伯母と私と
母方の実家は女系家族で、「〇〇おばちゃん」と呼ぶべき相手がたくさんおりました。そのせいで幼い頃の私は、数多いるそのおばちゃんたちのうち、どれが自分の「伯母」なのかを知りませんでした。
あまり頭の良くない子だったのです。それに変な気の使い方をする子でしたから、大人の事情を根掘り葉掘り聞きだすのははしたないことだと思っておりました。だから祖母の家に出入りする「○○おばちゃん」たちがどこのだれで、自分とどんな関係の「おば」なのかを聞いたことは一度もありませんでした。
しばらくして、祖母と一緒に暮らしているおばちゃんが一人だけいることに気づきました。数多いるおばちゃんの中で一番私を可愛がってくれるおばちゃん……ああそうか、この人が「伯母」なんだなと、私はようやく気づいたのです。
思えば人間の傲慢を煮詰めたような人でありました。それに気づいたのはもちろん大人になってからですが。子供の頃の私はよその家に預けられた子供として委縮して暮らしておりましたから、叔母の本質には気づいておりませんでした。
祖母の家に預けられた私の面倒を見てくれたのは伯母でした。伯母には子供がなく、それを憐れんだ祖母がこれ幸いとばかりに私を仮の娘として伯母にあてがったのです。
面倒を見てもらっておいてこんなことを言うのは心苦しいのですが、それはまるっきりままごとのような愛情でした。
この頃の私は大人しくてひとりあそびの上手な子供でしたが、それはすべて大人に対する遠慮からくる、私本来の性質ではない部分でした。よその家に預けられているのだからわがままを言ってはいけない、ここでこの大人に嫌われたら私を預けた母は困ることだろう、何よりも善意で私の面倒を見てくれている伯母を困らせてはいけない、と。
私は食べるものに文句もいわず、出された食事には屈託なく微笑んで「おいしい!」という処世術を心得ていました。大人が何かを買ってくれると言ったら一度は遠慮するものだということも心得ていましたし、あまり遠慮しすぎても大人を苛立たせるだけだから程よいタイミングであまり値の張らないものをねだるという術も持っていました。それもあざといやり方ではなく、人間にヘソがあるのと同じぐらい当たり前に持って生まれた能力として自然にふるまうことができたのです。ですから伯母はほとんど負担なく、子育ての華やかで楽しいところだけを体験したことでしょう。
伯母の私に対する溺愛は熱狂に近いものがありました。近く商店街に買い物に行くときも、電車に乗って用事をしに行くときにも、どんな時でも私を連れて歩きたがりました。
私は電車に乗せられればニコニコしながら窓の外を眺め、伯母が用事をしている間は買ってもらった小さなキャラメルを大事に黙々と舐め、ともかく大人の邪魔にならないようにふるまうことができました。だからといってヒネた子供だったわけではなく、およそ大人の理想とする無邪気さを持ち合わせてもいました。ですから、どこに行っても、どんな大人に会ってもかわいがられました。
伯母が私を連れ歩いたのはそのためです。伯母は私が「かわいい子ね」と言われることをとても喜びました。私の母親だと勘違いされることは、もっと喜びました。それよりもさらに伯母が喜んだのは、私が預けられた仔だと知った相手が、「まあ、たいへんねえ」とねぎらいの言葉をかけてくれる瞬間でありました。私は伯母が良く思われるための『ダシ』として連れ歩かれたのです。
別にそれが嫌だったわけではありません。私がいい子にしていれば大人たちは機嫌よくしているのだし、私の方は小さなお菓子だのキャラメルだのをもらっておやつに不自由しないし、何よりも伯母が喜ぶから、私はずっといい子を演じていました。それだけならば何の問題もなく、今でも伯母とは仲良くいたことでしょう。しかし私の気遣いによるこの平穏を、伯母は自分の子育てが上手であるからだと勘違いしたようでした。
いつも晴れた日ばかりではないのと同じように、本当の親子であれば雨降る日も時にはあるものです。特に私の母は怒りっぽくて理屈屋で、子供たちを叱り飛ばすようなことがたびたびありました。
ところが伯母との生活は、いつでも晴れの日ばかりでした。ご飯を出されればなんでも「美味しい!」と笑顔で応え、一緒にお風呂に入れば二人で童謡を歌いながら湯船につかり、夜は伯母が話してくれる童話に聞き入って……これをままごとと言わず、なんというのでしょうか。本当に子育てをした母親ならお判りでしょう、そんな子育ては幻想だって。
子供なんて気まぐれで、親相手ならば容赦なくわがままを言って困らせたり、気まぐれを言って怒らせたりするものです。時には子供が具合が悪くなって心配が募りすぎて泣いたりすることもありますが、私は頑健な性質で伯母にはそういった心配をかけたこともありませんでした。伯母はまったく美しくて楽しい、子育ての上澄みだけを楽しんだわけです。
