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16 陸軍と満蒙鉄道網

 帝国陸軍の対ソ戦構想は、当然ながら満洲事変の以前と以後で大きく変化している。

 未だ北満が日本の勢力圏下になかった一九二〇年代においては、対ソ戦の主戦場と想定された地域は北満であった。

 ワシントン体制下で改訂された大正十二年帝国国防方針(第二次改訂。一九二三年二月二十八日裁可)では、付属する用兵綱領の対露作戦の項において「陸軍ハ主作戦ヲ満洲ニ、支作戦ヲ烏蘇里(ウスリー)方面ニ行」い、「開戦ノ初期ヨリ勉メテ速ニ陸軍ノ大部ヲ満洲ノ一地方ニ集中シ又其一部ヲ南部沿海州ニ侵入セシメ機先ヲ制シテ敵ヲ撃破ス」ることが定められている。そして北満においてソ連軍を撃破した上で、沿海州やザバイカル方面へ進出するという作戦構想になっていた。

 その後、帝国国防方針は一九三六年に第三次改訂が行われた(いわゆる昭和十一年帝国国防方針)。

 この昭和十一年帝国国防方針では、すでに満洲国が成立して北満が日本の勢力圏下にあったことから、用兵綱領では「陸軍ハ先ツ烏蘇里方面(概ネ興凱湖(こうがいこ)及「ウォロシロフ」附近一帯ノ地域ヲ指ス。以下之ニ倣フ)ノ敵就中(なかんずく)其ノ航空勢力ヲ迅速ニ撃破シ且海軍ト協同シテ所要ノ兵力ヲ以テ浦塩斯徳(ウラジオストク)等諸要地ノ攻略ニ任ス」と、緒戦での沿海州攻略が謳われている。その後は、ザバイカル方面および北樺太、カムチャッカ半島の攻略を行うものと定められていた。

 つまり、一九三〇年代の陸軍における対ソ作戦計画は、その主戦場を沿海州に定めていたのである。

 また、陸軍が特に緒戦におけるソ連軍航空戦力の撃滅を重視していることにも、理由があった。

陸軍は、沿海州に配備されたソ連軍爆撃機による本土空襲を恐れていたのである。

 本土空襲によって国民の士気が喪失すれば、最悪、第一次世界大戦のロシアやドイツで見られたような革命運動が起こりかねない。戦時における国内の総力戦体制を維持するためにも、本土空襲は絶対に阻止しなければならないものと、陸軍は認識していたのである。

 満洲事変による北満への勢力伸長、そして航空機の発達によって、陸軍の対ソ作戦構想は二〇年代から変化していたのであった。

 しかし一方で、帝国国防方針において定められた対ソ作戦計画は大正十二年版においても昭和十一年版においても、攻勢重視の内容であった。

 これもまた、梅津ら関東軍司令部にとって悩みの種となっていた。

 四四〇〇キロの国境線を守りつつ沿海州方面に攻勢をとるというのは、あまりにも現実離れしたものであったからだ。

 それに加えて、攻勢作戦をとるにしても、守勢作戦をとるにしても、満洲の大地自体が広大であり過ぎた。そのため、部隊の迅速な機動が作戦遂行上、不可欠とされたのである。

 かつて満鉄の哈爾浜延長が望まれていたのも、北満の物資を満鉄が吸収出来るという経営上の観点もそうであったが、対露戦時に北満へ迅速に部隊を輸送することが出来るからであった(ロシア帝国の利権であった中東鉄道は広軌のため、標準軌の満鉄は乗り入れが出来ない)。

 ロシア革命によるロシア帝国の崩壊、そしてそれによる第四次日露協約の消滅が一九二〇年代の日本の満蒙政策を混迷させ、最終的には満洲事変を発生させてしまった原因は、このあたりにも存在していた。

 満洲事変は、戦略物資の自給自足を目指そうとする永田鉄山(満洲事変時、陸軍省軍務局軍事課長)らの総力戦体制構想に端を発したものといえたが、同時に満蒙特殊権益を擁護することで満洲の鉄道網を日本の支配下に置こうという目的もあったと言えるのである。


挿絵(By みてみん)


