ブルーアワー
「またか……」
企業から届くお祈りメールはこれで何通目だろう? 大学の卒業式を終え、友達は来月には就職して新しい生活をスタートさせる。なのに、私は未だに就職活動を続けている。
椅子の背もたれに寄りかかり、自然とため息がこぼれた。
「やっぱり、ちょっと休もうかな」
疲労回復に良いと言われるレモングラスを飲み、机の上に置いてあるパンフレットに手を伸ばす。それは『川越 日帰り旅行』と題されたものだ。休んでいる暇があったら就活を! と意気込んでやってきたが、一度就活から離れた方がいいかもしれない。
手帳を開いてスケジュールを確認するが、ほとんど何もない。今回届いたお祈りメールで面接の予定が完全になくなった。また一からやり直しだ。休むにはちょうどいい。
「ブラっと遊んで、また頑張るかぁ」
そう決めたものの先の見えない不安に、心のモヤモヤが晴れない。ハーブティーのレモングラスを飲み干して、カップをキッチンへ持っていく。
「茉莉奈、就活はどう? 面接したんでしょ?」
お母さんがテレビを見ながら訊いてきた。普段、就活の話なんてしてこないのに何で今聞くかな……。
「まだ終わりそうにないけど」
言ってから、しまったと思った。思っていたよりもトゲを含んだ言い方をしていた。
「じゃあ、着物の着付け習ってみる?」
「え?」
お母さんは私の言葉のトゲを気にすることもなく、予想外の提案をした。
「就職先がまだ決まってないなら、何か出来ることを身に着けてみたらいいんじゃないの? 着付けだったらお母さん教えてあげられるし、着付け教室で他の人と教わりながらでも出来るし」
「それなら、自分のやりたいことに繋がるものを身に着けるよ」
「何かあるの?」
「……まだ探し中」
仕事が決まっていない段階で習い事なんて考えられない。着付けは私のやりたいことではないし、何かするにもお金がかかるだろう。
「そういうのは就職してからね」
早々に切り上げて、私は自分の部屋へ戻った。
そもそも、うちは母子家庭なのだから好きなことをやっている余裕はない。仕事も生活も安定してやっと考えられることだ。お母さんだって、仕事しながら着付け教室をやっているわけで……。
「まずは稼げなきゃ意味ない」
私はベッドに突っ伏した。
「今日は休みなの?」
翌日、いつもより起きる時間が遅いせいか、お母さんが訊いた。
「うん。ちょっと息抜きしてくる」
「そう。たまには休んでおかないとね」
朝食を食べ、支度を終えて玄関へ向かう。
「じゃあ、行ってくる」
リビングにいるお母さんに聞こえるよう、少し大きな声で言ってから家を出る。お母さんは何も言わないけれど、こんな状況で一緒にいるのは罪悪感しか生まれない。とにかく、今日は色んなものから離れよう。
地元から近い川越に行くのは電車で三十分と掛からない。駅を出ると、まずは五百羅漢で有名な喜多院を目指して歩く。そんな時でもこれからの自分がどうなるかを考えてしまう。
職業訓練校にでも行った方がいいのかな。でも、やっぱりお金のことがあるし……。
気付けば喜多院に到着し、山門をくぐる。右手に五百羅漢が並んでいた。
「すごい、こんなに……」
多くの羅漢の姿を写真に収め、境内をまっすぐ進んでいく。本堂から書院などを巡り、枝垂れ桜の咲く庭園で私は足を止める。
今は観光に来ているんだ。余計なことを考えるのはやめよう。
私は満開の桜を前に沈む気持ちを振り払って、本堂の左手にある仙波東照宮などの文化財を見て回る。
「次はどうしようか……」
マップを開いて名所を確認し、小江戸のシンボルと言われる時の鐘の前を通って、菓子屋横町へ向かう。
「いらっしゃいませー」
店員の声を聞きながら、芋を使用したお菓子やたい焼き、駄菓子などを買って食べて歩く。
こういう時は、甘いものを食べるのが一番!
単純な私はお菓子に満足したが、一通り歩き廻った疲れと口の中の甘さで水分が欲しくなり、蔵造りの家が並ぶ一番街で休憩できる店を探す。
「あ、ここがいいかも」
小さなカフェの前にあるメニューの看板に、抹茶が書かれている。和菓子を堪能した私はそこに惹かれ、カフェに入っていく。
レトロでおしゃれな店内の奥のテーブル席で、メニュー表を開く。抹茶そばなんて珍しいものも気になったが、抹茶と上生菓子のセットを注文する。運ばれてきた抹茶を一口飲み、私は一息ついた。
「美味しい……」
上生菓子を口に運ぶ。こし餡の甘さが抹茶とよく合い、思わず顔がほころんでしまう。よし、お土産に和菓子を買っていこう。
数分休んでからレジで会計を済ませると、店員が言った。
「こちらで提供しているお茶は、本川越駅の近くにあるお茶専門店から仕入れているものですので、よろしければそちらもどうぞお立ち寄り下さい」
和菓子だけじゃなくて、お茶もいいかも。
「どう行ったらいいですか?」
「一番街を本川越駅に向かって歩いていくと、『ブルーアワー』という看板のお茶屋さんがあります。日本茶だけじゃなくて、紅茶などもおいておりますので、ぜひ」
私は礼を言って、カフェを出た。途中でお土産用の芋を使った和菓子やせんべいを買い、本川越駅に向かう。
「あっ、ここ……?」
町屋風の建物に看板を発見し、暖簾をくぐる。中へ入ると意外に女性客が多い。
「いらっしゃいませ」
何故かその理由はすぐにわかった。私はお茶を見る前に、声を掛けてくれた店員に目を奪われた。スラッとした背の高い眼鏡男子が女性客に囲まれている。
優しそうな人でかっこいい!
