2-2. 湯に沈むエリー
かぽーん、と、桶を置く音が響く。
手拭いで髪を纏め上げ、肩まで湯に浸かり、エリーは久々の休養を満喫していた。
「ヒュームの文化は、すごいなぁ……」
そのままずるずると鼻先まで湯に沈み、鼻から泡を吐く。
温泉、というのは、つまり湯の湧き出す泉のことを言うらしい。
火を嫌うエルフには、当然ながら風呂に入る習慣がない。
「習慣」よりは「発想」というべきか。
【火魔法】スキル持ちが無駄に3人もいたエリーの家ですら、冬でも体を洗うのに、汲み置きの水を使っていた。
わざわざ浴槽に湯を溜めて浸かるのはヒュームでも少数派で、奇特な富裕層の娯楽扱いをされている。
しかし、エリーが今いる村には、僅かな入浴料で自由に入れる温泉施設が存在した。
木造の小屋に大きな浴室に、滑らかな木で組まれた大きな浴槽。そこへ並々と注がれた温泉の湯。
少し塩気のような臭いがあるが、森の奥より濃い木の匂いと相俟って、慣れればかえって気分が落ち着く気もする。
森に向いた大きな窓を開けば、ヒューム領とは思えないほど濃密な生命力を感じた。
「お湯加減はどう? エルフのお嬢さん」
窓外を眺めていたエリーは、後ろで呼ぶ声に振り向いた。
脱衣所に続く扉を開いて入ってきたのは、ヒュームの若い女性。
お嬢さん、と呼ばれはしたものの、相手はどう見ても成人エルフのエリーより年下だ。
とはいえ「エルフのお婆さん」と呼ばれるよりはマシだな、とエリーは内心納得する。
現在、この村に滞在するエルフはエリー1人。対して、村に住むヒュームは100人ほど、内の約4割が女性。
異種族の見分けは難しいものだが、ヒュームは比較的、外見のバリエーションが豊かな種族だ。
浴室では服装というヒントが無いだけ難度が上がる。とはいえ、この村で会話をした相手自体が少ないので、当て推量でも正解する可能性は高い。
「あ、えーと、村長夫人さん」
「エルフの方だと、普段は泉で水浴びなの?」
不正解の指摘はない。ということは、賭けに勝ったのだろう、とエリーは安堵する。
事実、それはこの村の村長夫人であった。
「うちの地元だと、水で体を拭くくらいですね」
「あら。それじゃ、他所の村のヒュームと変わらないのね」
村長夫人は愉快そうな顔で相槌を打つと、桶で湯を浴び、浴槽の中のエリーの隣に身を沈めた。
至近から無遠慮に自分を眺めまわす村長夫人に、エリーは若干の不快感を覚えたが……相手は取引先だ。多少のことには目を瞑る。
エルフの森を追放された森エルフ、【火魔法】のエリー。
彼女は現在ヒュームの領域で、配達者ギルド所属の「配達者」として活動している。
ヒュームはエルフと違って耳が丸く、寿命はほんの100年足らず、魔力も低いという、概ね下位互換の人類種族だ。
ただし、その環境適応力と繁殖力だけは人類種族の中でも群を抜いて高い。
そのため、世界中のあらゆる環境下に分布している。
また、人類種族の中で最初に積極的な異種族交流(侵略と隷属を含む)を図った歴史や、他種族に先んじて分類学という分野を立ち上げたことから、2足歩行の種族を「ヒューマノイド」と呼んだり、「ハーフリング」のようにヒュームを基準とした種族名が残されていたりする。
前述の通り、ヒュームは環境適応力と繁殖力が高い種族だ。
エルフ領と比べてヒューム領は遥かに広い。
つまり、荷物を運ぶのが仕事の配達者にとっては、仕事に困らないということだ。
「この辺りって、言っちゃなんだけど、ヒューム領の果ての果てじゃない? エルフの里からだと遠かったでしょう」
「そんなでもないですよ。今は近くの街を拠点に、ここみたいな開拓村を回ってる感じなので」
エリーはギルドに登録したばかりの青錫級なので、E級相当……つまり近距離の安全な仕事しか受けられないが、それでも仕事自体がエルフ領より格段に多い。
また、ヒュームはすぐに増えるので、気軽に開拓村を作ったりもする。地方都市から開拓村への物資輸送は、E級配達者のお決まり業務だ。
この開拓温泉村も、そんな有触れた開拓村の1つだった。
