18 海軍の混迷
一方、海軍の対ソ作戦計画は、陸軍ほどには考究されていなかった。
陸海軍は毎年、年度作戦計画を策定して対米戦、対ソ戦、対支戦、対独戦などに備えてきた。しかし、海軍の仮想敵国はアメリカ合衆国であり、対ソ戦については十分な研究が重ねられてきたとは言い難かったのである。
さらに問題であったのが、昭和十八年度海軍作戦計画までに考えられてきた前提が、大きく崩れていたことであった。
昭和十八年度作戦計画までは、対ソ戦について「作戦初頭速ニ在東洋敵艦隊ヲ撃滅シテ極東露領沿海ヲ制圧スルト共ニ陸軍ト協力シテ烏蘇里方面ニ於ケル敵航空兵力ヲ撃滅ス」、「陸軍ト協力シテ浦塩斯徳其ノ他ノ要地ヲ攻略シ且黒龍江水域ヲ制圧ス」といった程度の具体性に欠けた方針しか示されていなかったのである。
しかし、こうした作戦構想の前提となっていた弱小な極東ソ連海軍兵力は、一九四三年六月以降、ソヴィエツキー・ソユーズなどの回航によって大幅に強化されている。
シベリア・沿海州に展開するという四〇〇〇機とも五〇〇〇機とも言われるソ連軍航空隊とともに、これら強力な水上艦隊を相手取らなければならない状況に、日本海軍は陥っていたのだ。
「対ソ開戦の場合に際しては、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の三海峡を封鎖して、ウラジオストクを根拠地とするソ連潜水艦の太平洋・東シナ海への進出を阻止することが不可欠でしょう」
東京霞ヶ関にある赤レンガの建物、軍令部の一室では対ソ戦についての議論が行われていた。
作戦を担当する軍令部第一部の者たちが太平洋の地図を囲み、艦隊や航空部隊を示す駒を置いては移動させるという動作を繰り返している。
「日露戦争当時と違い、今は航空機があります。かつてのウラジオ艦隊のようにソ連水上艦隊が太平洋沿岸側に進出するのは困難である以上、我々が警戒すべきは潜水艦ということになります」
そう説明しているのは、軍令部第一部第一課長(作戦)兼第二課長(艦船運用)の山本親雄大佐であった。
「とはいえ、それでも日本海航路がソ連艦隊に脅かされることには違いなかろう。最低限、日本海と朝鮮半島東岸を結ぶ航路の海上護衛をどうするか、それが問題であるな」
そう言ったのは、軍令部第一部長の中澤佑少将であった。彼は一九三六年、海軍側主務者として帝国国防方針の第三次改訂に携わっていた。第一部の中で、国防方針についても最も詳しい人物であるといえる。
だからこそ、帝国国防方針や用兵綱領において定められた、対ソ戦の際に海軍が果たすべき役割について言及しているのだ。
「GFの主力たる第一、第二、第三艦隊を日本海へ回すのは、戦術的にも、外交的にも得策とは言えません」
だが、部長の言葉に第一部直属部員の藤井茂大佐が指摘を加える。第一部直属部員は戦争指導担当であり、戦術・戦略面だけでなく政略面からも意見を述べることが求められていた。
「現在、我が国はアメリカ合衆国との間でも緊張関係にあり、海軍の全力を対ソ戦に投入するとなれば米国に対する抑止力が太平洋から失われることになります」
それは、軍令部や連合艦隊司令部といった海軍首脳部が最も懸念していることであった。
アメリカとソ連は同盟関係にあるわけではないが、共に日本に対して外交的・軍事的圧力を強めている国家であることに変わりはない。
こうした状況下で陸海軍の全力を対ソ戦に投入することは、それだけアメリカ合衆国からの干渉を呼び起こしかねないと彼らは考えていたのである。
現在、アメリカは満洲国の門戸開放や日本国内の自動車市場の自由化など、様々な経済的な要求を日本に突き付けている。対ソ戦を機に、こうした対日要求が一段と強硬になるかもしれない。
あるいは、かつての日露戦争とは逆に、アメリカがソ連側に寄り添った形で講和の仲介を行ってくる可能性も考えられた。現在のルーズベルト政権は、日本には強硬でありながらソ連に対しては宥和的であり、それが一層、軍令部の者たちの対米警戒感を強めていた。
「実際、GF司令部からも沿海州上陸作戦を行うのであれば、第七艦隊を基幹とした兵力にて行うことが対米関係上得策であるとの意見が出されております」
藤井の発言にそう付け加えたのは、山本であった。二人は、海軍大学校甲種第三〇期の次席(藤井)、首席(山本)の関係にある。
「また、GF司令部からは対ソ戦に際して不足する兵力を補うため、扶桑、山城の現役復帰の要望が出されております」