どうやらお茶の説明を数人の女性客にしているようだったが、女性客はお茶よりも眼鏡さんに興味津々の様子だ。とりあえず、お茶を選ぼう……。
店内をぐるっと見わたすと日本茶や紅茶、中国茶など様々な種類のお茶があり、コーナーごとに分かれている。レジ横には小さなカウンターと電気ポット、カウンターバックにはカップなどの茶器が置かれている。試飲用だろう。
その中で、私がハマっているハーブティーを見つけた。近付いて見ると、もうすぐ家のものを切らしそうだったレモングラスの茶葉もあった。私は嬉しくなって、それとは別にペパーミントティーやカモミールティーなども選ぶ。
抹茶はまた川越に来た時に買おう!
レジへ持っていくと、そこにいた栗毛の髪の男の子が話し掛けてきた。
「ハーブティー、好きなんですね」
店員の栗毛くんの笑顔に思わず、かわいいと思ってしまった。
「あ、そうなんです。今、ハマっていて。自宅のそばにハーブティーを取り扱っているお店がないので、来られて良かったです」
「観光ですか?」
「そんなところです。でも、川越は近いのでちょっとした息抜きみたいなものなんですけど」
「近いんですか……。じゃあ、よかったらまた来て下さいね!」
「はい」
私は提示された金額を支払い、商品の入った袋を受け取る。
「ありがとうございます」
栗毛くんと眼鏡さんの声が重なった。どちらも素敵な笑顔だった。
また来よう……!
お茶屋の店員に癒された私は、家に帰って早速、袋からハーブティーを取り出そうとした。
「あれ?」
袋の中に一枚の用紙が入っていた。広告かなと思って見ると、『アルバイト募集』と書かれたチラシだった。
あそこ、バイト募集しているんだ……。
募集要項を確認し、二人の店員の笑顔が脳裏に浮かんだ。買ったペパーミントティーの茶葉をカップに開け、お湯を注ぐ。一口飲んで、すっきりする。
「ただいまー」
「おかえり」
お母さんが着付け教室を終えて帰ってきた。途中でスーパーに寄ったのだろう。買い物袋を提げてキッチンへ来ると、私のカップを覗き込んだ。
「何飲んでいるの?」
「ペパーミントティー」
「へぇ~。それ、今まで飲んでた?」
「見つけたから買ったの」
「じゃあ、私にも淹れて」
しょうがないなと思いつつ、お母さんの分も用意した。買ってきた食材を冷蔵庫に入れ終わると、お母さんは私が淹れたペパーミントティーを飲んだ。
「これ、いいね」
そう呟いているお母さんのそばで、私はじっと募集のチラシを見る。数分の間、悩んだ末にスマホを取り出した。
三日後、履歴書を鞄に入れて再び川越へ向かった。本川越駅を左手に歩いていくと、『ブルーアワー』の看板を見つけ、入店する。
平日だからか、三日前よりもお客さんは少なく、眼鏡さんも見当たらない。
「いらっしゃいませ」
今日もレジに栗毛くんがいた。他に店員らしき人がいないので、彼に尋ねた。
「すみません。今日、アルバイト面接をお願いしている高瀬です」
「あ、この間の……ハーブティーのお姉さん?」
私を覚えていたことに驚きつつ、頷く。
「そっか。応募してくれたんですね。担当の者を呼ぶので、少し待っていて下さい」
栗毛くんはレジの後ろのバックヤードへ行き、すぐに戻ってきた。
「ちょっと面接やりづらいかもしれないですけど、頑張って下さい!」
応援してくれたことは嬉しかったが、言葉に引っかかった。やりづらいって……?
すると、バックヤードから黒髪の男性が出てきた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
切れ長の目をしたかっこいい青年だった。三人目のイケメン登場にどぎまぎしつつ、彼に続いてバックヤードへ入る。三日前にはいなかった人だけど、面接を請け負うってことは、この人が店長なんだろうか。
バックヤードは事務机とソファ、テレビのある事務所兼休憩所のようだった。青年は私に向き直って告げた。
「面接を担当します白石拓人です。そちらにお掛け下さい」
促されて私は、よろしくお願いしますと言って椅子に座り、履歴書を取り出して白石さんにわたす。白石さんは履歴書を確認しながらテーブルの上に置かれてあったマグカップに手を伸ばした。
えっ、飲みながら面接するの……?
白石さんは履歴書に目を通すと、テーブルの上に置いた。
「うちの店が、アルバイトの募集をしていると知ったきっかけは何ですか?」
思ってもなかった質問に少し戸惑った。
「えっと……こちらのお店で買い物をしたときに、レジ袋の中に募集のチラシが入っていたのを見てご連絡しました」
「そうですか……」
白石さんは眉間に皺を寄せた。私、何か良くないこと言った……?
「チラシに勤務曜日や時間、仕事内容などが記載してあったかと思うのですが、特に問題は……?」
「ないです」
なんか面接とはいえ、あの二人と違って冷めている感じの人だな。
眉間の皺と淡々とした様子に私は不安を覚えた。
「……ハーブティーが好きなんですか? 動機の欄に書いてあるのですが」
私は頷く。
「いずれは商品についての基本的な知識を習得してもらうことになりますが、それはハーブティーだけに限りません。それでも大丈夫ですか?」
「はい。他の商品を覚えるのはもちろんですが、ハーブティーに関しては仕事を覚えていく際に一つの武器になると考えたんです」
「というと?」
「自分の好きなものを突き詰めていくことが、お客様の要望に応えることに繋げていけるんじゃないかと……」
白石さんの眉間の皺が消えた。
「なるほど。……わかりました」
白石さんは再びマグカップを口に運んだ。
もしかして、バイトの面接もダメなのかな……。
白石さんはテーブルにマグカップを置くと、私を見て言った。
「採用です。良ければ明後日から来ていただきたいのですが、いいですか?」
「えっ……?」
「合格だって! 良かったね。おめでとう!」
お店の方から声がして振り返ると、栗毛くんが顔を覗かせていた。
「おい、店番ちゃんとやれ」
「今、お客さんいないんだよ」
「今はお前だけなんだ。客がいようがいまいが、関係ない」
栗毛さんは不満そうな顔をしてお店に戻った。
「……で、明後日は今日と同じ時間に来られそう?」
「えっ、あ……はい」
「じゃあ、明後日に休みの希望を聞くから決めておいて。何か質問ある?」
「いえ……ないです」
「じゃあ、今日はこれで終了」
私はすんなり決まったことと白石さんの口調の変化に驚きながらも、続いてバックヤードを出る。
「あ、拓人ごめん。面接替わってくれて」
お店に眼鏡さんがいた。まさか会えると思わず、目が釘付けになった。
今日も爽やかでかっこいい!
