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14 ホワイトハウスの対外認識

「いったい、日本側はアドミラル・山本を特使として派遣して、何を目論んでいるのか」


 一方、ホワイトハウスではルーズベルト大統領が山本五十六に対して猜疑に満ちた目を向けていた。

 ルーズベルトは海軍次官を務めていた経験もあり、海軍贔屓な一面がある。そのため、ワシントン海軍軍縮会議で日本が戦艦の対米保有比率七十二・五パーセントを達成したことについても、日本側の強硬姿勢にアメリカが押し切られた、外交政策上の失敗であるという認識を持っていた。

 ルーズベルトの海軍次官時代の上司、ダニエルズ海軍長官は当時のウィルソン大統領と同じ平和主義者であり、軍備増強にも消極的な人物であった。ワシントン海軍軍縮条約で葬り去られることになった日本の八八艦隊計画を上回る海軍拡張計画であったダニエルズ・プランは、むしろ次官であったルーズベルトの方が積極的であったとすら言えるのである。

 だからこそ、ワシントン海軍軍縮会議で日本に煮え湯を飲まされたという認識が、二十年以上経った今でもルーズベルトの胸中にあった。

 そのような人物にとって、野村吉三郎はその人柄を知っているためある程度は友好的な対応が出来たが、一九三〇年代を通じて日本海軍の航空軍備を増強し続けた経歴を持つ山本五十六は警戒の対象であった。

 また、一九二〇年代まではほぼ解読出来ていた日本の外交暗号が、一九三〇年代以降はその一部しか解読出来なくなっていたことも、余計にルーズベルトが日本側の意図を訝しむ要因となっている。一九三一年に出版された暴露本『ブラック・チェンバー』は、それだけ大きな衝撃を日本側に与えたといえよう。


「アドミラル・山本はクリル諸島(千島列島)やスプラトリー諸島(新南群島)の軍事基地化について、日米間での誤解を解きたいと申しておりましたな」


 大統領補佐官のハリー・ポプキンスがそう指摘する。だが、自らの補佐官の言葉にルーズベルトは辛辣であった。


「日本人どもはドイツの脅威を盛んに言ってきてクリル諸島やスプラトリー諸島の軍事基地化を正当化しようとしているようだが、私にとってみればドイツも日本も同じファシスト国家に過ぎん」


 千島列島は合衆国領であるアリューシャン列島やアラスカに近く、新南群島はフィリピンに近かった。

 そしてルーズベルトは、日本もナチス・ドイツと同じ国際法を蹂躙する「rogue nation(ならず者国家)」であると認識している。むしろ一九三三年にヒトラーが台頭を始めるよりも三一年の満洲事変の方が早かった分、ワシントン会議をアメリカの日本に対する屈服と認識するルーズベルトは日本の方をより警戒していると言えた。

 孤立主義が強く全体主義を警戒するアメリカでは、一九三五年十月のイタリアのエチオピア侵攻以降、中立法を強化し続けている。

 中立法は交戦国への武器・軍需物資の輸出を禁止する法律であるが、三七年五月には一般物資についても「cash and carry」方式(交戦国は現金で支払い自国船で輸送すれば輸出可能、という方式)に改正されていた。これは、第一次世界大戦におけるルシタニア号事件の教訓を踏まえた上での改正であった。

 米独関係については、一九三八年十一月九日の「水晶の夜事件」以降、駐在大使を相互に召還するなど極度に険悪化していた。

 第二次欧州大戦直後の三九年十一月には中立法は英仏を支援するためにさらに改正され、交戦国でもcash and carry方式ならば武器・軍需物資も輸出出来るようになった。

 ルーズベルトとしては、特にイギリスをアメリカが積極的に支援することによって、イギリスに対する日本の影響力低下を狙おうとしていたのである。

 アメリカが国家として承認していない満洲国をイギリスは実質的に承認する姿勢をとっており、アメリカ経済の中国への市場拡大を考えた場合、日英を離反させることはアメリカ外交にとって一九二〇年代以来の課題と言えた。

 特にアメリカがイギリスの満洲進出を警戒するようになったのは、一九三四年のイギリス産業連盟使節団の満洲派遣よりも、一九三八年の満洲油田発見によってであった。この年、満洲北部の哈爾浜(ハルビン)斉斉哈爾(チチハル)の中間地域、そして奉天郊外の遼河流域で、それぞれ油田が発見されたのである。

 日本はそれ以前から満洲での油田調査を進めており、満洲での日英経済提携の始動によってそれは加速された。もともと日英間には第一次世界大戦後、メソポタミア地域での石油採掘事業に伴う技術的な提携を行っていた過去がある。

 そうした経緯が、満洲での油田発見に繋がったのである。

 当然、油田の発見によって中国東北部の経済的価値は飛躍的に高まった。しかし、アメリカは依然として満洲市場への進出を果たせていなかったのである。

 ハル国務長官が提起する無差別通商問題も、日本国内の自動車市場へのアメリカ企業を進出させるという目的の他に、満洲にアメリカ企業を大々的に進出させたいという願望も含まれていたのである。

 特に一九三八年以降、ルーズベルト政権が一九三三年以来実施してきたニューディール政策が行き詰まりを見せ、アメリカ経済が再び不況に突入し始めていたことも海外市場の拡大を目指す方向性に拍車をかけていた。