日本が独自に建造した初めての超弩級戦艦である扶桑とその二番艦山城は、すでに練習戦艦として海軍の第一線からは退いていた。扶桑は一九一五年、山城は一九一七年竣工と、艦齢も二十六年を超えている。
帝国国防方針に付随する国防所要兵力では、第一線部隊に配備する戦艦の艦齢は二十六年までと定められており、扶桑は艦齢二十九年、山城は艦齢二十七年を迎えていることから練習戦艦へと格下げされたのであった。
なお、金剛型の四隻もすでに艦齢二十六年を超えているが、こちらは高速戦艦という使い勝手の良さから依然として現役に留められている。
金剛型の代艦建造は一九三〇年のロンドン海軍軍縮会議以前から計画されてはいたものの、大和型の建造などで代艦計画は自然消滅していた。
帝国海軍は大和型戦艦やその発展型である十万トン級戦艦、そして航空母艦の整備へと、軍備の重点を移しつつあったのである。
少なくとも、軍令部では昭和二十五年度(つまり一九五〇年)まで、金剛型を現役に留める予定でいた。
「扶桑と山城を現役復帰させるのはいいが、どちらも三十六センチ砲搭載戦艦だ。十六インチ砲搭載戦艦であるソユーズ級には敵うまい」
だが、中澤は扶桑、山城の現役復帰には消極的であった。
「帝国海軍はこれから信濃や常陸、大鳳や白鳳といった艦艇の竣工を控えている。海軍戦力の充実には、新兵の教育が欠かせない。その意味において、扶桑と山城は将来の海軍軍人を育成する上で重要な存在だ。GF司令部の意向も判らなくはないが、あえて敵戦艦に対抗することが難しい両艦を現役復帰させるだけの意味は見出せまい」
連合艦隊司令部としては、主力である第一、第二、第三艦隊を対ソ戦に投入しないためにも、扶桑、山城を現役復帰させて第七艦隊の兵力を補いたいのであろうが、将来の海軍軍人を育成するという観点からは悪手であるといえた。
「しかし中澤部長。現状の第七艦隊の戦力では、ソ連太平洋艦隊に対抗することは不可能であると考えますが?」
作戦班長(甲部員)の榎尾義男大佐が言う。彼は軍令部第一部第一課における作戦立案の中心的人物であるために、現在の第七艦隊の兵力でソ連太平洋艦隊を撃滅した上で陸軍の沿海州上陸作戦を支援することの難しさを痛感しているのだ。
「現在、ソ連太平洋艦隊で確認されている主要艦艇は、戦艦ソヴィエツキー・ソユーズ、ソビエツカヤ・ウクライナ、巡洋戦艦クロンシュタット、セヴァストポリの四隻です。クロンシュタット級は対馬海峡を通過した際に撮影した航空写真から、従来言われてきた三十センチ砲三基九門ではなく、三十八センチ砲連装三基を搭載していることが明らかとなっております」
「参謀本部から正式に沿海州上陸作戦についての打診がない現段階で、我々海軍だけが真剣に沿海州上陸作戦を考える必要はなかろう」
榎尾の意見に対して、中澤はそう返した。
「実際のところ、参謀本部の側がどこまで沿海州上陸作戦を真剣に考えているか、判らぬ部分がある。関東軍に師団の大半を配置している今、果たして沿海州を制圧するだけの兵力的な余力が陸軍にあるのかどうか」
一九三九年に勃発した第二次欧州大戦による国際情勢の緊迫化によって、陸軍も海軍も準戦時体制に移行していた。
海軍では、商船改造空母隼鷹、飛鷹や特設水上機母艦神川丸に代表されるように、徴傭船舶の特設艦艇への改装など「戦備促進」といわれる措置をとってきた。
一方の陸軍では、平時二十個師団(歩兵)と定められた師団数を三十個にまで増加させている(戦時は五十個と定められている)。陸軍では、平時においては部隊の定数の関係上、徴兵検査で甲種合格となりながら、くじ引きで兵役を免れる者が存在する。一九四〇年以降、定数を増やすことでくじ引きで兵役を免除される者の数を減らし、師団数の増強を図ったのである。
また、それ以外にもそれまで二個旅団四個連隊で編成されていた歩兵師団(いわゆる四単位師団)を、三個連隊編成(いわゆる三単位師団)に改めることで、余った一個連隊を集めて新たな師団を創設してもいた。
帝国国防方針に付属する国防所要兵力に基づけば、陸軍はあと二十個師団は増強することが可能となる。
しかし、対ソ戦となれば当然ながら在満兵力は消耗する一方であり、新たに二十個師団を創設したとしても、満洲での損耗を補うことで精一杯になるのではないかと中澤は考えていたのである。
「沿海州上陸作戦については、参謀本部側から正式に打診があった場合に我々の方でも検討を開始することにしてよかろう」
結局、中澤としてはそうした結論に落ち着くのだった。
彼も一海軍軍人として、あくまでも対ソ戦は海軍にとって二義的なものと考えていたのである。