「大丈夫。ちょうど今終わったところだ。採用決めたから」
「え?」
眼鏡さんの視線が私に移った。はっとして、頭を下げた。
「高瀬茉莉奈です。よろしくお願いします」
顔を上げると、ふんわりした眼鏡さんの笑顔があった。
「僕は白石宏人です。よろしくね、茉莉奈ちゃん」
宏人さんかぁ……。ん? 白石?
「それから、ぼくが白石悠人。春から短大一年です! よろしく、茉莉奈さん!」
こっちも白石?
「あ、えっと……もしかして皆さん、ご兄弟ですか?」
「そうだよ」
私は開いた口が塞がらない思いだった。まさかイケメン三兄弟だったなんて。
「僕が長男、拓人が次男、悠人が三男だよ。今、この店は僕達だけで回しているから、新しい方が入ってきてくれて助かるよ」
「タク兄の面接、やりづらかったでしょ? ごめんね」
「いえ、そんなこと……」
あったけど。
「でも、茉莉奈さん幸運だね。タク兄が面接して受かった子なんて今までいなかったのに」
「おい、余計なこと言うな」
思わず拓人さんを見ると、拓人さんは私と視線を合わせずに言った。
「今まで来た奴の動機が不純だったからだ。不真面目な奴を雇いたくもないだろ」
「でも、女の子がもっと増えるのは歓迎だけどな」
女の子と聞いて、不純な動機が何か想像がついた。これだけのイケメンが揃っているのだから、気持ちはわかる。
私はチラッと宏人さんを見た。好きなハーブティーの仕事も出来るし、これからが楽しみだな。
二日後、昼ご飯を早めに食べて支度をし、バッグを持って玄関へ向かう。
「あ、今日はこれからバイトなんだっけ?」
お母さんがリビングから顔を出して訊いてきた。私は頷く。
「今から行ってくる。仕事は七時までだから」
「仕事、頑張って」
「うん」
私は家を出る。電車に揺られて川越駅に着き、お店に向かう。
「はぁ……」
アルバイトだけど、初日は緊張するなぁ。
出てきたお客さんと入れ替わるように入店すると、悠人くんと目が合った。
「おはよう、茉莉奈さん」
「おはようございます」
「タク兄、茉莉奈さん来たよー」
悠人くんがバックヤードに向かって言うと、拓人さんがお店へ来た。
「おはよう。ロッカーはこっち」
案内されて、バックヤードへ行く。拓人さんが事務所の奥の右側にある扉を開ける。
「ここがロッカールーム。今のところ、利用するのは高瀬さんだけだから好きに使って。あと、これが制服のエプロン」
アイボリーのエプロンを受け取る。ロッカールームは小さく、ロッカーが三つとハンガーラックがあった。荷物を置き、エプロンを身に着け、ペンとメモをポケットに入れて事務所に戻る。
「先に必要な書類を渡しておく。なるべく今週中に書いて持ってきて」
拓人さんから改めて勤務時間や仕事の説明、注意事項を聞き、シフトの相談をしてバックヤードから出る。
店内には年配のお客さんがいた。その方に、宏人さんが日本茶の案内をしているようだ。
「俺達はそれぞれ得意分野がある。兄貴は日本茶、悠人は紅茶。基本的なことはどのお茶も全て説明できるようにはしているが、特化しているものがあるんだ。これから少しずつ商品のことを覚えていってもらうけど、何か一つ選んで知識を深いところまで掘り下げていってもらえると、こっちとしても助かる」
それなら、私はやっぱりハーブティーかな。
「ヒロ兄は日本茶インストラクターの資格も持っているんだ」
「そんな資格があるんですか?」
「うん。僕もこれから資格を取るつもりなんだ」
「紅茶のですか?」
「そう。紅茶アドバイザー。たぶん、茉莉奈さんの好きなハーブティーにもそういう資格が取れるやつ、あると思うよ」
ハーブティーの資格か……。そこまで考えてなかったな。
「ハーブティーソムリエの資格がある。それを取得するのは個人の自由だから好きにするといい」
「拓人さんは何が得意なんですか?」
「俺は……」
「タク兄はコーヒーだよ」
「え?」
コーヒーなんて、お店で取り扱ってないよね?