 そのためにルーズベルト政権は、今や経済成長著しい満洲市場への進出を図ろうとしていたのである。

 実際のところ、日本側の認識と異なり、アメリカ側は満洲国承認問題についてはある種の“棚上げ”的解決の道を探っていた。

 実際、フォード社が満洲への工場進出を日本側に打診したこともある。満洲国への大使館・領事館の設置は中国の領土保全という建前に反するために行うつもりはなかったが、民間企業の進出という形ならばアメリカという国家が満洲国を承認したことにはならないというわけである。

 もちろん蔣介石からの反発は必至であろうが、現在、中国は国民党と共産党との内戦状態にあり、その国際的影響力を大きく低下させていた。中国幣制改革による蔣介石政権の財政状況の好転が、かえって内戦を長期化・激化させる要因となってしまったのは皮肉であった。

 そのため、華北以南よりも相対的に安定している満洲市場にアメリカは魅力を感じていたのである。

 しかし、そうしたアメリカ外交の日英離反、日本や満洲市場の門戸開放という目的は、第二次欧州大戦の早期終結という要因によって挫折を余儀なくされていた。

 ダンケルクの戦いにおいて四十万もの兵力を包囲殲滅されたことで、イギリスの当時の首相ネヴィル・チェンバレンがドイツとの講和を決断してしまったからである。これにより、大戦を口実にイギリスへの援助を拡大させ、アメリカのイギリスへの影響力拡大、日本の影響力の相対的低下を狙うことは、出来なくなっていた。

 むしろ、以前から戦争指導能力に疑問が持たれていたチェンバレンが実質的な敗戦の責任をとって対独講和直後に辞任し、その後任として首相の座についたウィンストン・チャーチルは、再度の日英同盟すら目論んでいるようであった。

 彼は第一次世界大戦初期に海軍大臣を務めていたこともあり、同時期に海軍次官を務めていたルーズベルトとは対照的に日本に好意的であった。そうした人物が首相を務めていることもあり、アメリカの対英外交は望んだ通りの成果を挙げられていなかったのである。

 それどころか最近では、チャーチルはアメリカに対してドイツだけでなくソ連の脅威も説くようになっていた。

 正直なところ、チャーチルの警告はルーズベルトにとって理解出来ないものであった。

 そもそも、ルーズベルトは日本やドイツの侵略主義を許しがたく思っている一方、イギリスの植民地支配にも批判的であった。ニューディール政策など、どちらかといえば社会主義的な政策を行ってきたルーズベルトは、イギリスよりもむしろソ連に対して親近感を抱いていた。

 ソ連の太平洋艦隊増強、また演習に伴う太平洋進出についても、ルーズベルトはそれほど危機感を抱いていない。日本の侵略主義の脅威を受け続けるソ連が、その対抗として行っているに過ぎないという認識であった。

 それどころか、ソ連の太平洋艦隊増強は、日本海軍に対する牽制の都合上、合衆国海軍にとっても好ましいとすら考えていた。

 だからこそ、ルーズベルトは海軍の旧式艦艇をソ連に売却したのである。もともと、両洋艦隊法の成立によって海軍の拡張が行われている以上、旧式艦艇を保有し続ける軍事的・財政的な意義は小さい。むしろ維持費が余計にかかる分、他国への売却はアメリカにとって好都合であった。

 結果、アメリカは南米諸国やソ連へ旧式艦艇を売却することとなったのである。

 こうしたルーズベルトの好意的な対ソ観には、一九四一年まで駐ソ大使を務めていたジョセフ・E・デイビスの影響があった。デイビスはソ連の指導者スターリンによる大粛清を支持するほどの親ソ外交官であり、そうした者の影響をルーズベルトは受けていたといえる。

 実際、一九四三年のソ連によるコミンテルン解散は、ソ連の資本主義勢力に対する宥和政策の一環であるとルーズベルトは捉えていた。


「ソ連が日本を攻めようとしているのではない。日本がソ連を攻めようとしているのだ」


 それが、この頃のルーズベルトの対外認識であった。

 また、彼としては今の段階で日米間の緊張緩和を図ろうと思わない理由もあった。今年、つまり一九四四年は、大統領選挙の年だったからである。

 前回一九四〇年十一月の大統領選挙では、第二次欧州大戦の結果、ヨーロッパ大陸を席巻したナチス・ドイツが一大勢力を築いたという対外的な危機意識もあり、「川の途中で馬を乗り換えるな」を合い言葉にルーズベルトは史上初の三選を果たしていた。

 今年十一月の選挙において、日本やナチス・ドイツの脅威を喧伝することで前人未踏の四選を狙っているルーズベルトは、だからこそ日本に対して妥協的な態度をとれないのである。

 ニューディール政策が実質的に失敗している以上、ルーズベルトは外交面で“強い指導者”を演じる必要があったのだ。

 少なくとも、ソ連を利用しつつ戦争に至らない程度に日本に外交的・軍事的圧力をかけ続けることがアメリカの安全保障や市場の拡大といった国益に適うものであると、ルーズベルトは考えていたのである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] アメリカから見て美味しい市場を持っているのが、日本ドイツイギリスですからね。 この頃のアメリカだと、まず寄こせってなりますよね
[気になる点] ルーズベルトの日本に対する対抗意識に、アカだらけの側近。わしらには救えぬものじゃ。 [一言] 日独英がうまくやってしまった分、アメリカが割を食っていますね。毎回展開が楽しみです。
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