伯母は子供を叱ってばかりの母よりも、私の努力の上に成り立ったままごとのような幻想の子育ての方が上等だと思い込んでしまった様子でした。そうした理想の子育てができる自分は優秀であると、どうやら伯母の結論はそこにたどり着いたようでした。
母はおよび知らない事でしょうが、私は伯母をさらにあおったのが祖母であったことを知っています。およそ大人というものは、子供の理解力というものをナメている節があって、祖母も伯母も自分たちの考えが私に見透かされていることなど気づいていない様子でした。しかし私は、祖母がわざと子育ての美味しい部分だけが伯母に回るように手を尽くしていることを知っていました。
伯母が夕食の支度をしている間、祖母は私を散歩に連れだすことを日課としていました。本当の子育てをする母親のように夕食の支度をしながら子供の方にも目を配るものですが、伯母は何の心配もなく優雅に料理の支度をすることができたわけです。
また、伯母が一人で出かけるときは当然のように祖母が私の面倒を見てくれました。例えば複雑な役場の用事に子供を連れて行って退屈させるとか、夕食の買い出しでにぎわう商店街の中を子供を抱えて買い物に回るとか、そうした母親であればだれもが一度は経験する泥臭いお出かけというものを、伯母は一度も経験したことがありません。伯母の顕示欲を満たすためにいろんな所へ連れていかれましたが、それはいつだって、よそいきの可愛らしい服を着て上品に子供と手をつないで歩く余裕があるような、上等なお出かけばかりでした。
祖母が子育ての汚いところや辛い部分をわざと伯母から遠ざけ、伯母はそれによってもたらされる平穏を自分の子育てが上手いからだと錯覚する、そうした悪循環が出来上がってしまったわけです。
しかし、それと気づいていながらも、幼い私に何ができたでしょう。私にできるのはせいぜいが伯母や祖母が望むいい子を演じてみせることだけでありました。
私が伯母との決別をうっすらと考え始めたのは、大人になってからのことでした。
私と伯母の関係は表面上はとても良好なものでしたが、それが私の努力と遠慮によるものだという関係性は、大人になってからも変わることはありませんでした。
伯母と私は、もちろん離れて暮らしていましたが、私の家から伯母の家まではおよそ150キロ、時間にして車で三時間以上かかるほどの距離がありました。
私は伯母と祖母が二人暮らしであることから、子供たちが長期の休みになると極力二人のところへ遊びに行って、その暮らしぶりに気を遣うようにしていましたが、これは伯母のためというよりは母のためでした。
というのも、母はさらに県をいくつもまたいだ遠方に住んでいるため、老いた祖母と、やはり老いに差し掛かった伯母の生活を常に心配していたからなのです。
しかしこれは、私にとってはかなりの負担でした。移動距離もですが、伯母の家にいる間は理想の姪を演じなくてはならないという心理的な負担がかなり大きかったのです。
伯母の方はそんなことはつゆ知らぬ様子で、ある時、こういいました。
「あんたに車を買ってあげようと思うんだけど。そうしたら、ちょっと買い物を頼みたいときに家に来てもらえるでしょ」
はっきり言って、日常の買い物のために往復6時間を無駄にするほどの余裕など、私にはありません。そう説明してお断りしたのですが、伯母はこれが癇に障った様子でした。
「大したことないでしょ、往復6時間なら、子供を学校に出した後で出てきても、夕方には帰れるってことでしょ」
本当にそうでしょうか、買い物自体にも時間を割かれるというのに。
「車があったら、あんたの生活だって楽になるでしょ、あんたのために買ってあげるんだから、私たちの買い物以外は好きにしなさいよ」
あの手この手で車を売りつけようとする、まるでセールスマンにでもつかまったかのような猛攻でした。しかしそれでも頑なに断ると、伯母はひとこと、吐き捨てました。
「小さいころはあんな素直だったのに、あの母親に育てられたから! やっぱり私が育てるべきだった!」
ああ、おばさん、そうです、そんな小さなひとことで、人同士の関係というものは壊れてしまうものなのです。
ああ、もう二度と会うこともないでしょう、私のおばさん、今、あなたはどうしているのでしょうか。
子育ての旨みだけを味わい、それが自分自身の手柄であったかのように錯覚してしまった、それがすべての間違いの始まりなのです。
そういう意味ではあなたが誤解するようなふるまいを――あなたの前では常にいい子を演じていた私も間違っていたのでしょう。
あの日以来、私は伯母の前でいい子を演じることをやめてしまいました。
今ではもはや、伯母にあうことすらないのです。