「コーヒーマイスターの資格を持っているくらいだし」
「……まぁ、そうだな。店にはないが」
「だから、ハーブティーが好きだっていう茉莉奈さんが来てくれたのは、とっても助かるよ!」
「悪かったな、コーヒーで」
そうか。私が採用されたのは、そこが大きいのかも。ハーブティーを極めれば、その分、お店の役に立てるだろうし。
「あ、でもね、タク兄が淹れてくれるコーヒーは美味しいよ。僕は砂糖がないと飲めないけど」
物の種類だけじゃなくて、美味しい淹れ方も知識として必要になるのか。私は今まで必要な時にネットの情報を活用していたけど、ハーブティーのことを勉強するならそれじゃダメだ。
「ひとまず、今日はレジをやってもらう。以前に販売の経験があるようだからすぐ慣れると思うけど、最初は悠人をつけるから困ったときはコイツに訊いて」
私はその後、ほとんどレジ打ちをしていた。時々、商品の配置を教わってメモを取ったり、悠人くんと雑談をすることもあった。彼が気さくなこともあって、初日から仲良くなれた。
三十分休憩の時間にバックヤードで休んでいると、宏人さんが抹茶を点てて淹れてくれた。
「お疲れさま」
「あっ、ありがとうございます」
宏人さんの柔らかな笑顔だけで私は癒される。
「このお茶は商品棚にも置いている抹茶なんだけど、狭山茶だよ。独特で強い香りだけど濃厚な旨味とコクがあるんだ」
私は一口飲んでみる。
「美味しいです。今まで何度か抹茶を飲んだことがありますけど、これはなんとなく……少し甘いような気がします」
「うん。そうなんだ。それがこの抹茶の特徴の一つだよ」
宏人さんが淹れてくれた贅沢なお茶に満足していると、悠人くんがお店から宏人さんを呼んだ。
「ヒロ兄、ヘルプおねがーい!」
「あっ! お客さんが来ているみたいだから行くよ。事務所にある飲み物やお菓子は好きに利用してくれてかまわないから。ハーブティーもあるし。ゆっくり休んで」
「はい! この後も頑張ります!」
宏人さんはにっこり笑ってバックヤードを出ていった。
「なにニヤニヤしているんだ?」
振り返ると、事務所奥にある左側の扉から拓人さんが出てきた。
「にっ、ニヤニヤなんてしてないですよ!」
私は恥ずかしくなって拓人さんから視線を逸らした。嬉しくて自然と頬が緩んでしまっていたらしい。
「……その部屋は何ですか?」
拓人さんが出てきた扉を見て訊いた。
「俺らの住居」
あぁ、そっか。ここは拓人さん達の家でもあるんだ。
「それ、抹茶だな。兄貴が点てたのか?」
「あ、はい」
私の持つ茶碗を見て拓人さんが訊いた。
「とても美味しいです」
「兄貴は土曜日の夕方、日本茶教室を開いている。そこの生徒にも好評だよ」
「だから、土曜日は開店時間が短いんですね! でも、日本茶教室って何を……?」
「日本茶の種類や淹れ方、保存法、マナーなどを教えている。月に一回、抹茶を使ったお菓子を作ることもあるみたいだな。生徒はほとんど主婦だよ」
「宏人さん、お菓子作りするんですか?」
「あぁ。兄貴はそういうのが得意だから」
宏人さんの作ったお菓子、食べてみたいなぁ。
「すごいですね、宏人さん」
「器用だからな」
話しながら、拓人さんは白いカップにコーヒーを淹れる。
「拓人さんは昔からコーヒーが好きなんですか?」
「そうだな。大学生の時にカフェでバイトしたことも大きいが……」
「えっ、そうなんですか?」
拓人さんは頷いた。
「それもあって、資格を取った。元々、興味あったし」
カフェかぁ。拓人さん、制服似合いそうだな。白いシャツに、腰に黒いエプロン巻いてシックな感じで……。
「おい」
拓人さんの声に気が付いて、現実に戻った。
「なに、ぼーっとしているんだ?」
「あ、いえ! 別に何でも……」
私は首を横に振った。
「そろそろ時間じゃないか?」
「あっ!」
壁時計を確認すると、三十分休憩が終わるまで五分もなかった。
「茶碗は流し台に置いておけばいいから」
私は頷いて茶碗を置き、急いでお店へ戻った。
天気の良い昼過ぎ、お母さんに出掛ける旨を伝えて家を出る。バイトが休みの今日は、地元の図書館へ足を運んだ。
「人が多いな……」
私は混雑をかき分け、検索機で必要な本の在架を調べる。該当したハーブティーの事典は他の図書館にもあったが、自館のものを選んで一般の書棚へ向かい、料理や裁縫などの家庭本が並ぶ棚で足を止める。
「……あった」
ハーブティーの事典を見つけてペラペラとめくり、一通り確認する。カウンターで事典を借り、図書館を出る。
「あれ……?」
しばらくして、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。……拓人さんだ。
声を掛けようかとも思ったが、拓人さんはそのまま近くの建物に入っていった。
「ここって、病院?」
何でこんなところに……。体調不良とか?
しかし、実際に見た拓人さんの姿からは具合が悪いようには見えなかった。気になっていると
「あ、茉莉奈ちゃん」
病院の入り口から宏人さんが出てきた。
「どうしたの、こんなところで」
「あ、その……図書館の帰りなんですけど、拓人さんが病院に入っていくのが見えて」
「あぁ、そっか。ちょうど入れ違いだったんだな」
「どうして、宏人さんもここに?」
「拓人と同じ目的だよ。今、父さんが入院しているんだ。その見舞い」
私は予想外の言葉に驚いた。
「宏人さんのお父さん、病気なんですか?」
「うん。それで、僕が『ブルーアワー』を引き継いだんだ。母さんは父さんの面倒を見ていて店を手伝う余裕はないから、拓人と悠人が休みの合間に手伝ってくれている」
「そうだったんですか……。お店を切り盛りするのも大変なのに……」
「いや、僕はそうでもないよ。むしろ、拓人や悠人の方が大変だ。学業と両立してくれているんだから。拓人なんか進みたい道があるのに家のことを考えて就職を視野に入れているようだし」
「えっと……悠人さんは短大生って聞きましたけど、拓人さんは?」
「拓人は大学院に通っているよ。今、修士課程で」
「えっ、そうなんですか!?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「初耳です。……だから、アルバイトの募集をしていたんですね」
