11 大連巡航
年が明けて一九四四(昭和十九)年の一月。
満洲国から日本が租借している関東州大連港に、二隻の巨艦が入港していた。第一艦隊第一戦隊に属する、戦艦大和と武蔵である。
帝国海軍では、訓練の一環として「巡航」というものがある。これは、大日本帝国の勢力圏内を艦隊が巡り、訓練と共に警備活動を行うことを目的としたものであった。巡航中、艦隊は警戒航行、襲撃運動、測的、出入港陣形、照射、追跡といった航行や戦闘に備えた各種訓練、教練を行う。
とはいえ、巡航には国民への広報活動、周辺諸国への示威行為、あるいは居留民の慰撫といった副次的な目的も存在する。実際、巡航における寄港の際には乗艦見学会なども催されていた。
また、巡航における寄港は乗員の休養と艦隊の補給も兼ねている。
関東州への巡航は、満洲国建国十周年を記念した一昨年九月以来のことであった。この時は、九月十五日から十六日にかけて行われた新京での記念式典に合せて、大連沖で観艦式が挙行されている。
ただし、日本から観艦式参加のために派遣されたのは戦艦陸奥であり、大和、武蔵が大連に寄港するのはこれが初めてのことであった。
当然、現地在住の日本人たちは帝国海軍の最新鋭戦艦の大連寄港を大いに歓迎した。
特に戦艦大和は、一九四〇年八月八日の進水式がラジオ中継やニュース映画として大々的に報じられていたこともあり、大連にいる日本人たちの関心も高かった。戦艦土佐以来、約二十年ぶりに建造された戦艦となれば、国民の注目も大きかったのである。
だが、大連の住民たちは大和、武蔵に注目するばかりであり、同時期に旅順に一隻の輸送船が入港していたことなど知るよしもなかった。
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巡航による艦隊の寄港は、寄港地にとって大きな商機であった。
上陸した兵士たちが落とす金だけでも三〇万円近くになり、さらには艦隊側も主に食糧や嗜好品、日用品を補充しなければならないためその経済的利益は相当な額に上る。
艦隊側もそうした事情から、寄港地の商人が艦上で売店を開くことを許可していたりもする。
当然、今回の大和、武蔵およびその護衛である第一水雷戦隊の巡航においても、寄港地である大連は大変な賑わいとなった。
上陸して街へと繰り出した水兵たちのために市街地の銭湯は彼らのために開放され、活動写真館(映画館)での上映会、歌舞伎座での少女歌劇団の公演会、電気遊園(遊園地)、ゴルフ場にも多くの水兵が押し寄せた。当然と言うべきか、逢坂町にある遊郭にも多数の水兵が訪れている。
大連の各商店も、水兵に対して割引販売を行うなど抜け目がない。
さらにこの大和、武蔵の大連巡航に合せるようにして、新京交響楽団の公演会も開かれた。新進気鋭の指揮者・朝比奈隆がタクトを振り、チャイコフスキー交響曲第六番などを演奏して水兵たちを楽しませたという。
一方、艦隊首脳部たちは満鉄幹部からの誘いを受け、満鉄の経営する料亭・登瀛閣へと招かれていた。
「日ソ情勢の緊迫化に伴い、日本海航路の安全確保は喫緊の課題であるかと存じます」
大連市街で上陸を楽しむ水兵たちと違い、登瀛閣での酒宴で出された話題は深刻なものであった。
招待した側である満鉄は、総裁である小日山直登や副総裁の山崎元幹、それから数名の理事が出席している。
一方の第一艦隊側からは、第一艦隊司令長官・角田覚治中将と数名の参謀、それから艦隊旗艦である大和艦長・森下信衛大佐らが出席していた。
酒宴が始まって早々に、小日山総裁はそう切り出したのである。
「以前から朝鮮東岸ではソ連から流れてきた機雷による被害が生じておりましたが、今年に入ってソ連海軍による臨検を受ける船まで出てきており、船長が密輸容疑で抑留される事態も生じているのです」
満鉄は、日本第三位の船舶保有量を誇る商船会社・大連汽船の親会社であった。そのため、日本海航路の安全確保には敏感にならざるを得ない立場にある。
「それは、我々も存じております」
一方、訴えかけられた角田中将は、渋い顔をしていた。
ソ連から漂流する機雷については、これまでも海軍は掃海艇を派遣するなどして対応してきた。しかしここに来て、ソ連側はさらに際どい行為に出始めたのである。
朝鮮半島東岸と日本本土、特に敦賀など日本海に面した諸港に向かう船に対して、公海上で臨検を行うという行為を始めたのだ。
これは国際法上、極めて微妙な問題であった。
領海内で密輸などを取り締るための臨検は、当然、沿岸国に許されている。しかし、平時において公海上での臨検が国際法上、どこまで合法であるのかは依然として曖昧だったのである。
もちろん、明確な海上封鎖を行えばそれは宣戦布告に等しい行為ではあったが、あくまでソ連側の主張では“密輸船の取り締り”なのである(ただし、平時における海上封鎖が明確な国際法違反かは、この時代ではまだ明確になっていなかった。平時海上封鎖が国際法違反とされるのは、もっと後の時代である)。
