第10話 講義を受けよう
そして、霊王は教室の一室に居る。顎に手を当てて考え事をする。数学科一年の授業――とはいえ、こんなものは小学校を卒業していれば分かる。一年は小学生レベル、二年になって中学生レベル、3年で高校、4年で大学、そして5年からは完全な専門領域へと突入する。アビスは誰にでも門戸を開いてはいるが、まともに上がろうとするならばせめて高等教育くらいは受けてないと難しいのが現状である。
だから霊王はまともに授業を受ける気がなかった。15回中8回の出席とテストに合格すれば単位は手に入るのだから1年次は寝てるだけでいい。普通なら本でも開いているところだが、先の相対した相手たちを思い浮かべていた。すると。
「――よお、隣空いてる?」
話しかけられた。金髪の男だ。アビスには似合わず理性的で人好きのする外見。
「……」
霊王は無視した。
「お、空いてんのね。んじゃ、よろしくさん」
――少し幼いが、イケメンと呼べる顔だろう。年のころは中学生を卒業したあたりかとあたりをつける。教育を受けたことのある人間かといぶかしむが、それは違うらしい。彼が教科書を机の上に出した。
教育を受けているならばそんなものを買う必要がない。何度か開いた形跡がある、それで覚えてしまったということだろう。こういう教育を受けていない人間でも、本さえ見れば理解してしまう”天才”というのもいるにはいる。
「空いていると言った覚えもないし、席ならガラガラだろうに」
ため息をついて言う。だが、そんな天才などに霊王は興味がなかった。確かに彼ならばアビスに住まう人々の雰囲気を変えることができるかもしれない……が、それがどうした? どうせナイトメアに喰われて消える儚き命運だ。
顔がいいしね、と口の中でつぶやく。人好きのするタイプだ、と胸中で吐き捨てる。皆の人気者になれるタイプ、まさに霊王の苦手なタイプだ。
「いやさ、あんたは頭良さそうだなって」
「――別に頭がいいつもりもない……いや。こんなところではそうかもしれんな」
前を見る。必死に勉強している奴らを。小学生くらいの子供はいない。アビスにいないのではなく、そういった小さな子は最初から勉学を諦めてバイトに精を出す場合が多い。残りは第二階層に突入してお陀仏だ。学園には魔物を狩り、宝物を見つけて単位を得るためのゲートがある。霊王が以前にやったのはそれの発展版を作っただけだ。
「だろ? 足し算に引き算もできないのが大半だ。こんなのって、ないだろ? それに、勉強してるのを邪魔するのも悪いと思うしさ」
「……教えてやれば?」
そうしたら静かになる、とは口に出さない。珍しいタイプだな、と思った。こういうタイプは自分ができることを他人にも簡単だと思う傾向がある。”こういった初等教育は誰かに教えてもらわないと難しい”ということが理解できるとは、頭がいいうえに人を見る目がある。ちなみに、ここの”講義”はビデオ教室レベルの代物だ。所詮はNPCで、人間がやっているわけではないのだから。
「ああー、俺は本読めば分かったから教えることもできなくてさ」
「……ふうん」
さらに自分が頭のいいことまで自覚している。コイツ、あいつらの誰かと話していたら気に入られていたかもしれないな、と何の気もなく思う。もちろんあいつらとは7大組織の主たちだ。
「――」
改めてそいつを見た。やはり年のころは14,5にしか見えない。霊王のような7年生からの複数籍持ちは例外だから、見た目と年齢は一致しているだろう。無意識に苦虫を噛み締めたような顔をする。
「お、やっとこっち向いてくれたね。やっほー」
ひらひら手を振った。
「しつこい奴だな、君は。……なにがしたい?」
「いや、そんなの今してることだって。お話、さ」
「――ふん」
「おいおい、目をそらすなよ。お話ししよーぜー。お話。正直、お前みたいなん見たことなくてな。……マフィアみたいだぜ?」
「当たらずとも遠からず。なのに話しかけてきたのか? そっちに女もいるぞ」
「ん? あんた、そういうのに興味あるの。ああ、マフィアっていってたっけ」
