこそ、首相にもご信頼頂きたいものですな」
東條は、政党政治家から露骨に軍への不信を表明されたことで、不愉快そうな表情を見せていた。東條自身も一九三七年、関東軍参謀長に就任した経験があったが、未だ熱河作戦に未練を残す者たちに苦労した経験がある。
天皇への忠誠心あつい東條は、海軍が陸軍に先回りして宮中に働きかけていたとはいえ、天皇が国際協調を重んじて熱河作戦を裁可しなかったという事実が何よりも重みを持っていたのである。
また、政党政治家ごときに軍の統帥事項に関して口出しされたくないという思いもあった。
「海軍の方も、特に問題は生じておりませんな」
東條と違い、堀は町田に同情的な口調で応じた。堀は加藤友三郎の「国防ハ軍人ノ専有物ニ非ス。戦争モ亦軍人ノミニテ為シ得ヘキモノニ在ス」という言葉を直接聞いていた人間であった。
加藤友三郎の薫陶を受けた一人である堀にとっては、これまでの陸軍の過去からして町田首相の懸念は当然だろうと感じている。
もちろん、そうした内心を東條陸相の前では表にしていなかったが。
「そうですか」
町田は、いささか気疲れした表情になっていた。国際情勢が困難な時期に首相となり、しかし結果を残せなかったことへの徒労感があったのだろう。
「私はこれで首相の座を退きますが、お二人は帝国陸海軍の重鎮として、困難な国際情勢だからこそ帝国の安泰のために一層尽力していただきたいと思います。ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました」
町田はそう言い残し、取りまとめた辞表を天皇に提出すべく参内した。
こうして、町田忠治内閣は総辞職したのである。
日本の対外政策は、よりいっそう混迷を深めようとしていた。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
これにて拙作「北溟のアナバシス」第一章は完結となります。
ここまでの内容につきましてご意見・ご感想等ございましたらば、お気軽にお寄せ下さい。
また、評価やブックマークもしていただけますと、大変励みになります。よろしくお願いいたします。
さて、当初の構想では第一章にて開戦までを描く予定だったのですが、1940年東京オリンピックのイベントを忘れるなどして大幅な加筆修正が必要になった結果、当初書き上げた第一章を二章に分割することにしたという経緯があります。
まだまだ拙作は始まったばかりですので、何卒、今後とも引き続きよろしくお願いいたします。