「そう。元々、母さんの知り合いの方がパートとして働いてくれていたんだけど、お家の都合で辞めたんだ。それでね」
「拓人さんの進みたい道って何ですか?」
「あいつの夢は研究者なんだ。だから大学院に入ったし、博士課程も取るつもりだったんだ。家が大変なのは確かだけど、僕としてはそれで夢を諦めて欲しくない」
私は自分がお店にとって重要なポジションにいることに気付いた。宏人さんが心配するように、私も拓人さんや悠人さんが学業や別のことに打ち込めるよう、なるべく早く仕事を覚えて一人前になろう。
「この後、予定ある? 僕、もう家に戻るんだけど、よければお茶飲んでいく?」
「えっ、いいんですか?」
宏人さんは穏やかな笑顔で頷いた。
閉店中の店内で、宏人さんがハーブティーを淹れてくれた。一口飲むと甘く、フルーティーな香りがした。
「これはオレンジですか?」
「そう。オレンジピールだよ。ハーブティーの中でも飲みやすい方だと思う。近いうちに、試飲時の淹れ方も教えるからね。それじゃ、せっかくだからこれ味見してみて」
カウンター上に置かれたのは、小皿に乗った緑色のカップケーキだ。
「抹茶ですか?」
「そう。この間の日本茶教室で生徒さん方に作ったんだけど、余ったんだ」
私は嬉しく思いながら、カップケーキを口に運ぶ。ふんわりした生地でホワイトチョコレートの層とよく合う。
「美味しいです!」
「本当? 良かった」
「あれ、茉莉奈さん?」
バックヤードへの扉からひょこっと顔を出したのは悠人くんだった。
「何で茉莉奈さんが?」
「病院出たところで会ったんだ。せっかくだからね」
「あぁ、そうか。……ていうか、なんか美味しそうなもの食べている!」
「宏人さんが作った抹茶のカップケーキです」
「悠人の分はないよ」
「えぇ! 何で?」
「前にあげたことあるだろう。講義は終わったの?」
「うん。早く終わったから本屋に寄って来た」
私は悠人くんが提げていた本屋の袋を見ながら訊いた。
「何か買ったの?」
悠人くんは満面の笑みで言った。
「ちょうど今日が発売日だったんだ。写真集!」
「何の?」
「猫だよ。かわいいでしょう?」
悠人さんが袋から取り出した写真集の表紙は、気持ちよさそうに仰向けに寝転がった猫だった。
「悠人は猫が好きで写真集を集めているんだよ」
「癒されるからね。部屋にはカレンダーもあるんだ。将来は猫カフェを開くよ~」
猫に囲まれている悠人くんか……。似合うかも。
「茉莉奈さんが飲んでいるのってハーブティー?」
私は頷く。
「宏人さんがオレンジピールを淹れてくれて」
「茉莉奈さんはそれの効果、知っている?」
「あ、ううん。私が知っているのはミントとかローズヒップとか、ラベンダーとか……よく知られているものくらいで」
「俺もまだわかっていないこと、あるんだよなぁ」
「茉莉奈ちゃん、図書館でハーブティーの本を借りたんでしょう?」
宏人さんに言われて思い出し、私はバッグからハーブティーの事典を取り出した。
「オレンジピールは……消化促進と整腸、鎮静作用があるんですね」
「そう。眠れない夜に飲むとぐっすり眠れるよ」
「へぇ。ぼく、知らなかった」
「悠人が知らないのはまずいなぁ。代表的なハーブティーなのに」
宏人さんは困ったように笑った。
カップケーキを美味しくいただいて家に帰ると、お母さんがタンスの引き出しを開けていた。何やらゴソゴソしている。
「ただいま。何しているの?」
「おかえり。親戚から電話があって、茉莉奈が成人式に来ていた振袖を貸してくれないかって。まだ一回しか着てないし、貸してもいいでしょ?」
「うん、いいけど」
着物を包むたとう紙には、枝垂れ桜柄の淡い緑色をした振袖が入っていた。広げられた振袖は綺麗なままだった。
「特に問題なさそうね」
「成人式以来、着る機会なかったから。でも、何で振袖買ってくれたの?」
「何でって、欲しいって言ったんじゃない」
「まぁ、そうなんだけど。レンタルっていう手もあったのに」
「茉莉奈が誰かの結婚式に及ばれでもしたら、着られるんじゃないかと思ったのよ。それに予算内の振袖だったし」
そう言って、お母さんは振袖をたとう紙でくるんだ。私はそれを見ながら顔も知らない、入院している白石家のお父さんを考えた。
健康だけど片親のいない家庭と、病気でも両親が健在している家庭はどちらが恵まれているんだろうか。
小学二年生のとき、隣の席の男子が私に言った。
「お前、何でお父さんのこと書いてないんだよ?」
当時、授業の一貫で自分の成長アルバムを作った。生まれてから小学校に入学するまでを親に訊いてまとめ、配布されたノートに自分の名前の由来や思い出を書いたり、写真を貼っていた。その最後のページに両親それぞれの似顔絵と感謝の気持ちを綴る『ありがとう作文』があったのだけど、私はお母さんしか書いてなかった。
お父さんは私が生まれて一年過ぎた頃に亡くなったらしい。まだ赤ちゃんだったのだから、小学二年の私にはお父さんに関する記憶は一切なかった。そのお父さんに『ありがとう作文』を書くのは難しすぎて出来なかったのだ。
「他のみんなもちゃんと書いているのに」
そのクラスの中で片親の家庭は私だけで、こういうときは何で私だけ? と、いつも感じていた。親に関していじられるのがすごく嫌で仕方がなかったけど、男子に対して人見知りしていたこともあって、私から何か言うこともなかった。
「何してるの?」
気付けば、その懐かしいアルバムを手にして部屋で座り込んでいた。掃除している最中だったのに……。
「掃除機、まだ使うの?」
「あ、うん。ごめん、あと少しだけ」
お母さんは不満そうに眉間に皺を寄せて、部屋を出ていった。
アルバムを見つけたことで昔の記憶に引っ張られてしまったけど、掃除を急いで終わらせるためにアルバムはクローゼットの中へ仕舞った。いまだに持っていたことに驚いたが、貼ってあった自分の誕生日の写真にお母さんと写っているのを見たら、なんとなく処分しにくくなってしまった。
「ありがとうございました」
紅茶をお買い上げされたお客様を見送る。
「お疲れ、茉莉奈ちゃん。仕事、だいぶ慣れてきたね」
「はい。まだまだ覚えることがたくさんありますけど、どうにかこうにか……」
「ハーブティーの説明、お客さんに出来ていたもんね!」