「……別に。女でも男でも興味があるわけでもないがな」
「お、先生が入ってきた」
「そうだな」
「んじゃ、黙るか」
「……意外だな、お前みたいなのは気にしないかと思ったが」
「いや、迷惑になるだろ? 周り皆普通の人だしさ」
「ま、そうだな」
そして、授業を受ける。もっとも、霊王は自分が作ったらしいレポートを読んでいるし、彼は上の学年の教科書を読んでいる。
授業が終わる。
「そういえば、お前。名は?」
「――え。名前、聞いてくれんの。ヴァイス。ヴァイス・ルシアだ。よろしくな」
振り返るともう霊王はカバンを持って外に出ていこうとしていた。
「ちょ。待てよ、そっちは? こっちだけ教えておいて、それはナシだぜ」
「――メフィストフェレスとでも呼ぶがいい」
「え。いや、ちょ。……長――って、少しは話してくれませんかねえ!?」
「……」
知ったことではないとばかりに歩調は緩めない。
「ちょ……おい! いま、外は『深淵歩き』が暴れてるって話だから、気をつけろよ!」
「……ッ!」
霊王は一瞬、足を止める。
「そいつはどうやら大人数で居るか、暗がりに行かなけりゃ襲ってこないらしいからよ――お前も気をつけろよ!」
振り返りもせずに、また歩を進める。
そして、彼の言ったこととは逆――すなわち”一人”で、明かりもない暗がりへと。スラムと化した箇所には昼間でも入り組んで日が入り込まない場所がある。そして、今のアビスで人が住む場所はそのスラム以外にない。
もちろん、霊王のような例外を除いて。
「やはり、奴のような男は苦手だな。ああいうのは善意の塊であるのに嘘はないが――ゆえに無自覚に他人にババを押し付ける。何も知らないというのは心を読めずともわかるし、実際にそうだったがな」
ため息をつく。心を読むのは夢使いならざる人間へと施術するなら容易だ。
「まあ、いい。ついた”ケチ”などさっさと除くに限る。メアのいるときに出られても面倒だ」
ためらいもなくずんずん奥へと歩いていくと後ろで闇が凝る。
「――ナイトメアの生態は容易に推測できる。もっとも、対処法など直接潰す以外にないのが面倒だがな。”深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いている”という言葉がある。ニーチェが何を思ったかはともかく、符号としては分かりやすいな」
形成されるは刀を持った人型の闇。ノイズが走るその姿は、時折”ずれる”。簡潔、かつ身も蓋もなく言うならば、1秒ごとに数十cmの空間転移を繰り返している。
「つまり、ナイトメアの出現条件は【名称を知ること】。”深淵歩き”、貴様は知られなければ姿も現すことができない幽霊のごとき存在。枯れ枝のごとく踏み折って終わりにしてやろう」
細かい条件を言うならば”それ”の元になった怪談、または都市伝説を知ること。もしくは出現した実体化怪談の名称を知ること。となるの。
〈……オオオオオオオオオ!〉
幽冥のごとき方向が響く。直接魂を削る冥界の咆哮。
「は――吠えろ吠えろ。痩せさらばえた犬のごとく」
そして、対応するは鋼の咆哮。何十発もの銃声が更なる不協和音を演出する。この場に健全な人間がいたのならば、耳に伝わる狂気が正気を犯しつくされてしまうだろう。
〈……オオオオオオオオオ!〉
声――横から。
「……間抜け。戦略が甘い」
振り向いて――後方に連射する。
声が途切れた。
「踊れ踊れ、死者のごとく」
連射連射、火にまかれる人間のごとく痙攣してビクリと震える動きが重なって不気味なダンスになる。しかも、この間ですら空間転移を繰り返しながら。
狙えば外れる。そんなものは見て分かる――体験しなければ理解することができないほど霊王は愚鈍ではない。狙わずに打ちまくることで、その特殊な生態を封殺する。しかも、任意で離れた場所に転移する時ですら完全に読み切っている。
「つまらん劇はこれで終わりだ」
闇が穴だらけになって崩れ落ちる。人でいう頭部の部分がくるくると舞って――
「……」
地面に堕ちて砕け散るの霊王は見もしない。踵を返して歩み去る。




