2話
赤ん坊が産声を上げるのは、今まで羊水で満たされていた肺に空気を十分に取り込むためだったか。申し訳程度に一声上げた後にゆったりと呼吸を始めた私は多分かわいげのない子供に当たるだろうとは思ったが、如何せん精神年齢的に大声で泣くという事は抵抗があった。
前世に当たる人生で趣味として読んでいた小説などではよくこの辺りで家族の容姿などを描写しているが、いざ自分が赤ん坊に戻ってみればそのようなことは不可能に思えた。まずもってうすぼんやりとしか見えないのである。
精々が暗いか明るいか、目の前に物があるか程度の認識。食事の際に恥ずかしがる要因など欠片も存在しなかった。まともに音を判別できるようになるまでも時間がかかり、産まれて直後に何かを言っているように聞こえる描写など今では滑稽にすら思える。
多少なりとも視界が安定したのは音が認識できるようになってしばらく先、既に離乳食に移り替わった後だった。果たして早いか遅いかは専門家ではないために分からないが、少なくとも新しい家庭では餓死などを心配する必要は無さそうであった。
最大の問題は理性の本能に対する敗北であったが、一人でトイレに行けるような生態でない以上その場で放出することは仕方がなく、また放置すればかぶれ等が発生し最悪死に至る可能性も想像できたために泣くことも止む無しであった。
そのようななんとも言い難い乳児期も終わり、幼児とも言える時期に差し掛かり。恐らく一歳前後であろうか、一人で立ち歩きが出来るようになり多少はしゃべれるようになると、早速と言わんばかりに教育が始まった。
視力の向上に伴いよく見えるようになっていく世界はなんともはや、豪華な装飾のある広々とした部屋にドレスを着た女性とそれに付き従う女性。後者は一日に同じ服装で違う人間が何人か部屋に来ていた以上おそらくは裕福な家庭だとは思っていたが。
「いいですか~、貴方は貴族ですから~、優雅に振舞わなくてはいけないんですよ~」
どことなくポヤポヤとした金髪の推定お母様は、幼子相手だからかそれとも生来の性格なのか。容姿が整っているせいでどのように振舞っても相応の賛美を受けるだろうことは容易に想像できるが、正直まともに聞いた第一声がこれというのは。
「高貴な産まれには相応の義務が有りますからね~」
どうやら今生は裕福どころか上流家庭のレベルを超え、貴族という特権階級に産まれついたらしい。事あるごとに品位や心構えについて語るのは産みの母でないと知ったのはそれから半年も経たない位であったが、そちらも側室とまではいかずとも第2夫人の貴族だそうで。
教育をしに来てくれる金髪お母様は側室らしく、元は行儀見習いとして働いていたものの旦那様にお手付きにされたそうで。メイドさんかと思っていたが皆様貴族令嬢だということだったので、ちょっとした驚愕であった。
どうやら未だ見ぬ父上殿はそこそこ貴族の中でも高位の方らしく、一つの都市の領主として騎士団を率いる一廉の人物だそうだ。他都市の長女である正室の3人に加えちょくちょく送られてくる妾目的のご令嬢を二桁位側室にしているらしい。
そういう話を聞いていたので私に何人兄弟姉妹が居てもおかしくは無いと思っていたが、どうやら最低限のマナー教育が済むまでは他とは引き合わせられないそうで。そして、目下そのマナー教育とやらが最大の問題点でもあった。
「言葉遣いはもう大人を相手にしているようなんですけど、どうもお嬢様は端々に乱雑な所が見受けられますね」
「はぁ、すみません」
行儀見習いの一環として私にマナー教育をしているのはマレッタという名前の15、6程度に見える女性であった。父上殿のお手付きではなく、もう1、2年程働いたら実家の勧めで嫁ぐのだという彼女は行儀見習いの中でも群を抜いて教えるのが上手であった。
故に原因となるのは、元々私が前世では男であったという点である。無論そんなことを伝えれば気が狂ったとしか思われないだろうから言ったことは無いが、主観で言えば人生の大部分が男として過ごしてきたものであり。
乱暴で粗野というほどの事は無いものの、貴族の、それも女子として求められるレベルに対してみれば私の生活態度や行動などは粗雑極まりないものであり。どこで覚えたのかと首を傾げる動作も女性らしいマレッタ女史に、こればかりは如何ともしがたいと思うのであった。