悠人くんが箒で床を掃きながら言った。私は頷いた。
「悠人くんも紅茶の説明をしていたよね」
「うん。今日のお客様はジャワとアッサムを試飲していたよ」
「ジャワティーって、スッキリして初心者でも飲みやすい紅茶だよね?」
「そう! どの食べ物にも合うよ」
「アッサムティーが……渋くて濃厚?」
「正解。ちなみに、渋いけど香りは甘さがあって、色はコーヒーぐらい黒いよ」
「色まで気にしてなかった……」
「これから日本茶教室だから時間ないけど、今度、時間のある時に飲んでみるといいよ」
「はい。そうします」
「……あっ、そういえば」
宏人さんは何かを思い出したように呟き、バックヤードへ入っていった。
「拓人に持っていくように言うの忘れちゃったなぁ……」
戻ってくるなり、困ったように宏人さんは呟いた。
「悠人はこの後、予定ある?」
「学校行くけど……どうかした?」
「う~ん、拓人に父さんの上着を持って行ってもらいたかったんだけど、言い忘れて」
「明日は?」
宏人さんは首を横に振った。
「悠人、学校で行けないだろう? 拓人もそうだし、僕は店があるから行けないんだ。だから、拓人が今日病院に行っている。母さんも泊まりだし」
私は二人の会話を聞いて、思い切って宏人さんに提案してみた。
「あの……私が届けましょうか?」
「えっ、いやそれは悪いよ。仕事以外のことをお願いするのは」
「私は大丈夫です。病院も近くですし、病室を教えていただければそこまで持って行きます」
「ありがとう、茉莉奈さん!」
「悠人……!」
宏人さんが悠人さんを咎めるように名前を口にした。
「この際、お願いしちゃおうよ。届けてもらうだけだし。たぶん、父さん困るでしょ?」
私は悩んでいる様子の宏人さんに言った。
「任せて下さい」
「……それじゃあ、頼んでいいかな」
私は頷いた。病室の番号と白石家兄弟の父親の名前を聞き、上着の入った紙袋を受け取った。
「助かるよ。拓人には僕から連絡しておく」
私は帰り支度を済ませ、急いで病院に向かった。
病院に入り、エレベーターを探して奥へ向かう。誰も乗っていないそれに乗り込んで四階のボタンを押す。到着してエレベーターから降りるとナースステーションのそばにある長椅子に拓人さんが座っていた。私に気付いて立ち上がる。
「ありがとう。世話をかけた」
「いえ、大丈夫です。これ、頼まれたものです」
拓人さんは紙袋の中の上着を確認すると
「ちょっと待ってろ」
そのまま紙袋を持ち、エレベーターから一番手前の病室へ入っていった。私はその病室の近くへ行き、表札の名前を見る。そこには『白石正樹』の文字。
扉の向こうから少し話し声が聞こえる。それでも小さくて、何を話しているのかはわからなかったが、勝手に聞いてしまっているようでいたたまれなくなった。病室を離れようと背を向けたとき、扉が開く音がした。
「悪い、待たせた。荷物はわたせたからもう大丈夫」
「はい」
私と拓人さんはエレベーターに乗って一階へ下り、病院を出た。飲み物を買うからと、拓人さんはお金をすぐそばの自動販売機に入れた。飲み物が落ちてきた音が二回したかと思うと、拓人さんは私に缶のカフェオレを差し出してきた。
「お礼。ハーブティーじゃないけどな」
「え、でも……」
「遠慮しなくていい。お金も無駄になるし」
「……ありがとうございます」
私はカフェオレを受け取る。拓人さんの右手を見ると、案の定コーヒーが握られていた。カフェオレを一口飲む。……うん、おいしい。
「悠人に頼まれたのか?」
私は首を横に振った。
「私が行こうかと自分で提案したんです」
「それに悠人が乗ったんだな」
「あ、えっと……」
「今日持っていかないと親父がかわいそうだとか言ったんだろ? そうでなきゃ、兄貴はお願いしないだろうし」
「……そんな感じです」
さすが兄弟だなぁ。よくわかっている。
「兄貴はよく周囲に気を遣う。家族の俺達にもそうだからな」
「そうですね。何となくわかる気がします」
「もっと自分のことも考えた方がいいと思うんだけどな。兄貴は日本茶が好きではあるけど、店を継いだ分、他のことに打ち込める機会やフリーの時間がないんだ。親父が入院している今はしょうがないけど、親父が退院したらどうにかしてやらないと」
私は拓人さんの言葉を聞いて、思わずニヤけてしまった。
「……何だよ?」
「あ、すみません。宏人さんも同じように拓人さんと悠人くんのこと、心配していたので」
「兄貴のやつ……」
拓人さんはため息をついた。
「でも、いいですね。兄弟いるのって。うらやましいです」
「そんなもんでもないよ」
拓人さんはばつが悪そうに私から視線を外して呟いた。
「高瀬さんは兄弟いないの?」
「はい。一人っ子です」
「仕事は? やってみてどう?」
「覚えるのが大変ですね。でも、好きなものの仕事なので早く覚えられるよう頑張ります」
「就職は考えてないの?」
「……私、どこもダメだったんです。大学卒業するまでにしたかったんですけど、上手くいかなくて。うちは母一人の片親だから、家にお金入れることも考えていたんですけどね」
「そうか。大変だな。一人っ子なら、なおさら」
「昔は、父親がいたらどれだけ違っていただろうって思いました」
「……やりたい仕事や希望の業界はあるの?」
「いえ、今のところは……。アルバイトの経験から、販売の職種で探してはいたんですけど」
「それなら、この仕事も将来に活かせると良いな」
「はい」
今はこの仕事を頑張るしかないよね。
「……そうだ! 聞こうと思っていたんだけど、今度の日曜日は予定入れてる?」
「いえ、特には」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれないか? 休日手当出すから」
「えっ、どういうことですか?」
「手伝ってほしいことがある」
私は『ブルーアワー』の近くにある古民家の前に来た。
「ここですか?」
「うん、そう。兄貴が先に来ているはずだ」
拓人さんに続いて古民家へ入る。
「こんにちはー」
「あ、拓人くん!」
六十代くらいの男性が笑顔で迎えてくれた。見た目は強面な印象だったけど、笑うと穏やかそうな感じの人だ。
「手伝いに来てくれてありがとう。休みの日にすまないね」