 満洲事変以前、中国との間で締結された満蒙五鉄道協約、満蒙四鉄道借款契約で敷設が取り決められた路線の内、実現出来ていたのは洮南(とうなん)昻々渓(こうこうけい)の間を結ぶ洮昻線だけであった。

 この路線を実現させたのは一九二一(大正十)年に満鉄理事となった松岡洋右であり、この時点ではまだ日本と張作霖との関係は利害の一致もあってそれなりに良好だったことが洮昻線実現の理由であった。

 洮昻線は、長春から哈爾浜への満鉄延伸が挫折した日本側が、代わって斉斉哈爾(チチハル)方面に伸ばそうとしていた路線であった(結局、中東鉄道側の同意が得られずに斉斉哈爾手前の昻々渓までとなったため、「洮斉線」ではなく「洮昻線」となった)。

 一方、張作霖としても洮昻線が開通すれば自らの影響力を東部内蒙古や北満に及ぼすことが出来るようになり、利権の回収を目論んでいた中東鉄道の圧力を加えることが出来る路線でもあったのである。

 しかし、日本と張作霖の間で円滑に敷設を実現出来た路線はこれだけであり、以後、張作霖は満鉄にも圧迫を加えるべく満鉄平行線の敷設にも取りかかっていく。

 こうした張作霖側の動きが、当時の関東軍高級参謀・河本(こうもと)大作が張作霖爆殺を実行した要因の一つとなった。

 父の後を継いで奉天軍閥を掌握した張学良も、日本側との交渉に応じることはなく、それどころか国民党政府に合流する易幟(えきし)を行っている。

 こうして、満蒙での鉄道敷設が思うように進まないことへの陸軍の不満が、満蒙の資源確保という総力戦体制構想と結び付いて引き起こされたのが、満洲事変と言えたのである。

 この背景には、満洲で武力行使をしても少なくとも対英関係はそれほど悪化しないだろうという永田鉄山らの見込みがあったという。

 一九二〇年代、中国の国権回復運動に最も強い姿勢で臨んだのはイギリスであり、日本外交もまたイギリスと協調する姿勢をとり、イギリスの権益の擁護にも努めていた。

 一九二七年に発生した南京での外国居留民、特に日本人居留民虐殺事件である南京事件以降、イギリスは在華居留民保護のためには五万の兵力が必要であると算出しており、本国としてはそれだけの兵力を中国大陸に派遣する余裕がなかったため、それを日本側が出してくれるのならば渡りに船であると捉えていたのである。

 こうした日英関係から、少なくともイギリスは満洲における日本軍の行動を黙認するだろうと、永田ら陸軍内の満蒙領有論者たちは見込んでいたのである。

 実際、関東軍が熱河作戦を断念したこともあり、イギリスは満洲での日本の行動に理解を示し、最終的には満洲国における日英経済提携まで実現している。

 その意味では、永田らの情勢判断は正しかったといえよう(もちろん、熱河作戦を阻止した海軍側の功績も大きいが)。

 そうしてイギリス資本、一部には新京のようにフランス資本も導入しつつ、一九三〇年代を通して満洲国の鉄道網の整備は急速に進んでいた。

 満洲全土に鉄道網を張り巡らせることも重要であったが、それ以上にイギリス資本やフランス資本の導入が功を奏した部分は、各路線の複線化であった。

 平時、戦時を問わず、単線か複線かで輸送能力は三倍以上の差が出ると言われている。

 実は一九三〇年代以前、満鉄の本線ともいえる大連―長春(新京)間の路線は、全線が複線化されているわけではなかった。連京線の全線複線化が実現されたのは、一九三四年になってからだったのだ。

 特に満洲国の成立によって朝鮮の鉄道との接続が実現された京図線(新京―図們(ともん))の複線化は日本政府、陸軍、満鉄の三者が重視していたものであり、イギリスとの経済提携があったことで、複線化は早期に果たされている。


「しかし、対ソ戦となった場合、依然として単線の区間が多いのは気になるところだな」


 梅津は以前、満鉄副総裁・山崎元幹から提出された説明資料を取り出しつつ、そう言った。

 京図線は日本海航路と直結しており、経済的・軍事的な価値が高い。有事の際には、内地から満洲東部に迅速に兵員や物資を輸送出来るからだ。大連や大東(満鮮国境に近い、鴨緑江河口付近に満洲国が築港した港)からでは、どうしても大回りとなってしまう。