そうした取り締りを公海上で行い、公海上に自国の法令を適用して他国の船舶の航行を妨害することが果たして許されるのか、明確な判断は難しかった。
実際、十九世紀にはイギリスが奴隷貿易を取り締るために公海上での臨検を行っている。当時のアメリカやフランスでは奴隷は合法であったから、両国はイギリスのこうした措置に激しく反発した。イギリスの奴隷貿易取り締りのための公海上での臨検は、明確な内政干渉であったからだ。
それでもイギリスがこうした措置を強行出来たのは、その強大な海軍力があったからである。
また、慣習的に見れば平時における公海上での臨検は、海賊などの犯罪行為が特に明確である場合に限って認められていた。
ソ連側は、そうした国際慣習法を拡大解釈して、日本海を航行する日本船舶に対する臨検を強行していると言えたのである。
「ソ連海軍の取り締り強化により、多くの船舶が多少の大回りは覚悟で朝鮮沿岸を航行せざるを得なくなっております」
小日山は、さらにそう訴えた。日本海を横断する航路を通れなくなってしまったことで、それだけ余計に時間と燃料を浪費することとなっているのだ。
「もちろん、海軍としても日本海航路の安全確保は喫緊の課題の一つであると自覚しています」
角田はそう返すが、実際のところ難しいだろうと考えている。日本海を航行するすべての日本船舶の安全を確保しようとすれば、第一次世界大戦のような護送船団方式をとらざるを得ない。平時からそのようなことをすれば、海軍も膨大な燃料を消費することになる。
そしてもちろん、太平洋方面でアメリカ海軍を牽制しなければならない帝国海軍に、そこまでの余裕はない。
ソ連が最近になってこのような挑発的手段に打って出たのは、そうした日本海軍の抱える弱みに付け込み、現在続いている日ソ漁業条約や北樺太油田に関する外交交渉を有利に進めようとする思惑があるのだろう。
大和、武蔵の華々しさとは裏腹に、帝国海軍は現在、太平洋の米海軍と日本海のソ連海軍に挟まれ極めて苦しい立場に追いやられているのだ。
「ただ、我々はあくまで海軍であり、外交当局者ではありません。ソ連への抗議や抑留船長の釈放などについては、小官の方からも海軍大臣や軍令部総長に申し上げ、お二人の口から外務省に伝えてもらうことしか出来ません」
「それでも構いません。帝国海軍もこの問題を極めて重視していると内外に示すことが、ソ連への圧力になるでしょうから」
小日山総裁は、切実な声で角田司令長官にそう訴えるのだった。
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「奇妙な任務でしたな」
数日後、大連を出港して呉へと帰還しようとする戦艦大和艦上で、森下信衛艦長は呟いた。
「大連で大和と武蔵を大々的にお披露目。で、その帰路で旅順を出港した輸送船を護衛しろ、とは。明らかに、諜報の目を大和、武蔵に向けさせるようなものではないですか」
彼の視線の先には、僚艦である武蔵、そして随伴する第一水雷戦隊に護衛される一隻の輸送船がいた。
「まあ、我らは軍人だ。軍には、詮索してはならんことというものもある」
第一艦隊司令長官・角田覚治中将も、今回の任務に怪訝なものを覚えつつも、その輸送船のことについては気にしないことにしていた。
彼は、連合艦隊司令部および軍令部から直々に、たとえ大和、武蔵を犠牲にすることになっても、その輸送船だけは絶対に内地に送り届けるように、という厳命を受けていた。もちろん、その命令を知る者は、この艦隊の中でも角田だけであった。
森下艦長も、単に帰路における輸送船の護衛任務ということだけしか聞いていない。
あるいは連合艦隊司令部も、よく判っていないのかもしれない。ただ、軍令部総長・嶋田繁太郎大将はソ連艦隊などによって輸送船の積み荷が失われることを、非常に恐れているような様子ではあった。
実際、ソヴィエツキー・ソユーズのウラジオストク回航以来、ソ連艦隊は演習と称して対馬海峡や津軽海峡を通過して太平洋側に進出し、日本本土周辺を航行するという示威行為を何度か行っている。
そしてもちろん、満鉄側から訴えられたように公海上での臨検を行うという暴挙にも及んでいた。
嶋田総長は、そうしたソ連艦隊に輸送船が襲撃されるのを恐れているのかもしれない。
それにしても、帝国海軍が誇る最新鋭戦艦、世界最大の四十六センチ砲搭載戦艦である大和、武蔵を犠牲にしてでも守らなければならない積み荷とは、いったい何なのか。
もちろん、角田としても気になるところではあったが、やはり不必要な詮索はしない方がいいだろうという結論に落ち着く。
艦隊は、平穏に航行を続けながら黄海から東シナ海へと入りつつあった。