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窓の向こう  作者: Reiko
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残酷

7月の終わり、兄が死んだ。

蝉の鳴き声に紛れ、何も言わず、兄はひっそりと逝った。僕は突然の出来事に多少は驚いていたが、悲しみも寂しさも何も感じなかった。非情な人間だ、僕は。


兄が傷つけたものは、兄の存在以上に大きかった。だから、僕は兄が死んでも生きても、同じだと感じていた。


「あんた、泣かないの?」


棺に納められた兄に、何気なく触れていると、頭上から声が聞こえた。姉だ。


「泣くって、どうして」


「実の兄が死んだんだよ」


「別に悲しくない」


僕が無情に呟くと、姉は俯いた。僕は見逃さなかった、姉の喪服のポケットから覗いている、小さな目薬の瓶を。


「こんなことしてまで泣きたいの、姉さんは。優しいね」


僕は姉の目薬の瓶を、取り上げた。姉は虚ろな目で、瓶から僕へと視線を移す。


「姉さんだって恨んでるんだろ、兄さんのこと」


「―――どうだろう?」


姉の目つきが鋭くなった。やはり姉も、根に持っていたんだ。僕だって、一秒たりとも忘れたことはない、兄が犯したあの罪を。


「奈々が死んだの、まだ兄さんのせいだと思ってたの?」


「当然だ。僕は最初から最後まで兄さんを信じたくなんかない」


「どうして?」


「あいつが奈々を殺したからに決まってる」


「奈々は自殺。自殺なのよ?」


「姉さんだって、そうは思ってないんだろ」


僕は、兄の好きだった歌手のCDを乱暴に棺のなかに押し込んだ。こんな汚らわしいものに用はない。そんな僕の手つきを見ていた姉は、悲しそうに目を伏せた。


「残酷ね―――実の兄弟同士でこんなことしなきゃいけないなんて」


「全部兄さんが悪いんだ、奈々のことも、全部」


姉さんは、伏せた目を少し上げた。溜息が聞こえる。


僕は、兄に殺された妹――奈々を決して忘れなかった。奈々は、13ヵ月前、歩道で暴走する自転車にぶつかり、道路に弾き出された。そして、トラックに轢かれ、片肺を失った。不幸にも、暴走自転車に乗っていたのは、兄だったのだ。


奈々は事故の5日後に亡くなった。奈々は、兄が殺したも同然だ。しかし、その事実を知っていたのは、死ぬ間際の奈々にひっそりと伝えられた僕と姉、犯人の兄、そして奈々本人だけだった。しかし、兄はそんなあまりにも残酷すぎる、尚且つ自分にとって不利な真実は受け入れず、大きな嘘を作り上げた。


『奈々は、自殺した』


と。僕が真実を聞いたことなど知らない兄は、涼しい顔で、僕にこの言葉を読み上げた。兄は、自分が殺した実の妹の死を悔やむことはしなかった。


分からなかっただろう、僕がどれだけ奈々を愛していたか、兄には。理解できなかっただろう、奈々は兄より何百倍も生きる価値があった人間だということを、兄には。


僕は当然、兄を恨むようになった。奈々が死んだその日から、僕たち兄弟はお互い鬼そのものと化していた。


姉も奈々をそれなりに可愛がり、愛していた。だからこそ、純情すぎる姉は、「理想」を求めた。そして、実の兄が実の妹を殺すのは、姉が言う「理想」には当てはまらなかったらしく、姉は「理想」を保つために、自分の兄が妹を殺した、ということは胸の奥にしまいこみ、奈々は自殺だと自分を騙しこんでいた。


僕はそんな姿の姉を、誰よりもよく知っている。そして、その姉の姿は、何よりも残酷でグロテスクだった。そんな姉が、兄の通夜のあと、最初に口にしたのはこの言葉だった。


「奈々が死んだときは、みんなこんなに悲しそうな顔、してなかったわ」


哀しげな顔で、絶望の塊のような声で。姉は、兄の通夜のときも、葬式のときも、ずっとこの調子だった。そして、兄が厚い扉の向こうで炎に包まれ、焼かれている今、姉は奈々が死んで初めての涙を流した。


「悔しい、悔しいよ!どうして奈々は死んだの?」


もう、1年以上も前のことなのに。今更泣いて叫んでいる姉を見て、僕は笑った。亡くなった者とは違う、亡き者に対する涙。それを笑う僕。そして、お互いを殺しあおうとした兄妹。たまらなくグロテスクだった。


「姉さん、奈々は死んだんだよ」


僕は姉を慰めるつもりいで言った。この言葉は、そんなに無情で冷たい言葉だったのだろうか。振り返った姉は、大粒の涙をポロポロとこぼすと、しゃがみこんだ。


「……そうね」


しゃがみこんでしまった姉を起こすと、僕は先ほどの目薬とは別の瓶をポケットから探り出した。


「これ、奈々の涙。姉さん、飲む勇気、ある?」


僕はそう告げ、僕と小さな瓶を見比べる姉の目の前に瓶を翳した。


「奈々が亡くなったとき、主治医の先生にもらったんだ」


正直言って、吐き気がする。僕は、瓶を恐る恐る受け取ろうとする姉の手に、それを握らせた。


「飲まないけど……、貰っていい?」


「いいよ」


姉は、大切そうに瓶をぎゅっと手のひらで握り締めると、兄の遺骨のもとへとかけて言った。両親が驚いた顔で、姉に問いかける。


「どうしたの?」


「なんでもない」


そんなことを言いながらも、姉は瓶の蓋を開ける。それを見た僕には、姉が何をするのか、一瞬で理解した。僕は止めはせずに、遠くから見守る。


「兄さん、奈々、今度こそ仲良くするんだよ」


涙を堪えて言っているのは、遠くからでも分かった。姉は、兄の遺骨の上で、そっと瓶を傾ける。少し黴臭い液体は、しんなりと染み込んだ。姉は空になった瓶の蓋を閉め、自分のポケットに入れ、兄から離れた。





『奈々は、自殺した』


『兄さんは可哀想だ』


『僕のせいじゃない』


『私のせいじゃないわ』



人間とは、グロテスクな生き物だ。



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