「気にしないで下さい」
「そちらの方は?」
「俺らの店のスタッフです。悠人が来られないので代わりに」
「そうか」
強面な男性の視線が私に移る。
「わざわざありがとうございます。私は拓人くん達の親戚の落合友則です」
「高瀬茉莉奈です。よろしくお願いします」
私達は互いにお辞儀しあった。
「兄貴はどこに?」
「あぁ、奥の部屋にいるよ。家内もそこにいる」
玄関で靴を脱ぎ、強面な男性に連れられて廊下を通る。
「ここで親戚の方がカフェを開くんですね」
「そう。古民家にしては割と広いから、ここで出来るって話になってな。準備の手伝いと、メニューに含まれるお茶やコーヒーに関して俺らが色々伝えられることもあるから」
奥の開けた部屋では、グレーのシャツにカーキのパンツというラフな格好の宏人さんと五十代くらいの細身の女性が話している。
宏人さんが私達に気付いた。
「拓人、茉莉奈ちゃん!」
「お待たせ、兄貴」
私達が近付くと、細身の女性が軽く手を振った。
「拓人くん、久しぶりね」
「ご無沙汰しています、叔母さん。今日はうちの店のスタッフも手伝います」
私が名乗ると、その女性はにこやかに微笑む。
「友則の妻で、拓人くん達の叔母にあたる美樹です。今日はよろしくお願いしますね」
私が頷くと、宏人さんが言った。
「今、ちょうど内装の話をしていたんだ」
それから私達は、落合夫妻と相談しながら照明の調整やテーブル・椅子、インテリアの設置、食器類の用意などを行なった。
テーブルを十席置いてその中で二人席や四人席をそれぞれ配置し、カウンター席に椅子を四脚。日の当たる窓の前には木製の小物やガラス細工を置く。
「この段ボールの中は叔母さんが揃えた本なんだけど、入る分だけでいいからいくつか本棚に入れてもらえるかな?」
「はい」
長くくつろげるように小さな本棚の中に様々な本をいくつか配架。そして壁にはメニューやポスターを貼り、観葉植物の大きいものから小さいものまで適当な場所に動かしていく。
昼過ぎから始めたこの作業が、ようやく日没の時間に終了した。
「お疲れ」
テーブル席に座って休んでいると、拓人さんが両手に持つうちの片方の白いカップを差し出してきた。
「ありがとうございます。宏人さんは?」
「今、店で出す日本茶についてレクチャーしている」
そう言いながら、向かいの席に腰を下ろした。
「拓人さんはいいんですか?」
「俺はもうしてきた」
私はカップの飲み物を一口飲む。……あれ、これって?
「コーヒーではないんですか?」
「それは、たんぽぽコーヒー。たんぽぽの根を焙煎したもので、コーヒーに似た香ばしい香りがする」
「これもハーブティーの一つなんですね。……拓人さんのは正真正銘のコーヒーですよね?」
「もちろん」
そう言って、拓人さんも一口飲んだ。私は改めて家の中を見わたす。
「お店の周囲に古民家のお店が多いですから、あまり珍しく感じることはなくなりましたけど、普段生活している中だと古民家って見る機会ないですね。時代を感じます」
「そうだな。うちの場合は、親や親戚もこういう古民家とか昔ながらのものとかが好きだっていうのがあるし、この古民家もリノベーションする前はちゃぶ台とか鏡台、タイル張りの流しとかあったらしいからな」
「へぇ……! 今の生活じゃ、もう見ないですね」
「このテーブルも打って変わって現代的になったし」
「私は今まで、昔のものに縁がなかったです。強いて言えば、母が着物の着付けをやっていることくらい」
「そうか。兄貴が聞いたら、茶道でも勧めてきそうだ」
私は思わず笑ってしまった。確かに言いそうだ。
「それじゃあ、成人式の時に着付けてもらったのか?」
「そうです」
「おふくろが聞いたら羨ましがりそうだな」
「どうしてですか?」
「俺らは男三人兄弟だから、着付けが出来ないだろう? 娘がいたら着付けを習って、自分だけじゃなくて娘にもしてあげようとするだろうな」
「……子供にも、ですか」
「たぶんな。覚えておいて無駄なことなんてないし。それが好きなら、なおさら」
私は自然と、たんぽぽコーヒーを見下ろした。
「お疲れさま。拓人、茉莉奈ちゃん」
足音が聞こえて見上げると、宏人さんと落合夫妻が戻ってきていた。
「今日はありがとう。とても助かったよ」
「いえ、また何かありましたら言って下さい」
「高瀬さんもお店がオープンしたら、ぜひ来て下さいね。サービスしますよ」
「はい。ありがとうございます。伺います」
その日、私はお客様に体の不調に効くハーブティーをいくつか紹介していた。
「花粉症には、こちらのネトルがおすすめです。血液を浄化して、症状を和らげてくれます」
「あぁ、これなのね。じゃあ、血圧に良いものってある? この間、健康診断に行ったら
少し高かったのよ」
「それでしたら、リンデンフラワーが良いと思います」
陳列されている中から商品を取り、お客様に見せながら続ける。
「これは鎮静作用と利尿作用があり、毛細血管を助けてむくみも改善してくれるものです」
「へぇ~。リンデンフラワーっていうのね。それじゃあ、これも一ついただきます」
「ありがとうございます!」
お客様の会計を済ませ、頭を下げて笑顔で見送る。
「茉莉奈ちゃん、商品の説明をすぐに答えられるようになってきたね。良かったよ」
宏人さんに褒められた……!
自分でも商品の知識を頭に入れて、客に言えるようになってきた実感があった。この調子で覚えていけば、もっと達成感を得られるかも。
その時、店の電話が鳴った。すぐさま拓人さんが電話に出て、バックヤードへ入っていった。
「最近、茉莉奈ちゃん頑張っているから、好きなもの一つだけサービスするよ」
「え、いいんですか?」
「いいよ。何がいい?」
「それじゃあ、手先の冷えが気になるので、ジンジャーにします」
私が選んだジンジャーを宏人さんがレジ袋に入れていると、拓人さんが顔を出した。
「兄貴、ちょっと」
呼ばれた宏人さんは、私にジンジャーをわたす。
「ごめん、店番よろしく」
「はい」
バックヤードに引っ込んでから十分ほど経ち、宏人さんがジャケットを着て出てきた。
「外、出てくる。今日は店に戻らないから、店閉めを頼むね」
「え?」
宏人さんはそのまま急ぐように店を出ていってしまった。どうしたんだろう?
