12 二号研究
「輸送船は本日、無事に大神入港したと報せが入りました」
それからさらに数日後、東京にある陸相官邸にて、海軍大臣・堀悌吉は陸軍大臣・東條英機にそう告げた。
「それは、何よりです」
東條英機も、ほっと安堵の息をついた。
「この情勢下、あれを満洲に置いたままにしていては、気が休まりませんからな。研究所と研究員、そして施設の内地引き揚げは当然でしょう」
「今回の件で二号研究は一時的な停滞を余儀なくされるでしょうが、研究成果が失われるよりは遙かに良い。背に腹は代えられませんからな」
東條の言葉に、堀はそう返した。
二号研究。
それは、日本における原子爆弾開発研究の秘匿名称であった。「二号研究」の名は、開発主任である仁科芳雄博士の名から来ている。
ただし、秘匿のために片仮名の「ニ」ではなく漢数字の「二」を使い、あたかも「一号研究」が存在するかのように偽装している。予算も、二号研究だけでなく一号研究にも割り当てられている(当然、一号研究用の予算は二号研究に流用されているが)。
日本での原爆開発が国策単位で開始されたのは、一九四〇(昭和十五)年のことであった。
一九三九(昭和十四)年、後世、有名となるアインシュタインの署名が入った原爆開発を促すルーズベルト大統領への手紙(厳密には物理学者レオ・シラードがアインシュタインに執筆を依頼した手紙)の情報が日本政府へと漏れ伝わり、さらにはイギリスからもドイツが原爆を開発しようとしているという情報がもたらされたからであった。
日英同盟が消滅したあとも一九二〇年代を通して緩やかな政治的・経済的連帯を続けていた日英は、一九三四(昭和九)年、日英不可侵条約を結んでいた。
折しもこの年の九月、イギリスは満洲国での事業の可能性を探るため、イギリス産業連盟使節団を派遣し、満洲国における日英経済提携が始まろうとしている時期であった。特に第二次マクドナルド内閣で大蔵大臣を務めていたネヴィル・チェンバレンと大蔵次官ウォレン・フィッシャーは、熱心な日英経済提携論者であった(イギリス側で日英不可侵条約を提唱していたのも、同じくチェンバレン)。
満洲事変は九ヵ国条約に基づく中国市場の開放を望むアメリカを刺激し、日米関係の緊張を高めることとなったが、日英関係にはそれほど悪影響を及ぼさなかったのである。
一九三三年初頭、関東軍は満洲国の戦略的縦深を確保するために熱河地方へのさらなる進出を企てていたのであるが、この熱河作戦が裁可されなかったことが大きな要因であった。理由は、熱河作戦は華北に権益を持つイギリスとの関係を悪化させるとして、当時の岡田啓介海相、岡田の定年後はその後を継いだ山梨勝之進海相を始めとする海軍首脳部が素早く天皇を中心とした宮中勢力に根回しをしたためであった。
一九二〇年代を通して、日本は国権回復運動や軍閥同士の内戦、蔣介石率いる国民党による北伐に晒された列強各国、特にイギリスの中国権益を守護し続けていた。この当時、列強諸国で最も中国に対して強硬な姿勢で臨んでいたのはイギリスで、対英協調と満蒙権益の維持という観点から日本も同様の外交姿勢をとっていた。
一九二七(昭和二)年三月、北伐を進める国民党軍が南京に入城し、外国領事館や外国人居留民に対する掠奪・暴行を行った際には、日本は英米海軍の警備艦と共同で南京への報復砲撃を行ってもいる。
ただし、警備艦の停泊している下関に比較的近い場所に居留していた英米人は警備艦の派遣した兵士たちによって保護されたが、南京城内に居留し情勢の悪化から領事館に身を寄せていた日本人は下関への避難が遅れ、日英米の報復砲撃に激昂した国民党軍などによって多くが虐殺され、尼港事件に続く日本人居留民大量虐殺事件となってしまった。
一九三一年の満洲事変は、関東軍参謀・石原莞爾らが以前から陸軍内部で持ち上がっていた満蒙領有方針に基づいて独断で起こしたものであったが、こうした中国における邦人虐殺事件が満洲事変を正当化する理論的根拠として扱われた。
満洲事変とその後の満洲国建国は国際連盟では承認されず、結局日本は国際連盟を脱退することとなったのであるが、少なくともイギリスとの関係は維持された(リットン報告書に関する連盟の審議では、イギリスやフランスなど中国との間に権益を巡る問題を抱えていた一部列強が投票を棄権していた)。
一九三四年に日英不可侵条約が締結され、イギリス産業連盟使節団の満洲国視察によって日英経済提携が本格的に始動すると、日英間の接近はさらに強まった。
一九三〇年代中盤、イギリスは日本以上に満洲国を巧みに操り、その外交的老獪さを遺憾なく発揮したのである。その最たる事例が、中国幣制改革であった。
依然として銀本位制という古典的な経済体制をとり、各軍閥が独自の銀行券を発行していた中国では、統一的な貨幣が存在していなかった。当然、中央集権化を進めたい蔣介石の国民政府にとって、幣制改革による通貨の統一は重要な課題となっていたのである。