 ちなみに、大東には港と併せて臨海工業地帯が築かれているが、ここにはイギリスの自動車企業ロールス・ロイス社やフランスのルノー社などが進出していた。実は臨海工業地帯を形成するに当たってアメリカのフォード社も進出を打診していたのであるが、日本側がイギリスやフランスの企業を優先したため、断念している。このあたりにも、満洲の門戸開放を巡る日米対立の要因が存在していたのである。

 改めて資料をめくる梅津は、満洲西部の路線に未だ単線が多いことが気に掛かっていた。日本の満蒙権益として満洲事変以前に実現した洮昻線ですら、開通から二十年近くが経っているにもかかわらず、未だ単線なのである。

 洮昻線は途中の白城子(はくじょうじ)からさらに西部の索倫(ソロン)阿爾山(アルシャン)杜魯爾(トロル)まで伸びているが、やはりこれも単線である。この白杜(はくと)線は、ノモンハン事件の際にも活躍した路線であった。

 ノモンハン事件において西部国境地帯の鉄道網を強化する必要性が認識されていたにもかかわらず、五年近く経った今でも複線化は行われていなかったのである。

 満洲国は、その南部と東部は鉄道輸送網が充実している一方、西部は依然として未発達であったといえるのだ。


「これでは、西部国境を保持する形での内線作戦は困難と言わざるを得んな」


 梅津は満鉄の資料と満洲国の地図を見遣りつつ、呻くようにそう言うのだった。

【満洲国の鉄道網】

 満洲国の成立と1935年の中東鉄道買収によって、満州国内の鉄道網はすべて日本の影響下に置かれました。

 満洲国における鉄道は、満鉄の経営している路線(社線)と満洲国有鉄道(国線)の二つに分かれます。しかし、実際には満洲国有鉄道はその経営が満鉄に依託されており、事実上、満州国内すべての鉄道は満鉄が経営している路線でした。

 さらに満鉄は北鮮三港(清津、羅津、雄基)へと繋がる朝鮮の鉄道の一部についても朝鮮総督府から依託を受けて経営しており、満鉄の経営する路線は満洲全土および朝鮮北東部にまで至っています。

 最終的に満鉄が経営している路線数は55路線、その総延長は約1万2943キロメートルにも及びました。

 しかし一方で、その長大な鉄道網に対して複線化率は非常に低いという欠点がありました。

 作中と違い、史実において複線化が実現した路線は連京線(大連―新京。1934年)、安奉線(安東―蘇家屯。1944年)、奉山線(奉天―山海関。1943年)、撫順線(撫順―蘇家屯。1922年)の4路線だけでした。

 満鉄と接続している朝鮮側の京義線(京城―新義州)、京釜線(京城―釜山)についても、複線化が実現したのは1944年になってからです。

 しかも朝鮮の鉄道の複線化は、戦争による鋼材不足から満鉄の複線化路線の一部からレールや枕木などを引き剥がして行われたものでした。その上、停車場や操車場の拡張は行われなかったため、朝鮮の鉄道の輸送能力は依然として低いままでした。

 さらに北鮮三港と満洲を鉄道で繋いだものの、肝心の港湾能力が低かったために十分な役割を果たせていたとは言えません。

 大戦末期、本土決戦に備え満洲や朝鮮から日本本土へ食糧を輸送する「日号作戦」が実施されましたが、その際に問題となったことの一つがこの港湾能力の低さでした。羅津では月7万5000トン程度の積出能力しか持たなかったにもかかわらず、月30万トンが目指されたと記録されています。

 また、日中戦争の影響で中国戦線に貨車が流出してしまったことも、満洲・朝鮮の鉄道輸送能力に深刻な打撃を与えました。

 結局、満鉄はその総延長は壮大なものといえますが、その輸送能力を考えた時、その壮大さとはまったく正反対の貧しい実態が見えてきてしまうのです。

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[良い点] ウチの爺様も本土空襲が始まってから「これ日本負けたで」と大人たちが様々な物資を家の地下や倉庫、村の隠し倉庫に保管したと言ってました。 後の調査で、それが日本全国で行われたと分かりました。 …
[気になる点] これは偏見なんですが、なんとなく満鉄とJR北海道が重なって見えますね……
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