第1話 目覚め
「――ここは?」
天井、見えない。視界は白いカーテンでおおわれていた。感じるのは少々硬いベッドの感触。よく見る光景、ではないが誰もが知っているだろう。どこであろうとあまり変わり映えのしないそれは保健室だった。そして、自分はそのベッドに寝かされていた。
「目が覚めた?」
白衣を着ている若い女――男であれば興味を抱かないのはおかしいだろう。けれど、なぜか特にどうとも思わない。普通なら憧れのお姉さんといった風貌で、魅力的に感じてもおかしくないのだが。
「質問に答えろ」
彼女には人情味の欠片も感じなかった。まるで機械を相手にしているような――自分でも不思議でしょうがないがこれが妥当だと感じてしまう。相手の気持ち、など考えるのは馬鹿らしいと思ってしまう。手荒に扱って壊してしまおうが、もう一つ買えばよいだけだろう? 機械ならば。
――自分はこんなにも冷たい人間だったか? そんな、人間をものみたいに。
「保健室よ。覚えていない?」
彼女は少し悲しそうな、怒ったような顔をするが目にとめる気にもならない。PCのアプリを起動してコマンドを撃てばその通りに動く、そんなものを一々確認するのも馬鹿らしい。
――相手は人間なのに。そうにしか見えないが、感情の面では受け入れる気が起こらない。
「覚えて――待て、僕は学園都市アビスに向かう船で……船で?」
思い出せない。夢の世界、もっともそれは悪夢だが――に行くことになったのは思い出せる。それは自分の意思だった。日本語が彼女に通じるのはアビスの性質だろう。この世界では言語の壁が存在しないと説明を受けた。が、境界を超える時に意識を失うなど聞いていない。
「……」
彼女は悩む彼を見ても微笑んでいる。安心させるような笑み――もしくは適当に取り繕ったような。
「これに聞いても埒が明かんな……なんだと?」
スマホを取り出して操作すると二重に驚く。
「10年後……なのか?」
アビスと現実は時間の流れが一致しない。それでも、入る瞬間の年歴くらいは確認する。それが10年前だった。10年、僕は何をしていた? それに
「普通にスマホだが、なぜこれを使おうと思ったんだ――」
しかも流れるように操作した。自分が所持していたものではないスマホを。記憶喪失でも自転車の使い方は忘れないと聞くが、ではこれもそうなのかと自問する。アビス公式のアプリの操作方法も? 触ったことはないはずだ。いや、今が10年後だと言うのならば自分はこれに慣れ親しんでいたとしてもおかしくはない……?
「お兄様、だいじょうぶ?」
声が聞こえて、驚いてしまう。ベッドの横にいた彼女。
「ええ……と、誰かな?」
今度は普通に相手できた。別にこの子が少女だからと言うわけではないだろうと、自分では思うのだが。なぜだろう、この子は人間だと言う気がする。横の保険医とは違う。
「自分のこと、思い出せる?」
「ああ、僕は星薙霊王。でも、君のことは――」
「そう。やっぱりそうなんだ。私はメアだよ。二度は忘れないでね、お兄様」
「あ、ああ――」
「しんぱいしないで、メアがずっといっしょにいてあげるから。ね、お兄様」
ベッドの上に座って、小さな手で僕の頬を撫でる。ぞくりとするような妖艶さを、その小さな少女に感じて――
「――ッ!」
悪意、もしくは殺意――そんなものを感じてメアを抱き寄せる。大胆な行為だと思うが、背中をなでた悪寒は尋常のものではない。そして、その”悪夢”は現実化する。
「ぐっ……!」
びしゃびしゃと降りかかる血液、皮膚の切れ端――そして脳髄の欠片。目玉が口の中に入りそうになって、手で払う。
「ち。なんだ……ッ!」
そこには不快感しかなかった。汚物をトラックに跳ね飛ばされたような。腕の中のメアは無事なようで安心する。
「ギヒ――ギャギャギャギャ!」
狂った笑い声を上げるのはくまのお人形……だが、その丸々とした腕からは不釣り合いなナイフじみた爪が血に濡れた光を放っている。
「まるで悪夢だな」
慣れたように解析する。――迅法D。なぜだかわからないが、集中して見れば分かる。とはいえ、Dとは言えど油断はできない。人間にもDを持つ者はそういない。F,E,Dと下から三番目だが、アビスの基準は底辺に合わせてはいない。凡人であればF、クラスで一番であればEを取れる。そして、Dからは人外魔境の領域だ。つまり、このぬいぐるみは一個の軍隊で相手をするような怪物となる。
「メア、そこで待ってて」
腕の中のメアをベッドの上に降ろして、そのくまモドキと向き合う。次は己の解析、矛法D 迅法C 射法D 癒法F 乖法F 創法F――ならば、迅法を使う以外にない。なに、悪い能力値ではない。Dが人外の領域なら、Cは魔人。人間ではできないだろう域から物理法則を無視出来る域にまで到達する。