村長が【ダウジング】スキルの持ち主だったため、掘り当てた温泉の近くに村を作った点だけは特筆に値するが、人は温泉資源のみにて生くるにあらず。
行商ルートすらない黎明期の村を支えるのは、エリーのような新米配達者達なのだ。
「あらそうなの? 近くっていうと、リエット市かしら?」
「あ、それです。走って4時間くらいですかね」
「まあ! エルフって速いのねぇ! 馬車だと3日はかかるわよ?」
「ええ、まぁ」
「100人1ヶ月分の油や塩や、金物なんかも持ってでしょう?」
エリーは村長夫人の言葉に、曖昧な苦笑いを返した。
エリー自身は【火魔法】≪デフラグレーション≫による高速移動と、適当に作った【火魔法】≪物がたくさん入る火≫による大量輸送を併用することで、高速大量輸送を実現している。が、エルフが皆同じことができるわけではない。
なお、≪物がたくさん入る火≫は火の特性を全く考慮しない出鱈目な魔法なので、その行使には魔力を馬鹿食いする。それでも、重い荷物を馬に引かせて、危険な道中をのんびり旅をするよりマシだとエリーは判断した。
「エルフさんは、エルフの里に恋人はいないの?」
「いませんでしたねぇ」
「ええっ、どうして? こんなに美人さんなのに」
「顔ですか? エルフは皆こんなもんですよ」
「そうなの。羨ましいわぁ。それで、貴女はどうしてモテなかったの?」
取引先が相手なので、エリーはグッと堪えた。
「……実家が貧乏だったので。そんな余裕もなかったですし」
「あらぁ、それでヒューム領まで出稼ぎに来たのね。大変ねぇ」
村長夫人は訳知り顔で頷いてみせる。
本当はエルフ領を追放されただけなのだが、面倒なので否定も肯定もしない。
「でも、こっちなら相手なんて選び放題でしょ?」
「はは、どうですかね?」
「そうよぉ、村の男どもも、ずっとチラチラ見てたわよ。異種族じゃ結婚までは難しいけど」
愛想笑いで返すエリーに、村長夫人はケラケラと笑って答えた。
「それにしてもお嬢さん、エルフなのに随分気さくなのねぇ」
そして、そんなことを言った。
「どういうことです?」
エリーは問い返す。
何だかさっきから妙な絡み方をしてくると思ったら、この人は、過去にエルフと何かあったのだろうか。
完全なとばっちりだが、ヒューム領で活動する自分以外のエルフについては、少し気になった。
「いや、エルフってこう、異種族を見下してるでしょう?」
「へ? 何ですそれ?」
「何です、って……そういうものなんでしょ? エルフって」
村長夫人とエリーは互いに首を傾げる。
どうも話が噛み合わない。
「違うの? 昔からエルフは高慢、ドワーフは偏屈、ハーフリングは悪辣、獣人は脳筋、って相場が決まってるじゃない」
「何相場ですか? たぶん村長夫人さんの会ったエルフがたまたま性格悪かったか、たまたまハイエルフだったんですよ」
「へ、へぇ、ハイエルフは高慢なのね……いえ、エルフなんて会ったの、貴女が初めてなのだけど」
それを聞いて、エリーは愕然とした。
何だか知らないが、エルフはヒュームの中で、妙な偏見を持たれているようだ。
ドワーフは偏屈、獣人は脳筋というのはわからないでもないが、エルフの性格は十人十色だし、エリーの知人のハーフリングは気の良い友人だ。偏見はやめて欲しい。
まぁ、エリーはドワーフにも獣人にも、会ったことがないのだけれど。
「そろそろ上がりますね」
と言って、エリーは湯船から立ち上がる。
「もう上がっちゃうの? また配達のお仕事で村に来たら、御一緒しましょうね」
あと100年はこの村に寄らないようにしよう、と思いつつ、エリーは笑顔で会釈を返した。
魔法の温風で体と手拭いを乾かし、熱殺菌した服と靴を身に付け、温泉施設を後にする。
荷物の受渡しも、次回分の御用聞きも入浴前に済ませたので、後はもうギルドへ戻って報告するだけだ。
村民から街への手紙の配達があれば、村長が纏めて預かっているはずだが、今回はそれもない。
このまま帰るかな、と思った所で。
エリーの耳は村の外側、森の奥から何かが駆けてくる音を捉えた。