「今から閉め作業をする」
バックヤードから出てくるなり、拓人さんは唐突に言った。
「どうしてですか?」
「病院から電話があった。親父の容体が急変したらしい」
私は驚いて、二の句が継げなかった。
「兄貴は先に行かせて、店を閉めたら俺も行くから。悪いけど、今日はこれで上がってもらう」
「……悠人くんには?」
「連絡した。学校から直接向かうだろ」
私は他に何と言っていいのかわからなかった。自分の身内でこういった経験がなく、ましてや自分の親が病気で入院したこともない。そういう光景は想像できても、理解してはいないのだ。
「どうした?」
私が黙っているのをおかしく思ったのか、拓人さんが覗き込んできた。
「あ、いえ」
私はとっさに首を横に振ったけど。
「あの……私も行ってはダメですか?」
拓人さんは目を見開いた。
「私が行ってどうなるわけでもないですが、何というか……皆さんのお父さんのお店で働かせていただいていますし……」
何を言っているのだろうと自分で言いながら感じた。確かに働かせてもらっているのだけれど、これは少々無理やりな言い訳だ。
拓人さんは一瞬、何か言おうと口を開いたようだけれど、押し黙って私をじっと見た。
「すみません、おかしなお願いをして」
やっぱり言うべきではなかったと悔いていたら、
「……じゃあ、早く店を閉めるぞ」
「えっ?」
「行くんだろ?」
拓人さんが何も言わなかったことで、思わず凝視してしまった。
「ほら、床掃いて。レジは俺がやるから」
「あ、はい!」
不安と焦燥を抱えながら、私は箒を取って店閉めを急いだ。
作業が全て終わると、私達は病院へ向かった。総合受付で手術室の場所を訊き、そこへ行くと宏人さんと悠人くん、背中を丸めて椅子に座る女性の姿があった。初めに宏人さんが私達に気付いた。
「茉莉奈ちゃん……?」
「あ、茉莉奈さん! どうしてここに?」
「こいつも心配してくれているんだ。それより、親父はまだ……?」
「うん。手術が続いてる」
「おふくろ、大丈夫か?」
拓人さんが座っている女性に声を掛けると、その人はぎゅっと握っていた両手をほどいて、拓人さんを見上げた。
「えぇ」
疲れているような表情で、覇気のない声だった。
まだか、まだかと思いながら、しばらくそこで手術が終わるのを待った。腕時計で四十分が経ったのを確認した時、手術室のランプが消えた。固唾を吞んでいると、扉が開いて手術着の男性の医師が出てきた。
宏人さんが医師に訊く。
「先生、父は……?」
「無事に手術を終えました。もう大丈夫ですよ」
その言葉に、私は一気に緊張がほどけた。
「……良かった」
悠人くんが呟いた。宏人さんと拓人さんも胸をなでおろしたようだった。
拓人さん達のお母さんは医師に頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
私と拓人さん達もそれに続いた。
麻酔で眠っている拓人さん達のお父さんが病室に運ばれ、白石家のみんなが安堵した様子でお父さんのそばにいた。私はその空気を壊さないよう、病室の前にいた。
すると、こちらに向かって駆けてくる人がいた。
「美樹さん……!」
「高瀬さん、兄は……?」
「大丈夫です」
私は病室に目を向けた。美樹さんは病室の扉を開け、中へ入っていく。そして、私はその場を離れた。
下るボタンを押してエレベーターが来るのを待っていると、拓人さんがやってきた。
「帰るのか?」
「はい。手術に成功したと聞いて、安心しました。ご両親のそばにいてあげてください」
「悪いな。来てくれたのに」
「気にしないで下さい。また改めて伺いますから」
「わかった。気をつけて帰れよ」
拓人さんは病室に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、穏やかに落ち着いた病室の様子が頭から離れなかった。
家に帰って自分の部屋へ行き、鞄を置いて私はベッドに倒れる。自然と、ホッと一息ついた。
すると階段を上がってくる足音が聞こえ、それは私の部屋の前で止まった。コンコンと、ノックの音がする。
「茉莉奈? 帰ったの?」
私が答える前に、扉が開いた。お母さんが顔を覗かせていた。
「おかえり。随分早いね」
「うん、ちょっとね。今日は早く店を閉めることになったから」
「そう。今日、スーパー行った時にわらび餅を買ったから、あとで食べな」
お母さんはそう言って扉を閉めた。足音が階下へ遠ざかっていく。
私はベッドから起き上がり、上着を脱ぐ。部屋を出て階段を下り、洗面所で手を洗ってリビングへ。食器棚からマグカップを二つ取り出して、キッチンに持っていく。
「何か飲む?」
ソファで雑誌を見ていたお母さんが振り返った。
「じゃあ、おすすめのハーブティーでお願いしようかな~」
私は以前買ったレモングラスの茶葉を選んだ。それぞれのカップに茶葉とお湯を入れ、テーブルにカップを置いた。
「少し待ってから飲んでね」
「ありがとう。……なに?」
私がお母さんをじっと見ていると、さすがに視線に気付いたようだった。
「今度、着付け教えて」
私がそう言うと、お母さんは目を丸くした。
「いいけど、就職してからって言ってなかった?」
「まぁ、そうなんだけど……ひとまず、やりたいことは見つけたから。今の方が時間あるし、覚えておいて無駄にはならないかなって」
「それなら特別に、休みが一緒の日に一から教えるよ」
「うん、ありがとう」
「で? やりたいことって?」
やっぱり聞いてきたか。
「私、ハーブティーのソムリエを目指そうと思う」
以前、拓人さんが言っていた資格だ。
「そんなのあるの?」
私は頷いた。
「お茶やコーヒーに専門家がいるように、ハーブティーにもそれに精通している専門家がいるの」
私がそう言うと、お母さんはどこか安心したように笑った。
「そう。見つかって良かったね。でも、そのためにはまた勉強しなくちゃね」
「もちろん、そのつもり」
自分の経験値が活かせるのは仕事なのか、はたまた別の場面なのか……。実際はどうなるかわからないけど、ようやく見つけた自分の目標を大事にしよう。
私は、ほんのりレモンの香りがする自分のカップに視線を移した。その中は、淡い黄色に色付いていた。