そのため蔣介石政権は列強各国に借款を申し出ていたのであるが、これに応じようとしたのがイギリスであった。イギリス大蔵省経済顧問であったサー・フレデリック・リース=ロスを極東に派遣し、まず英国と日本が満洲国に借款を行い、その借款を蔣介石政権に引き渡すという方式が提案された。つまり、日英が中国幣制改革を支援する代価として、蔣介石政権に間接的な満州国承認を迫ったのである。
蔣介石は、度重なる軍閥や中国共産党との内戦で国民政府の財政が極端に悪化していたこともあり、満洲奪還よりも幣制改革という目先の利益を掴むしかなかった。
さらにイギリスは、ここでアメリカをも巻き込んだ。日英が中国に引き渡した銀を、中国がアメリカに売却し、中国に外貨を確保させて為替を安定させようとしたのである。結果、中国の法弊はポンドよりもドルに依存する通貨となった。
イギリスは満洲国を軸として、日英経済提携を成功させ、中国の幣制改革も成功させ、さらに改革にアメリカを巻き込むことで日英不可侵条約の締結によって悪化しようとしていた英米関係の改善も成功させたのである(実際、アメリカは一九三四年にワシントン海軍軍縮条約の廃棄通告をして、不可侵条約を結んだ日英を牽制していた)。
ドイツの原爆開発の情報がイギリスから日本にもたらされたのは、こうした一九三〇年代を通じた日英の外交的・経済的接近があったからである。
そして一九四〇年七月、ダンケルクでイギリス軍四十万がドイツ軍によって包囲殲滅されたことで英独間の講和が結ばれて第二次欧州大戦が終結したことは、日本に第一次世界大戦でドイツから継承した権益の返還を迫られるのではないかという疑念を生じさせていた。実際、それほど強硬ではないものの、南洋群島の統治権返還を日本はドイツから求められていた。
こうしたドイツという潜在的な脅威への対抗、そして兵力においてアメリカやソ連に劣っているという現実が、陸海軍共同での原爆開発を決定させたのである。
原爆は、そうした兵力差を逆転させることが出来る画期的兵器として捉えられたのだ。
一九四一年に設置された「陸海技術運用委員会」は、こうした流れの中にも位置付けられる組織であった。
開発計画は、理化学研究所の仁科芳雄博士を開発主任として、京都帝国大学の荒勝文策、大阪帝国大学の菊池正士という日本が誇る原子物理学者を中心に、京都帝国大学の湯川秀樹、東京帝国大学の木村健二郎、嵯峨根遼吉、陸軍の鈴木辰三郎、新妻精一、海軍の伊藤庸二、異色なところではナチス・ドイツのフランス侵攻によってコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所を追われた湯浅年子などが加わり、原爆の研究開発が進められていた。
こうして研究は満洲の某所にて秘密裏に進められていたのであるが、ソ連の満洲侵攻の可能性を危惧し、研究所を内地に移転することが決定された。
その移転先となったのが、大分県速見郡大神村に新たに設けられることになった大神海軍工廠であった。この新工廠は超大和型戦艦(基準排水量十万トン、五十一センチ砲三連装三基)を建造するために建設が進められており、将来の大型艦建造や整備などを見越して工廠をさらに拡大すべく、広大な土地がすでに買収されていた。
そこに、原爆研究施設を移転することにしたのである。研究開発や原爆製造のための資材の搬入という意味でも、海軍工廠ならばさほど怪しまれずに済むという、防諜上の理由も大きい。
「時に堀海相、今年になって始まったソ連による公海上での臨検。これは、我が国の原爆開発がソ連に嗅ぎつけられたと考えるべきでしょうか?」
東條陸相の示した懸念に、堀はかすかに顔を険しくした。
「判りません。私も完全に隠し切れるとは思っていませんが、臨検はあくまでも我が国に対する圧迫行為の一環であると考えています。モスクワでは北方漁業交渉と北樺太油田交渉が大詰めを迎えておりますし」
「だといいのですがね」
それでも疑り深そうに、東條は言った。少なくともソ連、そして共産主義者による諜報網が日本政府や軍部にも伸びているのではないかという疑念を、捨てきれずにいるようであった。
実際一九四一年には、リヒャルト・ゾルゲを中心とする共産主義系諜報組織が検挙されているのだから、東條の懸念もあながち杞憂とは言い切れない。
「しかし、原爆の開発完了は早くとも昭和二十年、今回の研究所移転の影響も考えれば二十二年ごろにまでずれ込むかもしれませんな」
一方、堀にとってはそちらの方が気掛かりであった。それはつまり、現在進行形で悪化を続けている日ソ関係において、原子爆弾は戦争を回避するための抑止力たり得ないということであった。
せめて原爆の量産ではなく、爆発実験だけでも出来ればそれだけで十分な示威行為にはなるだろうが、未だ日本の原爆開発はその段階に達していない。
現在の日本の軍事力がどこまでアメリカやソ連に対して抑止力たり得るのか、それは堀にも判らない。
せめて、アメリカに特使として渡った山本五十六が、対米関係の緊張緩和をもたらしてくれることを祈るばかりであった。