さて、ここまで強力な能力値だとご都合主義を感じるが。まあ平和な日本なんかから来るのは適正値が高い者だけだ。なぜなら日本はアビスに最も消極的な国の一つだから、何か言い訳があるなら国民をアビスに入れない。能力が低い、首を縦に振らない、etc……つまり、能力が高くなる目算があって、そして自由意思でここに来たのだ――俺は。アビス行きの手続きが面倒と言う職員の引き留めを振り切って。
「ギギギ――ゲギャ?」
そいつは首をかしげる。コミカルな仕草だが……その内実は汚泥と嫌悪すべき邪悪にまみれている。
「悪夢の産物――人間を恐怖に陥れるだけの存在。人の悪夢が生んだオモチャ。狂気の玩具など、粉々に砕いて捨ててやろう」
失った記憶ゆえか、笑みが浮かぶ。なるほど、どうやら失われた10年はしっかりと俺の中に残っているらしい。断片しか思い出せないが。だが、戦闘経験は体に染みついている。ナイフを構える。どうすればいいかは分かっている。
「ギヒ――」
それを受けてか、クマが走る。ぽてぽてと可愛らしく、しかし障害物の多い保健室では立ちどころに見失いそうなほど、早く。
「芸がないな」
メアに向けられた爪を弾く。そうするだろうと思っていたから、簡単なことだった。同じ迅法でもCとDの出力差があり、そして悪夢に経験の累積など存在しない。ただただ速いだけのオモチャに後れを取る道理はない。
「ギギ?」
受け止められたことに疑問を感じたかのように、そいつは首をかしげて――
「メアに手を出そうとしたからには、壊す」
無造作にそいつのボタンででできた目を抉った。
「ギャギャ――!? ギ!」
がむしゃらに爪を繰り出して。
「間抜けが。のろいぞ」
かわす必要などない、こちらが先に届く。ナイフを腹に突き立てた。
「さあ、哭け」
抉り、綿を引きずり出して断つ。そして首を斬り飛ばした。
「……メア、怪我はない?」
そして、この期に及んで骸を晒す保険医には何の感慨もわかない。あるとしたら、汚いと言う、ぶちまけられた血肉に対する嫌悪のみ。
「うん。かっこよかったよ、お兄様」
とろけるような笑み。凄惨な現場にはふさわしくないが、彼女も似たような気分のようだ。つまり、あの女性教諭などゴミ同然の代物でしかない。
「――」
そして、それを見抜いたのか。
「? お兄様、あのNPCを気にしてるの……かな。へいきだよ、すぐに補充されるから。教師の優先度は高いし、部屋だって初期化される。気にすることなんてないよ?」
「……NPC?」
NPC,ノンプレイヤーキャラクター。物語の侵攻のために配置された同じ言葉を繰り返す機能しか待たない舞台装置。人のカタチをした伝言板と言った意味か。ならば、アレは機械も同然と言える。
「うん、だから本当に気にする必要なんて――」
……ぐじゅり……
死体が動いた。否、そう表現するのは正しくない。蠕動し、びくびくと蠢いて冒涜的なカタチをなそうとしている。あれはすでに死体ではないし、そもそも人間ではないのだから残骸と呼称するべきだ。
「なんだ――ッ!」
霊王は嫌悪感に身を震わせるメアをしっかりと抱きしめる。
「……ナイトメア」
メアがぽつりと悪夢の総称をつぶやいた。そして奇怪なモノが姿を現す。
「化け物が……」
カタチ成したのは先ほどのクマのシルエット。しかし、構成物は先のものと質が異なる。二目と見れぬその異形。先のクマはおもちゃと刃物のアンバランスな恐怖。けれど、これは違う。
――皮膚と眼球とを無茶苦茶に押し込めて作られたクマのカタチ
――筋肉をより合わせて縫われたクマのカタチ
――内臓を粘土細工のように積み上げて作られたクマのカタチ
――髪と爪と白い脂肪を混ぜて作られたクマのカタチ
合計4体、根源的な吐き気を催す醜悪がそこに居た。
「メア、アレを見るな」
「……うん」
抱きかかえたまま、後ろに跳ぶ。ベッドを蹴り上げて盾にした。四つの影が飛んだ。
「――チィ!」
ベッドがバラバラに噛み砕かれる。あれでは何の防御にもならない。むしろ視界の邪魔だ。そのまま迫る凶刃をナイフで受け止める。が、一つ傷を負った。攻撃の数だ、向こうが腕8本でこちらが2本――いくらこちらが早いと言っても全ては受け止めきれない。
「それにこのままではじり貧だな」
少し格好はつかないが、逃げてしまうか。メアを危険に晒すのは良くない。そんな風に考えたその時。
「「「「――ピギャ」」」」
おぞましい鳴き声を上げて、4つのカタチははじけ飛んだ。
「危ないところでしたね? 星薙霊王」
すらりとした美しい女性。なんとなくだが感覚でつかめる。先のNPCとは違う、人間だ。